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………え?
二階堂さんが、櫻井秀人殺しの犯人?
「何言ってるんだ」二階堂も座ったまま半身を捻って振り向いた。
「初めに引っかかったのは、櫻井死亡の翌日、杉本鞠江への留守番電話の音声内での雑音について。あんたが、空気清浄機と間違えたときだ」
「聞こえた?これ、壱道が昨日の夜中現場にはって、いろんな家電の音声を録音してきたんだけど。空気清浄機だっけ?」
「衣類乾燥機」
「そうそう、その乾燥機の待機音」
「リビングにあった衣類乾燥機は、確かに見た目は空気清浄機に似通った形状をしていた。
ただ、衣服乾燥機と聞けば、普通はコインランドリーにあるような物を連想し、それは多くは脱衣室の洗濯機の近くにあるんじゃないか?
現場に行ったことのないはずのあんたが、なぜ衣服乾燥機を空気清浄機と間違え、置いてある場所をリビングに特定できたんだ」
二階堂がひきつった顔で言う。
「いやいや。俺、独り暮らし長いから、そういう衣類乾燥機持ってたんだよ」
「次に」間髪いれずに次の話題に移る。
「合気道の国体出場だ」
「は?」
「あんた、木下に俺が合気道の国体に出たと言ったらしいな。しかし俺は合気道など、一度もやったことはない。
自分でも忘れていたが、あれは当時、警察という組織をバカにして履歴書に書いた戯れ言だ。
じゃああんたはいつそれを見たのか」
壱道は封筒を取り出した。
「これは、保管庫にしまってある履歴書の原本。あんたのだ」言いながら中身を取り出す。
「出身中学は、松が岬市立第五中となっている」
琴子が持ってきた紙袋を開ける。
「だが当時の履歴書を大事にコピーし保管していた西塔さんのファイルでは」捲る。
「戸塚山中学となっている」
聞いたことのない学校だ。
「あんたはすり替えたんだ。万が一にでも、俺が、櫻井とあんたの共通点を見つけないように。俺の履歴書はそのときに見たんだろう。“に”の前は当然“な”だからな」
戸塚山中学校?
櫻井の出身中学は松が岬東中学。何の関係が。
「そこで鍵になるのがこのカードだ」
ビニルに入ったカードを取り出す。
表がErikaと印字され、裏には「さくらい先生、幸せな愛を」とクレヨンで書いてある、櫻井の家で見つけたあのカードだ。
「彼のガラスアーティストとしての名前は|サクラ《咲楽》だ。大学四年のときに作品を世に発表して以来、ずっとその名前を貫いている。
学会でもガラス教室でもプロムナードでも咲楽先生と呼ばれている」
壱道は一度カードに目を落とし、静かに言った。 「あの男を唯一、櫻井先生と呼ぶのは、大学三年のときに教育実習で行った、戸塚山中学の生徒だけだ」
そこで一呼吸置く。いつのまにか二階堂は捻った体を戻し、壱道にもこちらにも背を向けて肘をついて座っている。
「あんたは櫻井より年上だ。教育実習で来た櫻井と会うわけもない。だがあんたには、妹がいたよな。二階堂陽菜、今年で24歳だろ」
二階堂は動かない。
「聞けば今、入院中らしいな。ペンも鉛筆も所持を禁止され、唯一クレヨンだけが許された、精神病棟で」
降っていた雨が急に激しさを増す。
二階堂がダイニングに面したカーテンを開け、外を見た。
「すげー雨だな」
独り言のように呟く。
「このまま降り続くと夏の農作物に影響出るってよ。春の長雨」
壱道が答えず、沈黙が続く。
「みんな知ってんのか?」
二階堂が小さく口を開いた。
壱道が手で自分の顔を上から下に擦りながら答える。
「あんたには自首してほしいんだ。だから、誰にも言ってない」
いきなり二階堂が立ち上がった。
その顔はいつもの優しくて頼りがいのある彼じゃなかった。
魂の抜けた、人形のように、冷たく細い目。琴子は思わずルーバーから後ずさりした。
「もちろん、陽菜の自殺未遂のことも知ってるだろう?
そのとき、一緒に海で心中しようとしてたのが櫻井だったんだ」
櫻井が入水自殺?女の子と?
「運良く助けられ、病院で検査を受けた陽菜には、暴行とレイプの跡があった」
彼がそんなことするわけない。できるわけがない。
「あいつを調べたなら知ってるだろう。
櫻井は、中学時代に親からは勘当され、昨年にも婦女暴行容疑で相談が来ている」
二階堂が壱道の華奢な肩をすがるように掴む。
「壱道。お前も妹に会ったことあるよな?あんな世間知らずの虫も殺せないような女の子に、そんな惨いことをするくそ野郎だったんだ」
しばしの沈黙の後、壱道は口を開いた。
「二階堂さん。違う。妹さんを傷つけたのも、ましてや心中しようとしたのも、櫻井じゃない。
彼は彼女の自殺未遂現場にたまたま居合わせ、助けただけだ」
「…お前に何がわかる」
「あんたの妹にひどいことをし、自殺未遂にまで追い込んだ男は他にいる」
スラックスのポケットから、写真を出す。
覗き混んだ彼の眉間に皺が寄る。
「こいつ、岡崎組の……」
写真を提示した指先で弾くと、それは床の上を滑り落ちた。
「塩野芳樹。幹部の一人だ」
「こいつら、もしかして、俺を狙ってーーー」
「違う。二人は付き合っていたんだ」
「ーーなんだと?」
脱力ししゃがみこんだ二階堂の大柄な体が、小さく見える。
「そんな。なんであいつが岡崎組なんかと」
壱道は体中の空気を全部吐き出すかのような、長く深いため息をつくと、二階堂に歩み寄った。
「自首してくれ。あんたを訴えたく……」
ドンッ。
一瞬何の音かわからなかった。何かが何かに衝突したような音。
壱道がその場に崩れ落ちた。
「悪いなぁ、壱道。
実は俺、お前に捕まる気で今日ここにきたんだ。本当だよ。
お前の目は誤魔化せないだろうと、担当がお前になって鼻から諦めてたんだ。
だけど、ここで捕まるわけにはいかなくなった。櫻井が違うなら、そいつを殺しにいかないといけないから」
その手にはナイフが握られていた。
「お前はいい刑事になった。心から誇りに思う。俺が言えた義理じゃないが、もう少し体と命を大事にしろよ」
いつもの二階堂の顔に戻っていた。
「じゃあな、壱道」
二階堂が横切り去ろうとする。
SAKURAを両手で構え、ハンマーを起こす。狙うはナイフを持つ右の肩。
赤い狂気はもういらない。
琴子は自分の足で、自分の意思で、クローゼットの扉を蹴り開けた。
「動かないでください!」
二階堂が振り返る。
「琴子、ちゃん」
「……あんたが教えてくれたんだ」
立ち上がった壱道が静かに口を開く。
「一つ。刑事たるもの何時如何なる場合でも最悪の事態を想定しろ」
壱道がシャツを捲り上げ、黒い防弾チョッキを見せた。
「二つ。刑事たるもの何時如何なる場合でも、共に命を懸けた、仲間を信じろ」
バタン!
ダン!
ガタン!
一斉に部屋の建具という建具が開け放たれる。
寝室から狭間、テレビ脇のクロークから小國、廊下から西塔、キッチンから浜田が飛び出し、全員銃を構えている。
「二階堂正嗣。成瀬壱道への傷害未遂の現行犯で逮捕する」
狭間が静かに言うと、二階堂の手からナイフが落ちた。
浜田が鼻を煤って泣き出す。
狭間も顔を背けた。
小國が口を結びながら二階堂に近づき、片手に手錠をかける。
カシャンと冷たい音がすると、浜田がいっそう激しく泣き出した。
「ーーーなあ。壱道ー」
いつもの間延びした声に戻った二階堂が口を開いた。
「わりーけど俺の代わりに頼むわ」
目を合わせないまま、壱道が答える。
「塩野はすでに逮捕した。間違いなくブタ箱へ送ってやる」
二階堂がへらへらと笑う。
「やっぱりスゲーなー、お前は」
「あんたは安心して、無実の櫻井を殺した罪を償え」
彼は長いこと目を瞑って何かを思っていたようだったが、やがて瞼を開けると、小國と狭間に手を引かれながら部屋を後にした。
泣きじゃくる浜田と、いつもより一層深いシワを寄せた西塔があとに続き、後ろ手でドアを閉めると、部屋には二人だけになった。