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短期間だったけれど、お世話になったお礼と、もう不妊治療をしななくてもいいことを伝えるために、行きつけのクリニックに足を運んだ。
予約をしていなかったせいで、かなりの時間を待たされたものの、もうここに来なくていいという安堵感が、私を妙に落ち着かせた。
「津久野さん、どうぞ」
昼近くになりやっと呼ばれたときには、午前の診察が終わる時間だった。津久野という名字も、今後使うことがないのをここで実感する。
「失礼します」
いつものように診察室の椅子に腰掛け、先生と向き合ったら、目があった途端に不思議そうな表情をされた。
「津久野さん、いつもの不安そうな顔じゃありませんね。なにかいいことでもありましたか?」
(――私はいつも、そんな顔をしていたのね)
「実は夫と離婚しました。もう不妊治療をしなくてよくなったんです」
離婚の報告を聞いた瞬間、先生は驚いた顔を見せつつも、すぐにいつも見せている落ち着いた面持ちになる。
「そうでしたか。確かに治療をしなくていいのは、ご本人にとって気が楽になることですね」
「先生にはいろいろご相談していた手前、本当に申し訳ないのですが」
「いやいや。苦痛を伴う治療など、まだ手をつける前でよかったというべきかと」
済まなそうに謝った私に、先生は首を横に振って、大丈夫なことを告げてくれたのは、本当に感謝するしかなかった。なので、素直な気持ちを言うことができる。
「それでもここに通いはじめたときに、妊娠がわかった際は、一緒に喜んでくれたのが嬉しかったです」
「受精する確率が低い方が妊娠することは、奇跡的な出来事ですからね。僕も本当に嬉しかったんですよ」
「だけど亡くなった赤ちゃんが、命がけで夫と別れることを知らせてくれたのかもしれません」
苦笑いで本音を語ったら、先生はやるせなさそうな表情を隠すように項垂れてしまった。
「すみません、こんなこと聞きたくなかったですよね」
「津久野さんは妊娠中の浮気率を知ってますか?」
「芸能人の浮気がバレるときも、妊娠中なのが多いですよね。きっと高いんでしょう?」
「平均26.5%という統計が出てます。旦那さんの浮気がキッカケになり、せっかくできたお子さんを諦める方も、実際たくさんいらっしゃいます」
(思っていたよりも、高い確率なのね。夫の出来心で奥さんが傷つき、お腹の赤ちゃんまで犠牲になるなんて。そしてそれに巻き込まれる、病院の先生も大変……)
「先生に浮気の相談をする患者さんも、いらっしゃるんでしょうか?」
「ええ。妊娠がわかった患者さんに、ウチの旦那が浮気しないように、どういう対策をしたらいいですかって、質問をされることもあります」
「私、そんなことを考えもしなかったです。すっかり夫を信用していましたから」
夫婦で生活をしていたことを、脳裏で思い出す。
私に向けてほほ笑む輝明さんの笑顔やねぎらいの言葉を含めて、すべて嘘だったことまで思い出し、いいようのない虚しさを覚える。
「津久野さんスマイルですよ。これからしあわせになるための選択をしただけのこと。後悔はしていないのでしょう?」
暗くなった私を慮った先生のセリフに有難みを感じつつ、しっかりと答える。
「はい。夫に言いたかったことを全部ぶちまけることができたし、スッキリしました」
笑って返答した私につられるように、先生も優しさを感じさせる笑みでほほ笑む。
「診察室に入ってこられたときのお顔は、憑き物が取れたのがすぐにわかりましたから」
「暫くは恋愛から遠のくと思いますが、必要に応じてまた伺います」
「そうですか。とりあえず年一のガン検診には来院してくださいね」
こうしてクリニックから、実家に向けて帰る。
輝明さんと支店の愛人から慰謝料がすぐに振り込まれたことを、弁護士さんから聞いた。なぜか彼らが同じ弁護士を経由して、私の弁護士とやり取りしたのは謎だったけれど、興味はすぐになくなった。
「このお金を使って、浮気夫にお仕置をする会社でも起業しようかしら。なんてね」
気持ちとしてはやってみたいけれど、法律に違反する行為に加担するのを否めない。それに斎藤さんのようないいアイディアが浮かばないし、岡本さんのような行動力は私にはない。
今回は不倫という裏切りの行為に怒り心頭だったから、普段腰の重い私が行動することができただけのこと……。
(ちなみに浮気された奥さんたちは、慰謝料をなにに使ったのかしら?)
興味にひかれて、実家に帰ってからスマホで検索してみた。
〇旅行に出かける
〇貯金する
〇形の残らないものに使う
〇投資する
〇寄付する
〇贅沢をする
「形の残らないものに使うのはわかる気がする。残ってしまったら、浮気されたことを思い出すものね。うーんと、贅沢をするか――」
苦労を背負わせてしまった両親と一緒に、高級旅館に泊まるのもいいかもしれない。源泉かけ流しの温泉につかって疲れを癒し、マッサージを頼んでみたりして、気分をリフレッシュ!
「エステに通って、自分磨きするのもいいわね。うんとしあわせになってやるんだから!」
もう変な男に引っかからないように、自分の目を養いつつ、第二の人生を謳歌することを誓ったのだった。
おしまい
☆最後まで閲覧とたくさんのいいね♡、ありがとうございました。