来月も会う?なんて自分から聞いてきたくせに、二度目の夜以降、鞍馬からの連絡は一切なかった。
学部生は早々に夏休みに入り、研究室で会うこともなくなったまま、一ヶ月なんてあっという間に過ぎた。
既読無視されているトーク画面を見ながら、会っている時だけ丁寧な男だなと思った。
私としてもあの不可解な発言が気になって今はまともな顔で会えないだろうしこれでよかった。
――鞍馬はあの鞍馬なんだろうか。違う、鞍馬があの男の子と同一人物かなんてどうでもよくて、もし同一人物だったとして、私のことを覚えているかどうかが問題なのだ。
私は人に恨まれていたくない。
ごちゃごちゃ考えるのが嫌で、鞍馬のことはもう考えないようにしようとしていた矢先。
京之介くんとその彼女が私のことで喧嘩していると知ったのは、夏が終わる頃だった。
私の部屋に居る時、通話で口論になっているのを聞いてしまった。
彼女としては久しぶりに会うんだろうしということで一緒に晩ご飯を食べていても許していたが、それがいつまでも続き、更に自分との夕食の予定を立てようとすると京之介くんが断ったために不快になったらしい。
しかも京之介くんは、泊まっていることについてはわざわざ言うことでもないと思って伝えていなかったらしく、それを知ったことで彼女の怒りはヒートアップした。
それから頻繁に、京之介くんが私の部屋にいる時に、彼女から電話がかかってくるようになった。
「いや、従妹やし。家族みたいなもんやん」
『でもずっと二人で泊まってはるのは変やんか!あたしとやなくてその従妹と付き合うてるようなもんちゃうの!?キッショ!死んだら?』
スピーカーにはしていないのに、電話の向こうの彼女の声が大きすぎてこちらに聞こえてしまっている。
気まずい思いをしながら様子を窺っていると、不意に京之介くんがこちらに視線をよこした。
ばっちり目が合って数秒。
「……やって。どうする?」
私に話しかけているのか、電話の向こうの彼女に言っているのか、一瞬分からなかった。
「付き合うてるんと同じやって」
それを私に言って、どう答えてほしいのだろうか。
じゃあこうやって一緒に晩ご飯食べるのよくないね、もうやめようかって私の方から言えばいいのだろうか。
ほぼ毎日京之介くんと一緒にご飯を食べて、もう京之介くんの存在が当たり前になっているのに、急にこの日々を失って一人暮らしに戻るのは寂しい。
「“変”らしいけど。やめる?」
京之介くんがスマホを手に持ったまま私に近付いてきて私の顔にかかった髪を耳にかける。
画面を見るとまだ通話が繋がっていて、彼女の呼吸音が聞こえた。
「…………やめない」
吸い寄せられるみたいに答えた後ではっとした。
私が撤回しようとする前に、京之介くんの手が私の後頚部を少し強い力を入れて掴み、至近距離で目を合わせてくる。
「付き合う?俺と」
もう片方の手で持っていたスマホを棚の上に置く音がするけど、とてもそちらに目を向けられるような状況ではない。
「……え?」
「めんどい。俺のもんなって」
そんな交際の申し込み方ある?と思った。でも、京之介くんがそろそろ彼女のことを鬱陶しく感じてきていることはこちらにも伝わっている。
もう別れたいということなんだろう。
彼女より私との晩ご飯を優先しようとしてくれていることが、正直少しだけ――嬉しい。
「……いいよ」
私の承諾と同時に、京之介くんの唇が私の唇に重なった。
――少し遠くで、通話が向こうからぷつりと切られる音がする。
数年ぶりに私にちゃんとした彼氏と呼べる存在ができた瞬間だった。
もしかするとあの場で彼女をフるためだけに利用されたのかもしれないとも思っていたけれど、京之介くんは普通に私との“お付き合い”を開始した。
前までは泊まっていなかった金土日の夜も私の部屋に来るようになり、特に土曜日の昼間は外へ連れて行ってくれるようになった。
「なんかデートみたいだね」と照れながら言うと、「デートやからな」と何でもない顔で答えられた。
どうやら私は正式に京之介くんの彼女になったらしい。
京之介くんから私へのそういう好意なんて微塵も感じられないけど、この人前の彼女に対しても多分そういう感じだったから、恋愛感情というものが欠落しているのかもしれない。異性の仲で一番好きだからという理由で女と付き合ってそう。
「失礼なこと考えてるやろ」
部屋のベッドに座って何度もキスを繰り返す合間に京之介くんがそう言い当てるから、ぎくりとして「か、考えてないよ」と声が上擦ってしまった。
京之介くんの大きな手がずっと私の腰に触れている。
てっきりそういう流れだと思ってその背中に手を回そうとするが、自然な程度にぱっと離れられた。
「夕飯どうする?」
立ち上がった京之介くんが言う。
拍子抜けした私は、行き場を失った手を引っ込めた。
京之介くんと付き合ってから二週間が経とうとしている。
セックスは――一度もしていない。奥手という柄でもないだろうに、京之介くんが手を出してこないのだ。
「私作るよ」
昨日余った材料残ってるし、と付け足す。
準備をするためにキッチンへ向かう私と、棚の上に置かれたものに手を伸ばす京之介くん。
「あの爺さん、俺らがこうなること見越してはったんかもな」
京之介くんが嵐山の宿の割引券二枚をぴらぴらと振った。
「まさか。」
「昔っから変な爺さんやん。みょーーに先のこと予想できてたし、変なもん見えるて言うし」
確かに、私のおじいちゃんは昔から勘が鋭い。
次の日の天気を言い当てたり、「あそこはよくない」などと言って離れた場所で次の日火事が起きたりした。
おじいちゃん本人が言ったわけではないけれど、おばあちゃん曰く、おじいちゃんは幽霊が見えている、らしい。
私もそんなおじいちゃんの言うことだから真に受けたのだ――お盆に海や川へ行くのは危険だと。
もしかしたらおじいちゃんは分かっていたのかもしれない。私が川で大きな過ちを犯すことを。
「いつ行く?これ」
「京之介くんはいつ暇なの?」
「土日やったら基本いける。」
「私も土日だったらだなあ」
「秋になったら行くか。紅葉見れるし」
「うん、折角だし秋がいいかもね」
秋の楽しみができたな、と思いながらスマホのカレンダーにメモする。
旅館の予約は私がご飯を作っている間に京之介くんがしてくれることになった。
今更恋人になったことを実感し、何だか照れ臭くなった。
だって私は今までずっと、京之介くんのことを好きになってはいけないと思っていたから。
:
あっという間に十月が終わり、十一月に入った。
大学生活はいつもと変わらず、鞍馬とはまるで他人のような関係になった。
同じ研究室に所属している人間の中で一番鞍馬と喋っていないんじゃないかってくらいだ。
最初に私が目を合わせないようになってから、鞍馬も私に話しかけなくなったし、すれ違っても挨拶一つなしだ。
夏はずっと胸がざわざわしていたけど、鞍馬と関わらなくなったことで心の状態に平穏が訪れた。
そんな大学構内が銀杏並木の影響で黄色く染まりだしたある日、
「えーっ瑚都さん彼氏できたんですか!?」
休憩室で先生がくれたお菓子を食べながら女学生と喋っていると、突然大きな声を出すもんだから驚いた。
前々から恋バナが好きな子だ。この研究室内はもちろん、同学科のどんな恋愛事情も把握しているらしい。
「それ聞いてないんですけどぉ!いつからですか!?」
京都駅の抹茶菓子専門店の玉手箱スイーツが煙出てきて凄かったから記念に写真をInstagramに投稿したら、なぜか素早く反応してきたのはこの女学生。
「あれ誰と行ったんですかぁ?」なんて聞いてきたから、「彼氏と」と答えただけなのにこのはしゃぎよう。
私が普段スイーツ専門店なんて行かない方だからビビッと来たらしい。「やっぱりー!」と得意げにしている。
今この部屋に居るのは私の隣に座るこの子と、少し離れた席に座っている鞍馬、そして鞍馬とよく話しているチャラい学生のみ。
鞍馬たちは落ち着いているわりにこの子は声が大きいから、部屋中に響いてしまっている。
「夏からかな」
「ってことは今三ヶ月くらいですか?三ヶ月目は相手の嫌な部分見えだして危ないらしいんで気を付けてくださいね!ほら、あの恋愛上手そうな鞍馬くんも今の彼女さんと先月別れてて……ねえ?」
急に鞍馬に話を振るから驚いた。
鞍馬たちがこちらを向く気配がして、焦りで心臓が冷たくなる心地がした。
「何、俺の話? 彼女ってなに?」
鞍馬は売店で買ったであろう梅しそおにぎりを食べながら聞き返す。
「とぼけないでよ。いっつも研究室迎えに来てた大人しそうな一年生。別れたんでしょ?」
「別れたって、なんで」
「来なくなったから」
「あれはフツーに友達だけど?」
「え、友達?でも前に鞍馬くんと付き合ってるみたいなこと……」
「うん?付き合う前にヤらせてくれるのに付き合う必要ってなくない?付き合ってないよ」
「…………」
シーン、と場が静まり返る。
悪いことを言ったつもりのないらしい鞍馬は平然とおにぎりを食べ続ける。
私の隣の女学生はちょっと引いたような目で鞍馬を見ていた。
「鞍馬は恋愛上手ってか尻の軽い女と関係持つのがうまいってだけっしょ。」
鞍馬の隣のチャラ男がパックのミルクティーを飲みながら割と失礼なことを言う。
それはそうだと思った。
「瑚都」
鞍馬は絶対にこっちに話しかけてこないと踏んでいたのに、急に私の名前を呼んできたから聞き間違いかと思った。
でもそちらを向けば鞍馬の目は私を捕らえていて、私に話しかけたことが分かる。
「……何?」
鞍馬は他の院生に対しても変なあだ名を付けて呼んだり許可を得て呼び捨てにしたりしているから、私を下の名前で呼んでいても不思議ではない。けれど何事もすぐ恋愛に結びつけたがる恋バナ大好き女学生が隣にいる状況のため、少し焦りながらも聞き返した。
「彼氏って、例の従兄?」
しかも、まさかの彼氏に関する質問だった。
「そうだよ」
鞍馬と話すのが久しぶりすぎて、私から出てきた声は小さく掠れていた。
「付き合えたんだ。おめでとう」
鞍馬がゆっくりと口角を上げて祝福の言葉を口にする。
何でもないはずのその笑顔には相変わらず妙な性的魅力があって、こんな場なのに見惚れてしまいそうになった。
「え、従兄?従兄と付き合ってんすか?ってか鞍馬は何でそれ知ってんの?」
鞍馬の隣のチャラ男が身を乗り出して私と鞍馬を交互に見る。
「俺前に写真見せてもらったことあるんだよね。」
「えーっ!狡い!私にも見せてくださいよぉ!」
鞍馬の発言に今度は女学生が食い気味に身を乗り出してきたので、「もう消しちゃったかも」なんて曖昧な笑いを返す。
チャラ男が今ので一気に私の恋愛事情に興味を持ったようで、楽しそうに私の正面の椅子まで近付いてきた。
「ぶっちゃけ従兄と付き合うってどうなんスか?家族にどういう反応されました?」
「家族には言ってないよ。言う必要ないし」
「ああ、そっか、瑚都さん実家暮らしじゃないからバレないんだ。えーなんかいいッスね、仲良いんすね。俺親戚とめっちゃ仲悪いんで羨ましいです」
私がチャラ男に根掘り葉掘りされている間に、鞍馬はおにぎりを食べ終えて立ち上がる。
チャラ男が部屋を出ていく鞍馬を見上げた。
「は?鞍馬もう行くの」
「女の子からのお呼び出し」
鞍馬は機嫌良さそうに女の子とのトーク画面をチャラ男に見せると、鼻歌を歌いながら出ていった。
チャラ男は「またかよ」みたいな顔をした後、「授業遅れんなよ~」と見送っていた。
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