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そのアンケートが葵のクラスに配られたのは、高校二年になり八カ月が過ぎた、二〇一七年の秋の終わり頃だった。
【いじめに関するアンケート】
このアンケートは、皆さんが、より良い学校生活を送るために実施されます。
ここに書かれた答えは、公開されることはありません。
名前を書きたくない場合は、書かなくても構いません。
・この学校には、いじめがあると感じますか。
[はい] [いいえ]
・あなたは今、いじめられていると感じていますか。
[はい] [いいえ]
・「はい」と答えた人。そのいじめは、どのような内容のものですか。
[ ]
・あなたは今、誰かをいじめていると感じていますか。
または、誰かをいじめたことがありますか。
[はい] [いいえ]
・「はい」と答えた人。そのいじめは、どのような内容のものですか。
[ ]
・あなたは、いじめについて、どのような考えを持っていますか。
[ ]
・どうすれば、いじめがなくなると思いますか。
[ ]
「二カ月ほど前……東京の高校で、SNSによるいじめによって、一人の生徒の命が失われた悲痛な事件を、皆さんも知っていますよね。先生もニュースを見るたびにとても心を痛めています。そして今、皆さんにお配りしたこのアンケートは、いじめをなくすことを目的に全国の高校で実施されているものです。記述通り、名前は書いても書かなくても構いませんが、必ず提出してください。掃除当番以外の生徒は、提出できた人から帰ってもいいですよ」
昨年に引き続き、このクラスの担任となった御厨みきが、普段通り、感情の読み取れない声で話す。
一年前、葵たちが入学した当初、彼女は新卒一年目で、生徒たちと変わらぬように若く見えることから、一軍や二軍の生徒からは「おミキ」などという綽名で呼ばれて親しまれている。言わずもがな、三軍の最下層で息をしている葵には、そんな気やすい愛称で呼ぶことは難しく、御厨先生と呼んでいた。
先生は理科教員であり、理系女子を絵に描いたような飾り気のない外見や、表情の乏しさを指摘する生徒もいたが、葵は聡明さを感じていた。それは外見もそうだが、中身に対して、より一層感じていた。彼女はこれまでの、はき違えた正義感が強いだけの教師とも、愚かなほどに鈍感な教師とも違う、確かな励ましを与え続けてくれたからだ。
「ねえ赤根さん、もしも悩みがあるのなら、いつでも相談に乗るから先生に教えてね。誰にも言ったりしないし、先生は赤根さんの味方だから。それだけは覚えておいて」
必ず、他の生徒がいないときを見計らって、静かに、むやみに詮索することなく、定期的にそう声を掛けてくれた。
とはいえ相談する気力もなければ、意思もなく、何も話したことはなかったが、気にかけてもらえているのだと知るだけでも、果ての見えない孤独が一時的にでも薄れるのは確かだった。
・あなたは今、いじめられていると感じていますか。
そして、柔らかな励ましとは正反対の、オブラートに包まれることのない直球的な質問が記されたプリントに視線を落としながら、葵の身体は強張っていた。
[はい] [いいえ]
解答欄にはその二択しかない。
葵は、はいといいえの間の空白を見つめながら惨めな記憶を辿る。
この高校に入学してから、自分と話してくれたクラスメイトは数えるほどしかいない。それも雑談などではない、必要に駆られての会話だった。存在しないかのように、二年続けて文化祭の準備に誘われることもなければ、体育の時間、二人一組になれと指示があったときは必ず自分が余った。そのとき、哀れな視線ならまだしも、蔑んだ視線を向けられたことも数えきれない。その視線がフラッシュバックするたび、学校へ行くのが怖くなる。そういうとき、葵は心の裏側で、想像してみる。もし突然、クラスの誰もが自分と友だちになりたがったら、この絶望は消えるのだろうかと。そんなことは起こりえないのに。
だいたい、一軍や二軍女子たちの会話で、たびたび話題に上がるクラスのライングループにさえ、葵は参加していない。誘われもしなかった。だからそこに、自分の悪口が書かれているのか、知ることはない。でもきっと、書かれてあるはずだった。
葵は、喉の奥に溜まった唾を呑み込む。
──だけど私は今、いじめられているわけじゃないんだろう。
そんなふうに思ってしまうのは、中学時代に、誰の目から見ても明らかないじめを体験したせいに他ならない。葵が受けたいじめは、精神的にも、肉体的にも、壮絶すぎるものだった。
原因は体育の時間に、クラスでいじめを受けていた生徒と二人一組になり続けたことだ。
その生徒から、標的が自分に変わった合図のように無視をされるようになると、ライングループには連日、『最近、ブスが調子乗ってるよな』『いつ学校やめんのかな?』『バカは幼稚園からやり直せって感じ』名指しはされないものの、悪意の籠ったふきだしが投下された。
通知が来る度、心臓が破れそうになったが、今思えばそんなのはまだ可愛いほうだった。耐えかねてグループを抜けたが、個人的な矢が飛んでくることはなかった。彼女たちは、集団でないと何もできなかった。
葵が最も辛かったのは、お弁当箱に異物――虫や毛やゴミを入れられることだった。
「ねえ……お願いだから、これだけはやめて! お母さんに謝って……!」
はじめてそうされたとき、葵は怒りのあまりに、教室の不特定多数に向かって声を荒らげた。だけど、逆効果だった。翌日から異物の量は倍になった。
でも、お弁当を捨てることはできなかった。不器用な母が、一生懸命、自分の為に作ってくれているものだったから。葵は何度も吐きそうになりながらも、異物を退けて完食した。
「お母さん、ちゃんと葵のために頑張るからね」
埃が付着した米を噛みしめながら、母の言葉が何度も脳裏を掠めた。
母はだいたい週に四日ほど、夕方頃から早朝まで働きに出ていた。勤め先は、木屋町にある人妻系の風俗店。母は美しかったが、頭が悪く、朝も弱く、まともな仕事はほとんど続かなかった。祇園のホストに入れ込んだり、悪い男に弄ばれては、最終的に罵声を浴びせられて捨てられていた。
きっと父との関係もそんなふうに最悪だったのだろう。葵は父の顔をよく覚えていない。物心がついた頃にはもう家にいなかった。幼い頃に殴られた記憶だけが鮮明に残っていた。
あの頃、限界に達した葵の心にはいつも、死がちらついていた。毎朝、学校に到着するたびに吐き気がして、トイレに駆け込んだ。叶うのなら放課後まで、立て籠りたかった。
しかし、二人の生活や、学費のために、好きでもない男に身体を売るなんていう、地獄としかいいようのない環境で母が頑張っているのに、自分だけが逃げだすという選択肢を選ぶことはできなかった。学校に行く時間帯は母が家で寝ているため、仮病で学校を休むことすら許されない状況で、葵は毎日、いじめられるために教室に向かった。
ストレスからだろう。授業中、無意識に髪の毛を抜いてしまう癖がついた。そのせいで一部の頭皮からは髪がまともに生えてこなくなった。
お弁当の中で蠢く異物がフラッシュバックして夜は何も食べられず、『これで何か食べてね』と机に置かれた千円は、幼い頃の宝物が入ったクッキー缶にしまった。
体重はみるみる減り、鏡を見るたびに亡霊のようだと葵は思った。
──私は生きる亡霊だ、と。
そうして中学二年生があと二日で終わりを告げる日だった。
『赤根さんへ お葬式はいつですか? クラス一同出席できることを楽しみにしております』
机に置かれていたノートの切れ端には、やけにきれいな字で、そんなメッセージが綴られていた。
それを読んだ瞬間、魂が抜け落ちるような感覚に陥ると同時に、葵は全てから解放されたような気持ちにもなった。自分はやはり、死ぬべき存在だったのだと、そう確信できたからなのかもしれない。
いじめが始まってから、葵は自分が生きている価値が見いだせなくなっていた。それにずっと、自分が地獄に通うために母が地獄みたいな人生を送るのも、間違っていると感じていた。
睡眠薬ならば、母が毎日飲んでいるから、家に大量のストックがある。
葵はこの最低な人生に終止符を打つことを決めて、家に帰った。
すると、いつも以上に荒れたダイニングテーブルの上には、大量のカップラーメン、郵便貯金の通帳とキャッシュカード、そしてマイメロディの封筒が置かれていた。
葵へ
誕生日おめでとう。
あんなに小さかった葵が十四さいなんて、夢を見ているみたいです。
そして今日は、プレゼントのかわりに、うれしい報告があります。
じつは好きな人ができました。その人も、お母さんのことを本気で好きになってくれました。
だからしばらくその人と暮らします。
急にいなくなること、ゆるしてね。
でも心配しないで。ちゃんとしたら葵のことむかえに行くからね。そのためにお母さんがんばるから。
お金はその口座にちゃんとふりこむから、だから、ちゃんと食べてね。
はなれていても、お母さんは葵のことが大好きです。
マイメロディの便箋には、ピンクのペンで、女子高生のような丸っこい字で、そう綴られていた。
じっくりと二度読んだあと、便箋を元通りに畳み封筒にしまった。葵は笑っていた。どうして笑っているのか、自分でもわからなかった。全ての感情が入り交じって、壊れてしまった玩具みたいだった。電池が切れるまでひとしきり笑ったあとで、葵はスクールバッグからちゃんと空にしたお弁当箱をつまみ出すと、躊躇なくゴミ箱に捨てた。
もう明日から、吐きそうになりながらお弁当を食べる必要はない。持っていく必要も。お腹が空いたら、購買でパンを買えばいいのだから。
死なずとも──地獄から解放されたのだ。私も、母も。