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梅雨の名残を感じさせる湿気の多い朝だった。
伊藤港はテレビ局の編集室にいた。彼は報道番組の編集マンとして十数年働いてきた。編集室の中は薄暗く、モニターの明かりだけが港の顔を照らしていた。
――カット、フェード、BGM挿入。
無意識のうちに動く指。作業に没頭するうち、日々の雑音は消えていく。編集室は、港にとって唯一「無」になれる空間だった。
ピリリリリリ――。
その静寂を破るように、スマートフォンが鳴った。モニターから目を離し、画面を見る。発信者名は見覚えのある、義理の兄、南の兄だった。
「……もしもし?」
「……港さん……」
相手の声はひどく震えていた。
嫌な予感がした。背中に汗が滲む。
「どうかしたんですか?」
「……南が……」
「……?」
「――この事故で、伊藤南さんが死亡しました」
一瞬、音が消えたように感じた。
耳鳴りのような、何かが遠ざかっていく音。
言葉の意味が理解できなかった。言われたはずの言葉を、頭が受け取ろうとしなかった。
「……今、なんて……?」
「……国道四号線で……園バスが、横転して……南が……」
港の手からスマートフォンが滑り落ちた。乾いた音が編集室に響く。
南が――死んだ?
そんなはずはない。さっき、朝、洗濯物を干していた。笑っていた。息子と話していた。昨日だって、夕飯の献立で笑い合ったばかりだ。
南が、死ぬわけがない。
世界が急に、崩れていく音がした。
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通夜の夜、港は座敷の隅でぼんやりしていた。周囲の弔問客の声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
ふと、視線を感じた。
振り向くと、そこにいたのは、加賀紗理奈だった。
彼女は黒いスーツに身を包み、カメラを持たず、手を組んで静かに立っていた。港と目が合うと、小さく会釈した。
加賀紗理奈――かつて同じ現場で働いたカメラマン。南とは、深く話したことはなかったが、確かに何かを共有していたような空気を、当時から感じていた。
港は立ち上がり、ぎこちなく頭を下げた。
「……来てくれて、ありがとう」
「……うん」
それだけで、しばらく無言が続いた。だが、紗理奈はふいに言った。
「……南さんが亡くなったって聞いて、最初に思ったの。……また、あれが始まるんじゃないかって」
港は顔を上げた。
「……あれ?」
紗理奈は目を伏せ、声を絞るように呟いた。
「……“あれ”って呼ぶしかない、得体の知れないもの。前にも、あったの。あたしの知ってる人間が――似たことをして、似た結末を迎えた」
「何の話だ?」
「“トカゲの尻尾”、って……知ってる?」
港の背筋に、ぞわりとした寒気が走った。
それは、つい最近、自分が息子に語った“嘘”の言葉だった。
「……なんで、それを?」
「たぶん、それが鍵になる。港さん……あなたの家で、何か起きてる」
紗理奈の目は、ただならぬ真剣さを帯びていた。港は思い出した。
あの日の夜――樹人が、庭で何かを埋めていた。
遊びだと思っていた。だが……。
その時、家の方から、声が聞こえた。
「……パパ……トカゲ、起きたよ」
息子の声だった。
港と紗理奈は、目を見交わした。
何かが、確かに始まっていた。