テラーノベル
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黒と白の空にて。男は月明かりの差す塔の中で静かに杯を傾けながら星の瞬きを頼りに誰かを待っていた。その男は四十路ぐらいだろうか、東洋の果て系統、なかなか豪華な服装。白髪はまだない分けられた短いうねりのある黒髪に、少々土気に近い白い肌。老けているが威厳のある顔立ちでやつれている。その黒い口ひげはそる暇がないのか、それとも己を強く見せるために伸ばしているのか、あるいはそのどちらでもあるのか。ため息交じりである、悩み事でもあるようだ。落ちくぼんだその黒い眼は何を映しているのか、半月か、月のもう半分の闇か。そんな視線に邪魔が入る。褐色の艶がかった肌、白髪に後ろに流された一本の三つ編み、にやりと浮かべた口元から覗く鋭い歯、横に尖った長い耳には金の耳飾り、少しだらしない服装で緋色の生き生きとした瞳にやたらと老けているのわからない挑発的な笑みを浮かべる男。
「おや、今宵は宴だというのに、主役の王様はしっぽり一人で酒とは寂しい世の中だな」
白髪の男は黒髪の男をにやにやとして上から下までなめるようにじろじろと見る。
「俺のことも無視か。やはり、カルメェン、俺という愛人では足りないのだな。お前は男色だと思っていたが…存外女も好きなようだな?」
黒髪の男はその苦悩を深まらせるように眉間にしわを寄せる。
「余計なことを…。私は性別云々の話はあまり好まん、どうだっていいだろう。…ルーロン、何の用だ。私をからかいにきただけか?私の手を煩わせるのがお前の趣味だろうし…」
「ははっ!認めないんだな…まあいいさ。そうだ、あんたをからかいにきた。それと…あいつに似ている女が城周辺をうろついていて…捕まえたんだ」
カルメェン、彼は静かに目を見開きかけるが平静を装うように咳払いをする。その様子を見てルーロンは口元に弧を描く。
「動揺しているな?…無理もないな。だが、そっくりだと俺も思ったよ…だが、どうやら違うようでね。あいつがつけてたペンダントが…」
「ペンダントだと?ルーロン…それは戯言ではないのだな?今どこにいる」
カルメェンは少し取り乱しており、ルーロンの腕を強めに指が裾に食い込むほど掴む。二人の影を長く石の壁が映し出しており一方の影は迫真に満ちているというのに、もう一方の影はどこか頼りない。
「いたた、おいおい、痛いだろなにするんだよ。戯言ではないさ…地下牢でぼんやりとどこみてるのかもわからない、そんな感じでお前さんを待ってるよ」
彼はゆっくりとルーロンから手を離して深く息をつく。彼は何も言わずただ足早にその場を立ち去って行った。ルーロンはその場に取り残されたまま肩をすくめて、使い古した古木の机の上に置いてあった未開封の忘れられたかのような酒を飲み干した。
駆け足でいつもよりも速い、中年の老いて痛む脚さえも今だけは使い物になる、階段を降りる、どれほど歩いただろうか。ようやく着いたのは錆びて鼻の奥を突き抜ける匂いが充満した貧相な鉄格子。そして鉄格子の奥の錆びついた部屋の壁に座り込む、場にそぐわぬほど美しい麗人がいた。その麗人とは西国の容姿をしており、世にも奇妙な風貌。なめした皮のような死人と見間違うほど蒼白な肌、そして右側が白髪で左側が黒髪であり、背中までゆるく結っている。その澄み渡る氷河の膜のような瞳はカルメェンを射抜いている。男装の麗人という言葉が似合おう程、貴族の旅装束を身にまとっていた。彼は、一瞬その女に目を奪われた。が、咳払いをして平静を保つと女に鉄の格子を隔て語りかける。
「…お前、名はなんと言う?教えてはくれまいか、この私にお前の全貌とやらを」
女はゆっくりと目を細めて。喉の奥でくつくつと笑みをこぼすと、深く息を吐いてこちらに歩み寄る。
「私の名かい?教えよう。私はライラーク…。正体は不明だよ、己でもわからぬのだ、記憶が微睡みで曖昧で…君ならばなにか教えてくれるのだろうかと思っていてね…。私に見覚えはあるかい?」
驚くほど所作も口調も似ている。優美であり、それでいて中性的な面影に不覚にもカルメェンは息をのみ小さく喉を鳴らした。
「ライラーク、か。ああ、見覚えはあるとも。かつて、いや随分と遥か昔になるかな…お前によく似た女がいた。その女は王女でな、素晴らしい人物だったよ。生憎、私は何者か知らん。だが、そのペンダント…なにか心当たりはないだろうか」
彼の視線は彼女の胸元にある時計を模した白と黒のペンダント。歪で怪しげに輝いている。彼女はふと、そのペンダントを握るだがその手は微かに震えていた、無理もない自身がある国の王女と似ているというのだから。
「これかい?これは、アンディス帝国の野道で気絶してたんだ。気が付いた時からあったんだ。それを身に着けたままこのカイチャ国に来たわけだ。ほら、見ておくれよ…このペンダントの裏側に文字が刻まれているんだ。”クライラー”と、これは一体なんの文字なのかと途方に暮れては迷っていたばかりさ」
少し考えるそぶりをして肩をすくめて見せると、少し動揺して言葉を失うカルメェンにぐいっと顔を近づけて愉快そうに言葉を続ける。
「どうしたんだい、黙り込んで。もしやとは思うが、このクライラーというものに大きな心当たりでもあるのかね?」
だが、彼は口髭を整えるしぐさをすると、心を隠すようにまっすぐに彼女を見据える。
「いいや、お前に教えるべきかはわからんがな。クライラー、彼女こそが先ほど言った王女なのだよ。そしてな、私の記憶が正しければだが…彼女もペンダントを付けていてな、その時裏側に刻まれた字は”ライラーク”つまるところお前の名前が刻まれていたのだよ」
「おかしなことだ、クライラーの時はお前の名前、お前の時はクライラーの名前とはな。まるで入れ替わっているかのようだ」
彼女は眉を上げて顔をそっと離す。そして興味深そうに目を輝かせると、格子を強くぎゅっと握った。入れ替わっている_その言葉に少しばかり胸の内にある平原につむじ風が巻き起こった気がした。
「そのクライラーさんとやらのこと、よく教えてくれないか王様。クライラーっていう王女さんはどこにいるんだい。教えてくれないか?」
言葉に詰まる、カルメェンは躊躇いながら教えるしかない。
「クライラーは、当の昔。私がまだ青くて世間知らずな若造の時にこの世から去ったよ。私よりも四つ年上でな、今生きていたら四十九ぐらいだろう。だが、お前はあの時の麗しく若々しいクライラーと瓜二つ。もう、終わったのかと諦めかけていたところにお前が来た」
その言葉にライラーク、彼女は握っていた格子をそっと離す。そして少しばかり気まずそうに目を伏せて、部屋の壁に寄り掛かる。
「…そうか。ずかずかと聞いて申し訳ない。…だが、不思議なものだ。記憶も曖昧なんだが、誰かに囁かれてね…ここに来るべきだと。だからこの場所へ足を運んだ。知ることはできた、私と王女にはなにか繋がりがあるということには」
静かな沈黙。月光、そして半月が彼女の白黒の髪を表しているかのようで鋭利な美しさを振りまく。最初に口を開いたのはカルメェンだった。
「ともかく、いやとにもかくにも。お前、お前の目覚めはアンディス帝国といったな。そこはクライラーの国なのだ。だから、そのだな…行かないか?」
彼女は困惑しながら眉をひそめる。
「おいおい、王様わかってるのかい?今アンディスとカイチャは最悪の仲なんだぞ?それに遠いじゃあないか…どうやって行くっていうんだ?」
ライラークの言葉は真であった、アンディスは閉鎖されたような状態でもあり遠い西側へ続いているため環境や文化が変わってくる。ましてや東国のカイチャの長
であるカルメェンが行くなど尚更難しい。そんなところでカルメェンは深く考え込む。蠟燭の灯が随分と溶け切ったころ、やっと口を開く。
「いや、静かに何者からも見えぬように行くのだ。…例えば、この姿では難しいからな…。」
そして手をポン、と叩いてなにか思いついたのか意気揚々と言う。
「そうだ、私が女装して花嫁姿となり…お前が男装して花婿になるのはどうだ。これは紛れもなく素晴らしく良い案だとは思わんか…?」
長い長い沈黙がおとずれる。彼女は虚を突かれたような呆気にとられた顔をしており、やけにすき間から吹く風の音が大きく聞こえた。対してカルメェンは不安げだがとても意気込んでいる。ふと、どこからか笑い声が。ルーロンが笑いながらこちらへとゆったり歩いてくる、檻越しに見つめあう二人を静かにその赤い瞳で見つめる。
「おや。なかなか面白い提案じゃあないか、これだから我が王には飽きない…。お嬢さん、さっきぶりだね…ところでどう思うんだい?四十五の大の男が花嫁姿とは無理がある、確かにお嬢さんは男装すれば美男になれるだろうが…」
カルメェンはルーロンを見てどこか怪訝そうに顔をしかめる。だがすぐに咳払いをして平静を装う、たいしてライラークは口をパクパクさせて混乱していた。
「…なんだ、ルーロンいたのか。だが、それでもいいだろう。私は昔は美しい美少年だったのだ、きっと花嫁姿も皆…私の虜になるだろう」
ライラークもルーロンも揃って哀れなものを見るかのように、腫れ物扱いをするかのような瞳で見つめてくる。
「王様、本当に…その。失礼だとは思うんだが頭大丈夫か?何か…疲れていたりしないのか…お前、おじさんだろ。」
「あ、ああ…カルメェン。お前さん…最近おかしいぞ。どうしてそうなる…お前は美少年ではなく、ガタイの良い中年だろ。これだから、過去にとらわれてはならんぞ」
彼も彼女は咳払いをして少しばかり気まずそうに眼をそらす。
「ええ?…お前ら、私がだぞ…この私が可愛くて愛らしい花嫁になれないというのか…。それならば、これはどうだ。確かクライラーには姉上がいたはずだ、セレーネと言うらしいな。姉上に頼ろう」
「おお、それは名案だ!っていうか最初からそうしろ。お前、女装癖でもあるのかこの変態!」
ルーロンはおどけながら、少しばかり興味をそそられた。そして続けて言葉を紡ぐ。とりあえず、まだライラークを解放していなかったので、鉄格子から外に出してやった。
カルメェンは咳払いをする、そして二人に向けて言葉を発する。
「それでだな、仕切り直そうか。まずクライラーの姉妹だが、私が知るに三姉妹だ」
彼は少しばかり格好をつけた口調で続けたのだった。
「まず、第三王女のルーナ、彼女は学者でな、学問ならばなにもかもできてしまうようだ。だが。別の国の王子に嫁いでいるので会うのは難しいだろうな。そして第二王女のクライラー、統率力があり素敵で魅力的で一番美しくて私史上もっとも素晴らしい女だが、故人だ。」
「そしてだ、第一王女セレーネ、彼女は武人でな月のような剣技を扱う旅人の自由人だ。彼女はたびたびこの国にやって来る」
眉を少しひそめるもの、声を出したのは白髪を搔き上げていたルーロンだ。
「ほう、カルメェンよ一瞬クライラー贔屓というか…惚気に入っていたな?まあいい、セレーネ王女というのはどこで会えるんだカルメェン、俺が探しに行くべきだろうか?だが、こんな見知らぬ爺が会いに行ったとて不審がられ、切り捨てられるのが終わりよ。セレーネ王女は自由人だが用心深いと聞く…」
するとしばらく深く沼の底にはまるかのように考えていたライラークが顔をゆっくりとあげる、灯に閃いたような眼光を照らし、思考を露わとする。
「それなら…私が行けばよいのではないのかい?セレーネ王女は妹君に似ている私であれば、心を解けさせてくれそうではないのかい?話くらいは聞いてくれるだろう?」
「だが、問題があるのだよ、王様…ルーロン殿。それがね、自由人で旅人だと言っていたが…いつ、どこでセレーネ王女と出会えるのかい?時折ここへ来るといったがその頻度はどうなんだ」
それが問題であった、セレーネ王女は自由人であり神出鬼没の気ままな女である。それも本当にある時には林で酒を飲んでいる美しい姿を見ただとか、酒場でタンバリンを鳴らしては踊り狂っていただとか、それに加えて決闘を申し込まれた時には優雅に剣をふるってみせたなど、様々な目撃談と何が定かで何が偽なのかもわからないのである。
そこでカルメェンは提案をした。
「確かだが、噂に聞けばセレーネ王女は今日と来月まで滞在していると聞いた。酒と踊りが好きなようだな…おおよそ王女とは思えん趣味だが。まあいい、私はクライラーのほうがいいのでな。それでだ、ライラーク…お前が踊り子として変装し、酒場に居るセレーネ王女に近づくのはどうだろうか?」
大きな声で感嘆し、共感したかのようにルーロンが声を上げると牢獄の奥まで響いた。
「なるほどな、カルメェン!惚れ直し、いや…見直したぞ、それは良い案じゃないか!てっきりお前のことだから自分が女装して踊り子になってセレーネ王女に近づくだとか言い出すのかと思ったぞ?」
「うるさい、私は踊り子など低俗なものではなく、麗しい花嫁になりたいのだ」
その言葉にルーロンとライラークは花嫁も踊り子も女装なんだからどちらも変わらないだろという考えと、やはりカルメェンは疲れているのだとそう心から確信したのだった。
「では、カルメェン、ライラークよ。俺は酒場を手配するんでなそれもセレーネ王女は月見がお好きだと聞く。月の見える酒場にてライラーク、お前が踊れ。カルメェンはライラークに付き添え、わかったな?」
そうして各々に分かれて行動に出た、夜の街へと。
とある街外れだが繫盛している月見が好きな酒豪が集う酒場にて。そこは賑やかではなくて、壮年から老年の年長者たちが穏やかな夜風と共に酒をかわす、そんな遠い過去を思わせる場所だった。そこの新参者にて、噂の麗人がいた。彼女は随分と年を食っているように見えるそれも五十九と思わしき程である、ライラークと似ており白玉のような肌で衰えぬ艶やかさを保つ短い黒髪は星を宿さぬ夜、深くかぶった帽子の鍔から覗く老獪な瞳はどこまでも続く浅瀬のような翠。西国の美青年を思わす風貌で、彼女もまた気高い男装をしており腰には剣を下げているようだ。
「おや、アンタ見ない顔ね。ご注文はあるかね、どこのご婦人かな?」
酒場の店主たる壮年の女が器を磨きながらその美人に問いかけると、美人は少しばかり翳りをくゆらせたように浅瀬の眼差しを伏せた。
「私ですか…?私は西の国から来たしがない老いた旅人でしてね。ええ、ご注文と言えば…新月を満月に変えてくれるような酒を頼んでもよろしいかな」
透き通るような声だった、穏やかでどこか哀しみに満たされたかのようなそんな声色だったのだ。彼女は静かに満天で微笑む星空を見上げられる席についた。店主は手練れたように何も言わずに黄金の液体を注ぐ、それは新月だった杯を満月に変えてくれた。
「今宵、アンタの真っ暗な新月を満月に変えてくれる踊り子が来るだろうね…。お楽しみくださいなご婦人。」
美人は伏せていた顔をふと上げる、目の前にもう店主はいなかったがどこからか透き通るような笛の音色がさえずる。彼女は耳を澄ませた、それは酒場の舞台裏からどんどん大きくなってやがて一つの太い糸のように力強く響く。どこからか太鼓の拍子が聞こえてきてくる、すると夜の精霊が現れた舞台上で舞い降りたのだ。踊り子なのだろう。その銀糸の絹でできた衣装に身を包み、黄金の装飾と優雅に舞う姿、女神だと錯覚してしまいそうだ。そしてなにより驚くべきことは亡き妹によく似た容姿たたずまい。そう、美人である彼女こそクライラーの姉君であるセレーネであり同時に目を奪われた年を重ねた女だ。セレーネは気が付いた時には踊り子の前に立ってどこか震えるように鋭く見据えていた。
「お嬢様…いや、クライラー…ですか?。」
踊り子は舞をゆっくりとやめる、そして艶やかな微笑みを向けながら続ける。
「さあ?私もわからぬのですよセレーネさん。だからね…教えてください。このライラークという名の紛い物をね」
そこで笛を吹いていたであろうカルメェンが少しばかり気まずそうに視線を泳がせながらセレーネに会釈をする。
「せ、セレーネ殿下…久しぶりだな。その、クライラーの件と、こやつのことで…」
言いかけた時、セレーネはすぐに羊を狩り殺す大鷲の瞳のように眼を光らせてカルメェンの心臓に杭を打つかのように睨みつける。
「おや、我が妹をたぶらかしたカイチャ国の偉大なる陛下が何の御用で?それとこのライラークの名乗るお嬢様も共犯ですか?私に夢を見せて絶望させたいと?」
「違う、セレーネ殿下。ライラークは悪くないのだ少しばかり話を聞いてもらえぬか…クライラーのことで」
彼女の瞳は静かに燃える青い火花。しばらくカルメェンを睨む、カルメェンは気まずそうにしており視線をそらしたいのだが逸らすことができない、そして先に折れたのは意外にもセレーネだった。酒場の雰囲気はとある区画を除いては平穏に保たれている。
「わかった、過去は過去、現在は現在と切り分けよう。そして常世に何を?」
セレーネは少しだけ僅かだがそのこわばっていた表情を崩して耳を傾けた。そしてライラークとカルメェンから事情を聞いた。
「なるほど、つまり…陛下のもとへクライラーと何らかしらの関係性がある、記憶喪失のライラーク嬢がやってきて、アンディス帝国へ行って情報をつかみたいと」
彼女は少しばかり眉をひそめて軽く舌打ちをする。
「困ったものだよ、私にこんな子をどうしろと。ですがね、陛下…私でも難しい何故なら今のアンディス帝国はなかなかに閉鎖的で私の手でどうこうなるか分かりませんけれどもね、けれども…私の師のいる離れた宮廷ならば連れていけます。ですが、仮に行けたとしてもあなたのこの国は誰が統率するのです?」
「ああ、それならば安心するがいい。ルーロンに任せるあやつは掴みどころがないし、ご存知の通り人間ではない…長く生ける摩訶不思議な種族だが仕事も人情も熱い男だ。任せればなんとかしてくれる。まあ、大丈夫だろう」
その適当で雑、王とはおおよそおもえない姿にライラークはどこか驚いたように豆鉄砲を食らった鳩のようにカルメェンを見据えると少しばかり平静が崩れて声が上ずる。
「し、正気かい?あのふざけた落書きみたいな顔をして、絶対に放蕩している老い耄れがあなたの右腕だとでもいうのかい?」
「ひどい言いようだな、まあやつは私の半身でもあり、もっとも使える男だぞ。確かにあのにやけ面で妖しい雰囲気は否定はしないがな。」
2人のやり取りを横目に金を台に流れる動きで置いて立ち上がり、セレーネは鍔を整えた。彼女は少し先に早足で二人を置いていく気で酒場を出て、馬車へと向かう。
「さぁ、行きますよ。お話は付きましたね…私がのんびりしていたせいで夜が明ける前に停めていた馬車の馬が逃げ出してしまうかもしれないのでね」
「先に言ってれよセレーネさん…そういうことは。さあカルメェン行こうか…踊り子衣装だと目立つ気もするが」
ライラークはさりげなくカルメェンの手を取って店を後にするセレーネの後に続く。外はすっかりと地平線から陽の光が生えている。東の土の香りもこれでしばらく遠くなると考えるとなかなか寂しさが残る。
「むっ、ライラークよ…私は一人で行ける。私の王の面子というか威厳を保たせてはくれまいか…お節介だ」
「君に王の面子もくそもあるか、その腰痛持ちの体ではろくに馬車にも上れないだろう」
前は日の出が見える冒険の予兆に見えるのに、これからこの先には甘い誘惑的な毒が香るような気がした。そんな彼女に少々驚きながらライラークは尋ねる。
外には既に馬車の馭者の席について、馬の手綱をセレーネが握っており、苛立たし気にこちらを見ている。そして軽く指を組んで通る声で。
「早くおいでなさいな、戯れはそこまでにして。待ちくたびれますよ、私も馬も置いてきますからね?そんなんじゃだめです、このさきなにがあるか…。いえ、なんでも。」
カルメェンはセレーネのその言葉を聞き、はっとした。石畳をかけて腰痛持ちにしては意外とすみやかにどっかりと先に席に腰を下ろす。手を差し伸べる、その仕草にライラークは胸の内に懐かしい温かな陽だまりを感じた。
「そうだな、さあお前も乗れ」
促されるがまま、ライラークは乗る。セレーネが何も言わずに馬を走らせる、カタコトと石畳を超える感覚にライラークは奇妙な緊張を覚える。ライラークは少しぎこちなく衣装の飾りをいじっていた。しばらく音が消えたかのような無言が続く。そこでライラークは口を開いた。
「なにがあるかわからないってどういう意味なのかな…?私はどうなってしまうのかな?」
「安心なさい、私が守る…何が来るかは見てのお楽しみですが、お二人の素肌にはなんの脅威も触れさせないし切り裂きましょう」
「え?えぇ…セレーネさん信じているよ?」
そしてふと先ほどの王様ことカルメェンがふと気になり、隣で腕を組んでいるであろうカルメェンに視線を送る。
「なあ王様はセレーネさんのこと…どう思う…」
当のカルメェンはすでに腕を組んだままその瞼を伏せて、存外穏やかに寝ている、どうやらあまりにも忙しかったのかこうする余裕もなかったようだ。ライラークは諦めにも近く、呆気にとられたがすぐに緩んだ微笑みでカルメェンに自分の衣装のスカーフを肩にかけてやった。馬車が心地の良い感覚で揺れて朝焼けの街を駆け抜けてゆく。長い長い道のりを過ぎていく。後ろを振り返ればきっと、華美なるこの地の東を語る王宮が遠ざかるライラーク一行を見送っているのだろう。だが、あえて振り返らない、なぜなら新しい光が自分たちを迎え入れているのだから。町並みはどこへやら少し林に近づいてきた。
「…優しいですね、やはり似ている。似ているのにどうしてもやはり違いますね。」
独白に近い、相槌を求めているわけではない。だからライラークは静かに目を細めただけだった、目の前には月は眠ってしまったようで、燦々と一日の合図を太陽が掲げている。
「あなたはクライラーよりも存在感もないし人を惹きつける力もない。黙ってれば雰囲気はあるけれども…けれども、あなたがそうして陛下にスカーフをかける仕草はクライラーではしなかった。さりげない気遣い、紳士的なその姿はなかった…私はあなたを紛い物だとは思わない、ただそっくりさんとして。けれど…別の人間ライラークという女だと思います。だから、周りになんと言われようがクライラーと関りがあるだの、それはあなたが決めることですよ…。なんて、上から目線だっただでしょうか?」
心のうちに響く、年季の入った美しい横顔は何故か懐かしさを感じる。言葉が紡がれるたび街も、悩みも遠くへ運ばれていく気がした。
「ふふ…優しいのは君の方ではないのかいセレーネさん。記憶も朧気で本当にどこの馬の骨かももわからない私にそんな言葉をかけてくれるなんて。あなたのこと勘違いしてたかもしれない」
静かな時が流れる、セレーネはその翠を揺らめかせて朝焼けの色に照らされるライラークを見つめる。
「いいえ、勘違いなどではございませんよ、私は確かに冷たいような女でしょうね。根はそれであっているのです。私はね、愛する人がいたからここまで変われたのです」
何も言えない、その言葉の意味を理解してしまう。彼女の横顔は寂れた哀愁が漂う、常に凛としていて読み取れないかと思えば急に褒める。不思議な人だ、そして今弱みを見せた。掴みどころがあるようでなかなかに手探りでは見つからない、まるで流れのはやい川の中に落ちた輝くコインを見つけるかのようだ。
「愛する人…どんな人か不躾だがお聞きしても?」
「そうですね、あまり言えたものではないですが、夫がいてね…彼は貴族の公爵だったけれども、ある時に何者かの手によって殺されてしまったのですよ。」
息を吞む音だけがひどく大きく聞こえてしまう何を言うべきか、だが沈黙は余計に場を悪くしてしまうのだ。なにゆえだろう車輪が動いているというのに心は停まってしまったかのような深い感覚に陥る。林の中に入ってきたのか鳥のざわめきが耳にこびりついて車輪が草花を轢いて、馬の蹄が土を蹴っている。
「すみませんね、このようなこと。私は妹のみならず夫まで失ってしまった寂しい老婆なのです。だから、あなたの可能性を信じてみたい…そう考えております。」
ライラークは我に返って失礼承知で少し踏み込んだ大胆な質問を繰り出す、それはセレーネの心を煌びやかだが鋭い凍てついたガラスの破片で抉るかのようだ。林の中では静寂が響いている。セレーネの背中に重いものがのしかかっていたように見えたのは見間違いか。
「セレーネさん。失礼承知で聞こう、クライラー王女の死因は?」
馬車がぴたりと土を踏む音を止める。セレーネがゆっくりとこちらに振り向いたときライラークは耳鳴りが激しく鳴った、こうなることは分かっていたが、聞かねばならぬことは聞かねばならぬ。蝶が慌てて逃げだしていく、鳥たちが一斉にさえずるのを止めてそれぞれ巣へと戻っていった。その麗人の顔には一切の感情が抜け落ちて瞳は光を宿していない深海のようだ。能面のように一点、こちらを虚空を追い求める亡者のように見つめた。やがて鎖で結ばれたかのような唇が重たく開く。
「それを聞きますか。私の夫と同じ…いや、それ以上に。殺されたのです…同じ年に同じ時間に、そして死体も同じく不明。犯人はわかりきっていたし、既に捕まっている。」
脳内に鳴り響く言葉。同じ、同じだと?何の運命だろうか?だが妙な違和感が体中に迸る。そう、そうなのだ同じ時間同じ年に殺された、だが彼女は犯人は同じとは言っていないどういうことなのだろうか。王女とセレーネの夫は別の人物になんらかの関係性を持って殺されたのか、企てられた計った刃、陰謀のヴェールが覆い隠している。その甘美なる真実を。ライラークはひとつだけ、だが少しだけ戸惑いながら聞いた。
「それは、どういうことなのだろうか。同じ人物ではない…。本当に、いやなぜ死んだといえるんだ?死体は見つかっていないのだろう?」
それは純粋なる矛盾だ、なぜ死体がないのに、いやどうやってそもそも死んだと確信したのだろうか、行方不明になったのでは、それに片方、犯人が捕まっているという奇妙な現状だ。セレーネは再び馬車を動かす、綱を引く音が暫く途切れることのない一本の糸の如く続いた。セレーネは重々し気に疑念に満ちた口を動かした。
「私も疑問でした、ただクライラーの場合は殺された瞬間を私は見てはいませんでしたが、駆け付けた時にはクライラーの死体はなかった。そこには気絶した血まみれの嗚咽をこぼす犯人と、そして…気絶した若きそちらの陛下がいたのです。」
ライラークの目が見開かれる、今すぐ吞気に寝ているこの王をたたき起こして問い詰めたい衝動に駆られた、だが今はそれをぐっと喉の奥に飲み込んだ。そしてライラークは少しばかり身を前に傾けさせる、鈴がチリンと音を立てる。言葉を発する前に遮られる。
「あなたの言いたいことはわかります、私もそこの王を問うたのです。ただ、当時あまり覚えていなかったようで、断片的に教えられました。どうやら、犯人は陛下を殺めるつもりが庇ったクライラーが身代わりになったそうで」
「身代わりって一体…、何がどうして?死体はどうやって?その二人に聞いたのか?」
セレーネは首を横に振る、それ以上はわからないとでも言わんばかりに。ただ謎が深まっていくのだ、ガタゴトと鳴り響く馬車が揺られる音は不穏な空気を残していた。それだけではない、ではセレーネの夫はどうして死んだのだろうか。それを聞くのは彼女の精神を抉ってしまうだろうか、引き下がろうか迷うその時、セレーネは察した。
「では、私の夫はどのようにして殺されたか。教えましょう、恐ろしい話ですがね…夫の瞳は世にもまれな白色でね…。ある日のこと、私がクライラーが死んだと聞いて急いで家に帰ったとき、彼の片方の目玉と思わしき白い瞳と…誰かの、彼のかもしれないが心臓が机に置かれていたのです。」
喉の奥がひゅっとなる音がした、するとそんなライラークの肩に手を置かれる。いつの間にか起きていたのか、ふざけた調子ではなく冷静で真剣な面持ちの彼が雑木林の奥をにらんでいた。
「待ってくれ、セレーネ殿下。何か、おかしい…先ほどから変な音が聞こえる。一度馬車を止めてくれないか。」
セレーネはその言葉にピタリと馬車が止まる。静寂の中で、混乱するライラークを二人は横目に何か耳を澄ませている。だが、ライラークは全くもってわけがわからないのだ。なぜなならば、辺りはしんと静まり返る暗がりの雑木林、伸び伸びと生い茂る背の高い草花が風に揺られており、馬の蹄を隠している。そんな中でも月だけが輝いており木々がその月光に合わせて揺れているくらいしか。だというのにセレーネとカルメェンは何かが聞こえているかのように耳をそばだてていた。
「鈴の音が聞こえる、殿下はどうだ?」
どうやらカルメェンの耳に鈴の音が聞こえているらしい。そしてセレーネも振り返らず頷いた。
「同じく。先ほどから…軽い音が、鈴なのでしょうか」
不穏にも静けさだけがライラークの耳を包み込んでいる、だがそんなライラークとは対に二人のの耳には鈴の音がゆらりと湿った岩の陰から、土埃のする地面の裏側から、露の濡れた草木の間から、近づくかのように聞こえてくる。背筋に這う氷柱で撫でおろされるかのような悪寒はとどめなくあふれ出してくる。
「お二人とも、私の後ろにおなりなさい。決して私から離れてはなりませんよ、そして何も言ってはなりません」
白銀の氷龍の紋章が描かれた鞘に手をかけて、その柄を抜こうとセレーネは意思をこめる。茂みの奥深くから這いずる人影に、セレーネの揺るがぬ戦の裂け目を駆け抜けたその眼光が、切り裂かんばかり突き刺さる。ライラークは形容しがたい恐怖に包まれて声も出せず冷や汗に額が引きつる。
相対してカルメェンの表情はどこか探るように興味と好奇に光っている。
セレーネは片耳をふさいでみた。すると、耳をふさいでいるというのに聞こえる、間近で鳴らされているかのように。いや、違う。これは間近ではない、脳髄に直接音が侵食しているかのようだ。
「いるようですね、私たちのそばに…。」
セレーネは鞘から銀色に輝く、荘厳なる剣を構える。その一筋、それは神が作りもうたほどまっすぐ鋭い芸術性、その瞳は何物にも動じることなく静か見据えておった。
ゆっくりと霞がかかっていく、森の奥にざわめき、それは黒い影。
月光が差している、葉がざわめいている、麗人は剣を構えたままにじり寄る黒い影、麗人は馬車から地面へ足を移す。チリンと鈴の音が、馬車で息を殺す二人。
正体があらわになっていく、人影は照らされたのだ光に、西の顔立ちだがやつれている、整えられていたであろう赤毛は崩れ、口髭のある気品高かったであろう茜の瞳は、今や生気を失っておる貴族の男が。手には鈴、そして身にまとっているのは黒い薄汚れた白い文様の入った外套。カルメェンは目を見開いたまま、ライラークにいたっては困惑を押し殺そうと、だが指先が震えている。しかしながら、セレーネは動いていたまるで信じられないものを見るかのように。
「ダニエル、なぜここに」
カルメェンは眉をひそめる。
「もしやとは思うが、あのダニエル…死んだはずでは」
「殿下の夫は、ダニエルはもう亡き者だと聞いたが、本物か?」
ダニエル、先ほど話していた残酷に殺されたといわれたセレーネの伴侶、だが心臓もあるように見えるし、だが片目は確かになかった。けれどもう片方の瞳は誰かを探すように虚ろでありながら瞬いている。心のうちにざわめきが広がっていく。
「どういうことだい…セレーネさん。さっき死んでいたといっていたのは」
ライラークは無意識のうちに後ずさっていた。彼女はカルメェンの半歩後ろ、馬車の背もたれに寄りかかっている。セレーネはふと我に返った、恐る恐るダニエルに近づく。草花を踏みしめて、地面を靴底で渡る感触もどこか夢現かのようだが。
「ダニエル…あなたなのですか、ダニエル?」
ダニエルは無反応だった。が、目にわずかな光が差しており、唇が微かに音にならないほどの掠れきった風音のようだが、確かにセレーネの名を呼んだ。摩訶不思議なことである、何十年も待ち続けていたその人が自分の前に現れて、しかもちょうど待ち人のことを離していた際に。神の奇跡か、あるいは悪魔の兆しか、それをわかるものは今いない。暗い森の中、セレーネは踏みとどまりながらもそのダニエルをそっと抱きしめた。壊れ物、いやそれ以上その触れ方とくれば信者が神の手を握るかのように、震えながらも確かな感覚を確かめるかのように、腕を回したのだ。
星が瞬きをやめたころ、セレーネはふと顔を上げた。
「摩訶不思議なものです、だが…今はそれどころではない。ダニエルもいるわけだ」
夜明けが近づく、三人は状況を吞み込めないまま馬車を走らせる。亡き者だと思っていた存在をも乗せて。
やがて森を抜ける、草木はざわめきをおさめ、青緑はどこへやら。場所は自由に生い茂る木々の枝を潜り抜ける。そこは荘厳なる都、アンディス帝国の帝都その名もアリスであった。黒々としたゴシック洋式である。街並みと言えば整列されており、屋根がとがって槍のように鋭く主張している。灰色の空は太陽の残り香を漂わせる、重く厳格なる、喪に付したかのようですらあった白黒の世界。
「もうついたのかい、なあセレーネさん。ダニエルさん喋れてすらいないし。その鈴も何なのか分からないし…問題が山積みのまま来てしまったね」
一行は黒く濁った石畳に足を付ける。不思議なことにダニエルは先ほどから鈴を手放さない。まるでそれがなくなったら消えてしまうかのように。
帽子の鍔を直してセレーネはどこか遠い目をして翠に灰がかった空を見上げて、独り言ちるように。
「ああ、これですか。それはダニエルが生前持っていたものなんです。私にすら何なのか教えてくださらなかった。人は大事なものを隠したがるか、見せびらかすかだと思うんですよ、私の夫は前者でしたね」
ライラークはその横顔を間抜けな瞬きと共に拝む羽目になった。
「いやいや、極端すぎないかい。人によっては違うだろう、二極化するにはまだ分からないことだらけだろう」
ざわめき、男装の麗人は夫を横目に。死者なのかさえもわからぬというのに、決めてしまった。カラスの鳴く声がまるでその存在は偽物かもしれないと疑念を語りかけてくる。しかしながら、そこで揺らぐはセレーネという女ではないのだ。確信を一筋の太刀の如く貫く、悪く言えば頑固である。だがそれは本人は自覚するはずもない、彼女の周りは頑固な老獪であり、それらに囲まれて育ってきたのだから。
「そうですね。大事なもの、彼はそれが本当に大事だとは一言も言っていなかった」
が、その空気を切り裂くように、死んだ都にそぐわぬ存外豪快な声が轟く。
「おい、お前たち遅いぞ!はようせんか、私が認知症になったら責任取ってくれるのか?」
仕方がなく、壮年のどこか哀れでもある男につられるように王宮へと足を踏み入れる。
街並みと言えばどこも閉鎖的で息苦しい、民は息をひそめているかのように誰もいない、からりと落ち葉が屋根から伝いながら路地裏、あるいは誰かの闇へと去りゆく。一行の足音はまだら、引きずるような音、規則的な音、慎重な音、一つだけ軽い音。
「おお、人がいない。これは俗にいう罠みたいなものだろう、なぜこうもすんなりとは入れるのか」
確かに異変だらけで目的は山積みなのだ、アンディス帝国にてライラークのペンダントの真相、それからセレーネの夫ダニエルの謎。足を踏み出す度空気が息苦しくなる不思議な感覚に陥る。歓迎されていないのは明白だった、大門前まで一行が足を止める。ライラークのペンダントが風かは知らぬが振動を起こした。
それが引き金だったようで気づけば、路地裏、屋台の裏戸、屋根上からも兵士たちが洗練された動きで取り囲む、実にあっさりとあっけなく。灰色の世界に微かなる色のざわめきは波紋のように響き渡っていた、鐘の無機質な硬い音が鳴り、町中の壁や地面に這いずる。
その中心にいたのは老齢の厳格だが妙に整った顔立ち、しわが刻まれており撫で付けた白髪を持ち、灰色の瞳ちらつかせる複雑な面持ちをしている老年の男。疲弊したその体つきは擦り切れた枝木のようで、死人と言っても過言ではない。だが顔面蒼白だというのに血色を見せたいのか不釣り合いな化粧をしている、服はきっちりと着こなされた灰色の法服で、いくつもの絢爛まではゆかないが金や銀やら細かな装飾品をあしう、独特な気品を醸し出していた。
「…セレーネ、どうしてあの方がいるのだね。儂への慰めのつもりかい?しかもダニエルまで、そこの方はまさかとは思うがあの国の陛下であられるか?」
セレーネは静かに恭しい一礼をした、その翠の虹彩は決して目の前の老人を映すことはない。
「ペン大臣。この度は不法な入国をお許しください、許さなくてもいいです。不法侵入なのは十分承知していますが、どうかお話を聞いていただけないでしょうか」
その老人、ペン・アンスバッハは視線の先をそらした、拒否ではないようでやがて静かにうなずいた。
「その者たちは敵ではない。皆の衆刃をおさめよ」
薄いしわがれた唇に乗った紅がわずかに震えているのを、きっと男装の麗人の眼光は見落としたりなどしなかったかもしれない。
白黒のアンディス紋様サーコートと鎧を羽織った兵士たちが次々と剣を収める、街の真ん中近くで行われた喧騒は静謐に終わった。そしてペンはこつこつと靴底の音を錆びた鉄の地面を踏み、黒光りしており縦に何本か割かれている格子の大門がゆっくりと開かれていくのだ錆びついた音を哀しく奏でる。見えるはセレーネとダニーの帰るべき場所であり、かのクライラー王女が華麗なる美を誇った栄光にとらわれし厳粛たる古城。尖った雰囲気で窓辺は丸い作りに、だが三角形の屋根にすき間のない壁作りはこの国の象徴ともいえるだろう。ペンに続き一行は足を踏み入れる。
回廊へと続く長い長い荒れた茨の道のりを黒い薔薇が咲き乱れて歓迎を見せていない、複雑な雰囲気にのまれていた。土と言えば嫌に湿っていて雨上がりを想像させる。
「なあ、聞いてもいいかい?さっきから思っていたんだがダニエルさんってさっき死んでいたって言ってたじゃあないか。死者は蘇らないだろ、それに心臓と片目って…あまり言いたくはないけど、その本物なのかい?」
こっそりとセレーネに耳打ちするかのようにライラークは囁きかけた。セレーネはわかっていたはずだ、それでも乗せてしまった得体の知れない夢遊病のような男をどうしてか本物などと言えようか。セレーネは微かに帽子で己の顔に影を落とした。顔を見られたくないのか、はたまた思考を有耶無耶にしたいのか、真相を知るものなどいないのである。
「あいにく、お恥ずかしながらそれは私もわかりかねるのです。しかしながら彼は死体は見つかっていないと申した、ならば生かされながらも殺されたようなことを何者かにされたのでしょうか」
「何者って、心当たりはあるのかい?それにさっきからその鈴不思議だね。なにかの予兆みたいだ」
「いいえ、心当たりはございませんが似たようなものならばいるのですがね、あなたにそのものを会わせればなにか変わるかと。鈴に関しては伝承がございます」
なにかが引っかかるのだ、何かが。小骨が喉の奥に挟まるような感覚に。
「伝承って?」
「まあ、幼き頃の話ですがね。あれは私が十でクライラーが五つの時。中庭でした、淡い香りが満ちる草木が整えられた庭園では客人が木陰に佇んでいた。そのものはどうやら吟遊詩人で、北の特別な国からはるばるやってきた奏者。その者はとある民族の鈴をいつも持ち歩いて、どうしてなのか聞いたところ、鈴にはとある大昔の民族たちが交わした契約にて民族は鈴を磨く代わり民族は鈴から兆しを告げてもらうのだとか。」
一呼吸をおいてから歩みを遅らせる、といっても靴底を踏みしめる感覚はもうすぐ終わるのだが。
「変な伝承だと思っていた、でもダニエルが持っている鈴もその奏者と同じ鈴だった。偶然なんて信じたくはない。」
ライラークはさらに話がややこしくなってきたことに頭を抱えた。そこで整理をすることにしたのだ、現状を。
つまるところ、今自分たちが紐解く謎は三つ。ライラーク自身の正体、そしてダニエルの暗殺者、クライラーの死。だがそこに鈴と民族、何かが引っ掛かっている。
その民族とは何者なのかそれを聞くことをまず優先した。
「民族っていうのはどんなものなんだい?」
セレーネが口を開こうとしたとき、そこにカルメェンが。
「その民族は、イデアというのだが、我がカイチャにも少々親交はあるのだが正体は分からぬ。常に鈴を持って南と東を行き来しておる奇妙な集団だ。そしてダニエル殿はその民の血を引いているのだったか?だからその鈴を持っているのだろうが、けれどなぜアンディス帝国の婿入りしてもなお持ち続けているのだろうか」
一瞬冷たい空気が走る、セレーネがどうやら不機嫌になったようだ。
「聞いていたんですか、なかなか趣味の悪い」
「いや、これは違うのだ殿下。話していたから聞こえるだろう、そちらが話すものだから」
「なんですって?」
老人の疲れ果てた声が回廊の重厚な鉄製の扉を開くとともに制する。
「やめい、二人して五十と四十ゆえにそんな小競り合いをして楽しいのか。それでもお前たちは大人だというのなら儂は泣いてやるぞ」
そのどこか哀愁漂い、労わりたくなるような声はどんな美女のこびへつらう泣き顔より二人を黙らせた。
暗き回廊、歴戦の王族たちの肖像画が立てかけられている。どれもどんと大きくて繊細な筆遣いなものだ、それがどうにも不気味でもある。明かり一つないこの場所にはかつての栄華は枯れ果てた果実の残骸のようでどこか寂しげですらある。そして進むのだ今日も、明日も。