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夏帆のその言葉が成瀬に届くことはなった。
そして、夏帆はしばらくその場から動くことができなかった。夏帆の顔から入店時の少女のような笑顔は消えてしまっていた。しばらく立ち尽くしたあと肩を落とし店内へと戻った。
「あの、お客様。本日はどうなさいますか?」
「すみません。約束した方は来れないのでキャンセルできますか?」
「ディナーのご予約は入ってなかったので大丈夫ですよ。ただ……」
「何かありますか?」
女性の店員は逡巡しながら仕方ないといった顔で夏帆をみた。
「お連れさまが来れないということなのでご本人に申し上げますね。実はお連れさまよりサプライズを承っておりまして。そちらが生ものなので、いかがしましょうか?」
「あ……そうなんですね。では、それはもらって帰ります」
「ありがとうございます。品物を詰めてまいりますね」
(成瀬さん、ここでプレゼントを用意してくれていたんだ。本人からもらえていたら、もっと嬉しかっただろうな)
夏帆は残念に思いながらも成瀬のプレゼントを待った。
「お待たせしました。こちらになります」
店員は四角い立方体の箱を運んできた。そしてそれをテーブルに乗せると、箱の側面を開け底板をゆっくりと引いた。そこから顔を出したのはバースデーケーキだった。チョコスポンジを艶々にコーティングして、その上にはラズベリーとミントチョコがトッピングされている。そしてコメントプレートにはピンクの可愛らしい色でこう書かれていた。
To kaho (夏帆へ)
Happy Birthday (誕生日おめでとう)
from shuji (柊慈より)
「バースデーケーキになりますね」
店員からそう告げられると夏帆は顔を歪ませて泣きだしてしまった。
「す、すみませんっ、ごめん……なさい」
止めようとしても涙が止まってくれない。夏帆は顔を上げることができない。
「あの、少ししたらまた来ますね。どうぞ、ごゆっくり」
待ち合わせた人は来ず、一人で誕生日を迎えることになった客の胸の内を察した店員はその場を退席してくれた。夏帆は早く帰りたいのに慟哭のように涙がこみあげてしまいどうにもならない。
(成瀬さんの気持ち、本当に嬉しい!
でも、でもっ
成瀬さんがここにいないのは寂しすぎるよっ)
夏帆はバックからハンカチを取り出した。それを目に当てて声を出さないよう泣いた。頭では成瀬の仕事は理解しているつもりだった。でも、実際に自分事になると現実につぶされるほど苦しかった。
(成瀬さんに―――居てほしかった)
※
そのころ夏帆の自宅では父である佳孝が落ちつかない様子でリビングのソファーに座っていた。自衛官である佳孝は成瀬の出航を知っていた。午後に急遽、護衛艦の演習が決定し現場は出航準備で慌ただしかった。成瀬も自身のパイロットとしての支度や出航に向けた準備で昼休憩なしに走り回っていたのを現場でみていたのだ。
出航後も暇ができることはない。目的地につけば夜間でも演習がスケジュール通り開始されるのだ。その準備や会議などで時間はすべて使われる。隠れて恋人に電話するくらいの時間はあるはずと思われがちだが、実際の現場はそれどころではない。幹部である成瀬が夏帆のために連絡を入れることがどんなに大変かわかっていた。だからこそ、いまだに帰宅しない夏帆がどこで何をしているのか佳孝は心配でならなかった。
「ただいま」
玄関から夏帆の声が聞こえた。たまらず佳孝は玄関へ向かった。
「夏帆っ」
佳孝は夏帆の泣き晴らした顔をみて言葉につまった。夏帆もそんな父親の姿をみてしまい申し訳ないと思った。夏帆から事情を話さなくても事情は父親も知っている。夏帆は逆に気持ちが楽になった。
(これじゃあ、お父さんも心配になっちゃうよね)
夏帆は恥ずかしそうに手に持っていた箱を掲げた。
「これ、ケーキなの。一緒に食べよう」
佳孝は軽く微笑むと無言でうなずくのだった
※
夏帆は手を洗ってからダイニングに立っていた。
「チョコケーキなんだ。すごくおいしそうなの」
「そうか。じゃあ、いただくとするか」
佳孝はダイニングの椅子に座りながら答えた。夏帆はケーキが崩れないように包丁を軽く火で温めた。佳孝は夏帆の様子を横目でみながら声をかける。
「成瀬から連絡は入ったか?」
成瀬という言葉に夏帆がビクッと反応する。
「……うん。きちんと連絡くれた。船が直ったんだね。まさかすぐに出航するなんて思ってなかったけど」
「演習が延期になって予定が押していたからな。まあこればかりは仕事だからな、仕方ない」
「そうだね…」
夏帆はケーキをカットすると父と自分の皿をテーブルに運んだ。「上に乗ってるのはなんだ?」と佳孝は初めてみるラズベリーをスプーンで突っついた。
「ラズベリーっていうフルーツだよ。味は甘酸っぱいかな」
「チョコケーキが艶々してるぞ。すごいケーキだな」
佳孝はこんなお洒落なケーキを食べることはない。初めて見るケーキに目を丸くしていた。
「美味いな」
「うん、すごく美味しいね」
あっという間に食べた父は口をもぐもぐさせて腕組をしていた。夏帆にはわかっていた。父親が夏帆をどうやって慰めようかと悩んでいることに。
夏帆が父の癖を知っているのは当然だ。小さい頃から二人暮らしで、何があってもいつも父は夏帆の味方であった。友達と上手くいかなかった時、学校のテストの順位が良くなった時、父は率先して話を聞いてくれ夏帆が前向きになれるような声かけをしてくれた。
「夏帆、今日は残念だったな。成瀬を庇うわけじゃないけど、そういう仕事なんだ。わかってやってほしい」
「わかってる。というか今日はじめて身をもって理解したと思う」
当事者になって初めてわかる自衛官の仕事の大変さ。初めて目の当たりにしたものは同じ道を通るのだ。夏帆も受け入れてゆくしかない。
「そういう仕事だと夏帆も慣れてくるさ」
「うん。きっとこれが私の『試練』なんだね」
ラズベリーを口に含んで甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
夏帆の二十六歳の誕生日は、ほろ苦い思い出となった。