テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜が更け、工藤邸はようやく静寂を取り戻していた。
書斎の大きな革張りソファでは、二人の『黒羽快斗』が不本意ながらも並んで横になっていた。
快斗「……」
キッド「……」
もちろん、二人とも眠れるはずがない。
天井を睨みつけながら、互いの気配を探り合っている。
キッド「(さて…そろそろ頃合いかな)」
隣で寝返りを打つ快斗の呼吸が、わずかに深くなったのを確認し、キッドは音もなくソファから抜け出した。
その動きは、まるで猫のようにしなやかで、一切の物音を立てない。
キッド「(大人しく待っているなんて、怪盗の名が廃るってもんだ)」
目的はただ一つ。
二階の主寝室で眠る、愛しの名探偵のもとへ。
月明かりだけが差し込む廊下を、キッドはまるで自分の庭のように進んでいく。
新一の部屋の前にたどり着くと、ドアノブにそっと手をかけた。
幸い、鍵はかかっていない。
キッド「(無防備だな〜。俺という泥棒猫がいるってのに)」
くすりと笑みを漏らし、キッドはゆっくりとドアを開けた。
隙間から覗くと、ベッドの上で穏やかな寝息を立てる新一の姿が見える。
月光が窓から差し込み、新一の無防備な寝顔を白く照らし出していた。
昼間の鋭い探偵の顔はどこにもなく、そこには年相応のあどけない表情があるだけだ。
キッド「…これは、反則じゃないか?」
思わず、心の声が漏れた。
そのあまりの愛おしさに、キッドの心臓が高鳴る。
そっとベッドサイドに膝をつき、眠る新一の顔を覗き込んだ。
サラサラの黒髪が、額にかかっている。
それを優しく指で払ってやると、新一が「ん…」と小さく身じろぎした。
キッド「(大丈夫、起きないで。もう少しだけ、お前の顔を見ていたいだけだから)」
心の中で語りかけながら、キッドは新一の頬にそっと触れる。
温かい肌の感触が、キッドの理性を少しずつ溶かしていく。
キッド「…一口、味見するくらいは許されるよな?」
誰に言うでもなく呟き、キッドはゆっくりと自分の顔を新一に近づけていった。
閉ざされた瞼
すっと通った鼻筋、
そして、わずかに開かれた唇。
その桜色の唇に、自分のそれを重ねようとした、まさにその瞬間だった。
ガッ!
キッド「!?」
背後から伸びてきた腕が、キッドの肩を力強く掴んだ。
驚いて振り返ると、そこには怒りに満ちた表情の快斗が立っていた。
快斗「…てめぇ、何しようとしてんだ?」
地を這うような低い声。
その瞳は、嫉妬の炎で爛々と燃えている。
キッド「…気づいてたのか」
快斗「当たり前だろ! オメーが抜け駆けしねぇわけねーと思って、寝たフリして見張ってたんだよ!」
声を潜めながらも、その怒りは隠しようがない。
快斗はキッドの腕を掴み、ベッドから引き剥がした。
快斗「寝てる新一に手ぇ出すなんて、卑怯だと思わねーのか!」
キッド「何を言っているんだ? 獲物が無防備な時を狙うのは、怪盗の常套手段だろ?」
キッドは悪びれもせずに肩をすくめる。
その態度が、さらに快斗を苛立たせた。
快斗「怪盗の理屈をここに持ち込むな! ここは工藤邸で、オメーはただの不法侵入者だ!」
キッド「じゃあお前は何なんだ? 正体を隠して友人面をしている、嘘つきの高校生か?」
快斗「なっ…!」
痛いところを突かれ、快斗は言葉に詰まる。
二人の間に、バチバチと見えない火花が散った。
新一「んん…」
ベッドの上で、新一が再び身じろぎする。
その小さな声に、二人はハッとして口を噤んだ。
快斗「(やべっ、新一が起きる!)」
キッド「(静かにしないと…)」
二人はアイコンタクトでそう示し合わせると、音を立てないように部屋からそろりそろりと抜け出した。
廊下に出た途端、再び睨み合いが始まる。
快斗「とにかく! 新一が寝てる間にちょっかい出すのは禁止だ! フェアじゃねぇ!」
キッド「フェア、ねぇ…。お前が普段、正体を隠して名探偵の隣にいること自体が、俺からすればアンフェアなんだが?」
快斗「ぐっ…そ、それはそれ、これはこれだ!」
キッド「まぁいいさ。言い分も分からなくはない。ならば、正々堂々、起きている名探偵を口説き落とした方が勝ち、ということでどうだ?」
キッドは挑戦的に笑い、快斗に手を差し伸べた。
快斗「…上等だ。絶対にオメーなんかに新一は渡さねぇ。新一の隣にいるのは、俺だ!」
快斗はキッドの手を払いのけ、固い決意を瞳に宿して言い放った。
その様子を見て、キッドは満足そうに微笑む。
キッド「フッ…言うようになったじゃないか、素顔の俺。だが、忘れるなよ。君が躊躇している間に、俺は何度でも彼の心を盗みに行くぜ?」
その言葉は、快斗への宣戦布告であり、同時に自分自身への激励のようにも聞こえた。
二人の『黒羽快斗』は、再び書斎のソファへと戻る。
快斗「(クソッ…あいつ、本気だ…。俺も、もっと…)」
焦りと嫉妬で、快斗の心はぐちゃぐちゃだった。
ただの友達。
そう思おうとしても、新一が無防備にキッドに狙われているのを見た瞬間、全身の血が逆流するような怒りを覚えたのだ。
キッド「(手強いな、思ったより。…いや、俺自身なんだから当たり前か。新一を想う気持ちは、どちらも同じ、ということか…)」
静まり返った工藤邸で、二人の男は同じ人物を想い、眠れぬ夜を過ごす。
そして、そんな騒動が繰り広げられているとはつゆ知らず、新一はベッドの中で幸せそうな顔で呟いた。
新一「…うめーな、レモンパイ…」
どうやら、大好物の夢を見ているらしい。
彼の安眠が、二人の闘志にさらに火をつけたことを、まだ誰も知らなかった。
3話おわり