テラーノベル
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ねこむすび
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大輝はハーネスのバックルから手を離さないまま、ステアリングコラムの表示を切り替えた。SSTのフルード温度は、確認走行の後より少し高いところにいた。助手席側の3連メーターでは、水温と油温の針が、下がり始める前の位置で止まっている。エンジンはアイドリングのまま回しておく。
ミラーの中で、赤いヘルメットがようやく動いた。
顎が少し下がり、肩が左右へ揺れる。ハーネスを外しているのだろう。運転席のドアが開き、赤いレーシングスーツの脚が地面へ下りた。赤城は車体に手を突いて立ち上がると、ヘルメットの顎紐を外し、両手で頭から引き抜いた。低い位置で結んだ髪が、汗で首筋に張り付いている。
赤城はヘルメットをシートへ置き、そのまま左の前輪の前にしゃがんだ。ブロンズのスポークの隙間へ顔を寄せ、ADVAN APEXのトレッドに手の甲を近づける。手の甲をショルダーの外側へ滑らせ、それから指先で表面を撫でた。立ち上がって反対側へ回り、右の前輪でも同じことをする。最後に、スポークの奥の赤いキャリパーを、しばらく覗き込んでいた。
大輝はバックルを外し、顎紐を緩めた。ヘルメットを脱いで助手席へ置くと、湿ったバラクラバの内側に外の空気が入り込んでくる。次がすぐ控えているから、SSTクーラーもONのままにしておく。ステアリングコラムの表示で、SSTのフルード温度が1度ずつ下がっていくのを確かめた。
ドアを開けて降りる。アイドリングを続けるエンジンルームから熱い空気が流れてきて、焼けたブレーキの匂いが混じった。午前より濃いが、それ以上の焦げた匂いはしない。
大輝はバラクラバを引き抜き、右前輪の前にしゃがんだ。V107のトレッドに手の甲を近づけると、熱は均等に返ってくる。ショルダーの外側だけが削れている様子はない。ホイールの隙間から覗いたローターとキャリパーにも、何かが滲んだ跡はなかった。車体の下へ目を走らせ、地面に何も落ちていないのを確かめる。左前、左後ろ、右後ろと回って、もう一度右前へ戻った。
顔を上げると、赤いエボIXの横に、DRIFT Societyの黒いTシャツを着た女性のスタッフが立っていた。片手にペットボトルの水を持ち、赤城へ差し出している。
「夏帆、大丈夫?」
「大丈夫です」
赤城はペットボトルを受け取ったが、キャップは開けなかった。ファンミーティングの時より、声が一段低い。
「水飲んどいて。次、先行ね」
「次、何分後ですか?」
「車見終わったら、すぐだって。伊藤さんが」
赤城は頷き、もう一度左の前輪の前にしゃがんだ。
しばらくして立ち上がった赤城は、運転席のドアポケットからスマートフォンを取り出した。画面を親指で送りながら、さっきの女性スタッフに何か話している。声は大きくなかったが、すぐ後ろの枠からなら届いた。
「エボXのドライバーが、あたしのリズムを狂わせる走り方をしてた」
「うん。コメントは後でいいから」
スタッフは赤城の手元のスマートフォンへ手を伸ばし、画面を伏せるようにして、そっと下ろさせた。赤城はそれ以上言わず、ペットボトルのキャップを開けて、水を一口飲んだ。
大輝はエボXの右前にもう一度しゃがんだ。V107の熱は、さっきより少し引いていた。
思っていたより、ずっと近かった。四段つづらでは、ブレーキを踏むたびに、ミラーいっぱいまで寄られた。黒森複合でも、下りの制動のたびに後ろにいた。速い人なのは、最初から分かっていた。ただ、北斜面で寄せてきた場所も、最後のヘアピンで出てきた側も、動画で見た通りだった。
伊藤が管理区画へ入ってきたのは、それから少し経ってからだった。タブレットを片手に、まず赤いエボIXの前で立ち止まり、赤城と何か話す。それから大輝の方へ歩いてきた。
「車、大丈夫?」
「大丈夫っす」
「2本目、赤城さんが前ね。庄司くんは後ろ。間隔はさっきと同じで、こっちから出すから。シグナル見て出て」
「了解っす」
伊藤はタブレットに何か書き込み、管理区画の出口の方へ戻っていった。
大輝は運転席へ座り、バラクラバとヘルメットを被った。FHRのテザーを留め、6点式のベルトを1本ずつ差し込んで、肩のベルトを最後に引き絞る。マルチインフォメーションディスプレイの表示はS-Sportのままだった。ブレーキを踏んだままシフトレバーをDへ入れ、マニュアルゲートへ倒して「1」を出す。
後ろの枠から、赤いエボIXがゆっくり出てきた。オフィシャルの誘導棒に従ってエボXの横を抜け、前へ出る。大輝はその後ろについて、人が歩くのと変わらない速度で管理区画を出た。
西麓のスタートラインで、赤いエボIXが止まった。大輝はオフィシャルの手の合図で、その手前に止まる。目の前に、2本の支柱で持ち上げられた黒いウイングがあった。翼端板のC-WESTのロゴが、曇った空の下で白く浮いている。
メーター内のASC OFFの表示が、点いたままになっているのを確かめた。
赤いエボIXの排気音が高くなった。シグナルが変わり、赤い車体が西麓のアプローチへ飛び出していく。4G63の音が、変速のたびに一度沈み、また持ち上がりながら、樹林の方へ遠ざかっていった。
オフィシャルが、大輝の方へ片手を上げた。
左足でブレーキを奥まで踏み、右足でアクセルを床まで踏み抜く。5500回転に針が張り付いたところで、シグナルが緑に変わった。
左足を離す。
2速、3速とつなぎ、樹林の縁へ入る。木立の向こうに、赤い車体がちらちらと見えた。最初の右へ入る頃には、赤いエボIXのリアが、樹間の路面の先にはっきり見えるようになっていた。
四段つづらの最初の右で、大輝は自分の目印の手前でブレーキを踏んだ。
赤いエボIXのブレーキランプは、まだ点いていなかった。
大輝が2速まで落とし終えたところで、ようやく赤が灯る。リアが持ち上がり、ノーズが沈み込んだまま、赤いエボIXはヘアピンの奥まで入っていった。
やっぱ、奥まで持ってくな。
その分、ヘアピンの入口で距離が開いた。赤いエボIXは鼻先を内側へねじ込み、前輪に荷重を残したまま向きを変えていく。赤い車体は、まだ内側へ向きを変え続けていた。大輝は前輪が出口を向くのを待ち、ステアリングを戻しながらアクセルを開けた。ブースト計が1.6バールへ跳ね、1.5バールで落ち着く。
出口で、赤いエボIXのリアが近づいた。赤いエボIXが立ち上がりの加速へ移ったのは、大輝より少し後だった。
2つ目も、同じだった。入口で離れ、出口で寄る。3つ目の右では、赤いエボIXは山側の湿った帯を避けて谷側へ寄り、大輝とほとんど同じラインを通った。4つ目の左では、赤城のブレーキがさらに奥へ伸びた。ブレーキランプが点いた時には、赤いエボIXはもう大輝の目印をずっと過ぎていた。立ち上がりで大輝が寄った分は、次の直線でほとんど戻っていた。
四段つづらを抜けると、西斜面のリズム区間へ入る。
ここで、赤いエボIXが離れていった。
右中速へ、赤城は大輝より明らかに速い速度で入っていく。進入と同時に車体が向きを変え、そのまま次の左へ切り返す。荷重が移る間の車体の揺れが短い。軽い車が、重さを左右へ振り回される前に、もう次の向きへ収まっている。大輝が切り返しを終えた時には、赤いエボIXとの間に、車2台分ほどの路面が空いていた。
ブラインドの右へも、赤いエボIXは速度を残したまま入っていった。樹冠の濃いところの暗い路面を、内側の縁だけ避けて通っていく。大輝は舵を入れる前に、いつも通り速度を少し落とした。立ち上がりで見えた赤いエボIXは、さっきよりもう少し遠かった。3台分近くあった。
追わなかった。赤城の真似をしてブレーキを奥へ伸ばせば、この車の重さはそのまま前輪へ乗ってくる。
左の高速寄りの登坂を抜け、尾根へ上がる。
ブラインドクレストの先へ、赤いエボIXが先に消えた。大輝はステアリングもアクセルも動かさずにクレストを越え、4輪が路面を踏み直すのを待った。車体が戻ってきてから前を見ると、赤いエボIXはもう切り通しの手前まで行っていた。大きなウイングが、路面のうねりに合わせて小さく上下し、すぐに落ち着く。
左の切り通しを抜けて、北斜面の林へ入る。
右高速下降、左高速下降。赤城は樹冠の影の中を、速度をほとんど落とさずに抜けていった。大輝も4速のまま舵を入れる。影の中で、ステアリングの手応えが薄くなる。
左高速下降の出口で、赤いエボIXが約330メートルの下りストレートへ出た。
背中を押すような4G63の加速音が、林の中に響く。大輝も遅れてストレートへ出て、アクセルを床まで踏み込んだ。
ブースト計の針が1.6バールへ触れ、1.5バールへ戻る。速度計の針が160の目盛りへ届くところで、回転計は7000回転の手前まで来ていた。右手のパドルを引くと、エンジンの音が一度落ち、5速の加速がすぐに続く。
前を行く赤いエボIXの4G63も、一度沈んで持ち上がった。
大輝は赤いエボIXの真後ろへ車体を入れた。ボンネットの先で落ち葉が舞い、前の車の後流へ入ると、車体へ当たる風の音がわずかに変わった。舗装の継ぎ目を越えるたびに、エボXが短く上下した。手は動かさない。
赤いリアバンパーが、少しずつ大きくなっていった。
1つ目の継ぎ目を越えた時には、ウイングの翼端板のロゴが読めた。2つ目を越えた時には、ウイングの下に、トランクの縁が見えた。針が180の目盛りを越える。3つ目を越えた時、赤いエボIXのリアは、西斜面で開いた分をほとんど返していた。
制動の目印が近づいてくる。
赤いエボIXが、ブレーキを踏む前に、コースの右寄りへ車体を移した。この先は右の低速コーナーで、右が内側になる。移したあとは、もう動かなかった。
大輝はその後ろのまま、自分の目印でブレーキを踏んだ。
赤いエボIXのブレーキランプが灯ったのは、それより後だった。右寄りの狭い内側から、赤城は奥のエイペックスへ鼻先を入れていく。普段より内側から入った分、向きを変えるのに時間がかかっていた。大輝は前輪が出口を向くのを待ち、アクセルを開けた。赤いエボIXの出口は、さっきまでより少しだけ外へ膨らんでいた。
出口がそのまま、黒森複合の最初の左タイトの入口になる。
ここでは、前へ出ることはできない。大輝は赤いエボIXの後ろにそのまま収まった。
左タイト。右中速。締まり込む左で、赤いエボIXのフロントタイヤが短く鳴った。ノーズが内側へ向き切らず、赤い車体の向きが一瞬変わらなくなった。向きが変わってから、4G63の音が持ち上がった。出口で、赤い車体が外側の縁まで使っていった。
大輝は自分のラインのまま、いつもより少しだけ手前で減速を終えた。立ち上がりで、赤いリアが近くなる。
登り返しの頂上の先、右ブラインドを下っていく区間で、エボXの重さが前輪へ跳ね返ってくる。下りの制動では、赤いエボIXが少し離れた。谷底の右で車体が沈み、最後の左は、内側の木の下が黒い。赤城はそこを内側の縁から1本分外して回った。左の短角の出口で、フロントタイヤがもう一度、さっきより長く鳴った。赤いエボIXのノーズが外へ逃げ、赤いエボIXはまだ車体を起こし切らないまま、右の中速脱出へ向かっていく。
東麓へ向けた下降ストレートへ出る。
大輝は最初から、赤いエボIXの真後ろへ入った。3速から4速へつなぎ、針が150を越えていく。斜面の陰から抜けると、空が少し明るくなった。赤いリアバンパーが、ボンネットの先で大きくなっていく。
この先の左の最終ヘアピンが、最後に追い越しができる場所だった。
直線の半分を過ぎたところで、赤いエボIXがコースの左寄りへ移った。内側を先に使う形だった。移したあとは、動かない。
大輝は左へは寄せなかった。赤いエボIXの後ろから半車身だけ右へずれ、そのまま外側寄りで制動の目印を待つ。
自分の目印で、ブレーキを踏んだ。
赤いエボIXのブレーキランプは、それより奥で灯った。
前輪へ荷重を残したまま、赤いエボIXが左の内側からヘアピンへ入っていく。だがノーズはそのまま内側へ向かず、赤い車体は内側の縁から離れて、ヘアピンの真ん中へ膨らんでいった。内側に、車1台分の舗装が空いた。
大輝は外側寄りのまま、すぐには舵を入れなかった。赤いエボIXが膨らんでいく先を見ながら、遅めにステアリングを切る。エボXの鼻先が、赤いエボIXのリアバンパーの後ろを横切り、空いた内側へ向かっていく。エイペックスは、ヘアピンの奥の、出口寄りに置いた。
前輪が出口を向いた時、赤いエボIXはエボXの右斜め前で、まだ向きを変えている途中だった。大輝はステアリングを戻しながら、アクセルを床まで踏み込んだ。ブースト計が1.6バールへ跳ね、エボXが内側の縁に沿って、まっすぐ出口へ押し出される。
赤い車体が、フロントガラスの右端から、運転席の窓の外へ流れてきた。窓越しに赤いエボIXの助手席側のドアが見え、ドアミラーが見え、フロントフェンダーが見えた。
フィニッシュストレートへ出た時、エボXの鼻先は、赤いエボIXより前にあった。
2速のまま7000回転の手前まで引っ張り、パドルを引く。エンジンの音が一度落ち、3速の加速が続いた。右の窓の外で、遅れて向きを直した赤いエボIXが加速を始める。4G63の音がドア1枚向こうで高くなり、右のドアミラーいっぱいに、赤いバンパーとカナードが映った。
大輝は左寄りのまま、ラインを動かさなかった。赤いエボIXも、右寄りのまま動かなかった。2台の間には、車1台分の舗装が空いたままだった。
4速へつなぐ。ドアミラーの中の赤いバンパーが、少しずつ小さくなっていった。
緩い右ベンドの手前で、右のドアミラーから赤が消えた。ルームミラーの真ん中に、赤いエボIXのフロントが戻ってくる。
大輝は計測ラインを越えた。
アクセルを戻し、ブレーキを緩く当てながら減速区間へ入る。ミラーの奥で、赤いエボIXが計測ラインを越えるのが見えた。
オフィシャルの誘導棒に従って、低速連絡路へ入った。競技路の外側を回る細い道を、歩くより少し速いくらいの速度で走る。助手席側の3連メーターでは、水温と油温が1本目の後と同じくらいのところで止まっていた。SSTのフルード温度も、上がり切ってはいない。
木々の間を抜ける間、ミラーの中の赤いエボIXは、1本目の時より少し離れたところを付いてきた。
管理区画へ入ると、オフィシャルが誘導棒で停車の枠を示した。大輝はエボXを枠に入れ、パーキングブレーキを引いた。エンジンはアイドリングのまま回しておく。ハーネスのバックルを外し、顎紐を緩め、ヘルメットを脱いで助手席へ置いた。
赤いエボIXが、隣の枠へ入って止まった。
今度は、すぐに運転席のドアが開いた。赤城はヘルメットを脱ぎながら車を降り、そのまま左の前輪の前にしゃがんだ。トレッドへ手の甲を近づけ、ショルダーの外側を指先でなぞる。指先を見て、それから右の前輪へ回った。
右の前輪の前で立ち上がった時、赤城の顔がこちらを向いた。
窓越しに、目が合った。
赤城はすぐに目を外し、ボンネットの方へ視線を落とした。
「夏帆」
黒いTシャツの女性スタッフが、ペットボトルを持って近づいてくる。
「はい」
赤城はそれだけ返して、ペットボトルを受け取った。キャップは、今度は開けなかった。
大輝はステアリングコラムの表示に目を戻した。SSTのフルード温度が、1度ずつ下がっていく。管理区画の向こうのスピーカーから、何か短い案内が流れた気がしたが、言葉までは聞き取れなかった。
コメント
1件
ここ、めちゃくちゃ良いですね……。赤城さんのブレーキが奥まで伸びるのを、大輝くんが「やっぱ、奥まで持ってくな」と観察して、それでも自分のブレーキポイントを変えずに後ろで待つところ、めっちゃ好きです。最後のヘアピンで空いたインサイドに飛び込む判断も、読みながら息を止めてました。お互いの走りに対する敬意みたいなものが、無駄な台詞なしに伝わってくるのが、この作者さんの本当に巧いところだと思います。