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例の教会を訪れていたシスターが己の姉のような存在であるゾフィーだとわかり、後ろ姿しか見えなかった人物像が解明されたことへの安堵感は大きかったが、今度は何故彼女が被害者となってしまった少女が書き残したメモと関連する教会に顔を出しているのかという根本的な決して避けることの出来ない疑問が大きくなり、頭を抱えて唸りたくなる。
コニーと共に出向いた先でシスターの情報を得て署に戻って来たリオンは二人でヒンケルの部屋に向かうが、先客がいる事に気付いて顔を見合わせる。
「客?」
「……嫌な客じゃないだろうな」
リオンの言葉にコニーが不吉な予感を込めた声を潜めた為、それにつられるようにリオンも上体を屈めてドアの前から後退りしていくが、ちょうど後ろにいた自他共に認める男前の身体が壁になって進めなくなる。
「どけよ、ジル」
「イヤだね。お前が横に動けばいいだろう?」
ヒンケルの部屋から少しでも早く離れたいと思っているのに何故か始まってしまった舌戦にコニーが天井を仰いで嘆息し、リオンとジルベルトが見えない火花を散らし始めてしまう。
「──コニー、リオン、戻って来たのならこっちに来い」
「Ja.」
室外の騒ぎを聞きつけたのかヒンケルがドアからいつになく険しい表情を浮かべた顔だけを出して二人を手招きし、その背後から体格の良い男が苦笑しつつ顔を出す。
「早く行けよ、リオン!」
「うるせぇなぁ……」
ジルベルトに背中を叩かれて盛大に顔を顰めつつ溜息を吐いたリオンは、一足先に部屋に向かったコニーを追いかけるように大股に歩き、開かれているドアを後ろ手で閉めて上司と客の前に立つ。
「どうだった?」
「Ja.……警部?」
コニーが捜査報告をしたいがこの客の身分が気に掛かると視線で訴えると、紹介するのを忘れていたとヒンケルが苦笑し、部下とその客に椅子を勧めつつ溜息混じりに彼を紹介する。
「……ついさっきこちらに着いたばかりで、今説明をしていた所だ」
「……BKA?」
「そうだ。先日川に遺棄されていた女性の身元が分かったが、同時にこれが連続殺人の可能性が高くなったことも判明した」
「……マジで?」
ヒンケルの重い口から流れ出した言葉にコニーが眉を顰めて客を見ると見られた方は無言で肩を竦めて足を組み替え、コニーの少し後ろで大人しく座っているリオンを観察するように顔を向ける。
そして、この室内にいる皆が出来れば聞きたくなかった言葉を告げ、思わずリオンが素っ頓狂な声で驚愕を表してしまい、その声に驚いたコニーの肩がびくんと揺れる。
「連続殺人って言っても最近の事件で未解決は無かったですよね?」
驚くリオンではなくいつも穏やかで冷静なコニーが事情を説明してくれと言わんばかりにヒンケルのデスクに身体を寄せると、デスクの上に二枚の写真が並べられていることに気付く。
「被害者は三人ってことですか?」
「いや、一人は川に捨てられていた被害者で、もう一人は……」
二枚並んだ正面から撮した写真をコニーが手に取り背後のリオンにも見えるように肩の高さに掲げると椅子ごと身体を寄せた為、二人並んでデスクに戻された写真を凝視する。
一枚は確かにヒンケルが説明をしたようにこの街を流れる川で遺体で発見されたダーシャ・ドレチェクの証明写真を拡大したもので、もう一枚はそのダーシャと似通った面影を持つまだまだ幼さの残っている少女だった為、リオンとコニーが顔を見合わせながら血縁関係があるのかと呟き姉妹だと答えられて客の顔を見つめる。
「ダーシャ・ドレチェクとヴェラ・ドレチェク。国籍はチェコ、両親が離婚し父親に引き取られたものの酒癖の悪い父親から逃げ出して二人で暮らしていたそうだ」
「二人でって……妹のヴェラですか?どう見ても14歳になってるかなってないかじゃないですか?」
姉であるダーシャも20歳になっているかも怪しいと写真の上に指を突いたコニーにリオンも隣で同意をし、未成年がどうしてチェコからドイツにやってきたのか、そして何故姉妹揃って死体で発見されたのかと至極当然の質問をすると客とヒンケルが同時に溜息を吐いてまだ何も分かっていないと答えるが、ヒンケルが何かを思い出したように苦笑して二人の部下の顔を交互に見つめる。
「コニー、リオン、さっき少しだけ言ったが、こちらはBKAのブライデマン警部だ」
「やーっと紹介するなんてそろそろ健忘症の症状が出てきてるんじゃねぇの、ボス?」
ヒンケルが苦笑混じりにモーリッツ・ブライデマン警部を紹介するが、その言葉に即座に反応を示したのはリオンで、さっきコニーがBKAなのかと問いかけた時に普通ならば紹介するだろうと肩を竦めると、顔のすぐ傍をブロックメモが飛んでいき、背後の壁に当たって床に落ちて不満を訴えるように一度跳ね上がる。
「…暴力反対!」
「うるさいっ!────ブライデマン警部、これが私の部下でコニー・カークランド、リオン・ケーニヒだ」
「よろしく、カークランド刑事、ケーニヒ刑事」
「どうも」
「…よろしく」
ヒンケルよりも体格が良くて年齢が若いブライデマンが厳しさを顔中に湛えながら脳味噌に二人の顔と特徴を叩き込むように顔を見つめ、その作業が終わったのか1つ溜息を吐いて腕を組む。
「まず、妹のヴェラだが、3週間ほど前にマイン川の支流に浮かんでいるのを発見された」
その時点でこの少女の名前は不明だったが、目撃者情報や聞き込み捜査からデニサ・ピールコヴァーと名乗っていたことが分かったと足下に置いていたケースから書類を出してコニーとリオンに差し出し、二人が資料に素早く目を通すがそれに書かれているのは今ブライデマンに告げられた言葉を最もらしく文字にしただけのものだった。
「…デニサ・ピールコヴァー?」
「ああ。彼女が住んでいた部屋を調べたが、残されていた身分証明書とパスポートは偽造されたものだった」
それが偽造だと分かった為にチェコに照会した所、同姓同名の女性が数人いたがその誰もがヴェラとの繋がりが無かった為、少女の身元を特定しその遺族を捜すことに難航していたと告げて肩を竦め、ようやく分かったと思ったら唯一の姉も死体で発見されていたと告げた時、癖なのかどうなのか唇に親指の爪を押し当てて力を込める。
「…あ、ヴェラってこんなスペルなんだ」
「あ?ああ」
リオンが書類に書かれているヴェラ・ドレチェクというスペルを見ながら意外そうな声を発するが何かに気付いて顔を上げ、同じ表情をしているヒンケルに気付いて目を瞠る。
「あのロザリオ、ヴェラのものだった…?」
「そういうことだ」
リオンがずっと気になっていたロザリオの裏に彫られていた名前だが、それは姉のものではなく妹のロザリオだったと呟くと、姉のダーシャがドイツにやってきたのは妹の死を知ったからではないのかとも呟くと、コニーが思案気に頷いて上司に同意を求めるように視線を向ける。
「恐らくそうだろうな。ただ警察から情報が入ったとは思えない」
「…分かった時点で姉が死体で発見されたんだもんなぁ」
「ああ。姉は誰かに知らされたのか、自ら辿り着いたのか…」
妹の死に何かを感じ取った姉が自ら行動した結果、ドイツ国内で僅か数週間後に妹と同じように死んでしまったと、ブライデマンが痛ましそうに眉を寄せて爪を唇に押しつける。
「あの教会に呼び出された、そう考えるのが自然ですね、警部」
「ああ。教会について新たな情報はあったか?」
二人が出向いた教会で何か新情報を入手したのかと問いかけるヒンケルにコニーがリオンを見、同僚と上司の視線を受けて頷いたリオンは、捜査状況について知らされているらしいブライデマンにも分かるように少し前の事情から報告をする。
あの教会に来ていたシスターはやはりゾフィーだったこと、次に週明けの月曜に来る予定であることを報告するが、残念ながらここに戻るまでの間にゾフィーに連絡を取っているが本人からは何の連絡もないことを告げて肩を竦めるとヒンケルが重苦しい溜息を吐く。
「分かった。なるべく早く連絡を取ってくれ」
「ちょっと待ってくれ、警部」
ヒンケルの言葉を遮るように手と声が挙げられてその声の主を三人がほぼ同時に見つめると、そのシスターを任意で呼んで事情を聞くのが一番早いからすぐに彼女をここに連れてこいとブライデマンが言い放ち、それに対してリオンは無表情だったがヒンケルとコニーが僅かに顔色を変えて顔を見合わせてしまう。
「被害者が訪れたか訪れるはずの教会に不定期で来ていたシスターがいるのなら何故彼女を呼んで任意の聴取を行わない?」
「…………」
「そのシスターが事件に関係しているかも知れないだろう?」
犯人逮捕に繋がるのであればそれが例え血を分けた肉親であろうとも聴取すべきだと告げながら一人一人の顔を見つめたブライデマンは、そうではないのかとヒンケルに同意を求めるように顔を振り向け、苦悩の表情を見いだして眉を寄せる。
「そのシスターは警察の関係者なのか?」
ヒンケルが沈黙することに苛立ちを感じたように椅子から立ち上がって彼のデスクに拳を落としたブライデマンは、警察上層部に親兄弟がいるのかと少しだけ声を顰めて問いを放ち、俺ですという声を聞いて顔を振り向けて目を細める。
「きみの…?」
「Ja.そのシスターは……ゾフィーは俺の……姉です」
「リオン」
ブライデマンに彼女を姉と告げたリオンの横顔には顕著な表情はなくその無表情さに危惧を抱いたヒンケルが部下を呼ぶと、いつも陽気な笑みを浮かべている瞳が青い穴のように感じる視線で見つめられて唾を飲み込み、今目の前にいるのはいつもふざけてばかりだが仕事になれば誰よりも信頼出来るリオンだと己に言い聞かせ、今度はヒンケルが己のデスクを掌で叩く。
「彼女を呼ばない理由はそのシスターがリオンの姉であることを確認出来たばかりだからですよ」
先程あなたと話をしながら部下からも報告を受けていたが、この話が終われば呼ぶつもりだったと告げつつ視界の端にリオンの横顔を納めたヒンケルは、その横顔に得体の知れない笑みが浮かんだ事に気付いて腿の上で拳を握り、どうかこの場を感情的にならずに切り抜けてくれと願ってブライデマンの顔を直視する。
「……なら早く呼ぶ手続きをすることだな」
「そーですね……ずっと連絡を取ろうとしているんですけどね、携帯に電話しても留守電だし、ホームに電話をしてもいないって言われました」
「ホーム?」
ブライデマンの事情を知ったとしても変わる事のない冷酷さすら感じる声にリオンがいつもの調子で答え、ホームとオウム返しに呟かれてひとつ肩を竦めると、俺とゾフィーが育った児童福祉施設だと返して彼の目を見開かせる。
「児童福祉施設?ならばそのシスターは…」
「教会が細々と運営している児童福祉施設で育って、今もそこで働いています」
リオンが他者には理解出来ない思いを込めてホームと呼ぶその児童福祉施設にはシスターやブラザーと呼ばれる人々が沢山いて、ゾフィーもそのうちの一人だと淡々と答える。
「きみは姉だと言ったが、血縁関係はあるのか?」
「多分無いと思いますよ。全然似てねぇし。……正確に言えば姉のようなものですけどね」
その言葉に秘められた感情をヒンケルとコニーは当然感じ取れるが事情を全く知らないブライデマンにしてみれば額面通りに受け止めるしかなく、ならばその姉のようなシスターに一刻も早く連絡をつけて署に来てもらうか、こちらからそのホームに出向こうと告げてデスクを撫でると、ホームに出向くと色々と厄介なことになるので彼女をこちらに呼び出す方が良いとリオンが答えて立ち上がる。
「ボス、ゾフィーを呼ぶなら早いほうが良いですよね」
「あ、ああ、そうだな……」
「俺、書類作ってます。コニーとヘル・ブライデマンと後の事を決めて下さい」
そして第三者から見れば公平さを欠いてしまうような言動をする可能性が高い為に出来ればこの事件から手を引いた方が良いと自ら申し出たリオンに、それは俺が決める事でありたとえお前といえども勝手に決める事ではないとヒンケルがいつになく厳しい口調で言い放って苛立ちを拳に宿してデスクを殴る。
「分かったな」
「……Ja.」
ヒンケルの怒りの理由を正確に察して内心で感謝しつつも特に表情を変えることなく頷いたリオンは、見上げてくるコニーに目を細めて小さく頷いて部屋を出て行く。
リオンだけが部屋から出てきたことに驚いた他の同僚達が己のデスクに腰を下ろしたリオンの左右を取り囲み、一体どうしたと問いかけようとするもののリオンの身体から滲み出している空気が軽口を受け入れるものではない事に気付いて皆顔を見合わせる。
「どうした、リオン?」
「あー?……BKAってやっぱり好きになれないなぁって思っただけだ」
こちらが出来る事ならば素通りしたいと思いついつい先延ばしにしたかったことをいとも簡単に見抜いて指摘してくるのが腹が立つと呟くものの、本当に腹が立っているのはブライデマンに対してではないことに気付き、シャイセと吐き捨てて舌打ちをし、ゾフィーに任意同行を求める為に書類が必要かどうかを他の同僚に問いかけると、皆一様に目を見開いて驚愕を表してくる。
「ゾフィーって……」
「あー、うん、そう。……だからこの事件から俺を外してくれってボスに言ったらすげー怖い顔で睨まれて怒鳴られちまった」
「当たり前よ」
リオンが何気なさを装いながら告げた言葉がヒンケルの神経を逆撫でしたと知り、彼女が絡んでいるのならばリオンの気持ちも理解出来るが警部の気持ちが痛いほど分かるとダニエラに呟かれて目を伏せてダンケと小さな声で礼を言いながら振り返り、ヒンケルの部屋を凝視しているジルベルトのスーツの裾を引っ張って注意を惹き付ける。
「ボスの部屋の客がきになるのか?」
「……あれがBKA?」
「ああ。前に来たのとは雰囲気が全然違うけど、気にくわないのは一緒だな」
腕を組んで何事かを考え込む素振りのジルベルトの肩に腕を回し、スーツの胸ポケットから覗くキャメルのパッケージに気付いて一本拝借すると、ジルベルトがじろりと睨んでくる。
「後で返す」
「お前はアメスピだろうが」
俺はアメスピは嫌いだと断言するジルベルトに肩を竦めてひらひらと手を振りながら火の付いていない煙草を咥えて部屋を出て行ったリオンに舌打ちをしたジルベルトだが、他の同僚が大丈夫だろうかと顔を曇らせたことにも舌打ちをし、あいつのことだから大丈夫だと頷くと他の同僚達の顔にも信頼の色が浮かび上がる。
「今まで通りにすればいいだろう?」
「ジルの言う通りね」
何を取り越し苦労をしていたのだろうと自らの言動を反省し、リオンが戻ってくる時にはいつもの顔で出迎えられるようにしようと頷きあうのだった。
同僚達の前ではいつも通りの少しふざけているような表情で過ごしていたが、ヒンケルの前でブライデマンに指摘された通りだとの思いがその時からずっと胸の中に重くのし掛かり、ひとまず今日は解散を告げられて重い足取りで職場を出たリオンは、携帯を取りだして無意識の操作で今一番聞きたい声の主を呼び出す。
時間はまだ辛うじて遅くないと言える時間帯だった為、一縷の望みを掛けてみるものの、何度呼び出し音を聞いてもそれが途切れて穏やかな不思議と人の心に入り込む声は聞こえて来なかった。
こんな時にどうして出てくれないんだと八つ当たりの舌打ちをしたリオンは、ジルベルトも帰路に就くことを掛けられた声から知り、また明日とお座なりに返事をして駅に向かって歩き出す。
こんな気分のまま自宅に戻ってもきっと鬱々としてしまうのが容易く想像出来てしまい、どうしようかとようやく暗くなった空を仰いだその時、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだ携帯から心に染みいるピアノ曲が流れ出す。
「……ハロ」
『リオン?仕事は終わったのか?』
電話をくれていたようだったがすぐに出る事が出来なくて悪かったと謝られても咄嗟に何も言い返せなかったリオンは、駅に向かう道であること、仕事は終わったけれどひどく疲れていることを小さな声で呟き、通りの建物の壁にもたれ掛かって再度夜空を仰ぐ。
『───リーオ』
「…ぅ、ん……オーヴェ、そっち…」
行っても良いか、そう言い掛けたリオンの口をやんわりと塞ぐように、携帯の向こうから穏やかな、だが決してぶれることのない芯の通った声がたった一言、リオンが密かに渇望している言葉を囁く。
『帰ってこい』
「……うん」
言葉にすればたった数文字のそれがリオンに与える感情は言葉には出来ない程で、震えそうになる声を聞かせたくない為にもごもごと口の中で返事を転がすと、今すぐ迎えに行くから場所を教えろと命令されて目を閉じる。
「……中央駅の外のカフェ…」
『まだ開いているのか?』
「わかんねぇ…」
外のカフェまで何とか歩いて行くことを伝えると、恋人の声の背後でドアが閉まる音が響き、有言実行だけではなくすぐさま動いてくれる行動力が本当に嬉しくて、ここで肩を落としている場合ではないことに気付いて気をつけて来てくれと返すと、気遣ってくれてありがとうと返される。
その心遣いがじわりと胸に広がり、萎えかけていた心を奮い立たせるだけではなく丸まりそうだった背筋さえも真っ直ぐにしてくれた様で、先程まで世界の底を覗いたような暗さを覚えさせた夜空がいつもと変わらない見慣れたそれになっている事に気付く。
「オーヴェ」
『どうした?』
「うん……帰ったらさ……愚痴、聞いて貰っても良いか…?」
生まれて初めてそんな事を人に告げたリオンだったが、すぐさま返事がないことを拒否の証だと受け止めてしまい、慌てて己の前言を翻そうとするが再び聞こえてきた強くて優しい声に涙が滲みそうになる。
『お前の気が済むまで、話せる範囲で話せばいい』
「……うん」
『……そんな顔をするな、リオン』
見ていないはずなのに何故分かると訝るリオンが疑問を口にするよりも前に、くすくす笑いながらウーヴェが今から駅に向かう為一度通話を終えることを告げる。
「分かった」
ほんの少し軽くなった気持ちで頷き、駅前のカフェにいることを再度告げたリオンは、通話が終わったのに耳の奥底と胸の裡で響き続ける優しい声に背中を押されるように歩き出し、待ち合わせを決めたカフェに向かうのだった。
リオンが沈んだ心を浮上させてくれる恋人に話せる範囲で今胸に抱えている思いを伝えていた頃、小さな村の更に小さな人のいなくなった教会の中に小さな明かりが1つ2つと灯るが、小さな村のことだからか人通りも全くなく、教会の外から中の様子を窺うものなど誰もいなかった。
明かりは燭台に立てられた蝋燭のもので、その燭台を挟むように二人の人物が向かい合っていた。
蝋燭の明かりだけではどちらの人物の表情もはっきりとは読みとれなかったが、低く抑えた声で言い合っている様子からはどちらもかなり苛立ちを抑えている、そんな雰囲気が滲んでいた。
抑えていても明らかに女と分かる高い声の持ち主がどうしてこの様なことになったと事情を説明しろと詰め寄ると、向かい合う男がそれはこちらが聞きたいことだと舌打ちをし、そもそもの発端である少女の死について何故あいつを死なせたんだと男が冷たい声で問い掛けると、あんたの部下がちゃんと見張っていないからだと逆に冷たい声で詰られる。
自分たちの存在をより大きくするための足掛かりとして、この街とはまた質を異にする経済で発展を遂げているフランクフルトに店を出していたのだ。
その店で働かせていた少女がマイン川の支流で死体で発見されたと教えられたのはつい先日だったが、何故死んだのかについては詳しい話を聞き出すことが出来ないでいた。
店の責任者である男に問い質しても要領を得ず、苛立った男が口を割らせようとしたがそれでも店長の口は重く閉ざされたままだった。
店長の態度から自分たちにとって都合の悪い事態が起こっている、そう察してフランクフルトの店を撤退し完全に引き上げてきたのだが、女が言うように男の部下が目を離したことがこの様な結果を招いてしまったのだ。
だがそれを素直に認めるわけにもいかず、どうすべきか思案しつつ何度も苛立たしげに舌打ちをし、フランクフルトの事件について店に調査が入っていることを女が口早に告げると、調査に関しては大丈夫だと男が冷たい笑みを浮かべる。
「どうして大丈夫なのよ?」
「……フランクフルトにもいるからな」
誰が何がいるのかを口に出さずとも女がそれを察したようで、彼女の顔に蝋燭の明かりの中でもはっきりと読みとれる侮蔑の色が浮かび、最低ねと小さな声で呟いて腕を組む。
「人のことが言えるのか?」
「……」
お互い探られると痛い腹を持っているはずだと男が笑い、女もその通りだと開き直ったような笑みを浮かべ、フランクフルトについては任せておくと溜息を吐くと、男が今度は意味ありげにお前は大丈夫なのかと問い掛ける。
「何がよ?」
「……川に捨てた女がこの教会の住所のメモを持っていた」
「……分かってるわ」
この教会を知った切っ掛けは全くの偶然からだったが、人が出入りしない教会の存在はこうして人目を避けて会うには好都合で、東欧諸国から少女らを連れてきたときにはまずここで体調のチェックをし、そして別に用意をした車でフランクフルトに連れて行ったりこの街のFKKに連れて行ったりしているのだ。
そして、遠く離れた街で命を落とした少女のことを彼女に伝えyて待ち合わせ場所にここを指定し、その時彼女が書き留めたメモから警察にこの教会の存在を知られてしまったことはかなりの失態だったが、それを認められない女が前髪を掻き上げて溜息を吐くと男も鋭い舌打ちをする。
男にはこの街だけではなくドイツ有数の大都市でもあるフランクフルトでも今回のように金銭に困った親から目に入れても痛くない-筈の娘達を安く買い叩いては自分達が密かに経営するFKKで働かせて金を稼がせ、いずれは母国ですべてを仕切っている幼馴染と共に美味い酒を飲んで金で買った美女を侍らせようとの幼い頃からの夢があり、その計画の一端を今こうして互いの腹を探り合っている女とも共有していたが、女は女で決して口には出さない願いがあった。
どちらの夢も叶える為には計画の途中まで互いの存在が必要不可欠だったが、いずれその存在が邪魔になるだろうことは火を見るよりも明らかなことだった。
その時期が近づきつつある予感を密かにどちらも抱くが、今はそれをおくびにも出さずに当面の対策をどうするかと顔を突きつける。
「そもそも何であんたの部下は彼女を殺したのよ!?少し怖い思いをさせて国に追い返すって言ってたでしょう!?」
事態の悪化を招いた軽率な行動に腹を立てた女が抑えていても抑えきれないヒステリックな声で叫んで身振りも交えて男を非難すると、男も責任を取らせるつもりだと苦虫を噛み潰したような顔で呟き、先日自らが制裁を加えて血塗れにさせた男達の姿を思い出して更に不機嫌そうに舌打ちをし、苛立ち心のままキャメルを一本取りだして火をつける。
「殺してしまったものは仕方がないだろう?」
「あんたの部下のせいで他の組織に付け入る隙を与えてしまったかも知れないってのに、良くそんな事を言えるわね」
面の皮の厚い人はどこまでも厚いのねと最上級の皮肉を込めて女が男を睨み付けると、さすがに男の顔色が一瞬にして変化し、女も言いすぎたことに気付いて拳を握るが、出てしまった言葉を取り消すことも出来ずに開き直って腕を組む。
「さっきも言ったが、お前に人のことが言えるのか?自分が何をしているのか分かって言ってるんだろうな?」
こうして最低限の明かりの下で声を顰め無ければならない、決して表立って動けないことをしているのは男女どちらも同じで、互いの痛いところを突いた事実に気付いてどちらからともなく溜息を零し、過ぎた事よりもこれからのことだと男が呟くことで女も腕を解いて長い髪を掻き上げる。
「……あんたの不始末なんだから自分で尻ぬぐいをしてよね」
私はこの件であんたの片棒を担ぐつもりはないときっぱりと告げつつ女がシガレットケースから細身の煙草を取りだして火をつけ、その煙をゆっくりと天井に向けて吐き出す。
「もちろん、そのつもりだ」
わざわざ指摘されるまでもないと煙と共にその言葉を吐き捨てた男がキャメルを空き缶に投げ入れて蝋燭の明かりも吹き消す。
「もうここは使わない方が良いな」
「……警察がもう嗅ぎつけているものね」
「ここが気になると言って騒いでるヤツがいたからな」
男の言葉に女が目を伏せて口を閉ざし、脳内に浮かぶ笑顔にきつく目を閉じた後で長い髪を左右に振ると、次はFKK近くのアパートで会おうと告げて男に倣って煙草を空き缶に投げ入れて火が消える音が短く小さく聞こえたのを確かめ、男に背中を向けて歩き出す。
「───もうひとつ言い忘れいてた」
「何よ」
「……BKAが動き出したぞ」
「……本当に…最低だわ」
この街の警察を相手にするだけでも精神的な疲労は大きいのに連邦刑事庁が出しゃばってくるとなればもっと頭を使って行動しなければならなくなる。
その楽しくもなければ明るくもない未来に女が嘆息混じりに肩越しに振り返り、自分はここの教会へ通っている理由はちゃんと持っていることを告げて目を細め、何処かの誰かさんが目をつけられないように祈っているわと、季節を先取りしたような冷たい笑みを浮かべて教会をそっと出て行く。
静かに閉まる扉の向こうに消えた女の背中を見送った男は完全に人の気配が消えると同時に舌打ちをし、今回の事件を一段落付ける為にはどんな手を使うのが最も早いかを考えながら蝋燭の火を消して暗闇になった教会から出て行く。
今自分たちは警察の捜査で外堀を埋められつつある事を実感し、フランクフルトでFKKを任せていた男や少女を殺して川に捨てた男たちの失態など取るに足らないミスを犯している可能性が高く、母国で早く帰って来いといつも連絡を送ってくる幼馴染を不安にさせてしまう恐れがあった。
そうなれば己だけではなく幼馴染の立場も危うくなり、自分たちが築き上げた地位に取って代わった別の人間がやってくることが目に見えていた。
幼馴染と幼い頃に交わした約束を守るため、異国の地で足場を固めていた男は、とにかく今回の失態を何とか最小に済ませる方策を考えながらもう一本のキャメルに火をつけ、人通りなどほとんど無い小さな村の外れに停めていた愛車に乗り込んで街に戻っていくのだった。
朝が早い為にすでに寝静まった家のドアを極力音を立てないように開けて軋む廊下を素早く通り過ぎた彼女は、己の部屋に入ってドアに寄り掛かって溜息を吐く。
今は寝静まっているこの家の屋根の下で暮らす子ども達や、またそんな彼らを支える親代わりの人々に迷惑を掛けてしまうと唇を噛み、前髪を掻き上げて自嘲の笑みに口元を歪める。
自分が何をしているかなど今更指摘されずとも十二分に理解しており、その理解の上で己の行動を決めているのだと肩を揺らした彼女は、古い小さな物書き机の引き出しを開けて赤い革の手帳を取り出し、引き出しの中に手頃な大きさの封筒があることに気付いて手帳の表面を何度も撫でた後、封筒に入れて厳重に封をする。
封筒の宛先を記入しなければと思いながらもかなりの時間躊躇った彼女は、それでもその躊躇いを振り切るように頭をひとつ振ってペンを取り、微かに震える手を叱咤しつつ丁寧な文字で名前だけを記入する。
この手帳に書かれているのはある人物を破滅に追いやるだけの力を持つもので、これがその人物の手に渡らないようにする為だから人の好き嫌いは言えないと腹を括る。
もしも万が一のことがあり、彼女が愛してやまない人々に火の粉が降りかかりそうになればこの手帳を預けようとしている人がきっと総ての力を出し切ってでも守ってくれるだろうし、手帳の内容が分かれば間違いなく警察が動くはずだった。
その際何かに役立てて貰えれば-有り体に言えばただ一人の男を守る為だけに使ってくれればと願い、彼女の中に存在する好悪の感情を総てこの手帳を託す人物に向けて短く祈りを捧げ、封をした手帳をバッグに忍ばせてもう一度頭を振って着替えを済ませ、常用している睡眠導入剤を一錠多く水で流し込む。
そしてそのままベッドに入り夢も見ない眠りが訪れる事を期待しつつ目を閉じるが、携帯に連続して残っている着信履歴が気に掛かって眠れなくなる。
だが、一錠多く飲んだ薬のお陰か、気になること総てをその場に残して彼女の意識は次第に遠退いていくのだった。
事件を追う者にとっても追われる者にとってもこの夜は長い夜だったが、明けない悪夢のような夜が静かに忍び寄っていることをまだ誰もはっきりとは認識していないのだった。