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Wi-Fi環境のない場所に来ているよ!一時的にWi-Fiを手に入れたよ!すみません合法的なサボりですね。
夢を見ている。なぜだか強くそう思った。
鳥瞰図のように、海を見下ろす。
空を吸い取ったのかというほど晴れ渡った青の上に、船が一隻、浮かんでいた。
ぐっと水面に近づいて見ると、船はどうやら鉄屑を繋ぎ合わせてできているらしいということがわかった。
それでも白煙をあげる姿は中々立派なもので、ため息を吐く。
しかし次の瞬間、大きな音を立て煙突から火花が散った。
客員らしい人々がデッキで悲鳴を上げる。
必死に子を腕に抱く、痩せ細った婦女子たち。
必死に櫂で波を弾く、呼び立てられた男児たち。
あとどのくらいで陸に。
誰かが叫んだ。
返事はない。
先刻とは打って変わって灰一色にそまった空の下、波がうねる。
うねり声をあげて、船に襲いかかってくる。
***
〈……にってー……?〉
まだ半分夢の中にいそうな眠たげな声。
「……すまん………起こしたか?」
朝の薄光が差し込む布団の上で、右手を撫でる。
しばらくそうしていると声が聞こえなくなった。
柱にかけてある時計を確認し、再び床に就く。
布団にあてがった背中が、ぐっしょりと濡れていた。
***
〈おそといくー!!〉
「ここも一応外だろう?」
嵐の竹林さながら右に左に暴れる手を宥め、四方に伸びた塀をみやる。
何だこいつ。つい昨日まで庭で外だ外だと大喜びしていたはずだろう。
〈やだ!!おそとがいい!ちょうちょのとこいくの!!〉
「蝶?ほら、あそこにとまっているだろう?」
飛び石の上で羽を休めるアオスジアゲハを見せてやる。
〈やーだ!しろいちょうちょがいいの!〉
「あれはもう卵を産みつけて死んだ。ほとんどいない。」
〈おそとならいるの!!〉
幼子と会話が成立するなどと思ってはいけない。
一度愚図れば最後。
疲弊するまで、目的を達成するまで暴れ続ける獅子となる。
記憶の中でどこぞの紳士がそんな趣旨のことをぼやく。
思えば彼奴、育てた恩がどうだの、昔から手のかかる子だっただの、育児の経験があるような愚痴をかなり漏らしていなかったか。
もっと聞いておけばなどと後悔してももう遅い。
先輩や盟友、部下。
周囲の人物を思い浮かべてみるも、この小さな騎将を討てるような人材はみつからない。
同じような年頃の子をぶつけてみればと妙案がよぎったが、残念ながらあの子は遠い南国にいる。
それにそもそもこいつの声は俺以外に聞こえないのだった。
〈おーそーーとっ!!〉
「………。」
黙って庭から部屋に上がり、利休鼠に袖を通す。
嫌がる右手で軍帽をかぶって上り框に腰を下ろした。
「紐を結ぶ手伝いをしてくれ。非常に困っている。」
すすり泣きのような声を漏らし始めた暴れん坊に努めて優しい声で言うと、ノロノロと右手が動いた。
「こら。好き勝手引っ張るな。」
靴紐いじりが気に入ったのか、びよびよと紐が伸ばされる。
事細かに結び方を教えてやると、存外綺麗な結び目が姿を現した。
「ありがとう。お前、絵と言い意外と器用だな。」
〈にってーほめたー?〉
「あぁ。これはな、蝶々結びと言う。」
ちょうちょ、と嬉しそうに声が弾む。
「折角上手に結んでくれたんだ。外に行こうか。」
〈おそと!?〉
「あぁ。案内してやる。その代わり暴れるなよ?」
〈は〜い!〉
すっかりいつもの調子を取り戻した笑い声に胸を撫で下ろしながら、玄関をくぐった。
***
〈これなぁに!〉
煤の混じった朝の空気を、そんな声が掻き乱す。
「スズメ。鳥だな。」
〈えー……ちょうちょはー?〉
郵便ポストの上からこちらを見つめるつぶらな瞳。
やわらかな羽毛に触れ、驚いたスズメが飛び立っていく。
〈これは!〉
「たんぽぽ。隣の白いやつをちょっとつついてみろ。」
〈とんだ!スズメ?〉
「綿毛。たんぽぽの種だ。」
きゃっきゃとはしゃいで右手が茎をゆさゆさ揺らす。
「余りいじめてやるなよ。」
ふと顔を上げると、道脇の背高草が大きく揺れていた。
距離を測りつつ警戒を強める。
〈ねぇ、あれは?〉
しかし、明らかに不自然な動きに興味を持ったのか、草むらの方へ右手に引っ張られてしまった。
「おい!!」
「ひっ……!!」
一面の緑の中には、薄汚れた肌着一枚にもんぺを履いた少年。
咄嗟に出た声が自分に向けられたものだと思ったらしく、すっかり怯えた表情をこちらに見せている。
「ご、ごめん、なさい………。」
空と同化したように真っ青な顔色。
男のくせに、という文言が頭をよぎったが、驚かせた手前、どうもきまりが悪い。
「あー……その……すまん。君に言ったわけではない。」悪戯をした猫を追っていたんだ。」
「猫……?軍人さんが?」
熊ほどの大きさのな、と頷くと、少年は白い歯をこぼして笑った。
「驚かせてすまなかった。何をしていたんだ?」
「朝市の帰りに荷台を引いてたら転んじゃって……」
そう向けた視線の先には痩せ細った野菜たち。
少年の腕にはしかととうもろこしが抱かれている。
視界の端にそれらを認めた瞬間、大きく片手が跳ねる。
〈たいせつなもの?〉
言うが早いが、無茶苦茶に草の間を掻きわけ始めた。
「軍人さん……?」
「詫びだ。手伝う。」
やがて道の端にこんもりと野菜の小山が出来上がった。
礼を言いながら去っていく小さな背を見ながら、ポツリと頭の中で声が響く。
〈あのこ、おやさいがだいじなもの?〉
人指し指の先には、猫車を引く少年と、それを待つ赤子を抱いた母親らしき女性がいた。
「ああ。農家だろうからな。野菜を売って食い扶持を得るんだ。」
〈……あのこ、げんきなかったね。〉
「……そうだな。」
〈にってー、だいじなものある?〉
「……そうだな。」
転げそうになりながら押されていく荷車が、なぜだか転覆しかけの小舟に重なって見えた。
***
「軍人のお兄さん、米はいらんかね?」
声を掛けてきたのは、炊き出しをしている老婆だった。
「遠慮しておく。」
「あぁ、声の掛け方を間違ったね。そっちの子に言ってるんだよ。育ち盛りだろう?」
じっ、と右手に視線を注がれる。
目尻の皮膚が垂れ下がった両目に全てを見透かされているような気がして、思わず身を軽くのけ反らせた。
〈……ごはん…………。〉
唾を飲み込む音が脳にぶつかる。
「一杯だけ、頂こう。」
欠けた茶碗に盛られた米は芋でカサ増しされてはいたものの、立ち上がる湯気と米粒は真っ白に光り輝いていた。
〈これ、ぼくのいちばんだいじにする!〉
「大袈裟な奴。……菓子をくれると言っても誰にも着いて行くなよ。」
右手が茶碗を離さない。
食べることが本当の幸いだとでも言うように。
ガチャガチャという陶器の擦れる音に周囲を見回すと、孤児やら隻腕の復員兵やらが、皆懸命に米を掻き込んでいた。
「……まだ、生きているんだな。」
〈……ねぇ、にってー?〉
初めて聞く、深刻そうに沈んだ声。
〈これが、くに?〉
「……ああ。負けられないな、勝つまでは。」
***
〈あれなにー!!〉
日が沈む頃には、もう真剣な調子も忘れてしまったらしい。
指さす先には、白木の位牌がずらりと並んでいた。
どうやら街の集会所らしい。
軍帽を握りしめる母子の集団に、思わず目を逸らす。
〈ねーえ、なぁに!〉
「……夏の盆。死者を迎える日だ。」
〈ししゃって、おつかい?〉
「…死んだ者のことだ。」
からん、と軒先に吊るされた風鈴が鳴る。
指先が揺れるススキの先に触れた。
〈おかえりって、いうの?〉
「……そうだな。迎えるものが忘れても、きっと皆帰ってきているから。」
微かに見えた手元を真似して、片手が不器用に合掌の形を作る。
それに手を合わせ、目を閉じた。
音もなく抜けていく風が、優しく辺りを撫でていた。
***
「灯り、消すぞ。」
いつも通りそう声をかけ、ランプを捻る。
〈……にってー。〉
「ん?」
〈きょう、おそとでれた。いろんなひと、さわれた。〉
「……蝶はもういいのか?」
右手が、そっと胸元に触れる。
暗がりの中で声がした。
〈みんな、いきてるんだね。〉
「……そうだな。」
その夜それきり化身は何も言わなかった。
まるで、未だ名のない何かを、心の中で解きほぐしているように。
(続く)