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世間体からよくよく考えてみると、みんな思考は千差万別、意見は人によるという割にウケるものは似たり寄ったりでみんな大して大きな違いはないものと見受ける。私もそうだ。勧善懲悪の英雄譚が好きだし、かわいい女の子がキラキラしてる物語は魅力的である。反対に不人気なものは無慈悲なまでの弱肉強食や誰も救われないバッドエンドであると言えるかもしれない。
ただこういう好き嫌いで皆んなの立場が明確になることは実際じつにどうでもいいことで、それを誰がいうところで誰が死ぬわけではない。それを多様性とか人によるとか言って自己保身を図った上で言うのは大いに結構、まさにその通りであると思うし自由にしてもいいだろう。
ただ問題は世の中がそのようなことを原則にしているかどうかは別であると言うことだ。
私たちは正しいと思えばそうでないことを悪と決めつけ、都合が悪ければそれを遠ざけて自分達にとってより否定されにくい立場に逃げることで本質への問いを歪め、一つの答えに決めつけることを嫌うだろう。例えば”勧善懲悪の物語が好きだ”というのは自由だが、”実際に世の中はこうあることが正しい”というのは本当に本質を見た上で述べたものだろうか。
何が言いたいかということをもっと根本的な問いに落とし込んで考えてみよう。私たちはほんの100万年前、野生動物の脅威にさらされながらその日暮らしの生活をしていた。そこでは力こそが己を自由にする手段であり、力無いものにそんな慈悲はあり得なかった。
これは我々が自身の力によって自己保身を図らなければ死んでしまうと言うこの世界の事実を反映したものであったことは想像に難くない。ではこのような状況で、悪いことをしたものが正しきものに罰せられ、打ち倒されることがより正しい選択だと言えるだろうか?仮にもしそのような状況が起こり得たとして、悪を倒した正義とは所詮その悪より力があっただけなのだと言う前提を回避していないのではないか?
では要約させていただこう。私が言いたいことはつまり、勧善懲悪もハッピーエンドも、強いものが自分より弱かったものを打ち倒して上の立場を得ているだけなのであると言うことだ。正義が勝つためには悪より強い正義が生まれなければならない。幸せな結末はそれを得るために誰かが悪い結末を打ち消すほど強くならなければならない。
どのような美談も、どのような人気の勝利に対する概念も、この世が弱肉強食の原理により成り立つことで初めて成立するものなのである。我々は真にこの世の中でより良いものだと美談を並べる時、見てくれが野蛮で非人道的な考え方を否定したがる。だがその我々の美談は、その野蛮な考え方の上に成り立っていることを忘れてはならない。勝ったものが正義で、負けた者が悪であると言う意見も、結局はこれに帰結するのである。
ならば我々はこの美談を成すために残酷にならなければならないのか、いや違う。
我々がなるべきは、強い者である。強くなければ美談は成立し得ない。強くなければより事態を好転させることはあり得ない。強さとはこの世の理なのである。あなたはこの残酷な弱肉強食を理解して勧善懲悪を成し遂げることができるであろうか?