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解錠し中に入ると、暖房もついていないのに事務所内は温かかった。
断熱性が優れている建物では、パソコンから発せられるの熱でさえ保温してしまうらしい。
外とは違うどんよりとした熱気に、林は小さくため息をついてからスリッパに履き替えた。
自席についてノートパソコンを開き、起動させる。
ウィンと鈍い音がし、システムのトップ画面が表示される。
「あ。昨日シャットダウンするの忘れてた」
言いながら、トップ画面に表示された赤い字を読む。
【ペナルティ中】
「……はあ」
その字を消すように個人ページに移動する。
そこには本来、今建築中の客、打ち合わせ中の客、商談中の客が表示されるのだが、林のそれは空白のままだった。
試しに、担当者の欄を自分ではなく紫雨にしてみる。
「―――おお」
建築中のお客様7件、打ち合わせ中のお客様8件、商談中のお客様5件。
「……忙しいわけだ」
呟きながら席を立ち、流しから自分のマグカップを取り出し、コーヒーメーカーに突っ込む。
ドリップされたそれが香ばしい匂いの湯気を出し始めると、少しだけ心が落ち着いた。
なみなみに注がれたカップを慎重に持ちながら席に戻る。
『営業の基本はアプローチだよ。それに尽きる』
支部長である秋山が新人を集めた研修の時に言っていた言葉を思い出す。
『アプローチが全てだといっても過言ではない。しかもただのアプローチじゃない。初回アプローチだ。だから肝心になるのは、初回で90分以上の接客ができるかってところなんだけど……』
90分以上のアプローチ。
林は接客記録を開いた。
そこには過去3ケ月間の間に、自分が初回接客したリストが乗っている。
90分以上のアプローチができた客には、金色のメダルのような印が付いていて、その上には営業ごとのパーセンテージも乗っていた。
紫雨は90分以上のロングアプローチ率、72%だ。
秋山が目標とする50%を大幅に上回っている。
しかも紫雨は「セゾンの家が買えるかどうか」の見極めも早いため、買えない客はろくにアプローチもせずに帰すことを考えると、狙った客を落とす比率は相当高いのだろう。
試しに八尾首展示場の篠崎のリストも覗いてみる。
篠崎岬 ロングアプローチ率、91%。
「……化け物だな、この人」
つぶやくと、ついでに新谷のリストも覗いてみた。
新谷由樹 ロングアプローチ率、64%。
調子が悪いと言っていた割になかなかの高比率だ。
「―――」
最後に林は自分のリストを開いた。
林修司 ロングアプローチ率13%。
「……ここだよ」
明らかに問題はここにある。
初対面のお客様との会話が続かない。
興味を持ってもらえない。
お客様の情報を聞き出せない。
全てはアプローチが弱いから。
ガチャ。
「おっはよーう」
その声に林は驚いて振り返った。
「秋山支部長?!」
言ってから壁の時計を見上げる。まだ6時半だ。
「……ずいぶん早いんですね」
言うと、彼は笑いながらスリッパに履き替えた。
「君もねー」
「いつもこんなにお早いんですか?」
言うと秋山は眠そうな目を擦った。
「んなわけないじゃん」
言いながらパソコンを起動している。
「あのね、僕の携帯には、セキュリティ会社から毎日通知が来るの。どこの展示場がいつ解錠されたかって」
「―――あ」
つまりは林が解錠して展示場に入ったことで、秋山の携帯電話に通知が行き、こんな早い時間に解錠されたことを不審に思った秋山が様子を見に来てくれたのだろう。
「……すみません、勝手なことをして」
頭を下げると、
「仕事をしに来た人間を、上司である僕が叱るわけないでしょー」
秋山は楽しそうに笑った。
「ま、解錠した社員が君だってのは、結構意外だったけどね」
小さな瞳で林を見つめる。
「――――」
「こんな早くからお仕事かい?林君。みたところ、仕事も溜まっていないようだけど。あ、これ、嫌味ね?」
言いながら秋山は営業の受注グラフを振り返った。
「あ、あの。秋山支部長」
「何?」
「ペナルティになって、すみません……!」
林は立ち上がり頭を下げた。
「んー」
秋山はデスクに肘をついて、こちらを覗き込んできた。
「僕は怒ってないけど?」
「え?」
「だってそうでしょう。会社のシステムでペナルティになった君に、それ以上かけるべき言葉がないからさ」
言うと、秋山はにんまりと笑った。
「どういうことですか」
「どういうってそのままだよ」
秋山は小さく伸びをしながら続けた。
「6ヶ月で3棟、それが売れなかったら、ペナルティになって、さらに続く6ヶ月で3棟売らないと、その社員は解雇」
目を伏せた林を楽しそうに見上げながら、秋山が笑う。
「実によくできたシステムだよね。実力のない者、向いてない者、やる気のない者は、自動的にシステムが排除してくれる。
僕たち上の人間がはっぱをかける必要もなければ、君たち社員が、上司たちに代わる代わる叱られて嫌な気持ちになることもない」
「――――」
「クビになりたくない者は何かしら努力し、一定数の成果を上げ、この会社に残る。
この会社に未練のない者は、無駄な努力もせず、無駄に叱られもせずに、次の職を探すことができる」
秋山は何とも読めない素朴な瞳で林を見つめた。
「それってwin-win、だよね?」
答えられなくなった林に、秋山はやっと優しく微笑んだ。
「君はどっちの人間だと、自分では思う?正直に」
「―――正直に?」
「そ」
林は眉間に皺をよせ、下唇を軽く噛みながら首をひねった。
「俺は―――いえ、私は―――」
「うん」
「……奮起して何が何でも売ってやるという闘志に燃えることもできなければ、見切りをつけて次の職業を探しに行けるほどの清々しさも持ち合わせておりません。このままじゃだめだと思うけど、何をしていいのかわからない、っていうのが正直なところで……」
言うと秋山は口の空気をフッと抜くような独特の笑い声で吹き出した。
「じ、自分では、アプローチが弱いってとこまではたどり着いたんですけど……!」
照れ隠しに言うと、秋山は小刻みに笑った。
「それで?」
「それで……」
「アプローチ、誰かに見てもらった?」
「あ、いえ……」
言うと秋山は首を傾げた。
「少し前の話だけど、八尾首展示場の新谷君も、ペナルティになりそうだったんだよ。知ってる?」
「あ、はい。スランプだったって」
「そのときは、篠崎君、夜中までアプローチ練習に付き合ってあげてたよ」
「え?」
「一応僕も、展示場施錠するまでは、見守ってるからさ。コンピューター上で、だけどね」
「――――」
林は秋山の言わんとしていることがわかり、俯いた。
「―――紫雨君は?」
案の定の質問が来た。
「――マネージャーからは何も言われてなくて……」
「そうじゃなくて」
秋山の声に凛とした厳しさが混じる。
「君の方から、紫雨君に相談はしたのかって聞いてるんだけど?」
「――――」
林は自分よりも10cmは背が低い秋山を見つめた。
「していません…」
「どうして」
「―――」
答えない林に秋山はため息をついた。
「部下が気軽に相談できない空気を紫雨が醸し出してるなら、マネージャー失格だ。厳重注意しなければいけないね」
「いえ。それは違います」
林は慌てて顔を上げた。
「じゃあ、なんで相談しないの。君はどうしていいかわからず悩んでいるんでしょう」
「――そ、それは……」
林の視線は、事務所の床と、デスクと、秋山の顔を、往復した。
「……恋人には相談できない?」
秋山が静かに話し出した。
「え?」
「林君。君が紫雨に相談できないのは、君たちのプライベートの関係が邪魔をしているからじゃないの?」
「――――」
「確かに彼は、子供だ。それも相当。なぜだか心の成長が中学生、もしくは高校生くらいで止まっているように見える」
「…………」
それはきっと、紫雨が少年期に叔母から受けた性的虐待が関係している。
彼はそこで、何かを意図的にストップさせた。いや、ストップせざるを得なかった。
自分が傷つかないために―――。
「彼とプライベートでも付き合うのは大変だと思う。わがままだし、気まぐれだし、自己中心的だし、口は悪いし、優しくもないし―――ふふ。言いすぎかな」
秋山は笑い、林は弱く首を振った。
「その点、林君は、身の回りのことにおいてはしっかりしていて、秩序ある行動ができる。君がプライベートでは紫雨を、教え、諭し、面倒を見ているのは容易に想像できるよ」
クククと秋山が笑うが、林はただ俯いた。
「でも―――紫雨には幼稚な感情とは裏腹の、類まれない責任感がある。わかるよね?」
秋山は紫雨の席に視線を移して微笑んだ。
「彼の客からクレームなんて一度も来たことがないし、あの篠崎でさえスランプはあったのに、紫雨にはそれがない。仕事はきっちりこなすし、成績もしっかり上げる。
この責任感は上長に十分値すると思って、彼をリーダー、そしてマネージャーに推薦したんだ」
「はい………」
視線が林に戻る。
「彼は、部下が本気で相談してきたら、見捨てるような人間ではないと思う」
「――おっしゃる通りです」
ダメだと思うのに、顔が歪んでいく。
頬の筋肉が震え、口角が下がっていく。
「もちろん別れろなんて言わないし、そんなこと言う権限もない。でも……」
秋山は寂しそうに視線を林から外した。
「今の君たちの関係は、こと仕事においてだけ言うとすれば、win-winじゃないね」
情けなさに堪えられなくなり俯いた林の頬を、涙が伝った。
秋山が起動したパソコンのマウスをクリックした。
やがて彼の小さな手がキーボードを打つ音が響き始めても、林はそこから動けなかった。