テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
153
ゆう/カイ
黒い霧が風に溶けるように消えていくと、草原には再び静寂が戻った。さっきまで血の匂いと緊張で満ちていた空気が、嘘みたいに薄くなっていく。俺はしばらく拳を見つめたまま、呼吸を整えていた。淡い光がまだ指先に残っているような気がして、何度も手のひらを見返す。
「……本当に、俺がやったのか」
「やったとも。初仕事にしては上出来だ」
賢者のおっさんは、まるで散歩の途中で犬を褒めるみたいな軽い口調で言った。俺は思わず笑ってしまいそうになったが、すぐに顔をしかめた。笑うにはまだ早い。草原には黒い焦げ跡と、消え残った魔力の匂いが残っている。
「いや、初仕事って……俺、まだ無職なんだけど」
「だからこそだろう。無職は伸びしろがある」
「ポジティブすぎるだろ」
おっさんは肩をぽんと叩き、真面目な顔で続けた。「魔力は感情で動く。恐怖、怒り、責任感――お前は全部、ブラック企業で嫌というほど味わってきた。だから動いたんだ」
「そんな成長の仕方あるかよ!」
俺は思わず声を荒げたが、どこかで納得している自分もいた。理不尽に耐える訓練、上司の理不尽な要求に即応する習慣、怒りを飲み込んで冷静に振る舞う技術。あの無数の屈辱が、ここで役に立つとは思わなかった。
「だが、生き残った。運じゃない、対応力だ。お前のスキルは戦闘でも通用する」
「社畜スキルが戦闘で通用するって、どんな世界だよ」
おっさんはにやりと笑った。「異世界だ。常識が通じない相手には、常識外の武器が効く。お前の“謝罪で動きを止める”ってのは、魔族兵の命令系統に干渉した。珍しい。ギルドに行けば、そういう“変わった才能”は重宝されるぞ」
「ギルド……か」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。所属。身分。あの紙切れ一枚で、世界の見え方が変わることを俺は知っている。社員証を返した日のことがふと頭をよぎるが、今回は違う。ここでの所属は、死と隣り合わせの仕事をするための最低限の信用だ。少なくとも、無許可で宿に泊まれないとか、食事を断られるとか、そういう屈辱は避けられる。
「ついてこい。町の外れに冒険者ギルドがある。まずは登録だ」
おっさんの言葉に従い、俺たちは草原を後にした。歩きながら、さっきの戦いの断片が頭の中で反芻される。魔族兵の視線が一直線に俺を捉えた瞬間、身体が先に動いたこと。謝罪の言葉が自然に口をついて出て、相手の動きを止めたこと。腕を上げたときに走った光の感触――それは確かに、俺の中にある何かが目を覚ました合図だった。
町の門が見えてくると、石造りの壁と人々の生活音が近づいてきた。門番が二人、槍を持って立っている。俺はぎこちなく頭を下げると、門番の一人が眉を上げた。「転生者か?」と短く訊かれ、俺は「あ、はい」と答える。門番はそれ以上詮索せず、ただ「気をつけろよ」とだけ言った。魔族の動きが活発だという言葉に、胸の奥がまた少し重くなる。
石畳の道を進むと、露店の匂い、子供の声、鍛冶屋の金属音が混ざり合い、異世界の町は思ったよりも生活感に満ちていた。ファンタジーの絵本にあるような非日常だけではなく、現実の匂いがする。俺はその中を歩きながら、ふと自分がここにいることの不思議さを噛み締めた。無職三十路、転生して冒険者になる――そんな言葉が頭の中で反芻される。
「お前、ギルドのこと知ってるか?」
「名前くらいは。登録すれば仕事がもらえるんだろ?」
「そうだ。だがギルドは単なる仕事仲介所じゃない。情報の集積所であり、信用の証明だ。依頼のランクも、報酬も、すべてそこから始まる。お前みたいな“変わった奴”は、最初は低ランクからだが、扱い方次第で早く上がれる」
「扱い方って、どう扱うんだよ」
「普通に働け。無理はするな。だが、現場での判断力は大事だ。お前はそれがある。あとは人付き合いだ」
「人付き合い……」
俺は苦笑した。社畜時代、人付き合いはすべて“仕事”だった。媚び、忖度、上司の顔色を読むことが生存戦略だった。ここでも同じ技術が使えるのかもしれない。だが、違うのは相手が人間だけではないことだ。魔族、獣人、魔法使い、そして他の冒険者たち。相手の種類が増えれば、読み方も変わる。
やがて、町の外れにある建物が見えてきた。看板には「冒険者ギルド」と書かれている。外見は意外と地味で、通り過ぎるだけなら見落としそうだが、扉を開けると中は想像以上に賑やかだった。冒険者たちが集まり、情報を交換し、依頼を受ける。カウンターの向こうでは職員が帳簿を広げ、依頼の紙を整理している。
「ここがギルドか……」
俺は無意識に肩をすくめた。緊張が胸の奥で小さく波打つ。賢者のおっさんがさっさとカウンターに歩み寄り、職員の女性に声をかける。「すみません、こいつを登録させたいんですけど」女性は俺をちらりと見て、無言で帳簿を広げた。「名前、職業、スキルを記入してください」と淡々と言う。俺は深呼吸してから名乗った。「佐倉恒一。職業は……無職です」
「……無職?」女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに筆を走らせる。「スキルは、いくつかあります」俺は少し黙ってから、社畜のスキルを列挙した。「社会人経験(ブラック)。理不尽耐性、無茶振り適応力、上司系モンスターへの威圧効果……」
職員は筆を止め、少し不思議そうに顔を上げた。「そのスキル、変わってますね」俺は苦笑いを返す。「いや、普通ですけど」職員は苦笑いを浮かべながら手続きを進め、登録証を差し出した。「これがあなたの冒険者登録証です。ちなみに、登録するにあたって、最低限の依頼を受けることになります」
「最低限の依頼?」
「そう、最初は簡単な仕事から始めてランクアップしていく流れですね。どうせ無職からの転生者ですから、慣れるところから」職員の淡々とした口調に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。賢者のおっさんが横でうんうんと頷く。「お前が持ってるスキルは、もしかしたら他の冒険者より役に立つかもしれんからな。今日は最初の依頼を受けてみるといい」
依頼ボードの前に立つと、紙がぎっしりと貼られていた。「怪物退治」「護衛」「素材採取」「道具の修理」――どれも一見すると単純だが、現場はいつだって予想外だ。俺は一番簡単そうな「道具修理」を手に取った。おっさんが満足そうに頷く。「よし、これでいい。今日はとりあえず、疲れない程度にこなしておけ。お前のスキルは現場向きだ」
「現場って言うな」
言い合いながらも、俺の足取りは確かに軽かった。魔族兵を退けた実感と、登録証という小さな紙切れが、これから始まる日常の入口を示している。無職三十路、異世界転生。初仕事は終わったばかりだが、次の仕事はもう目の前にある。胸の奥に小さな期待が芽生えているのを感じながら、俺は賢者のおっさんと一緒にギルドを出た。
コメント
3件
やっぱしうめぇぇぇ!