「ほら、しっかり歩け。俺を襲撃してきた勢いはどうした?」
「……そんなものは、どこかへ消え去りました」
強引に連れてこられた場所は、|神楽《かぐら》グループのビルの最上階だった。一般人が入れないようなしっかりとしたセキュリティ、それを解除して彼はどんどん奥へと進んでいく。
【社長室】と書かれた部屋の隣、彼はそこのドアを開けると私に中に入るように言った。
「あの、私はどうしてここに連れてこられたんでしょうか」
「さっきまでと別人のようだな。そんなにショックだったか? あんな男に裏切られたことが」
ハッキリとそう言われて、傷口を抉られてるような気分になる。|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》にとってはあんな男かもしれないが、私にとって|守里《もりさと》 |流《ながれ》は結婚を考えるほど好きだった男性なわけで。
ショックを受けるなという方が無理があるのではないかと思う。それなのに……
「そんなしょぼくれたような顔ばかりするな、この部屋まで辛気臭くなる」
「だったら連れて来なければ良かったじゃないですか、自分が引っ張って来ておいて私に文句言わないで」
落ち込んでることに変わりはないが、こうも言いたい放題言われていてムカつかないわけがない。泣きっ面に蜂の状態なのに、そんな私の傷口に塩を塗りたくるような神楽 朝陽の言動にも腹が立ってくる。
それなのに徐々に言い返すようになってきた私を見て、彼はなぜか楽しそうに笑い始めた。
「何がそんなにおかしいんです? もしかして貴方も馬鹿にしたいんですか、彼に裏切られ簡単に騙されてた私を」
「卑屈だな、誰もそんなことは言ってないだろ?」
そう言われても、こっちだって心の余裕がないのだ。信じられない事が立て続けに起こって、卑屈にもなりたくなるでしょう? だけど|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》はそんなことはお構いなしとばかりに強引に私の顔にハンカチを押し付けてきた。
「なんです、これ?」
「……見苦しいから、さっさと使え」
そう言われて、私は自分が涙を零していることに気付いた。さっきの場所で、|流《ながれ》の前で泣きたくなくて必死で堪えてたけれど……どうやらそれも限界を迎えていたらしい。
気が付いて涙を止めようとするけれど、それどころかどんどん溢れてあっという間に渡されたハンカチがぐしょぐしょになってしまう。
それに気付いた神楽 朝陽が今度はティッシュ箱を渡してくれて。
「思ってたよりも手のかかる女だな、まあ仕方ない」
「うっ……ひぐっ、ひっ……ぅうっ……」
何が仕方ないのか分からないし、どうして彼が私の頭を慰めるように撫でてくれているのかも全く理解出来ない。だけどその神楽 朝陽の気まぐれに甘えて、気が済むまでそのまま思い切り涙を流していた。
「……すみません、シャツ汚しちゃって」
無言で慰めてくれたいた|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》、いつの間にか私は彼のシャツを掴んで泣きじゃくってしまっていたらしく。申し訳なさから、彼と顔を合わせる勇気もなくそう謝ったのだが……
「別に構わない、貴女に請求する迷惑料の中にちゃんと付け加えておくから」
「め、迷惑料って⁉ 何のことですか!」
まさかそんなことを言われるなんて思っていなかった私は、驚きで今度は神楽 朝陽のスーツのジャケットを掴む。
だって、そんな……
すると神楽 朝陽はかけていた眼鏡のテンプルを、指でつまんで外す。眼鏡姿も似合っていたが、外すと彼はまた違った魅力があって。
野生の獣を思わせるような切れ長の瞳が細められて、一瞬だけドキリとする。まるで、自分が獲物として狙われているのかと感じてしまったからだ。
「なんの事か、だと? 面白いな、今日アンタがここのロビーで俺に何をしたのかもう忘れたのか?」
「……それは」
何となく彼の口調が変化したような気がしたが、それについて考えている余裕はなく。
神楽 朝陽が、私が誤解で彼を殴った事について話しているのだということは分かる。実際、この人は|流《ながれ》が私を騙すために、勝手にその存在を使われていただけなのだろうし。
流からすれば御曹司相手に私が会いに行くなんて思いもしなかったに違いない。だからああもサッサと逃げるように会社の外に出たのだろうから。
でも、いくら流が原因だったとしても神楽 朝陽を殴ったのは私。その事実は変わらない。
「でも、私にはお金なんて……」
正社員で働いているとはいえ、一人で暮らしのためそう余裕のある生活はしていない。その上、結婚資金として毎月給料日に|流《ながれ》に五万渡していたのだから貯金も無くて。
そんな状態で、迷惑料なんて請求されてもどうすればいいのか分からない。
「アンタの親は? もしくは兄弟」
「……家族まで、巻き込むんですか?」
|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》の言う通り、もし親に泣きつけば少しくらい助けてくれるかもしれない。でもそうすれば、流に婚約破棄されたこともお金を騙し取られたことも全部話さなくてはいけなくなる。
それこそ実家に戻らされて両親の選んだ相手とお見合い結婚をさせられるかもしれなくて。
「……もし、嫌だと言ったら?」
ソファーに座っていた神楽 朝陽がゆっくりと立ち上がりこちらの方へと歩いてくる。余裕のある笑みが逸らされない鋭い視線が、まるで肉食獣のようだと反射的に身構えてしまった。だけど……
「じゃあどうやって支払う気だ? それだけの価値があるものを、アンタが今すぐに提示出来るのならいいが?」
「今すぐって……きゃっ!」
いつの間にか壁際まで追い詰められていたことに気付く。逃げなくては、本能的にそう思ったがすぐに神楽 朝陽が両腕を伸ばして壁につけて私の逃げ道を塞いでしまう。
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