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思わず、慧は顔を下げ、胸元から視線を外した。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
美緒の手を握りしめると、慧は力の入らない膝を叩きながら、ジェットコースターから降りた。
「慧、大丈夫か?」
大丈夫か、そう言いながらも、健介は次の絶叫マシンへ向かって小走りに駆けていた。
「大丈夫だよ! 良いから、急ごう!」
せっかくの遊園地。のんびり楽しめば良い。そう思う反面、せっかくお金を払ったのだから、元以上を取りたいという、学生らしい気持ちが先走っている。それは、健介だけでなく、美緒とななも同じようで、しきりに最後尾を走り慧を気にしている。
正直言うと、絶叫マシンが苦手だった。元々、物静かな正確な慧は、その性格が示すとおり、遊園地よりも動物園、水族館の方が好きなタイプだった。
慧は息を切らしながら、炎天下の中を走り、次の絶叫マシンへ辿り着く。
轟音を上げ、頭上をジェットコースターが走り抜けていく。ジェットコースターの動きに合わせ、乗客の叫び声も聞こえてくる。
今度の絶叫マシンは、距離は短いが、高速で何度も回転するものだった。慧は、酸っぱくなっている唾を飲み込み、短い列の最後尾に並ぶ。三十分ほどの休憩タイムだ。
「慧、しっかりしろ」
健介が、手にしたペットボトルを差し出してくる。運動部の健介らしく、スポーツ飲料だ。
「……いや」
体は水分を欲しがっていたが、甘ったるいスポーツ飲料ではなかった。もっと、口の中がさっぱりする飲み物が飲みたかった。だが、今列から離れる訳にはいかない。すでに、慧の後ろには数十人が並んでいた。
オープンから三十分。人も徐々に増え始め、人気のアトラクションは長蛇の列が出来つつある。
「慧君、麦茶だけど、良かったら飲む?」
美緒は、肩に下げたリュックから小さな水筒を取り出した。
「良いの? ……ありがとう」
慧は素直に水筒を受け取ると、冷たい麦茶を飲んだ。スッと体の中に水分が染み入ってくる。よく冷えた麦茶は、不安定だった慧の気持ちと体温を下げてくれた。
「ありがとう、美緒さん」
慧は美緒に水筒を返すと、美緒はそのまま麦茶を飲んだ。
(あっ、間接……)
喉を鳴らして麦茶を飲む美緒を見て、慧は頬を赤く染めた。
慧は間接キスを気にしているが、美緒は全く気にしない様子で、麦茶で喉を潤した。
「しっかし、慧はだらしないな。お前、まだ苦手は克服していなかったんだな」
「基本的に、心拍数の上がるアトラクションは……」
「お前らしいって言えば、お前らしいけどな」
「慧君は、昔からだもんね」
「そうなの?」
美緒が、不思議そうに慧を見る。
この流れ、良くない流れだ。きっと、健介とななは、昔のあの話を持ち出してくる。
「小学校の時、修学旅行で遊園地に行ったんだけど、慧君は青ざめて倒れちゃってね」
ななは、笑いながら肩をすくめる。
「あれは最高に笑えたな」
「笑い事じゃないくらい、辛かったんだよ」
美緒には、知られたくない事だった。昔から絶叫マシンが苦手だった慧は、強がって皆と一緒にマシンに乗った挙げ句、降りた瞬間に盛大に嘔吐して倒れてしまった。忘れたい過去、だが、こうして昔馴染みと話をすると、度々口に上る。
「そっか……。私は、中学は同じだったけど、小学校は違ったから知らなかったな。慧君、今日は楽しんでる?」
申し訳なさそうに、美緒はこちらを覗いてくる。慧は笑みを浮かべて、力強く頷いた。
「もちろんだよ。楽しんでいるよ」
「そう、なら良かった」
美緒は安堵のため息を漏らした。
「そうか! なら、次も楽しんでいこうぜ!」
健介が白い歯を覗かせる。気がつくと、慧達の順番になっていた。けたたましい音を立て、ジェットコースターが搭乗口に飛び込んでくる。
「う、うん……」
慧は唾を飲み込んだ。
そして五分後。慧は青ざめた顔をして、ベンチに横たわっていた。
「慧! 大丈夫か? なあ! おい!」
売店で買ってきたうちわで、健介は倒れた慧を扇いでいた。
「……うん。ゴメン……」
慧は目を腕で隠し、小さく呟いた。
もの凄いスピードで、何度も回転するコースタに、慧は打ちのめされた。
「ごめんね、慧君。無理させちゃったみたいで」
ななも健介と同じように、うちわで慧を仰いでくれている。
「私もごめんね、気がついてあげられなかった」
美緒はハンカチを濡らし、慧の首に浮かんだ汗を拭ってくれている。
「いや、大丈夫だと思ったんだけど。なんか、変なプレッシャーもあって……。本当にごめん」
「良いって、気にするなよ、慧! これも思い出だ!」
こんな状況になっても、健介は慧を責めることなく、笑い飛ばしてくれる。
「そうそう。遊園地には、いつでも来られるんだしね」
「だけどさ……。僕は、少しここで休んでいるから、三人は行ってきて。後で合流するからさ」
「だけどさ……」
「良いから。僕は少し休めばまた元気になるから。ほら、時間がもったいないから。みんな行って」
慧は健介達を気遣い、遊びに行くように促した。美緒は健介達と顔を見合わせると、立ち上がった。
「すぐに合流しろよ」
「うん……」
慧は三人に手を振ると、再び腕で目を隠した。
情けなかった。絶叫マシンが苦手だと思っていたが、まさかここまで苦手だとは思っていなかった。小学校で失敗をしてから、五年が経っている。慧はずいぶん成長し、もう絶叫マシンに乗っても大丈夫だと思っていたが、違った。
「はぁ……」
美緒の前で、失態を晒してしまった。彼女は、絶叫マシンも乗れない、男らしくない慧に、呆れてしまっただろうか。
遊園地の賑やかな音楽が流れてくる。
木陰にいるため、流れてくる風は少し涼しかった。
一人でいると、自己嫌悪に陥ってしまう。慧はゆっくりと呼吸をして、体調を元に戻そうと集中した。
タタタタタッ……
その時、足音が聞こえてきた。慧のすぐ横に来て、足音は止まった。
カチャッ……
何かが聞こえた瞬間、慧の首に冷たい塊が押しつけられた。
「つめたッ!」
慧は飛び起きた。
「元気出た?」
美緒だった。氷を入れたビニール袋を手に、彼女は笑っていた。
「そこの売店に行って、貰ってきたの。これで首冷やして」
美緒は慧に氷を渡すと、隣に座った。そして、太ももを叩いた。
「えっ?」
慧は美緒の顔と、太ももを交互に見つめる。
「横になって、膝枕してあげるから」
「え? でも……」
慧の体温が急上昇する。この状況、どうすべきなのか、慧は分からない。テキストにも載っていないし、健介からこうしたときの話を聞いたこともない。
「早く! 私も、言い出した手前、断られると恥ずかしいんだけど……」
美緒が顔を桜色に染めている。
「ゴメン、なさい」
言って、慧はゆっくりと横になる。
本当に、このまま頭を美緒の太ももに預けてしまって良いのだろうか。心臓が口から飛び出してしまいそうなほど、高鳴っている。
体調が悪いことも重なり、急激な心拍数の上昇は、体から力を奪った。腹筋の力が抜け、慧の頭は美緒の用意してくれた太ももの上に落ちた。
「よく出来ました」
美緒は笑みを浮かべると、氷を慧の額に乗せた。
「ありがとう……」
緊張のあまり、うまく呼吸の出来ない慧は、意識して呼吸に努めた。美緒は遠くを見つめており、時折目を細めては笑みを浮かべていた。
とても透き通っていて、綺麗な笑みだった。少し前まで、美緒は慧に対して一線を引いていた。その線を、美緒は飛び越してきてくれた。
「美緒さん……」
「ん? なあに?」
美緒は氷を退かすと、額に手を当てた。冷たい手だった。氷を持っていたから、彼女の手は冷えてしまったのだろう。慧は額に当てられた美緒の手を握りしめた。
「美緒さん、本当に、僕は美緒さんが好きです」
慧の言葉に、美緒は目を丸くした。そして、フッと細めると小さく頷いた。
「私も。心の底から、慧君のことが好きだよ」
そう優しく囁く美緒の顔は、火が付いたように赤く染まっていた。大きな瞳は潤んでおり、目を合わせるだけで多幸感を味わえる。そんな眼差しだった。それは、初めて見る美緒の表情であり、慧を安心させるものだった。
美緒は信じるに足る女性。慧は、全ての事に目をつむり、彼女を全面的に信じていた。
「美緒さん、月末にある夏祭り、土曜日なんだけど、一緒に行ける?」
美緒は、家庭の事情でいつも土曜日は予定が入っていた。それを知っていて、慧は尋ねた。夏休み最後の土曜日に、美緒と一日を過ごしたかった。
慧の言葉に、美緒は僅かに目を見開いたが、すぐに「うん。いけるよ」と頷いた。
「朝から、慧君と一緒にいられるよ。私と慧君で、二人で浴衣を着ようか?」
「うん」
美緒は嬉しそうに微笑んでいた。
美緒は慧の頭を撫でながら、これからの事を楽しそうに話してくれた。慧はその話を聞いて、美緒の人生の一部になれたのだと、喜んだ。
程なくして、健介とななが戻ってきた。すっかり体調の良くなった慧は、みんなと一緒に、高校二年生の夏休みを満喫した。
「これが、僕、佐藤慧の物語。長い長い、プロローグを終えた、始まりの物語」
「これが、私、鹿島美緒の物語。長い長い、プロローグを経て、始まった贖罪の物語」
『僕たち、私たちの物語は、ここから現在(Present Day)へと引き継がれる。あの日、何が起こったのか。本当の出来事が語られる、新しい現在(Re Present Day)が始まる』