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その日は、ただの移動日だった。
ライブの打ち合わせを終えて、次の予定へ向かう途中。
雨上がりのアスファルトが、やけに光って見えた。
「……あぶなっ」
短く呟いた、その直後。
視界がひっくり返り、衝撃が身体を貫いた。
――次に目を開けたとき、世界は白かった。
「……いるまくん、わかる?」
声は聞こえる。
意識もはっきりしている。
ただ――
身体の下半分だけが、最初から存在しないみたいだった。
「足、動かしてみましょう」
言われるままに力を入れる。
必死に、確かに「動かそう」と思っているのに。
何も起きない。
「……あれ?」
もう一度。
それでも、沈黙。
医師の視線が、少しだけ伏せられた。
「下半身に、麻痺が残ります」
「……残る、って?」
「回復の可能性は……現時点では、非常に低いです」
低い。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
「歩けない、ってこと?」
誰かが息を呑む音がした。
医師は否定も肯定もしなかった。
それが、答えだった。
車椅子生活が始まる。
最初は「慣れれば大丈夫」なんて、思っていた。
思おうとしていた。
でも現実は、毎日、容赦なく突きつけてくる。
ベッドから起き上がるのに時間がかかる。
トイレに行くにも、誰かの手が必要。
床に落ちた物を拾うだけで、苛立ちが募る。
「……っ」
動かない足を見て、思わず歯を食いしばった。
何度触っても、叩いても、
そこには“感覚がない”という事実だけがある。
リハビリ室。
「今日は、上半身中心でいきましょう」
言われるたびに、胸の奥が冷えていく。
下半身は、もう“鍛える対象ですらない”。
「……意味、あんの?」
思わず零れた言葉に、空気が固まった。
「いるまくん――」
「わかってるよ」
きつい口調になったのは、自分でもわかっていた。
「一生このままなんだろ?
だったら、頑張ったところで……」
それ以上、言えなかった。
夜。
病室の灯りを消すと、考えたくないことほど浮かんでくる。
もう二度と、
ステージを歩けない。
立ち位置に移動することも、
勢いで跳ねることも、
ライブ後に全身が痛くなる感覚も。
「……俺、何者だよ」
歌うために生きてきた。
ステージに立つ自分が、自分だった。
それを奪われた今、
残ったのは――動かない足と、不完全な自分だけ。
「ごめん」
ある日、ぽつりと呟いた。
「正直……一緒にいるの、邪魔じゃね?」
その瞬間、空気が一変した。
「ふざけんな」
なつの声は、低くて、強かった。
「お前がいない方が、よっぽど邪魔だわ」
「できないことが増えた?
だから何?」
すちが真っ直ぐ見る。
「俺ら、いるまちゃんが“完璧”だから一緒にいるわけじゃないよ。」
それでも、いるまは俯いた。
「……でも、前と同じじゃない」
「同じじゃないよ」
らんが、静かに言った。
「でも、ちゃんと続いてる」
その言葉が、胸に刺さる。
復帰ライブの日。
車椅子でステージに出る直前、
いるまは深く息を吐いた。
怖かった。
同情の目で見られるんじゃないか。
「かわいそう」って思われるんじゃないか。
――それでも。
歓声は、変わらなかった。
いや、前よりも強く、まっすぐだった。
「おかえり!!」
その声に、いるまの喉が震えた。
「……正直さ」
マイクを握り、言葉を選びながら続ける。
「俺、まだ全部は受け入れられてない」
会場が静かになる。
「足は動かないし、
これからも、たぶん動かない」
逃げずに、言い切った。
「でも……歌うことまで、奪われたわけじゃなかった」
ゆっくり、歌い出す。
座ったままでも、
声は、ちゃんと届いていた。
足は、戻らない。
失ったものは、確かに大きい。
それでも――
「終わった」わけじゃない。
悔しさも、弱さも、全部抱えたまま。
いるまは、前を向く。
完全じゃなくても、
不完全なままでも。
音は、まだ続いている。
――ライブ後
楽屋に戻ると、音がすっと引いた。
さっきまで耳を満たしていた歓声が嘘みたいに、
空気は柔らかく、静かだった。
いるまは車椅子のまま、しばらく動かなかった。
汗の冷えた背中に、現実がゆっくり追いついてくる。
「……終わったな」
独り言みたいな声。
誰もすぐには返さない。
その沈黙が、妙に心地よかった。
メイクを落とし、衣装を畳む。
いつもなら何気ない動作が、今日は一つひとつ、重く感じる。
ステージに立てた。
歌えた。
でも、足は――やっぱり動かない。
拍手が消えた今、
「戻らない」という事実だけが、静かに残る。
「……正直さ」
ぽつりと零す。
「今日、楽しかったのに……
ちょっと、怖い」
誰かが近づく気配がした。
「また、こうして終わったあと、
現実に戻るのが」
声が震えたのを、自分でわかった。
「それでいいよ」
らんの声は、相変わらず穏やかだった。
「怖いまま、やればいい」
「受け入れきれなくても、
続けることはできる」
その言葉に、いるまは小さく息を吐いた。
楽屋を出る前、
誰もいなくなったステージを、少しだけ振り返る。
ライトは落ちて、
床には、さっきまでの熱の名残だけ。
歩けない。
跳べない。
前と同じには、もう戻れない。
それでも。
「……今日も、シクフォニは俺の場所だったな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
廊下を進む車輪の音が、静かに響く。
終わりじゃない。
解決もしない。
ただ、今日を生きた――それだけ。
その事実を胸に、
いるまは、ゆっくりと前へ進む。
音が消えたあとも、
余韻は、確かに残っていた。
――数年後
朝の光は、昔よりゆっくり部屋に入ってくる気がした。
いるまはカーテン越しの明るさを感じながら、静かに目を開ける。
足の感覚は、変わらない。
それを確かめるように動かして、何も起きないことに、もう驚かなくなっていた。
「……今日も、普通だな」
それが、今の“安心”だった。
スタジオに向かう道。
車椅子の操作は、もう体の一部みたいに自然になっている。
段差で少し止まり、
手を伸ばす前に、みことが察してくれる。
「いるまくん、そこ大丈夫?」
「平気。ありがと」
助けられることを、
必要以上に拒まなくなったのは、いつからだろう。
レコーディングブース。
椅子に座ったまま、マイクの高さを微調整する。
昔より、声の使い方は丁寧になった。
体を大きく動かせない分、
一音一音に、気持ちを乗せるようになった。
「……今の、いい」
ヘッドホン越しに聞こえた言葉に、
いるまは小さく笑った。
「だろ」
自信が、ちゃんと残っていることに、少し驚く。
ライブも、もう“特別”ではない。
座ったまま歌うステージ。
演出も、フォーメーションも、昔とは違う。
でも、客席は知っている。
それが「今のシクフォニ」で、
それが「今のいるま」だということを。
終演後の拍手は、穏やかで、長い。
夜。
ホテルの部屋で、一人になる。
ふと、窓に映る自分を見て思う。
もし、事故がなかったら。
もし、足が動いていたら。
そう考えなくなったわけじゃない。
ただ、それだけで心が潰れることは、なくなった。
「……まあ、悪くないか」
小さく呟く。
失ったものは、戻らない。
その事実は、今も変わらない。
でも。
音楽は続いている。
仲間も、居場所も、今ここにある。
完璧じゃない未来。
少し不器用で、静かで、淡い未来。
それでも――
ちゃんと、前に進んでいる。
いるまは、今日もマイクを握る。
それが、自分の生き方だと、
もう迷わずに言えるから───。