テラーノベル
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その男はいつも、二宮匡貴の部屋の窓辺に腰掛けている。数年前と何一つ変わらない、少し癖のある黒髪。だらしなく着崩したボーダーの隊服。膝の上には、もうこの世界には存在しないはずの弧月が、抜身のまま無造作に転がされていた。月光を背負って座るその姿は、輪郭こそ夜の闇に溶けそうなくらい曖昧だが、そこにいるという事実だけが妙に生々しい。
「おい、二宮。おまえまたそんな渋い顔して書類読んでんのか。少しは息抜きしろよ」
呆れたような、ひどく耳に馴染んだ声が狭い自室の空気を揺らす。二宮は手元の万年筆を止めず、視線だけをわずかに動かした。書類の文字を見つめる瞳が、冷徹にその影を捉える。
「……黙っていろ、太刀川。今月の部隊報告書と、遠征艇の予備物資申請書がまだ終わっていない。お前のように暇ではないんだ」
「冷たいねぇ。せっかくおまえの寂しそうな顔を見かねて、様子を見に来てやったってのに」
太刀川は、からからと笑う。悪気のない、あの頃のままの少年めいた笑い声。その笑顔があまりにも鮮明で、二宮の胸の奥がじりじりと灼けるように痛んだ。内臓を素手で掴まれ、じわじわと握り潰されているような、酷く懐かしい痛熱さだ。
――これが、己の脳が見せる哀れな幻覚だと知っている。太刀川慶が、あの最前線の戦場で行方不明になってから、もう五年が経つ。大規模な近界民の侵攻。あるいは遠征先での未曾有の乱戦。当時の詳細な記録は一般の隊員には伏せられているが、最前線でNO.1の名を背負って戦っていた男が、ある日突然、煙のように消え失せた。遺体は見つからず、形見となるようなトリガーの破片すら残らなかった。ボーダー本部は、彼を「殉職」――すなわち戦死として処理しようとした。だが、それに激しく噛み付き、断固として書類の受理を拒絶したのは、他でもない二宮匡貴だった。
『遺体も、トリガーの残骸すら上がっていない。なぜ死んだと言い切れる。あの男が、その程度の戦いで不覚を取るはずがないだろう』
本部の上層部へ詰め寄った二宮の剣幕は、当時の幹部たちを沈黙させるに十分な執念が宿っていた。結果として、太刀川の籍は今も「行方不明」のまま、カタコンベの片隅に放置されている。けれど、五年という歳月は残酷だ。かつて太刀川隊のオペレーターだった国近は前線を退き、出水は新たな世代を率いるA級隊長として頭角を現している。街は復興し、人々はかつて最強と呼ばれた弧月使いの存在を、過去の英雄譚として片付け始めていた。誰もが前を向き、あるいは諦めを受け入れていく中で、二宮だけが、あの日の戦場に取り残されていた。戦うべき背中を失った二宮の執着は、年月を経て、奇妙で、酷く歪んだ形で結実した。それが、この幻覚だ。
「おい、聞いてるか?たまには美味いもんでも食いに行こうぜ。おまえの奢りでさ。あの、商店街の裏にあるジャンクフード屋、まだあんのかな」
「……潰れた。三年前にな」
「あー、マジか。あそこのジンジャーエール、炭酸が強くて好きだったんだけどなぁ」
太刀川はつまらなそうに唇を尖らせ、弧月の柄を指先で弄ぶ。二宮はふっと息を吐き、万年筆をデスクに置いた。眼鏡を外し、疲れた目元を指で押さえる。
「お前は、本当に何も変わらないな」
「当たり前だろ。俺はおまえの中にいるんだからさ」
幻覚の太刀川は、自嘲するでもなく、ただ事実を口にするようにあっけらかんと言った。 その通りだった。目の前にいる太刀川慶は、二宮の記憶の底から編み上げられた亡霊だ。二宮が覚えている太刀川の癖、声のトーン、話し方のテンポ、それらが完全に再現されているに過ぎない。肉体が消え失せ、白い骨にすらなれなかった男。ならば、自分が引きずり続けているこの記憶と、毎夜現れるこの幻覚こそが、太刀川慶という人間がこの世界に遺した最後の骨組みなのではないか。二宮は本気でそう思っていた。もし、自分が太刀川を忘れてしまえば。この幻覚を見なくなってしまえば。 太刀川慶という存在は、本当の意味でこの宇宙から消滅する。それだけは、何があっても許されなかった。彼を越えるのは自分であり、彼を終わらせる権利を持つのも、自分だけでなければならなかった。
「……お前が消えたせいで、ボーダーの規律がどれだけ乱れたと思っている」
「はは、出水あたりが苦労してそうだな。あいつ、俺の尻拭いばっかりしてたし」
「出水だけではない。俺もだ。お前という明確な基準がなくなったせいが、下の連中の緊張感が薄れている」
「そりゃおまえが厳しくしてやりゃいいだろ。おまえ、顔怖いんだからさ」
太刀川が窓辺から音もなく飛び降り、二宮のデスクへと近づいてくる。足音はしない。だが、二宮の鼻腔には、確かにあの頃の匂いが届いていた。安物の煙草の煙と、ジャンクフードの油の匂い。そして、トリオン体が擦れる時の、僅かな金属質の残香。狂っているのは自分だ。二宮はそれを自覚しながら、近づいてくる幻影から目を逸らさなかった。
昼間のボーダー本部は、相変わらず喧騒に満ちていた。二宮はいつも通り、隙のないスーツ姿で廊下を歩いていた。その背筋は凍りつくほどに真っ直ぐで、周囲の若手隊員たちは彼とすれ違うたびに、緊張で身体を強張らせる。A級1位、二宮隊の隊長。現在のボーダーにおける最高戦力の一角。その肩書きに相応しい、冷徹で完璧な男。それが昼間の二宮匡貴だった。「あ、二宮さん。ちわっす」
自動ドアの向こうから現れたのは、出水公平だった。かつて太刀川の熱烈な信奉者であり、その背中を追いかけていた少年は、今や立派な青年の体躯となり、自身の部隊を率いる頼もしい隊長へと成長している。その表情には、かつて太刀川が消えた直後に見せていた悲壮感はもうなかった。
「出水か。合同訓練のデータは確認したか」「バッチリっすよ。うちの若手も、二宮さんの弾道エグすぎて泣いてましたわ」
出水は苦笑しながら、手にした缶コーヒーを喉に流し込む。その仕草の端々に、どこか太刀川の面影が重なる。二宮はそれを見逃さなかった。
「……出水。お前は最近、太刀川の夢を見るか」
不意に投じられた二宮の言葉に、出水の動きがピタリと止まった。缶コーヒーを握る指先が、わずかに強張る。出水は少しだけ視線を落とし、それから、酷く静かな苦笑を浮かべた。
「……滅多に見なくなりましたね。最初の、一、二年くらいはクソほど見ましたけど。最近は、なんかあの人の顔、写真で見ないと一瞬思い出せなくなったりして。最悪っすよね、弟子なのに」
「そうか」
「二宮さんは、まだ引きずってます?」
夜桜スピカ
542
#空閑有吾
さんま
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6
出水の問いは、純粋な疑問だった。責める意図も、憐れむ意図もない。ただ、同じ男の背中を追っていた者としての、淡々とした確認。
「俺は引きずってなどいない。ただ、あいつの遺した穴が大きすぎるために、全体の調整に手間取っているだけだ」
「相変わらず手厳しいなぁ。太刀川さんが聞いたら『お前ホント素直じゃねえな』って笑いますよ」
出水はじゃあ、と言って歩き去っていく。その背中を見送りながら、二宮は自身のポケットの中で、拳を強く握りしめていた。思い出せなくなる。他の人間にとっては、それが普通のことで、正しい時間の進み方なのだろう。傷は癒え、記憶は薄れ、人は死者を過去のものとしていく。だが、二宮にはそれが出来なかった。否、しなかった。忘却は、太刀川慶に対する最大の裏切りだ。あいつが白い骨にすらなれず、この世界のどこにも痕跡を残さなかったのなら、自分がその存在の証明になり続けるしかない。その日の夜、二宮はいつもより多くのアルコールを摂取した。普段は体調管理のために滅多に口にしない、強い琥珀色の液体。それをグラスに注ぎ、一気に煽る。胃の腑が熱くなり、脳の輪郭が心地よく融解していくのを感じる。アルコールが染めた頬を押さえながら、二宮は自室のソファに深く身体を沈めた。
「おまえ、酒なんか飲むようになったんだな」
案の定、声がした。視線を向けると、ソファの対面に、太刀川が座っていた。彼は器用に弧月を回しながら、つまらなそうに二宮を見ている。
「昔は、俺が『一杯付き合えよ』って言っても、絶対に『任務の前後は飲まない』って断ってたのにさ」
「……お前がいないからだ」
二宮の声は、酒のせいで少しだけ掠れていた。
「お前がいないから、世界が退屈で仕方がない。戦う価値のある相手も、越えるべき壁もない。この退屈を紛らわせるには、これくらいの毒が必要だ」
「へぇ。俺の存在って、おまえにとってそんなに大きかったわけ? 嬉しいねぇ」
太刀川は立ち上がり、ゆっくりと二宮の方へと歩いてきた。二宮はその姿をじっと見つめる。酔った頭のせいか、今夜の太刀川はいつにも増して鮮明だった。着古した隊服の皺、首筋にある小さな傷跡、笑った時に下唇の端が少しだけ上がる癖。その全てが、二宮の脳内で異常なほどの超高解像度で再生されている。
「なあ、二宮。おまえ、そんなに俺のことが忘れられないならさ」
太刀川が二宮の前に膝をつき、顔を覗き込んできた。
その距離、わずか数センチ。ありもしないはずの、太刀川の息遣いすら感じるような錯覚に陥る。
「俺のこと、骨の髄まで愛してくれよ」
その言葉に、二宮の心臓が大きく跳ねた。
「何を、言っている」
二宮の声は震えていた。それがアルコールのせいなのか、目の前の幻影が放った言葉の重さのせいなのか、自分でも判別がつかなかった。
「だってそうだろ。おまえ が俺を忘れないでいてくれるから、俺はここにいられる」
太刀川は、優しく、どこか酷く残酷な笑みを浮かべた。
「おまえが俺を愛してくれる限り、俺の骨はおまえ の中で生き続けるんだ。もし俺の肉体が、世界のどこかで白い骨になって転がっていたとしてもさ。おまえ が俺を大好きでいてくれるなら、俺は消えない」
「愛、だと?」
二宮は自嘲気味に笑った。
「そんな甘ったるい言葉で、俺とお前の関係を片付けるな。これは執着だ。お前を越えられなかった俺の、呪いだ」
「呪いでも何でもいいよ。おまえが俺を手放さないでいてくれるなら、呼び方なんてどうでもいい」
太刀川がそっと手を伸ばしてきた。その手が、二宮の、酷く冷え切った肩へと回される。質量などない。実体などない。ただの光の屈折であり、自分の脳が見せている電気信号の狂いだ。けれど、二宮には確かに、その肩に預けられた重みを感じられた。まるで、神様から見えない大きな翼でももらったかのような、へたくそで、けれど圧倒的に優しい感触。二宮の凍りついた身体を、その実体のない体温がじわじわと溶かしていく。
「……太刀川」
「ん?」
「お前は、どこへ行ったんだ」
五年間、決して口にしなかった問いが、酒の勢いと共に溢れ出た。
「どこで死んだ。何に敗れた。なぜ、俺の前から勝手に消えた。俺はお前を倒すために、お前を越えるために、これまでどれだけのものを切り捨ててきたと思っている」
二宮の目から、熱いものが一筋、頬を伝って流れ落ちた。自分でも驚くほど、子供じみた涙だった。
「俺を、置いていくな……。お前がいない世界など、俺には何の価値ない」
太刀川は、何も言わずに二宮の肩を抱きしめ続けた。その体温が、二宮の涙を優しく拭うように包み込む。
「悪かったよ、二宮 。でもさ、俺はどこにも行ってないだろ。ここにいる」
太刀川は二宮の耳元で、囁くように言った。
「もし、この世界で俺たちの肉体が完全に滅びちまってもさ。来世だか何だかで、また会おうぜ」
「……来世だと? 荒唐無稽な」
「いいじゃん、約束しろよ。たとえ次の人生でさ、俺とおまえの声が違ってても、骨格が全然違ってても、性格だって最悪に変わってたとしても。それでも俺たち、絶対に巡りあうからさ」
太刀川の声が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。二宮は慌ててその身体を抱きしめ返そうとしたが、彼の両手は、虚しく夜の空気を掴むだけだった。太刀川の輪郭が、月光の中にゆっくりと霧散していく。
「おまえなら、俺のこと見つけんだろ?二宮」
最後の悪戯っぽい笑みを残して、 太刀川慶の姿は、完全に消えた。
ハッと目を覚ました時、部屋には朝の冷たい光が差し込んでいた。ソファの上で不自然な体勢で眠っていたせいで、身体のあちこちが痛む。テーブルの上には、昨夜飲み干したグラスと、空になった琥珀色のボトルが転がっていた。
「……はは」
二宮は乾いた声を漏らし、額を押さえた。酷い頭痛だ。そして、それ以上に酷い喪失感が、胸の中を支配していた。昨夜の出来事は、これまでになく鮮明な幻覚だった。太刀川の手の温もりも、耳元で囁かれた約束も、全てが自分の脳が作り出した究極の慰めに過ぎない。洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、酷くやつれ、しかしどこか、奇妙な決意を秘めた目をしていた。
「来世、か」
二宮は小さく呟いた。馬鹿げている。そんなスピリチュアルな転生論など、一科学技術を基盤とするボーダーの人間が信じるようなことではない。
だが、もし。もし本当にそんなものがあるのだとしたら。たとえ声も、骨の形も、性格だって全然違う人間に生まれ変わっていたとしても。自分は必ず、あの男を見つけ出すだろう。あの不遜で、傲慢で、しかし誰よりも眩しかった、太刀川慶という魂の残滓を、世界の果てまで追いかけて、何度でも捕まえてみせる。この狂気にも似た溢れる感情を、世間は愛と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。それが呪いであれ、祝福であれ、二宮にはもうどうでもよかった。
二宮はスーツの襟を正し、いつもの冷徹な仮面を顔に張り付けた。
部屋を出る間際、彼は一度だけ、昨夜太刀川が座っていた窓辺を振り返った。そこにはもう誰もいない。ただ、朝風にカーテンが小さく揺れているだけだった。
「待っていろ、太刀川。この世界が終わるまで、俺はお前を絶対に離さない」
骨の髄まで染み込んだその執着を胸に抱き、二宮匡貴は、再び誰もいない戦場へと歩き出した。彼が生きている限り、太刀川慶の骨は、決して滅びることはないのだ。
カタコンベ : 地下に作られた共同墓地や地下の埋葬・納骨トンネル
コメント
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いやもう、刺さりすぎてやばいわ……💦 二宮が「これは執着だ」「呪いだ」って否定するほど、読者には“愛”にしか見えねえのが胸に来すぎる。 誰も彼を忘れていくのに、二宮だけは幻覚ごと抱えて生きる選択してるのが、もう歪で美しすぎるんだよな。 骨格とか骨って単語をここまで愛の比喩に落とし込めるの、マジで解像度高いわ。来世の約束もずるい。ずっと引きずるわこの話……🔥