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ここ数日の春めいた陽気は一時の気まぐれだったのか、その日は朝から冷たい雨が降っていて、ただでなくても気怠い寝起きを更にだるくさせていた。
そんな言い訳を呟きながらベッドに起き上がった彼は、くしゃくしゃの煙草のパッケージを鷲掴みにして一本取り出して火をつけると、無意識の行動の様に紫煙を天井に向けて吐き出す。
この寝起きの気怠さだけはどうにかならないかとぶつぶつと呟きつつベッドから降り立ち、シンク横の冷蔵庫を開けて物悲しさに囚われる。
中身は見事に空っぽで、寂しそうにぽつんとクリームチーズが一切れ、広い庫内で肩身の狭い思いをして鎮座しているだけだった。
これがもし恋人の家ならば、それなりに優しく朝を迎えさせてくれ、一日の活力源にもなる絶品の朝食を作ってくれて一緒に楽しく食べられるのにと、すっかりと習慣付いてしまった朝食の光景を思い描いて盛大な溜息を零す。
いつだったか彼がいつか一緒に暮らそうとの思いを辿々しい言葉で伝えてくれたのだが、そのいつかが訪れる日を密かに心待ちにしているリオンは、早くその言葉を聞きたいなぁと煙草の煙に混ぜ込んでぷかりと浮かばせ、不満を訴える腹の虫を押さえる為に水を飲む。
そんな彼の耳に恋人からの着信を教えてくれるピアノ曲が流れ込み、口元を腕で拭ってベッドサイドに投げ出してある携帯を手に取ると見えはしないのに破顔一笑。
「ハロ、オーヴェ!」
『グリュース・ゴット、リオン』
「ゴット。もう朝飯食ったのか?」
脱ぎ散らかしたままのジーンズに足を突っ込んで引っ張りあげ、肩と頬で携帯を挟みながら問いかけたリオンの耳にくすくすと笑い声が流れてくる。
その声からも昨夜は悪夢を見なかった事に気付き、つい顔がにやけるに任せていると、お前はどうなんだと笑い混じりに問われてそうなんだよ、聞いてくれよオーヴェと悲しそうな声で告げる。
「冷蔵庫の中さ、クリームチーズが一つしか入ってねぇ・・・!」
『・・・買いに行く余裕がなかったのか?』
仕事が忙しかったのかと問われるが、ここのところこの部屋に帰ってくる回数とウーヴェの家に帰る回数を比べれば遙かに少なくなってきたと告げれば、携帯の向こうで微かに息を飲む音が聞こえ、どうしたと首を傾げる。
『何でもない』
「そっか。・・・あ、そうだ、オーヴェ、スーツはもう出来上がったか?」
先日、自分よりも体格の良いデザイナーが採寸し、彼曰く最高のスーツを作ると豪語されたのだが、出来上がったのかと問いかけると仮縫いが出来上がったから今夜店に顔を出すと告げられて安堵の溜息を零す。
見た目はリオンと似たり寄ったりだが、心と体の性別が一致していないのか、それとも単なる趣味なのかは不明だが、ウーヴェの為にも最高のスーツを作ると手を組んで鼻息荒く言い放った彼、マルセル・ブルックナーにリオンも当初は真っ青な顔で我が身を守っていたのだが、フィッティングルームで採寸しているとき、ふと思いついて彼に密かに頼んだことがあったのを思い出してそれも出来ているのだろうと安堵し、明後日に控えた護衛の仕事が無事に何事もなく終わりを迎え、その後ウーヴェと初めてパーティに出席する未来予想図を描く。
さすがにそのパーティで着用するスーツでは不要だが、記念式典でのスーツに少々細工をして貰ったことをウーヴェが知って心を痛めないようにと密かに願う。
幼い頃に逃れられない死を目の前でまざまざと見せつけられ、その間中ずっと避けられない暴力を身に受けていた彼は、人に対して拳を振るうことを毛嫌いするというよりは、フラッシュバックを引き起こすほどの恐怖を感じているようだった。
そんな恋人の前では出来るだけ人を傷付ける言動を避けようと努力しているが、刑事という仕事柄必要な暴力を振るってしまう事もある。
今回の同じ日に開催される二つのパーティでそれを振るわなくても済むようにと願うと、どうしたと微かな不安混じりの声が問いかける。
「ん?何でもない。腹減ったからさ、どこで朝飯食おうかなーって」
『駅前のインビスはどうなんだ?』
「あー。カリーヴルスト食いてぇ!」
『はは。じゃあ今日の朝食は決定だな』
「うん。今度また一緒に食いに行こうぜ、オーヴェ」
『ああ。・・・そろそろ出ないと遅れるんじゃないのか?』
その声にプレゼントされてすっかりと自分の一部となっている腕時計を見れば、恋人の心配通りの時間になっていて、慌ててブルゾンを羽織って自転車を担いで家を出る。
「仕事が終わったら連絡するな、オーヴェ」
『ああ。────頑張ってこい、リーオ』
俺にとっての太陽だが、仕事での誰かにとっての太陽になってこいと密かな自慢を声に込めて囁かれ、それに応えるように自信満々の笑顔で頷き、お前もお前の職場で頑張ってくれと告げて通話を終えると、冷たい雨が降る中へと自転車で走り出すのだった。
自転車を所定の場所において庁舎の階段を駆け上ったリオンだったが、フロアに辿り着くと同時に階下にいたヒンケルに呼ばれてしまい、ぶつぶつと文句を垂れながら昇ってきたばかりの階段を駆け下りる。
「昇る前に言ってくれっての」
「何か言ったか?」
後ろ暗いものがある人間ならば脅えてしまうような鋭い眼光で睨まれるが、毎日毎日それを見慣れているリオンからしてみればいつものヒンケルの悪い目つきだというだけで、空耳が聞こえるようになればもう終わりだなと嘯き、ブルゾンのポケットから煙草を取り出そうとするが、その手を掴まれて捻り上げられて悲鳴を上げる。
「ぃてて!ボス、痛いって!!」
「うるさい、馬鹿者!・・・後でジャスパーに言って装備を出して貰え」
「へ?何処かに出動ですか?」
ヒンケルの手を振り払って赤くなった手を押さえつつリオンが素っ頓狂な声を挙げれば、溜息混じりの上司の声がバルツァー会長から連絡があった、会社ではなく家に来て欲しいそうだと教えられて瞬きをする。
「家?」
「ああ」
「えー。だるいなぁ。ボス、やっぱりコニーかマックスに行って貰いましょうよ」
「お前以外が行けば追い返すと言っていただろうが。ぐずぐず言わずにさっさと行ってこい!」
ヒンケルに背中を殴り飛ばされて口を尖らせるリオンだったが、警備に必要なものを用意してくれているジャスパーの元へ向かいながら口笛を吹く。
ヒンケルには気怠いふりを装ったが、バルツァーの屋敷に呼び出されたことに少しだけ気分が浮き足立ってしまいそうになる。
てっきり彼自身はこの街から車で30分ほど南の小さな町にあるバルツァーの本社に向かうことになると思っていたのだが、まさかウーヴェが生まれ育った家に出向くことになるとは思ってもみなかったのだ。
己の恋人がどんな環境下で大きくなったのか、それを目にすることのできる予想外の僥倖に顔がにやけそうになるのを何とか堪え、大股にジャスパーがいる地下に向かうと、弾薬が詰まったケースやリオンがいつも使っているH&K USPがカウンターに用意されていて、弾倉を確認しながら何だか緊張するなぁと呟けば、ご希望なら機関銃も用意出来るぜと笑った為、あの親父さんを護衛するのならば機関銃よりもランチャーだのバズーカだのが必要になるんじゃないのかと不気味な顔で笑ってジャスパーにも同じ表情を浮かべさせると、ヒップホルスターに安全装置をしっかりと掛けた黒光りする拳銃を突っ込んで再び己のデスクがあるフロアに戻るのだった。
「ボス、家ってどこにあるんでしたっけ」
「何だ、知らないのか?」
ヒンケルの部屋のドアを激しくノックをした後、返事も聞かずにドアを開けたリオンが開口一番問いかけると、意外そうに目を瞠ったヒンケルがデスクの引き出しをそっと閉める。
「あー、朝っぱらからチョコ食ってら」
「誰が食ってるか、馬鹿者」
「で、どこなんですか?」
お決まりの回転椅子に足を組んで腰掛ければ、ヒンケルの口から意外な言葉が流れ出す。
「ドクに聞いていないのか?」
「へ?ボース。実家に帰ったなんて話を聞いたこともないですし、そもそもどこに実家があるのかも知りませんって」
「そうか・・・」
リオンの苦笑混じりの言葉にヒンケルも苦笑で返し、デスクの上に散乱している書類の中から用意しておいたらしい茶封筒を取り出してリオンへと差し出す。
「ここに地図が入っている」
パトカーで出向くのは不都合があるので警察車両とは分からない車で来てくれと言われたことも教えられて地図を見たリオンは、この街から小一時間で家に行けるだろうと予測を立てて封筒に戻す。
確かにここでこんなものを見て確認するよりも、恋人に教えてくれと言った方が確実だとは思うのだが、今回の護衛の仕事に関してはウーヴェには詳細を伝えたくなかったのだ。
この話を真っ先に仲間達に相談したとき、コニーが皆が感じたであろう不安を代弁したのだが、その思いは確かにリオンの中にも微かに存在していた。
ただそれよりもウーヴェを信じる心の声が強くて、いくら自分と家族が不仲だとはいえ、護衛というリオンの仕事に口を挟んだりはしてこないだろうと思っていた。
彼を信じている為に伝えることはせずに何とかこの仕事を終わらせようと目論むリオンだったが、果たして本当にそれで良いのだろうかという疑問の声も日に日に大きくなってはいたのだ。
彼が家族と不仲である事実はよく知っているが、何故そうなったのかについては断片的な言葉と己の想像でしか分からないのだ。ならばこちらが気を揉んで彼の父を護衛する仕事だと伝えようが伝えなかろうが、そうかの一言で済むのではないかとも思う反面、同僚が不安を感じてしまったような事態になるかも知れないという恐れがあったが、彼を信じているのならば恐れる必要も無い筈だと自嘲した時、その思いの更に奥深くでひっそりと存在する気持ちに気付き、消え失せる前にその思いを捕まえるように意識を集中する。
「・・・・・・百面相をするな」
「あ?百面相って・・・ボスは寝ても覚めてもクランプスでしょうが」
ヒンケルの言葉に憎まれ口でさらりと返したリオンは、今こう見えても考え中だと教えるように手を組んで親指をくるくると回転させ始める。
そして浮かんできた一つの回答らしきものは、ここで初めて顔を合わせたウーヴェの父、レオポルドの表情とあの手の温もりだった。
あの時己の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した後、笑うレオポルドにどうあっても勝てない思いを植え付けられてしまい、生まれて初めて素直に負けを認めた相手だからだと気付かされる。
恋人の父だの立身出世を果たした偉大な人物だのとは関係なく、ただ一人の男としても人としてもその足下にすら及ばない事を教えられたが、悔しいと何処かで思う気持ちはあるが腹が立つほどのものではなく、また彼のことを嫌いになる要素を全く感じる事は無かった。
あの時も感じたものだったが、嫌われるよりも不思議と好かれる、そんな存在であるレオポルドとどうしてウーヴェが不仲なのか。結局、リオンの頭の中では最終的にどうしてという疑問に辿り着いてしまうのだ。
ウーヴェの事件を初めて知ったときに覚えた違和感が再び浮かび上がり、どういうことだと呟きながら顎に手を宛がえば、そろそろ時間だから行ってこいとヒンケルに促される。
「ああ、行ってきます、ボス」
「仕事の内容については護衛だとしか聞かされていない。後の事は会長に直接聞け」
「Ja」
ヒンケルにぐずぐずの礼をして踵を返したリオンは、己が不意に抱いた疑問をいつか恋人の言葉から解消できるのだろうかと思案し、今はそれどころではないと己の両頬を軽く叩いて庁舎を出て行くのだった。
シルバーのBMWから降り立ったリオンは、どうぞこちらへと案内をしてくれる同年代の青年にぽかんとした顔のまま頷き、赤い絨毯が敷き詰められている長い廊下を見渡して開いた口がふさがらなくなってしまう。
最近では帰る回数が増えてきた恋人の家の廊下も長くて、その廊下が長いと言うことは家全体も広いとは認識しているが、リオンにとってはその広い家さえも小さく感じてしまう屋敷に一歩足を踏み入れるが、雨でぬかるんだ地面を歩いた結果、ウーヴェに貰ったマウンテンブーツには盛大に泥はねがあり、靴の裏にも泥が付いていた。
その為、絨毯を汚してはいけないと言う配慮から思わず靴を脱ぎそうになるリオンに、先を行く青年がどうぞそのままでとリオンを安心させるような笑顔を見せてくれる。
「・・・立派、ですね」
今のリオンに言える言葉はただそれだけで、高い天井を見上げ廊下の左右にあるシンプルな、だが高価なことを伺わせるドアの数々を見、ここまで立派すぎるとまるで美術館か博物館に来たような気持ちになってしまう。
博物館級の屋敷の中を歩きながらふとリオンの脳裏に浮かんだのは、この広い屋敷でウーヴェは生まれ育ったと言う事実だった。
己の恋人が日々笑って時には泣いて、そして大きくなった家に今来ている事を実感した時、背の高い両開きのドアの前で青年が足を止めて静かにノックをする。
この先にこの屋敷の主がいる事を察し、ぱたぱたと掌でブルゾンやジーンズの埃を払って咳払いをすると、ドアが静かに開けられて室内に促される。
そこはどうやら一般的な感覚で言うところのリビングらしく、広いとしか言いようのない室内の日当たりの良い一角に立派な革張りのソファセットが置かれ、この部屋に置いても遜色のない大きさのテレビが左右を取り囲む本棚の中央に据え付けられている。
バルコニーに出るための背の高い掃き出し窓に取り付けられているのはドラマなどで良く見るレースのカーテンで、そのカーテンの上には金糸銀糸の分厚い生地のカーテンも同じように掛かっていたが、今は日中だからか金の房がぶら下がるタッセルで括り付けられ、晴れているときに比べれば光量は少ないが、それでも柔らかな朝の光が絨毯を窓枠の形に刳り抜いていた。
「良く来てくれたな、リオン」
入口に背中を向けてソファで足を組んでいたレオポルドが立ち上がり、その横では彼の妻であり恋人の母であるイングリッドが好意的な笑みを浮かべてリオンを出迎えてくれる。
「ボスから、詳細については会長にお聞きしろと言われました」
二人の正面に立ったリオンは、服装の乱れを気にしつつも滅多にしないびしっとした礼をして仕事の話をしてくれと切り出すのだが、みるみるうちにレオポルドの顔色が変わったことに気付いて何か失言をしただろうかと目まぐるしく脳味噌を働かせる。
「・・・・・・レオ、リオンは教育をしっかりと受けているはずよ」
イングリッドの囁きにリオンが目を瞠る前ではレオポルドが深い溜息を零した後、素っ気なく頷いて彼女の白くて華奢な手を掴んで一度軽く組み合わせた後そっと手放す。
「・・・仕事の話だったな、リオン」
「Ja.会長の指示を仰げと言われました」
「おお。さすがは警部だな。こちらのやりやすいようにしてくれるか」
それは大いに助かると安堵の吐息を零し、己の妻の肩を抱いてソファに腰掛けたレオポルドは、妻の視線から何ごとかを思い出して苦笑し、リオンにも一人がけのソファを勧め、一礼した彼が腰を下ろすと同時に口ひげに手を宛う。
「この間も少し話をしたが、記念式典を妨害するような脅迫状が届いた」
「質問」
レオポルドの言葉にリオンが人差し指を立てて手を挙げて教えて下さいと告げると、彼の横で微かに不安を滲ませていたイングリッドの顔に明るい色が増した事から、己の考えと行動は間違っていなかった事に気付く。
先程の礼からきっと過去の辛く苦しい何かを思い出したのだろうが、二人の年代からすればその辛く苦しい過去が何であるかはすぐに察することが出来た為、学生の頃に叩き込まれた方法で手を挙げたのだ。
そのリオンの素早い反応にイングリッドが気付いたらしく、今ではすっかりと顔色も良くなって楽しそうな色すら浮かんでいる程だった。
「何だ?」
「そもそも、どうして今回の記念式典に脅迫状が届いたんですか?」
あの後自分なりにバルツァーというグループの事を調べたのだが、公表されている限りではテロの標的になるような感じは受けなかったと、リオンの中で芽生えていた素朴な疑問とヒンケルが黙って行かせた裏の事情を知りたい気持ちで問い掛けたのだが、返ってきたのは素っ気ない一言だった。
「知らん」
「んな!」
レオポルドの豪放な一言に顎が外れるほど驚いたリオンだったが、すぐさま立ち直って知らないじゃ無いと叫ぶが、知らないものは知らない、知りたければ犯人に聞けと言い放たれてぐうの音も出なくなる。
警備を頼みたいと言われたのだ。誰から守って欲しいのかも分からなければ準備のしようがなかった。
その事を些か情けない顔でリオンが訴えると、やっとそれに気付いたのかどうなのか、レオポルドが分厚い掌に拳をぶつけて大きく頷く。
「それもそうだな」
「今回、会社の合併と言うことですが、厄介な会社との合併なんですか?」
「そんなに厄介な会社ではないし、あちらの会社が持っていた株式の大半をうちが持っているから、長い時間を掛けて下準備も整えた上での合併だ」
だからそれによる混乱などは見られなかったと、顎に手を宛って思案するレオポルドにリオンがそれならば恨みによる犯行の筋は薄くなるという予測を立てながら足の間で手を組み、両親指をくるくると回転させ始める。
レオポルドが知らんと言い放った脅迫状を送られる理由だが、バルツァーほどの有名企業になれば従業員も多いだろうし、業種も多岐に渡っているらしい。
彼が親から引き継いだ小さな会社をここまで大きくしたその腕前は称賛に値するが、その裏では強引なやり取りはなかったのだろうか。
そもそも、今回届いた脅迫状は本当に会社を狙ってのものなのだろうか。もしかすると彼個人を標的にしたものではないのか。
そこまで考えたリオンにレオポルドが何か思い当たることでもあるのかと逆に問い掛けられ、俺にあるわけがないでしょうといつもの調子で返してしまい、我に返って今の言葉を発したのが誰であるかを思い出して真っ青になる。
「なかなか良い答えだな、リオン」
「・・・っ!!」
ヒンケルの相手をしている錯覚に陥っていたと言い訳をすれば、見苦しいと一喝されて首を竦め、すみませんでしたと背筋を伸ばして謝罪をしたリオンにレオポルドが鷹揚に頷き、太い腕を組んでソファの背もたれに寄り掛かるが、その時イングリッドが少しだけ身を乗り出して夫の腕に手を載せてリオンを見る。
「当日のレオの護衛はあなたがして下さるのかしら?」
「それですが、ボディガードについては俺よりも適任の同僚がいます。そちらに任せたいというのが正直なところです」
偽らざる本音を苦笑混じりに告げたリオンは、認めたくはないがそれでもやはり自分には身辺警護と言った神経を張りつめる仕事は向いていないと思っていた。
周囲への気配りなどはコニーやマクシミリアン達の方が余程上手く出来るし、またそれに対する実績等も積んでいる為、ヒンケルも己の部下で警護をする必要がある時はこの二名を筆頭に挙げているのだ。
その二人ではなく何故自分なのか、今回の事で最も奥深くに眠っていた疑問を投げ掛けたリオンに目の前の二人が顔を見合わせた後、長く連れ添っていると考えることまで似てくるのか、ほぼ同時に口を開く。
「決まっているだろう。お前がウーヴェの恋人だからだ」
「は!?」
「アリーセがあなたの事を教えてくれたけれど、話だけではなくて実際に会ってみたかったのよ」
そしてもしも可能ならばあなたの仕事ぶりをこの目で見てみたかったと、少女のように口元に手を宛ってコロコロと笑うイングリッドと、そんな妻に頷きながら細い肩を抱き寄せたレオポルドに、あ、ともうん、とも言えなかったリオンだったが、徐々に告げられた事実のバカらしさに笑いがこみ上げてくる。
「・・・俺がオーヴェの恋人だから、今回の護衛を頼んだ、んですか?」
「そうだな・・・・・・何か不都合でもあるか?」
「不都合って・・・!」
彼の言葉に絶句したリオンは、真正面から見つめてくる碧の瞳に強い光が浮かんでいることに気付き、ああ、この目も何処かで見たことがあるとぼんやりと思案すると、息子の恋人が刑事をしているのならば護衛を頼んでも何も悪くないだろうと言われて苦笑するが、今まで己が経験したことのない心境だった為に確信を持ってヤーともナインとも言えなかった。
刑事の家族が絡む事件については極力当人を捜査から外す了承が自分たちの中にはあったのだが、この場合はどうなのだろうか。
リオンの脳裏にその疑問が過ぎったのを見抜いたのかどうなのか、レオポルドが声を低く、更に眼光を強くしながら問いかける。
「俺がウーヴェの父だからといって手を抜くのか?」
「あー。見くびらないで欲しいですねー」
そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得るものかと、ヒンケルの執務室で初めて出会ったときの様に不敵な笑みを浮かべたリオンがレオポルドを見れば、整えられている髭の下で唇の形が変化する。
「オーヴェの親父さんだろうと大統領だろうと全力でやりますよ」
相手によって手加減をするのは皆で集まって行うボードゲームの時だけだと笑みを深め、人を見かけで判断すると痛い目に遭うと言外に伝えると、太い腕を解いたレオポルドが拳を腿に軽く宛って上体を乗り出してくる。
「ならば俺の護衛も問題無い事だ。違うか?」
そんな事を言うぐらいなのだ、公私の区別はきっちりと付けられるのだろうし、そもそもそれすら出来ない男とウーヴェが付き合うとは考えられない。
その一言に青い目を瞠ったリオンは、確かにそうだと納得してしまい、くすんだ金髪に手を宛った後に肩を竦める。
己の恋人が自宅やリオンの家以外でのスキンシップに対して激しい羞恥を持っているのと同じに、公私の別を弁えられる男であることを身をもって体験しているリオンは、そんな彼の両親だからこそ理解している事を教えられて内心苦笑する。
「当日、会長は何時ごろホテルに入りますか?」
「直前になりそうだな・・・本当はウーヴェの家に泊まることが出来れば楽なんだが、さすがにそれは出来ないからな」
記念式典の会場となるホテルはウーヴェの家からの方がここから行くよりも近く、時間的にも肉体的にも楽になるのだが、何しろ末っ子との関係が断絶している為に家に行ったことがないと肩を竦め、手間を掛けるがこちらに出向いて欲しいとも告げられて仕事だから問題ないと断言したリオンだったが、冗談のような疑問が浮かび上がって眉根を寄せる。
脅迫状自体もヒンケルが言うように狂言ではないのかと言う疑問が頭を擡げ、そんなまさかという打ち消しの声を強く響かせつつもやはり気になってしまう為に問いかける。
「もう一つ、質問しても良いですか・・・」
「おお。何だ?」
「見せて貰った脅迫状、あれ、本物ですよね?まさか会長の狂言なんて事はないですよね?」
周囲にもしヒンケルがいれば問答無用で殴り飛ばされそうな質問を放ったリオンにレオポルドが間髪入れずに本物だと返し、その言葉を補うようにイングリッドが会社に届けられたのよとのんびりと教えてくれる。
「分かりました」
では明日、念のために会社に朝一番で顔を出しますと伝えたリオンは、これで仕事が終わったとばかりに立ち上がって一礼をするが、何処に行くんだとレオポルドの心底不思議そうな声に足止めされて瞬きを繰り返す。
「え?何処って・・・署に戻るんですけど・・・?」
「パーティを挟んで3日と言っただろう?今日はもう護衛の日になっているぞ」
「・・・・・・あ」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で二人を交互に見たリオンが余りにもおかしかったのか、イングリッドが再びくすくすと笑いだして夫の逞しい腕に寄りかかる。
「レオ、護衛といっても式典の会場だけが心配なんでしょう?明日からでも良いでしょう?」
「3日という約束なんだぞ、リッド」
見るに見かねたらしい彼女の言葉にリオンが内心で安堵するが、己の妻がリオンを擁護するような発言が気にくわないのか、この屋敷の当主が子供のように膨れっ面で腕を組んで足も組む。
「せっかくウーヴェの部屋で寝ればいいと思って用意をさせたのにな」
「レオ」
夫の一言に妻が柳眉をきゅっと寄せて艶やかな唇を噛み締めてしまい、それに気付いたレオポルドが慌てる素振りも見せずに彼女の肩を再度抱き直し、悪かったと短く謝ると、リオンに対しても軽く頭を下げる。
レオポルドから頭を下げられる理由が分からないリオンが目を丸くしていると、気にするなと囁かれてただ頷き、署に戻ってヒンケルに報告をしなければならないので明日の予定についての詳細を教えてくれと告げ、ようやく明日の仕事の準備に取りかかるのだった。