テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
南方の基地に漂う空気は、いつでもエンジンオイルと重油、そして焦げたような鉄の匂いで満ちていた。蒸し暑い夜、周囲の目を盗むように宿舎の隅に身を潜め、中尉・宗方(むなかた)は自分の軍服の襟元を雑に引きちぎるように緩めた。
「……まだ起きていたのか、蓮見(はすみ)」
暗がりの中、戸口に佇む部下の姿に気づいて低く声を漏らす。
蓮見伍長は、まだ十九歳のあどけなさを残した顔立ちのまま、軍靴の音を殺して歩み寄ってきた。 その手には、明日の出撃を控えた者だけに配られる、わずかばかりの甘味と日本酒が載ったお盆が握られている。
周囲に知られぬよう、それは密かな密会だった。
「眠れませぬ。……それに、あなた様のことが気にかかりましたので」
蓮見の声は震えていなかった。
だが、その瞳の奥は異様な熱を帯びていた。
昨日まで隣で笑っていた戦友が、数時間後には機体ごと海の藻屑と消える。
そんな現実を毎日見せつけられ、自分もまた明日の朝にはその輪に加わる。生きていることのほうが異常な、そんな麻痺した日常だった。
宗方は立ち上がり、蓮見の細い肩を引き寄せるようにして、板張りの床に押し倒すように座らせた。
「馬鹿者。貴様は明日、俺の二番機として飛ぶのだ。余計なことに神経をすり減らすな」
「明日死ぬ人間が、軍規を恐れる必要があるのですか」
蓮見はふっと自嘲気味に笑うと、宗方の胸元に手を伸ばした。
その指先は、明日への恐怖ではなく、もっと生々しい飢えに震えていた。死の恐怖を忘れ去るために、人間はこうまで激しく何かを求めてしまうのか。
宗方はそれを咎めることができなかった。
自分の中にも、同じ黒い澱のような欲求が渦巻いていた。
「……蓮見」
「隠さないでください。どうせ明日には、この肉体も機体も跡形もなく吹き飛ぶのです。泥まみれの鉄くずになる前に、本当のあなたに触れたい」
蓮見の言葉は、従うべき軍規も敬語の枠も軽々と飛び越え、上官である宗方の理性を音を立てて崩壊させた。
肌と肌が擦れ合う音だけが、死臭と火薬の匂いが染みついた殺伐とした部屋に響く。
軍服の固い布地が引き剥がされ、汗に濡れた若く引き締まった素肌が露わになった。明日を失った者同士、二人は互いの体温を貪るように、縋るように求め合った。
「っ……、声が漏れる……」
「構いません。誰も来やしない。……俺を見てください、宗方さん」
命令口調を捨てた蓮見の瞳が、涙で濡れながらも痛いほど強く光っていた。
愛しているなどという、明日を前提とした甘い言葉を交わす余裕などない。どうせ灰になる命だからこそ、今この瞬間に感じる痛みも、熱も、すべてが痛切なほど「生きている」証だった。
肌がぶつかり合う鈍い音と、荒い息遣いが重なり合う。
お互いの身体に赤く刻み込まれる痕は、どちらが上官でどちらが部下かをも完全に曖昧にし、ただ「同じ絶望の運命を背負った二人の男」としての剥き出しの繋がりだけを残した。
やがて潮時を迎えたように二人が荒い息を整えたとき、遠くから重苦しいプロペラの試運転の音が響き、窓の外の空が、ほんのりと白みはじめていた。
残酷な、出撃の朝がやってきてしまった。
「……時間だな」
宗方は乱れた軍服を整え、自分の手で蓮見のボタンを一つずつ留めてやった。
その指はかすかに震えていたが、表情はすでに冷徹な軍人のそれに戻っていた。
蓮見もまた、背筋を伸ばし、凛とした表情で敬礼を作る。
もはや昨夜の生々しい熱狂の面影はなく、そこには明日という日を持たない二人の特攻隊員が立っていた。
「見事散ってこい、蓮見」
「はっ。……必ずおあとを追います、宗方中尉」
二人は並んで宿舎をあとにし、重苦しい空気が漂う滑走路へと歩き出す。
轟音を上げて響くエンジン音が、周囲の音をすべてかき消していった。
特攻機の狭いコックピットに乗り込み、キャノピー(風防)を閉めると、外界の音が急に遮断され、自分の荒い心臓の音だけがうるさく響いた。
冷え切った空気が紅蓮の朝日に染まり、離陸の合図の赤旗が力強く振られる。
宗方は操縦桿を握りしめながら、すぐ隣を飛ぶはずの二番機――蓮見の機体にちらと視線を送った。
視界の端で、小さな機体がプロペラを唸らせながら美しく宙に舞い上がるのが見える。
(あぁ、綺麗だ)
死へと向かう特攻の過酷さ、その泥臭さと生々しさを経てたどり着いた最後の空は、驚くほど澄んで青かった。
二機は編隊を組み、燃え盛るような朝日に向かって、迷うことなく一直線に突き進んでいった。
コメント
1件
ああ、重くて美しい話でした……。死がすぐ隣にあるからこそ、二人が剥き出しの心と身体で触れ合う夜のシーンが、とても痛くて切なかったです。特に「どうせ灰になる命だからこそ」という蓮見の台詞が胸に刺さりました。最後の「綺麗だ」という宗方の心の声で、涙がこぼれそうに。生きることの証明が、死への突入と重なる切なさが、本当に素晴らしかったです。
生麦
922
水夜-miyo活動休止スルカモ
95
秋宮
211
団子🍡
38