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あ、雨だ。そう気付いたのは数秒前。窓ガラスに染み付く水滴を眺めて、ふと知った。その日は丁度試合が休みの、所謂「休日」と言うやつであり、サバイバーの館では各々が食事を取ったり、遊んだり、部屋に1人籠ったり、自由に過ごしていた。僕は朝からずっと部屋に籠り磁石を磨いたり、宝石の辞典を読んだり、エコーの残高を確認したりなど趣味に没頭していた。もちろん集中力がそこまである訳でない僕であるため、今に至る。雨と言っても軽く柔らかな雨であった。これだとすぐ止みそうだ。そう思い再び趣味に浸ろうとしたその時、窓から見える景色に一瞬時が止まる。木陰に「囚人」、ルカ・バルサーが傘もささずに座っている。柔らかい雨と言えど木の葉は気まぐれで雨粒をぽたりと漏らしたり下の葉達に伝播させたり、その体をふるりと揺らしたり。その行き着く先はルカの元であり。ルカは薄く濡れていた。嗚呼、何をやっているのだろう。あのままでは風邪をひいてしまうでは無いか。そう心配になった僕はタオルと傘を持って自室の扉を開けた。サバイバーの館には正面玄関の他に裏口や他のサバイバーの自室改造による外への扉が幾つもある。僕の部屋は端に位置しており、裏口から近かったためそこを通って外へ出た。あまり寒くなく、寧ろ暖かいと呼べる程の気温に少しばかり驚いた。持っていた傘をさす。やはり雨は弱々しく、傘の中に入っていてもあまり刺激的な音がしない。そうか、そろそろ冬だ。これは時雨なのだろう。最近は試合に引っ張りだこで自室に着くと疲れて眠る、という日が多かったためかあまり気付くことはなかったが。そういえば食堂でナワーブが雨が降っていたと言っていたような。何を思い出そうとしても興味がなく軽い言葉で濁しているため、全ての記憶がうろ覚えであった。傘をさし、歩き出す。ルカが心配で出てきたというものの、この雨では風邪をひく予感がしない。だからといって放置するのも良くないのだが。少しばかり歩くと、ルカの姿が見えた。ずっと、下を向いている。頭でも痛いのだろうか。僕はそっと近付き声をかける。
「…ルカ。」
ルカは声のする方をゆっくりと向く。涙が零れ落ちる。ルカの右の瞳から。紫色に変色し腫れた左の瞳から涙が零れ落ちることはなかった。左の瞳は涙を零さないと言っても中の器官は働いているようで涙腺が働きすぎたのかルカの目元は朱色に腫れていた。僕はその光景に驚きを隠せなかった。いつも、笑っているルカ。いつも、何を考えているのか分からないルカ。いつも、物事に酷く没頭し表情の変化が喜、怒、楽しかないルカ。哀を見せなかったルカ。そのルカが、今、目を赤く染めて涙をぽろりと零している。
「…あ、…。」
ルカは僕から気まずそうに顔を逸らす。その様子を見て、僕はしゃがんだ。ルカと目線が合うように。恐がらせないように。惨めな気持ちになって欲しくないから。僕は誰も知らないルカの一面を見ることが出来て大きな優越感に浸っていた。あの、ルカが。僕に、僕だけに。その顔を見せた。見せた、と言っても見た、の方が正しいが。しゃがんだ僕から少し離れるようにルカは足を動かそうとした。それに対し僕は傘を軽く放り、抱き締めて腕の中に引き入れた。ルカは身をびくりと震わせた。そんな濡れた小さな体を、傷だらけの体を。ゆっくりと撫でた。
「…ルカ。雨で濡れちゃってるよ。タオル、持ってきたから後で拭こう。風邪、引かないように。」
僕も濡れてしまった。それでもいい。涙のことは触れないでおいた。ルカが話したくないのなら僕はそれを聞こうとは思わない。ルカは僕の言葉を聞き、腕を後ろへと回した。そして強く、抱き返した。やがて嗚咽が漏れ、体を震わせた。
「…2人しかいないよ。僕とルカ。2人だけ。」
だから、思いっきり泣いていいよ。その気持ちを込めて僕は言葉を吐く。やがてルカは小さく声を上げて泣いた。僕は顔を見ず、ずっと撫でる手を止めなかった。それから、暫く経った。時雨は段々と数滴しか落ちてこないようになった。ルカは落ち着いたのか、少し枯れた声で僕にこう言う。
「私はどうしようも無い、救えない人間なんだ。いつも、発明に没頭してきた。この脳みそでも、発明だけはいつも覚えていて、それでも。つい考えてしまったんだ。もし、全てを忘れてしまったらどうしよう、と。私が犯した罪、私が罪を犯してまで熱中した父の研究に対する喜び、荘園のみんなが私に教えてくれた楽しさ、裏切られた悲しみ、怒り。君に対する、私の劣情《こいごころ》。そしたら私は、私であって私ではなくなる。存在する意味ですら、なくなる。その事がとてもちっぽけで、とても軽くて、とても恐ろしかったんだ。そう思うと、涙が止まらなくなって。」
ルカは僕に心を少し見せてくれた。ルカの生きる意味、今のルカが僕に隠していた本当の思い。それを無くしたくない。僕もルカの言う記憶が全て消えることが恐ろしく思えて。でも、一番恐いのは本人であって。僕は抱きしめる腕の力を強めた。ルカの存在がここにあると実感できるように。
「ルカが忘れないように僕がいつもそばにいる。たとえ忘れたとしても、また1から思い出せばいい。僕がその手伝いをする。君の道標になる。僕に対する君の思いを劣情、だなんて言わないで。僕はルカのその気持ちがとっても嬉しいんだから。」
ルカに見えぬところで朗らかな笑みを零す。ルカは一瞬止まりばっと顔を上げ僕を見つめる。泣き腫らした跡、充血した目。それでいても、可愛らしい。
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
ルカは驚きに目を見開いている。
「君、それはもう告白みたいなものだぞ!?」
驚き故か声を荒らげる。僕は理解できなかった。
「え、そういうつもりで言ったんだけど。」
段々と頬が赤く染まっていくルカ。瞳をうるうるさせこちらを上目遣いで見つめる。その姿に胸が苦しくなり、つい額に小さくキスを落とす。可愛らしい程に小さなリップ音。ルカは数秒停止した後、声にならない叫びを上げ口をはくはくとさせていた。
「分かった?君のそれが劣情なら、僕のこれも劣情であり、君と両想いになるんだから。」
嗚呼、冬に近付く時雨がもたらしたのは2人の心に愛という温もりを灯すことであった。その日その後どうしたかは覚えていない。緩く残る暖かさを愛おしく思いながら、それから、共に居た。たったそれだけ。次の日にも腕には体には、心にはルカの温もりが残っていた。惚けたまま、僕は廊下に出た。頭もあんまり回らずゆるゆるとした足取りで朝食を摂るため食堂へと向かう。今日はちゃんと試合があるのに、こんな状態では戦犯をしてしまうだろうな。そう考えつつ、食堂へ向かうと墓守がそこにはいた。
「…嗚呼、キャンベルさんか…。そ、そういえば…昨日、外でルカが泣いてなかったか…?何かあったのか気になったが傘がなかった為に穴から出られなかったんだ…気付いたらルカはそこにはいなくて…キャンベルくんの声がしたから…な、何か知っているんじゃないか?」
墓守がその時そばに居たことを今初めて知った。2人だけだと思っていたのに、少しだけ不満が募ってしまう。この様子だと昨日の会話はしっかりと聞こえていたわけでは無さそうだ。少し恥ずかしさと嫉妬を覚えた。そしてなによりルカが泣いていたという事実を他に知られるのは嫌だった。そう、独占欲と言うやつだ。嫉妬と独占欲が強いなんて、ルカはやばい部類の人間に捕まってしまったわけだ。墓守の問いに対し、僕は思い出したかのように惚けながら語る。
「嗚呼、あれはね、涙じゃなくて…」
時雨が、濡らしたんだよ。