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もう、外の世界は、完全に切り離された。
音が消えたわけじゃない。
でも、どこか遠い。
まるで厚いガラスの向こう側に、現実が押しやられたみたいだった。
「……静かですね」
私がそう言うと、光流は少しだけ間を置いて答えた。
「うん。そうなるようにしてる」
廊下は長く、壁には何も掛かっていない。
生活感がないというより、最初から何も置く必要がなかったような空間だった。
「一人暮らし、ですか?」
「まあ、そんな感じ」
歯切れの悪い返事。
私は、それ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
奥の部屋に通される。
扉を開けた時、私は息を呑んだ。
部屋の中央に、奇妙な装置があった。
円形の床。
幾何学模様のような線が刻まれていて、淡く光っている。
機械なのに、どこか生き物みたいだった。
「……なに、これ」
私の声は、自然と小さくなった。
光流が、私の隣に立つ。
昼休みの屋上と同じ距離。
なのに、別人のように感じた。
「凪」
初めて、真剣な声で名前を呼ばれる。
「ここから先は、冗談じゃ済まない」
光流は、装置に手を触れた。
光が、ゆっくりと脈を打つ。
「俺は、国の管理下にある組織に所属してる」
私は、言葉を失った。
「この世界の均衡を保つための、極秘組織。
主な仕事は――時間への介入」
「……タイムスリップ、ってことですか」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
光流は、少しだけ目を見開いてから笑った。
「話、はやいね」
「信じてないわけじゃないです」
私は、装置から目を離せなかった。
「ただ……ここに来てから、
現実じゃない感じが、ずっとしてて」
光流の笑みが、消えた。
「それに気づけるのが、普通じゃない」
そう言って、彼は私をまっすぐ見た。
「凪。君は、時間のズレを感覚で捉えられる」
胸が、ひやりとした。
「月が嫌いだって言ってたよね」
私は、微かに頷いた。
「時間を越えるとき、
月は必ず“境界”として現れる」
装置の光が、少し強まる。
「君は、月を見たとき、
他の人より強く違和感を覚える。
それは、時間に馴染みきれていない証拠なんだ」
「……だから、私?」
「そう」
光流は、迷いなく言った。
「巻き込んだんじゃない。最初から、君は対象だった」
「なんで…」
「俺と、同じ目をしてる」
私の中で、何かが崩れた。
普通で、平凡で、
何者でもないと思っていた自分。
「断ることは……できますか」
光流は、少しだけ視線を逸らした。
「できる」
その沈黙が、答えだった。
「でも、もう知ってしまった。
ここを出ても、
世界は前と同じには見えない」
私は、装置を見つめた。
淡い光が、月明かりみたいに床を照らしている。
逃げたい。
関わりたくない。
人の人生なんて、背負えない。
それでも。
「……最初の任務は、いつですか」
自分の声が、遠く感じた。
光流は、静かに息を吐いた。
「今夜」
装置の中心に、光の輪が浮かび上がる。
凪は気づいてしまった。
胸の奥で、ほんの少しだけ――
世界が動く音を。
月を嫌いなまま、
時間の中へ落ちていくことになるなんて。
その夜が、
四葉 凪の人生の分岐点だった。