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101
その日、寺院では厳かな式が開かれていた。
2つの戒名を手に、2つの棺と一人の坊さんの背後で立つ。
目を腫らして泣きじゃくる兄弟2人と、後ろで聞こえる参列者のすすり泣く声。
あの参列者で、どれくらいの人間が『可哀想だ』『お父さんの代わりに立派な大黒柱になれ』と言われたことか。
俺はなぜか泣けなかった。
坊さんの頭を睨みつけるように前を見据えてお焼香の抹香を指で握りつぶした。
時は代わり、昭和と大正の間。
庭園には木枯らしが吹き抜ける。
その様を三兄弟は縁側で集まって立ち、眺めていた。
「…長くね?」
柔太朗の一声が寂しく庭園に響いた。
かれこれ10分ぐらい話してるだろうか。
「病状あまり良くないんちゃう?今日も匙投げられたやん」
「俺、医者変えたほうがいい気がするんだけど…」
兄たちの会話をなんとも言えぬ…思ったよりも引き攣るように笑みを浮かべる舜太は、そのやりとりに対してついに口を開くことはなかった。
それは患者も同じだった。
布団のそばで佇む難しい顔をした医師にもう大体のことは察していた。
「……長くて2ヶ月。次の喀血があれば…」
耳に一等強く、外の木枯らしの音が轟々とひびいた。
佐野診療所には今日も多くの患者が訪れていた。
「はい、これでよし。もう来んなよ」
佐野勇斗。
若くしてこの町一番の腕前を誇る医師は、その子どもの頭をわしゃわしゃと撫でて、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「また来るねー!」
「すみません、佐野先生。ありがとうございます」
大手を振る子どもと申し訳なさそうな親の顔を笑顔で見送る。
…これで午前の診療は終わった。
軽く伸びをして、聴診器を首に雑にかけた。
「じゃあ、俺行くから」
そこにいた看護婦に声をかけて手提げ鞄を手に持つ。
手に取り革靴の音を鳴らしてハンチング帽を被り、外へと旅立った。
外に出ると、吐く息は忽ち白くなる。
雪を踏み鳴らし空からも浴びれば、またそこかしこで声をかけられる。
「ああ、佐野先生。この前の薬効いたよ」
「そりゃあよかった」
「佐野先生、今日も後で字の書き方教えて」
「お、いいよ。ちょっと見せて」
大通りに出れば、沢山の人が賑わっていた。
間を狭そうに人力車が通るのを横目に駅まで真っ直ぐに向かう。
⋯今日は、珍しい出張診療が入った。
何やら名家の息子らしく報酬はたんと弾んでもらえるようだが、なにぶん庶民の生まれなのでそういったことにも疎い。
とはいえ兄弟を預かる叔父叔母はそこそこの地主らしいので金はそこまで心配いらないはずだが、少しでも足しになる分には申し分ない。
葬式の時に知った。
金はあればあるだけいい。
⋯偉そうな奴じゃないといいが。
大きな木造の家に庭園。
おそらく庭師が手入れしているのだろう。
広がる目の前の雪景色にそれに恐れおののきながら、庭に比べたらやけに小さく見える、2枚の玄関の戸に「ごめんください」と声をかけた。
出迎えた和装の男…柔太朗は穏やかな笑みを浮かべた男であった。
線が細く、瞳もやや眠たげで、やや不健康に見えたものだ。
「えーっと、君が患者⋯?」
その肌白さに思わず問いかけたものだ。
彼は驚いたように目を見開いておかしそうに笑った。
「俺じゃないですよ。こっちです」
そう言って、一つの障子の前まで案内した。
…案外、少年のような無垢な笑顔を見せるものだ。
彼らの長男⋯もとい患者の名は『仁人』。
齢26歳。
⋯俺の2個下か。
若いのに、大変だな。
「もともと虚弱だったんですけど、去年流行病を拗らせちゃって。この前まで別の先生もついに匙を投げられたんです。俺らも先生からあまり寄り付かないように言われててなかなか様子を見に行けなくて⋯」
柔太朗は三角巾で鼻と口を覆い隠しながらモゴモゴと話した。
「兄弟は他にも?」
それと同じように三角巾で鼻と口を覆いながら問い返した。
「はい。舜太と太智…年子の4人兄弟です」
「大家族だねえ。 俺ん家も三兄弟だけどさ、結構大変でしょ、そんだけいると」
「あはは、確かに喧嘩は多いですね。兄が病気にかかってからはさらに拍車がかかってます」
そんな話をしているうちにたどり着いた。
柔太朗は障子に向かって一声かけた。
「開けるよ」
「はーい」
なんだ、えらく元気そうな患者じゃあないか。
ハリのある声にそう思いながら障子を開けた。
その瞬間、思わず目を見開いた。
布団の上にいた軽装の着物の男は、案内した柔太朗に劣らず色白な男だった。
体を起こし布団の上で小説本を開くその手は白く柔らかそうだ。
大きくて丸い瞳が俺を捉えると、思い出したように開いた。
「ああ、あの例の先生か」
ペコ、と会釈するのでつられてこちらも会釈した。
⋯⋯あれ?なんか⋯。
胸によぎった残像が心臓を締め付けるようだった。
「柔太朗、体に障るからもう行きな」
寂しそうな顔を一瞬見せた弟は「なんかあったらいいなね」と言い残し、障子を閉めた。
静まり返った空間で我に返り、改めて向き直った。
「医師の佐野勇斗です。⋯長い付き合いになるから敬語なしで」
「ごっつ仕切りないじゃないですか⋯じゃあそうします。こっちも気が楽だし」
小説本を枕元に置くと、「吉田仁人です」とまた頭をぺこり、と下げた。
笑うと深まる笑窪から目が離せなくなっていた。
…いい顔立ちだなあ。
キリリとした太眉に大きい瞳、少し垂れる目尻。
ぽってりとした唇。
…もしこのような体でなければきっと引くて数多だっただろう。
「⋯どこまで聞いた?」
「流行病になったというところまで」
「流行病で⋯医者に諦められて⋯もって2ヶ月だと」
そこで目をむいて顔を上げた。
その表情は変わらないままだ。
「あいつらには言えてないけどね。もう肺がやられてるんです。だから⋯」
そこでひどく咳き込み咄嗟に背中を擦った。
落ち着いて息を整えるとちょっと笑った。
「⋯次の喀血が来たらもう終わりだって言われてます。もうあとは待つだけなんで⋯柔太朗は、信じてくれて医者を呼んでくれたけど、もう俺わかってるんで」
その目は暗く、若いながらに覚悟が決まっていた。
「⋯わかった」
仁人の顔を見てニッと笑ってみせた。
「⋯ちゃんと看取るのも医者だからな。しっかり最期を飾れるようにするわ」
それを言うと、仁人は少し笑った。
「⋯先生、絶対嘘つくの下手くそでしょ」
案外、聡明な男なようだった。
2度目の診察は1週間後だった。
「体調どう?」
「…ちょっと熱っぽいぐらいですかね。でも幾分か楽です」
「ほんと?じゃあ薬効いてるか」
けほけほ、と胸を押さえて軽い咳をしながらそう答えた。
その背中を摩りながら問診を続ける。
…調べ尽くしてたまたま東洋に流れ込んできた薬を裏の路で取れてよかった。
診察が終わったことを告げると布団の中へ入っていった。
こちら側に体を向けながら、上目遣いに半笑いで聞いてきた。
「…え?帰んないの?」
「寂しいこと言いやがって…診療所も終わって暇なの。ちょっとは付き合ってよ」
「俺病人だよ?休ませろよ。病原体の塊なんだけど」
「いいの。人はみんな何かしらの菌持ってるって米国で言ってるんだから」
「へえー」
「…確か」
「怖いこいつ…俺近所に吹聴して回ろ」
「やめろ。安静にしてろよ」
「一緒にばら撒いてさ」
「最悪。それなんて言うか知ってる?」
「『ええじゃないか』?」
「馬鹿、伊勢神宮じゃねえよ」
仁人はんふふ、と歯を出して笑った。
笑顔になると随分と和らいだ印象になる。
2個上の医者を『こいつ』呼ばわりしてくるあたりもはや偉い存在とも思ってもなさそう…思ってなくて結構だが…気づけば小気味のいいやり取りにこちらが破顔した。
「…なんか、やりたいこととかないの?」
背中を摩りながらそう問いかけると、落ち着いた仁人は少し思案して、口を開いた。
「なんだろう⋯桜がみたい、とか。かなあ」
桜⋯。
外の風景を見やる。
しんしんと積もりゆく雪は、明らかに春の訪れとは程遠いものだった。
「⋯なんで仁人は桜が見たいの?」
「鹿児島の地元に、桜の名所があるんですよ⋯霧島神宮って。幼い頃に親につれられて行った記憶があって、そこの桜がめちゃくちゃ綺麗なんですよ。⋯いずれ戻ったら見に行きてえな、とは思ってたんですけどこうなっちゃって⋯」
鹿児島…。
案外遠いところから来たことに絶句する。
ちょこちょこと入る訛りはここから来ていたようだ。
彼の目の先は庭園に向けられている。
目線を追って自分もそこへ視線を向けた。
重い雪に耐える立派な松が数本と葉をなす背の低い植木、たまに波紋を作る瓢箪型の池に、風情ある庭園。
その瞳は、どこか懐かしさを抱くような穏やかな瞳だった。
…そこで、とある木の集団に目をつける。
葉の飾りがなく、寒そうに雪を積もらせている。
「…あの木は何?」
「ああ、桜です。ここに来たときからあったとかなんとか…去年はバタバタして観れずじまいでした」
「桜もあんのか。すごいわここの庭園。好きだなー」
「…俺も好き」
不意に出た言葉に思わず仁人の顔を見た。
大きな瞳はこちらを見上げ、その頬に笑窪が現れた。
「けどめっちゃ虫いるんで俺は近づかないようにしてます」
「虫ぐらい払えばいいだろ」
「無理。本当に無理」
ありえない、と言わんばかりに顔をこわばらせて首を振った。
その顔がすごいのなんの。
「すっげえ顔」
思わずこらえきれずに吹き出す。
その瞳はまた外に向けられた。
「舜太や柔太朗があそこで球蹴りしてたり、太智が変なことやってたりして⋯久しく見てないですけど」
「へえ、あいつらそんなことするのか」
「まあまあ…仲良くしてやってくださいよ。特に舜太は医者を目指してて、現に頭の切れる利口な奴なんで。たまに情のかけらのないこと言ってきますけど」
そう話す彼の目は柔らかい温度を帯びている。
それはさながら、桜咲き誇る春の陽気だった。
その時、どんどん、と障子の枠を叩く音がした。
「仁ちゃん!長話すんならはよ先生かーしーてー!」
「うるっせえな…はいはい今返します」
忌々しげに舌打ちしながらもどこか笑みを隠せてない様子につられた笑みを浮かべた。
「じゃあ行ってやってください」
「そうするわ。じゃあまた来週」
舜太の呼ぶ声に返事をしながらカバンを引っ掴んだ。
閉める瞬間の一寸の間から合う視線に微笑みかけて障子を閉めると、外で待機していた舜太が朗らかな笑顔で「よろしくお願いします」と会釈した。
「あ、先生にいいこと教えます」
怪しげな笑みへ変貌を遂げたどうやらこの舜太という男は、とんでもない自由人らしい。
「うちの仁ちゃん、案外寂しがりなんです。たまに構ってあげてください」
この言葉の意味を理解したのは、次の診察の時であった。
10日間。
これは次の診察までの期間であった。
雪は晴れへと変わり、雪を溶かすのに3日、埋まっていた地面が乾くのに3日、その曇天が続き、雪へとなりきれなかった冷たい雨が降り注ぐのが今日。
女の心の如くころころと変わりゆく天気に、佐野診療所は多忙を極めていた。
そして手が空くひとときの間は、あの青年のことで頭がいっぱいになっていた。
…医師の見解としては、概ね好調。
この薬の効きが良ければ、2ヶ月と言わず3ヶ月、4ヶ月と持つこともあり得る。
舜太もわからないことを電報や電話で問いつつも仁人の様子を教えてくれる。
だから心配はいらない…はずなのだが。
…何故か引っ掛かっていた。
勘というものなのか。
ちらり、と時計を見やる。
…間も無く終診。
会計待ちが多い。
汽車の最終に乗ったとて、明日に間に合うかどうか。
…朝イチで乗れば間に合うか?
「先生、腰を痛めた患者さんが新しく入りました」
看護婦の声が終わると同時に立ち上がり、看護婦を驚かせた。
手早く白衣を脱ぎながら荷物をまとめる。
「ごめん、俺あの患者のとこへ行ってくる」
「先生?でも汽車の最終はまだ…」
「状態が良くないらしい。…湿布出しといて。診察はそれでも治らなかったら明日にでも」
「ちょ、先生!?」
看護婦たちの戸惑いの声を背に傘を持って冷たい雨の中へ飛び出した。
水飛沫を上げながら冷たい空気に身震いした。
それでも歯を食いしばって汽車へ向かったのは、あの熱っぽい体に突き動かされたからだ。
…あいつのほうがずっと辛い。
時間が経つにつれ、節々の痛みが強くなっていく。
久方ぶりに出す高熱に頭を焼かれそうだった。
兄弟たちはまだ学校や仕事場から戻ってこない。
家で唯一人、どうしょうもなくのたうち回っていた。
グッと気道が狭まる瞬間があると、すぐにうつ伏せになって達磨のように丸まり、咳をした。
⋯咳をするたびに感じる、この肺の潰れそうな感じが嫌いだ。
荒い呼吸を落ち着かせるように胸を押さえていると、真っ白な布団に紅のあとが目に止まる。
⋯出血。
『2度目の喀血があれば⋯』
脳裏に蘇る。ひゅっと息を飲んだ。
⋯俺死ぬのか。
⋯一人で、まさかここで。
ぐるぐると巡る考えに不安を掻き立てられる。
⋯柔太朗、太智、舜太を残して。
当たりは強いけど優しい、暴走機関車のような、ふざけすぎるが賢い兄弟たち。
⋯まだ隔離されてからまともに会えてもないのに。
別れるにはまだ早すぎる。
最後の両親の死に顔が過る。
⋯到底大往生とは言えないような末路に。
「⋯⋯無理、それは⋯無理ッ⋯」
恐れのままに溢れ出る声は肺をえぐるような咳で遮られた。
頭が重い。
体じゅうずきずきとした痛みと寒さで蝕む。
吐くような咳で敷布団を握りしめた。
咳の間で感じた気配に顔を上げた。
⋯少年のような笑みの、いつも疲れたような隈をこさえて、医者の顔が青くなるとはまさにこのことかと思う、好青年の男を。
「⋯⋯せ⋯、先生⋯」
震えた唇から、飛び出したのは思いもよらぬ人だった。
布団を握る手が自然とそちらへ伸びていた。
「遅くなってごめん!!!」
その声のすぐ後で、肩を支えられた。
肩に触れた冷たい手。
段々とそこは湿り気を感じる。
その手のうち片方が前髪の暖簾を上げ、額に当てられた。
「高熱⋯。仁人、一度薬を飲もう。ほら、ちょっと体勢変えて⋯」
体を言われるがままに横に向けると、先生と目があった。
前髪から覗く真っ直ぐな力強い目に射抜かれた。
言いたかったことが、ずっと胸の内で無意識に沈めていた言葉が浮かび上がってきた。
⋯変だろ、まだあって3回目なのに。
「⋯先生」
気づけば、その首に捕まるように⋯引き寄せるように腕を巻き付けていた。
「ちょっと待って、薬取れないんだけど」
「いい⋯⋯丁度いい」
「嘘だ、ガタガタ震えてるのに」
体の熱が冷めるようだ。
胸が熱くなり、目頭に熱を持ち始める。
波打っていた心がだんだんとおさまっていくのを感じた。
そこから出てきた言葉は思いもよらないことだった。
「⋯先生、もうちょっとだけいて」
多分、胸のうちに出てきた言葉は全部、『寂しかった』でまとめられるのだと後々気づいた。
⋯やはりこの寒暖差に当てられたのか。
布団の上に一滴だけ落ちている鮮血。
幻覚症状。
⋯これは⋯甘く見すぎた。
その背中を引き寄せた。
「⋯⋯両親はいつに?」
落ち着いて衣を替えた仁人は布団に入り、天井を見つめていた。
「去年の夏に流行病で。あいつらまだ学生だし、ちょうど医師もかなり不足してたらしくてあまり来れなかったから俺が看病してました。よくわかんないけど忙しかったんでしょ?」
「まあ⋯この辺りは特に流行ってたとは聞いてた」
「働き先も別にそんなに忙しいわけでもなかったから、まあいいかと思って。気をつけてたけどやっぱなるときはなるんだなって」
「⋯」
軽い口調でそう言ってのけた。
「俺もさ」
口を開くと仁人が顔を向けた。
「数年前に親なくしてるの」
仁人が目を見開いた。
「すげえ言われたよ。しっかりしろだの、お前が大黒柱になれだの」
「ふは、わかるー。俺も両親が病気してから言われた。その成れの果てがこんなんっつったらどんな顔するんだろうな?」
仁人が少し意地悪をするように言って笑った。
「ちょっとそれは俺も気になる」
「ふはは、でしょ?」
笑って咽る仁人の背中を摩った。
つられてこちらまで笑ってしまった。
「⋯親が死んでもさ、こっちは泣けねえんだよ」
仁人の言葉に思わず見やった。
変わらずその顔は面白そうに笑っている顔。
「誰も見たくないでしょ、長男坊がメソメソしてるのなんか。だからって泣かなかったら親不孝者だって言われて。世知辛いよ」
「わかる、わかる」
思わず身を乗り出した。
「先生はさ、俺が死ぬとき泣いてくれる?」
仁人の問に言葉を詰まらせた。
医者として、患者に情を入れ込むのは最もしてはいけない。
なのに、こう答えていた。
「泣くよ。めちゃくちゃ泣く。代わりに泣いたげるよ」
「いらねえー。⋯ならいいや、ちょっと怖くなくなった」
「⋯嘘つけ、怖いくせに」
苦笑してそう呟くと、おもむろに仁人の手を取った。
ぎょっとする仁人をよそにその手を握ってやった。
冷たく、握り返しが弱いこの手は明らかに病人のようだった。
「気持ちわりぃなこれ」
「手ぐらい繋ぐだろ。⋯うちの両親にいつも、こうしてほしいって言われたから」
仁人は呆れ笑いのように目を細めて、「⋯はいよ」とごろりとこちらへ体を向けた。
力のない手を握ってやると、しばらくして玄関から帰還の声がした。
その頃には、仁人の方からは寝息が聞こえてきた。
そこからは診察の回数が増えた。
週に4度。
かなり増えたと思う。
⋯いや、もはや診察と言えるようなことでもないかもしれない。
来て、状態を確認して、雑談をしたら手を握って眠りにつく。
仁人は、床に臥せていることが多くなってきた。
熱も高い状態が続きながらも、仁人は笑みを浮かべて出迎えた。
毒の交じる言葉とともに笑う日々が、気づけば当たり前のようなものとなっていた。
当たり前というにはあまりにも宝箱のような、それこそ今年の桜の散りゆく様に近しいようなものだが。
庭園の桜は、硬い蕾を割り、淡色が顔を出し始めていた。
「桜に蕾ができてた」
そう言うと、仁人は安心したように笑った。
「なんとか⋯ね」
今日の体調は、熱が高いが体は起き上がれている。
上着をかけて寒くないようにしているおかげか、悪寒も抑えられているようだ。
⋯ただ、とゴホゴホと咳をする姿を見て難しい顔になった。
状態は良くない。
あれ以降血が交じることはなくなったが、咳の音が変わっている。
沈黙が舞い降りたその時、仁人が口を開いた。
「ね、先生⋯あのさ⋯」
「やめとけ」
すぐさま否定すると仁人は苦笑した。
「ねえ俺まだ何も言ってない⋯」
「わかるわそりゃ。『兄弟に会いたい』⋯だろ絶対」
「はは⋯ごっつ正解⋯」
弱々しく笑いながら視線が手元に落ちる。
項垂れたような光景に罰が悪くなる。
⋯正直、あわせてやりたい。
家族と別れられないあの悲しい兄弟の顔は忘れがたいから。
⋯時間制限を設ければ行けるだろうか。
「⋯ちょっと待ってて」
「先生が⋯俺に相談?」
仁人のいる部屋から離れた庭園の東側で、偶然鉢合わせた舜太が不思議そうに聞き返した。
「⋯仁人がお前らに会いたいって言ってる。⋯舜太ならどうする?」
「えっ⋯」
戸惑い顔の舜太は少し思案して、口を開いた。
「俺が医者の立場になったらっていうことですよね?」
「そう」
「それなら⋯⋯」
舜太の答えを聞いて、静かに微笑みを見せた。
「さすがだわ、俺の弟子。じゃあ、そうしよう。仁人に伝えてくるから兄弟たちにも伝えといて」
「はい!」
「あと、舜太」
最適解を出して安心した顔の舜太を呼び止めた。
「⋯卒業後の病院の就職先は決まってたりする?」
「決まってない、です」
「そう。⋯なら、俺はお前を指名したい」
そう聞いた瞬間、舜太は目を見開いた。
その顔は、やや不安げなような、嫌な予感に襲われたような。
「⋯え、先生、何言って」
「後継者に⋯舜太に来てほしい。俺と一緒に診療所回すのもいいけど⋯」
その次に聞いた言葉で、舜太は完全に固まってしまった。
兄弟たちの面会は、非常に騒がしいものだった。
「仁ちゃん!」
「仁人!久しぶりやんなー!」
布無しでの面会は、柔太朗も太智もとても嬉しそうにしていた。
「なんかあれやな、貧相になったな!」
「お前他に言葉なかったの??」
「俺と同じぐらいになってきたよね」
「ごめん、お前とだけは一緒にされたくない」
庭園の縁側に腰掛け、その隣で俺は一緒になって笑った。
ひだまりの中で無邪気に笑う仁人の顔は、何故かとても彫刻品のように美しく感じた。
たまに振り返って、楽しさを共有するように笑いかけてくる。
それがどうにも⋯胸が痛かった。
チラリ、と後ろを見ると舜太は笑っているが、どこか寂しげな雰囲気があった。
仁人はそれに目ざとく気づくと、舜太、と呼びかけた。
「こっち来なさい。いや、医学的に許す範囲で⋯さっきからお前寺子屋で和に入れてないやつみたいになってっけど」
「誰が仁人のことやてー!」
「何だお前はっ倒すぞ」
「ちょ、仁人落ち着け⋯」
舜太は「あはは」と笑っていた。
その細めた目からボロッ、と大きな雫が溢れ出た瞬間、現場は騒然となる。
「ええええどうした??」
「あーあ可哀想!お兄ちゃんに泣かされて可哀想!!」
「いじりやがってお前」
「舜、本当にどうした?」
心配げにする柔太朗にも首を振って応えようとしない。
代わりに、「仁ちゃん⋯」と嗚咽の中で指名した。
「もう俺⋯ほんま嫌や⋯なんでこうなるん⋯⋯俺、全部知ってるし⋯⋯⋯」
ごめん、なんの話だ。
グスグス言ってて何言ってるかわからん。
ほら、仁人もわけわかんないって顔してるし。
⋯そこで合点が言った。
「仁人⋯伝えてないことあんじゃない?」
「は?伝えてないこと⋯ああ」
仁人は難しい顔をしたあと、目を瞑って息をついた。
覚悟したように、息を吸った。
「今日終わったら⋯先に父と母に会いに行ってくる」
その言葉に、そこにいた兄弟たちから打ちひしがれたような空気を感じ取った。
仁人は至って穏やかな顔だった。
「先生のせいじゃないんだ。前の先生から言われてたことだった。⋯黙っててごめん。2度も寂しい思いをさせて⋯本当に申し訳ない」
そう言って頭を下げた。
暫しの沈黙ののち、声を上げたのは太智だった。
「⋯違和感すごいわしおらしい仁人⋯なんか変な薬でも飲んだん?」
仁人は耐えきれずに吹き出した。
そのままゲホゲホと咳込みすかさず背中を支えた。
「ばっ⋯おまっ、⋯ほんっと⋯⋯」
「大丈夫だよ」
柔太朗が口を開いた。
その目の色は、明らかに『弟』の顔ではなかった。
「もう俺らも小さい子じゃないんだから。安心していってきな。⋯よろしく伝えといて」
微笑みを携えながらも⋯やはりこの子らは彼の弟なんだと思える。
舜太も書生のシャツで目元を拭い、太智は変わらず茶目っ気のある笑顔であった。
「俺が責任持ってちゃんと看取る」
俺の声に、そこにいた4人振りかえる。
仁人に組んだ肩を軽く叩いた。
「薬量も調整してできる限り苦しまないようにする。みんなに仁人の様子も教えるから」
弟たちは目を見合わせて笑った。
⋯なんか面白いこと言ったっけか。
俺の様子を見た柔太朗は「いや」と弁解を込めて話した。
「なんなら今日から看取りまで一緒に過ごしてもらったほうがいいんちゃうって」
思わず仁人と顔を見合わせる。
「そうそう。仁ちゃんも寂しいだろうし、俺らもそうなれば色々準備とかもあるし。だって先生家族みたいなもんやん」
舜太の言葉に胸が熱くなった。
⋯家族。
「な、仁ちゃんもそれでええよな?」
そう太智に問いかければ、仁人は「先生が迷惑だろ」と眉をひそめた。
「仁人、俺はいいよ」
「いやでも」
「いいのいいの。腹割って話した仲だし?」
仁人は少し考え込んで、最終的に頷いた。
「じゃあ仁人、もう時間になったから。⋯ちゃんとお前らも感染対策しろよ!薬後で渡しとくから」
指さして強めに言うとドッと笑い声が聞こえた。
「じゃあ仁ちゃん、またな!」
「あったかくして寝やんと!」
「先生、よろしくお願いします」
障子が閉まるまで仁人は慈愛の笑みで手を振り続けた。
カタン、と障子が閉まってあたりには静けさが舞い降りる。
「⋯先生」
閉まった障子を見据えたまま、仁人が口を開いた。
もう言葉はいらなかった。
黙ってその肩を引き寄せた。
頭が肩に乗った その途端、大きく身体を震わせて俺の洋装に大粒の雫を落とした。
咽るように咳が出れば背中を叩き、自ら声を押し殺すように押さえた口から嗚咽が漏れれば頭を撫でた。
「⋯いい弟を持ったな」
ただそれだけ言葉にした。
診療所は代わりの医師が見つかり、なんとか手配はついた。
舜太の申し出もあり、学校のあと診療の手伝いに来てくれることも決まった。
そこからは、とにかく仁人のそばにいた。
仁人はどこから憧憬のような、懐古のような瞳で天井を見つめていることが増えた。
兄弟の名を、そしてもういない両親を求める声。
そして何故か⋯。
「⋯⋯先、生」
「おい、先生はこっちだっつの」
呆れ顔でそう告げると、仁人はハッとしたように目を見開き、やっと俺と目があった。
「⋯先生、いるんだ」
「いるよ。今日からずっと先生ばっかりだ」
布団の傍らで胡座で座っているところを腕を惹かれる。
「⋯ん?」
「⋯手」
⋯握ってほしいのか。
少し笑って、仁人の横に寝そべるとその手を眼の前で握ってみせた。
仁人はぼんやりした目でも少しだけ口角が上がった。
「⋯あのさ⋯先生」
「ん?」
「手⋯温かい」
「だろ?」
「むしろ熱い⋯」
「お前さあ⋯」
「⋯ちゃんと、泣いてね」
「⋯うん、泣くよ」
「⋯別に泣かなくても、いいけど」
「なんだよお前」
「⋯先生」
「何、仁人?」
「⋯迎えは、行くから⋯」
その朝は、とても麗らかな春の陽気に包まれていた。
俺が見下ろしていたのは、布団からもはみ出て畳まで濡らした、血の海。
その真ん中で、ひゅう、ひゅうと呼吸が上がっていた。
⋯息はある。
血がつくのも気にせず、膝をついて手を握った。
「⋯苦しいか」
「⋯、⋯」
首を振った。
呼吸の速さは苦しそうな速さはない。
寧ろ、止まりそうなぐらいゆっくりだ。
「⋯仁人」
桜を見に行こう。
春の陽気に包まれ、鶯は鳴く。
仁人の背中と膝裏を抱え、桜の下へと歩み寄った。
3部咲の桜は、満開に劣らない美しさであった。
「ほら見て仁人」
腕の中の仁人も、薄く開いた瞼で木を見つめていた。
顔も和装も鮮血に塗れているとは思えない、穏やかな顔で。
桜の花弁が一枚、ひらりと仁人の胸元に落ちた。
その時、仁人は桜の幹の向こうへと首を回した。
仁人には、俺が見えていたのか?
それはわからない。
ただ確かに、仁人の声はそう言った。
「……勇、斗…」
言葉も出ないまま、仁人が震えながらもまっすぐ手を伸ばした。
色白の肌は陽の光に照らされて眩しく思えた。
「…ああ」
全てが終わった。
揶揄うような風が今穏やかな眠りについた仁人の前髪を揺らす。
…最後のは聞いてないって。
だから、お礼をすることにした。
血に塗れた仁人の口元に、ゆっくりと唇を近づけた。
風が一等強く吹き付ける。
血は、己の唇をも真紅に染めた。
ああ、声を上げて泣く時に限って、風は止まってしまうものか。
雲雀も、鶯も、鴉でさえも、鳴いてくれはしなかった。
大の大人が声を上げて泣く姿を、黙って見守ることしかなかった。
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この時間に涙が止まりません😭すごい大作を見せて頂きました、ありがとうございますm(__)m