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ノエリの沈黙は彼女の言葉が冗談でないと語っていた。
詳細は知らないが、彼女は小牟田式子に並々ならぬ思いを寄せていたのだ。失踪しただなんて趣味の悪い嘘はつくまい。
下手な返答をしようものならノエリを傷つけることは間違いないので、俺は上手いこと表現を取り繕おうと、滅多にないほど頭を回した。
「……失踪?」
「はい」
「それはその、文字どおりの?」
「踪が失われたんです」
疑いの余地もなく失踪だった。
ノエリは横顔に影を落とし、メニュー表を眺めている。
あるいは眺めているのではなく、視界に映る情報を噛み砕く余裕もないほど意識が錯綜しているのかもしれないが、傍目には判らなかった。
俺にできるのは、ただ彼女の状態を慮ることばかり。
「家出とかの可能性は」
「家出──そうですね。小牟田式子は家出をしたのかもしれません」
「じゃ、じゃあ」
「守衛の方々の目を盗み、寮の同室の人間に一切の情報を与えず、ふっと居なくなることを『家出』と呼ぶのであれば……ですが」
ノエリの挙げた前提は、とても家出なんて可愛らしい事態に付随するものとは思えなかった。誘拐とか拉致とか連れ去りとか、とにかく犯罪に纏わる異常性を感じさせる。
だからこそ、彼女は平素の振る舞いを脱ぎ棄てて焦燥しているのだろう。
俺はこんな時どうすればいいのか判らなかった。
掛けるべき優しい言葉も、切迫感を溶かす温かいミルクも、何も彼女にあげられない。
ただ濁流に翻弄される一枚の葉のように、動静を傍観するだけで。
そんなこちらの様子を悟ったのだろう、ノエリは自嘲気味に苦笑すると、「ごめんなさい」と席を立った。
「店長さんに変な心配をさせてしまいましたね」
「いや、んなこと──」
「私もどうかしてたみたいです。勝手にライバル視してた相手が姿を消したくらいで、茫然自失に彷徨うなんて。これで世界最強の魔女を目指してるとか聞いて呆れますよね」
ノエリの表情はひどく強張っていた。筋肉を総動員して無理やり笑顔を作っている。さながら、触れたら崩れる硝子細工のように。
他人の情動に疎い俺が見てもすぐに分かるほど、彼女は無理をしていた。
「本当にごめんなさい。……この話は忘れてくれませんか。私はもう帰りますから」
「ちょっと待──」
茶髪に手櫛を通し、ノエリは店を後にしようとする。
彼女はこちらの呼びかけに答えない。背中が拒絶を叫ぶ。助けを求められない不器用な子供めいた挙動。もしくは、俺を面倒ごとに巻き込まないよう、自ら離れようとしているのかもしれない。
伸ばした手は宙を掻いた。
ノエリの背中がどんどん小さくなって、終いには扉に吸い込まれる。
──からんからん、と寂しく鈴が響いた。
俺は独り喫茶店に取り残され、無力感に苛まれて、
「しゃらくせえ」
理不尽に翻弄され、理解の追いつかないまま事態を静観するだけなど、世界最強の魔女の名前が泣く。
見知らぬ誰かの身に何が起きて、それがノエリにどんな動揺を与えているかまったく分からないが──自分が行動してなんらかのいい変化があるのなら、俺は躊躇せず動くべきなのだ。
古明地葵の過去は思い出せない。すでに忘却の彼方に掻き消えた。しかし、身体が強く叫んでいる。いつかの後悔を防ぐためには、いま後悔しないように動くしかないのだと。
きっと、何度も失敗してきたのだろう。
記憶に指先が引っ掛かりもしないけれど、数多くを失って。
そして辿り着いたのが今だ。
目の前から居なくなろうとしているノエリを──再び誰かを失おうとしているのが現在なのだ。
俺はぐるりと肩を回して唇の端を曲げた。
俯瞰してみると、なんともまあ情けない有様ではないか。
どこぞの物語に登場する主人公であれば、そもそもノエリが喫茶店を後にする前に歩み去るのを止めていただろう。それこそ『魔女あるいは』の──?
……はて。俺はいったい誰のことを想起しようとしていたのだろうか。
思い出せそうで思い出せない、耳元で蚊が飛び回っているような不快感に襲われつつ、俺は一歩踏み出した。
自分では主人公になれないことを確信して。
──その急激な思考の変化がなぜ生まれたのかについては、ついぞ疑問を抱くことはなかった。
◇
喫茶店の外に出て辺りを見渡す。すると、右手のほうに小さくなっていく茶髪があった。
急いで追っても居なくなっている──なんてのは創作物のありがちな展開だが、ノエリに限ってはそんなことがなくて助かった。
俺は小走りで彼女の元へ向かう。
その気になれば足音を完全に消すことも可能だったが、要らぬ驚きを与えたくなかったので、意識的に足音を立てながら追うと、
「……あの惜別の流れで追ってきますかね普通」
心底呆れ果てました、みたいな半眼で振り返るノエリ。
こんな短いインターバルで再会するとは露にも思っていなかったのか、彼女からは若干気恥ずかしさが漂っていた。白い頬が僅かに赤くなる。
「悪いが、俺は『空気を読めない男』と何度も言われたことがあるからな。これくらいはお茶の子さいさいよ」
俺は首を竦めながら答えた。
「別に誇ることではないですよ」
「そうか? 数少ない自慢だったんだが」
「もしかして長所ではなく欠点を指折り数えていたのでは?」
「長所と短所は紙一重って云うし」
「就活のための言葉遊びはお呼びでないですよ」
──まったく。
ノエリは苦笑交じりにため息をついた。
目尻が柔らかくすぼめられ、褐色の瞳がこちらを覗く。
「それで? 空気の読めないお馬鹿さんは、いったい何用で私を追いかけてきたんですか?」
「真正面からお馬鹿さん呼ばわりか。一応年上なんだけどな」
まあいいや、と背筋を伸ばして、
「──君の力になりたいんだ」
俺はノエリを真っすぐ見据えて言った。
風が二人の間を駆け抜けて睫毛を震わせる。反射的に瞼を閉じて、開くと、彼女は驚いたように両手を口元に翳していた。
予想だにしない台詞を放たれた。そう言わんばかりの仕草。
ノエリは僅かに唇を慄かせると、
「力になりたい、って」
「文字どおりの意味だよ。変な言葉遊びじゃない。文字どおり、ノエリの助けになりたいんだ」
先程のやり取りを焼き直したような会話だが、彼女に与える印象はずいぶんと変わったみたいで、双眸がうろうろと右往左往していた。胸の前で指を絡め、解き、また絡める。
困ったように下げられた眉の向こうで、ノエリはいったい何を考えているのだろうか。
「あの……私、友達が居なくって」
「急なぼっち宣言だな」
「誰かに頼るとか、その、よく分からないんです」
──今まで自分一人で何もかも解決してきたので。
ノエリは一言一言を積み上げるように口を開く。
「だから、店長さんが力になりたいって言ってくれるのは嬉しいんですけど、頼り方を知らないっていうか」
「簡単だよ。困ってることを話して、ただ一言『助けてくれ』って言うだけだ」
「そんなことをして……いいんですか?」
「良いか悪いかで判断するなら、まあ、良いんじゃないか? 行きつけの喫茶店の店主に相談するなんて、古今東西擦られまくった展開だろ」
あんまりにあんまりな返答をすると、彼女は非難の目を向けてきた。
──感動的な空気が台無しです。
全身からそんな意思が伝わってくる。
俺はそれを素知らぬ顔で受け流し、ただ片眉を跳ねさせた。バタ臭く肩を竦めてノエリの回答を待つ。
「……誰かに頼ると、なんだか弱くなった気がします」
「精神的な強さならともかく、ノエリが言及してるのは物理的な強さだろ。相手に依存してるなら話は変わってくるが、単に困り事について頼るくらいなら、特に問題ないと思うけどな。世界最強の魔女だってソロで戦ってたわけじゃないんだから」
もし独りでダンジョンに潜っていたら、俺はまず間違いなく死んでいただろう。古明地葵は魔物に殺され、ダンジョンの肥やしと化していた。確信できる。世界最強の魔女という称号はいまだモルガナのものだった。
俺の素直な感想がノエリに響いたのか、彼女は「そういうものですかね」と服の裾を弄る。
「……じゃあ、その、いいですか」
「何が」
「私自身も自分に何ができるのか、何をするべきなのか判然としませんが。そんな曖昧な状況なのに、店長さんのお力をお借りしても……いいですか」
「おう」
簡単に頷いた。
迷いなく。
彼女に後悔させないように。
「……そんな軽々と頷かれると、なんか適当な印象受けますね。もう少し警戒心を持たなきゃいつか騙されますよ。致命的な失敗を犯す予感がします」
優しさを見せた相手に向ける言い草か? それが。
俺は不満を噴出させるも、所在なさげに己のポニーテールをいじいじするノエリには届かない。
「────」
彼女はしばらく何事かに思考を耽らせ、穏やかな面差しになった。まるで春の陽射しを受ける蒲公英のような、木漏れ日に揺れる萌芽のような、ひどく優しい顔つきだった。
「店長さん」
「ん」
「改めて私たちの関係を振り返って気付いたんですけど」
「うん」
「歪ですよね」
「何が?」
「関係が、です」
突然なにを言い出すのか。
俺は困惑を隠せない。
「歪ゥ?」
「はい。だっておかしいじゃないですか」
「いい歳した男と女子学生が付き合いを持ってることについて指摘してるなら今更だし、俺にはどうしようもないから、大人しくお縄に付くしかないんだが」
ノエリはニコニコと笑っていた。
笑っているものの、発言内容があまりに不穏である。
俺の目の前には、セクハラ未遂(未遂なのかどうかは議論の余地があるとして)で取っ捕まる自分の姿が映っていた。
未来は暗い。お先真っ暗。
「この流れでそんなくだらないことに触れるとでも?」
「君ならやりかねないと」
「私のことなんだと思ってるんですか!?」
ノエリは憤懣やる方ない、と地団太を踏んだ。
学園の授業の一環で──ストイックな彼女なら自主的なトレーニングも重ねているだろうが──鍛えているとはいっても、やはり女子。地面に叩きつけられた靴はぺちぺちと情けない音で鳴き、それがなおさらノエリの感情を逆撫でする。
ふう……ふう……と肩で息をする彼女。
くらりと剣呑な色を宿した双眸で以て、こちらに視線を向けると、
「名前ですよ」
「名前?」
文句の理由を告げた。
ただし、俺にはまったく心当たりがなかった。
なに? 名前? 持って生まれたものに抗議されても、改名するくらいしか解決策がないのだけれど。
「店長さんのことですから、見当外れな方向に脳を絞っているんでしょうけど」
「俺ってばそんなに判りやすい?」
「幼稚園児の問う自作なぞなぞくらいの難易度です」
「壊滅的に分かりやすいか絶望的に難しいかの二択か。どっちだ……?」
文脈的に前者であることは明白である。
されど自分の思考が読み取りやすいなんて認めがたい認識、どうにかして否定したいのも人情。
結局俺は、答えの分かり切った問題を前に悩んでいる真似をするのであった。
「ですから、名前ですよ。シンプルでしょう? 私は『ノエリ』っていう立派な名前を把握されているのに、店長さんは『店長さん』じゃないですか。私は貴方の名前を知らないんです。これを不公平と言わずしてなんと言いましょう」
「線引き?」
「そんなところで線引きをするなら、『力を貸したい』とか勘違いしそうな発言するのやめてくれませんかねえ!?」
至極真っ当な意見だった。
俺は腕を組んで首肯する。
もっとも、素直に名前を教えるつもりはないのだが。
契約書に本名を載せた程度でモルガナに呼び出しを食らったほどなのだから、自分が想像している以上に、『古明地葵』の名前は重いのだろう。
ノエリに教えても彼女が口外することはないだろうが、壁に耳あり障子に目ありと云う。秘密を知る者は少なければ少ないほどいいのだ。理論値は俺だけが俺の名前を知っていること。
現状、古明地葵の名前を抑えているのは自分とモルガナだけであり、これ以上増やすつもりはない。たとえノエリ相手であろうと。
ゆえに俺は意味深な笑みを浮かべて、
「──店長さんじゃ駄目かな」
「駄目でしょう」
バッサリと否定された。
間髪入れぬ即答だった。
「でも俺の名前とかどうでもよくない? 誰も興味持たないって」
「私が持ってるでしょうが。今まで何を聞いてたんですか。記憶喪失にでもなったんですか」
「実はそう」
「嘘をつくならもっと信じやすい嘘をつくべきですよ」
別に嘘じゃないんだけどなあ。
俺は微妙に鼻白む。
「さっさと観念しなさい。店長さんの名前はなんなんですか!」
「テン・チョー」
「引っぱたきますよ! 何が貴方をそうまで頑なにさせるんですか!」
──最終的に、彼女を説き伏せるまでに約十五分を要した。
#ハッピーエンド
#ハーレム