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#ritt
食
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──つきり。微かな痛みで目が覚めて、それと同時に全身を覆うひどい倦怠感に脱力する。
無意識のうちにベッドの隣を手でまさぐって、飴屋がいないことに一瞬焦りを覚える。しかしよくよく思い出してみれば、彼は昼過ぎに鳴り響いた着信により大慌てで仕事へ向かったのだった。いつもの羽織りに袖を通しながら「夜には戻るから」と律儀に声をかけて出て行く飴屋を寝惚け眼で見送った覚えがある。
噺家はベッドの上で身動きもせずにしばらくそのままぼうっとして、「みず、」と呟き身体を起こした。
とりあえず横を向こうとすれば腰が軋む。無理な体勢をとり続けていたことと、内臓が勝手に力み、動き回ったせいで感じる筋肉痛。久々の感覚だ。
喉に刺すような痛みが走る。あれだけ夜通し啼かされたのだから無理もない。元より喉の強い方ではないが、しかし最後にこれだけ痛めたのは、もう何年も前に稽古を詰めすぎたとき以来かもしれない。
這う這うの身体を何とか叩き起こして、噺家はリビングの冷蔵庫の前までたどり着く。ビジネスホテルに備わっているような簡素なそれは、出向き様に飴屋が「水はここに入ってるから」と言っていたはずだ。
噺家は未だぼんやりした意識の中一番上に置いてあったボトルを取り出し、それが開封前のものだということを確かめてから扉を閉めた。力の入らない腕では蓋を開けるのにすら苦労する。
「、ぁ……」
蓋が開いた拍子にうっかりボトルを傾けてしまい、よく冷やされた雫の感触が脚の上に滴る。噺家はそこで初めて、今身に着けているのが飴屋の私服と思わしきTシャツであることに気付いた。
辺りを見回してみれば噺家が着ていた服は丁寧にハンガーラックにかけられており、昨日粗相を繰り返したシーツも清潔なものに取り替えられている。そして視線を戻してみれば、何やらテーブルの上に雑にちぎった画用紙のような書き置きがしてあって、そこにはミミズののたくったような文字で『夜にはかえる。服はクリーニングに出すからさわるな』とだけ記されていた。
「はは、字きったな……」
まるで子供が練習書きをしたようなバランスの悪い文字列に、思わず苦笑が込み上げる。常用漢字すらまともに書けていない彼はおそらく学校で字を習ったこともないんだろう。ところどころ擦って誤魔化された文字はどこか哀愁を感じさせる。
ようやく意識のはっきりしてきた噺家は、手に持ったままだった水をひと口飲む。ひんやりと冷たいそれが痛む喉を通る感覚は爽快で、少しだけ傷が癒されたような気がした。
窓の外は薄く夕陽が差してきたところで、飴屋が帰ってくるまではまだ時間がある。
噺家はそこでまたぼうっとして、手持ち無沙汰に己の身体を眺める。相変わらず傷はひとつもない。飴屋はこれだけ噺家の身体を痛めつけてきたくせに、目に見えて分かるような跡や傷は絶対に残してはくれない。
代わりに肌の上を滑る汗ばんだ手の感触と、身体を包む優しい温度を思い出してしまい、噺家はそれを打ち消すようにまたひと口水を飲みこんだ。
全身が怠くて敵わないのに、あれが嫌だったとはどうしても思えない。気が狂ってしまいそうなほどの強い快感と、気の狂った男の膨大な量の愛。それが一身に注がれる、途方もない幸福感。
もうずっと、ずっと同じだった。
「……リトくん」
ぽつりと、まるで感嘆するようにそう呟く。
いやに舌に馴染むその音は、それだけ何度も繰り返し呼んできたことを表している。噺家は声に出してしまってから、どうして自分は今この名前を口にしたのかと疑問に思った。どうせ、聞く相手も返事もありはしないのに。
「リトくん、」
答えを確かめるべく一音一音大切に、噛み締めるように発音する。
つきり、とまたあの痛みが胸を刺す。噺家はそこでやっと、これが肉体に直接響いている痛みではないことに気がついた。
ふいに視界がぐにゃりと歪んで、生温かい感触が頬を伝う。噺家は慌ててボトルをテーブルの上へ置いて目元を拭うが、涙はあとからあとから湧いて出てきてきりがない。
「──リトくん……っ」
何も分からぬまま、嗚咽まじりに彼の名前を呼ぶ。当然返事はなくて、それが妙に哀しくて、やっぱり泣けてしょうがない。こんな感情は押し込めて置かなくてはいけないのに、そうでもしないと、辛いのは自分自身なのに。
心臓でも握り潰されたような苦しさが襲いかかって、ついに噺家はその場に蹲ってしまう。こんなときに助けに来てくれるのは、いつも必ず『彼』だったのに。そう考えた瞬間堰を切ったように嗚咽が止まらなくなって、辛くて、苦しくて。もう抑えようがない。
────かつてこの国には、『ヒーロー』がいた。
東西に分けて8人揃った彼らは無類の強さを誇り、やがてこの小さな島国に完全な平和をもたらすことに成功したのだ。銅像や肖像画など無くとも彼らは人々の記憶に強く残り、平和な世界を後世へ継いでゆくための象徴として歴史に刻まれていった。
中でも数多い敵に対して猛威を奮った強く優しい『麒麟児』は、一線を退いたあとも世のため人のために力を尽くし、そしてたいへんな長寿を全うした末の今際の際、傍らで咽び泣く『黒豹』へとこんな言葉を遺した。
曰く、「またいつか、会いに来るから」──それまでおやすみ、と。
握った手から徐々に力が抜けていくのを感じながら黒豹は、自身にふたつめの呪いがかけられたことを悟った。現世でこれだけの徳を積んだ彼のことだ、とうの昔に輪廻の輪から外れていて、あの相棒であった神獣の元へと昇っていってしまったのかもしれない。あれはすぐにでも後を追いそうな自分を慰めるための、優しい嘘だったのかもしれない。
それでもよかった。またもう一度きみに会えるなら──もし会えなくとも、そう信じてさえいれば、この半永久とも言える人生に差す確かな光となってくれるだろうから。
そしてそれから、ちょうど100年が過ぎた頃。
8人のヒーローがもたらした奇跡とも呼ぶべき安寧はいつの間にか終わりを迎え、再び混沌の世が訪れる。黒豹とてそれは例外でなく、ふらりと立ち寄った裏路地から気付けば抜け出せなくなっていた。
在りし日の夢を穢され、貞操を乱されて、人としての尊厳を蹂躙されるような生活。それでも黒豹の瞳は濁っていなかった。この心に一筋徹した光さえあれば、全てに耐えていられたから。いつか『彼』とまた巡り会えるなら、これしきの辱めなど意味を持たないと。
──だから、あの日客席にきみの姿を見つけたとき、どれだけ嬉しかったことか。あのオレンジ色と再会するのをどれだけ待ち望んでいたことか。もはや舞台なんて放り出して駆け寄って、泣きじゃくりながら縋りついてしまいたかった。
身を焦がすような衝動をどうにか呑み下して舞台を終え、戻った楽屋できみが待ち構えていたとき、やっぱりきみは約束を守る男だったと誇らしくすらあった。
やっぱりきみは迎えに来てくれた。あの頃と比べて随分様変わりしていたけれど、やっぱり根底は何も変わっていなかった。あの頃と変わらない透明な心のままで、陽だまりみたいな優しい温度で。
今はあのキュートな相棒もいない。残り6人の仲間もいない。それは少し寂しいけれど、今度こそきみは僕だけを見て愛してくれるんだって、それがどうしようもなく嬉しくて──最悪だった。
「──う、うぅ゛〜〜……! ずるい、ずるいよ、きみばっかり! 僕だってきみが好きだ、ずっと前から僕は、きみだけが……!!」
嗄れた声で叫んでみても、当然返事はかえってこない。警戒心の強い彼のことだ、もしかしたらこの部屋のどこかにカメラか何かがあるかもしれないが、それでもこの衝動を抑えることはできなかった。
だって、こんなにもずっとずっと、ずぅっと待ち続けていたのだ。あの鮮やかなオレンジ色とミント色に、大きな身体に、熱い手のひらに、きみに、ずっと会いたくてたまらなかったのだ。再会できるあてなんか無いのに、どうしてもどうしても諦められなかった。
きみが手に入るならなんだってする。とっくの昔にきみに捧げた人生なんだから、いくらでも棒に振ったっていい。そう思っていた。
『俺のものになって』なんてお笑いだ、僕はきみが生まれるよりずっとずっと前から、きみだけのものなんだから。
本当は繋ぎ止めておいてしまいたかった。あの煮えたぎるような熱の全てをこの手の内に握り込んで、自分だけのものにしたかった。
本当は頷いてしまいたかった。何度も何度ももどかしそうに懇願する彼に、『もうとっくにきみのものだ』と。他の奴なんてどこにもいない。この心には100年以上も前から、その鮮やかな夕焼け色が巣食っているのだと。
あぁ、でも、だからこそ──二度目は耐えられない。
彼を再び失うようなことになったら、今度こそ自分はばらばらになって壊れてしまって、きっと二度とは直らない。あんなにも狂おしいほどにあとを引く熱を、もう二度とは手放せない。
あとひと言でも発したらだめになってしまいそうで、必死に唇を噛んで耐えた。それでも彼は無理強いすることもなく、ただただ優しくキスをして、抱きしめてくるばかりで──その拳はとうに血に濡れてしまったくせに、あの泣きたくなるような体温と声だけは、あの顔と何も変わらないままで。
ああ、本当に最悪だ。きみは結局、何にも変わっちゃいなかった。
声を殺して呼吸を止めて、それでも堪えきれずに嗚咽を漏らす。せめて彼が戻ってくるまでには泣きやんでいないといけないのに。次に帰ってきた彼にはいつも通り『噺家』として飄々とした態度を保って、まるで特別な感情など持たない友人同士みたいに振る舞って──そんなことが、一体いつまでできるだろうか。
今でさえ、ついうっかり重たい愛の言葉を呟いてしまいそうなのに。
ずび、と鼻を啜って、また水を飲む。少しでも違うことを考えようとした頭で連想ゲームのように思いついたのは、昨晩会った『情報屋』の姿だった。
彼と情報屋が小突き合っている姿は見ているだけで仲の良さが窺えて、きっとお互い心を許しているからこそあんなやり取りができるのだろう。しかしそれと同時に──そこにいたのは自分だったはずなのにな、などと思ってしまう狭量な自分がいて。
やっと彼の唯一になれたと思ったのに、彼にはすでに自分よりも仲のいい友人がいたらしい。それがどうにも妬ましく思えてしまい、昨日はついあんな態度を取ってしまった。
またあの頃のように接して欲しい。何か小さな失敗をするたびに騒ぎ立て、認めるところは大袈裟なくらいに褒め称えて。相手が何やら思い詰めているようなら黙って傍にいてやるような、そんな関係がどうしようもなく心地よかったのだ。
けれどそれは今の『飴屋』にとっては知らぬ話で、あの頃のようにだなんて言われても困ってしまうだろう。生涯の友とさえ思った彼は飴屋の彼とは別人で、飴屋の彼が今一番妬ましく思っている相手は生まれ変わる前の自分自身なのだ。
誤解をさせたままだというのも気が引けるが、こんなのどう説明したって信じてはもらえないだろうから黙るしかない。そうしてまた、言えない秘密が増えていく。
──ウェンくん、たまに鋭いとこは変わってなかったな。またしても暗い方へ転がってしまいそうになる思考を無理矢理軌道修正する。
昨日『自分と会ったことはあるか』と問い詰められたとき、思わずぞっとしてしまった。あの態度を見るに記憶が残っているわけではなさそうだし、単にこちらの些細な態度の違いを感じ取っていたのだろう。あの頃はその勘が実に頼もしかったのだが、いざ尋問される側に回ってみると順当に恐ろしいものだ。
今は裏社会の情報屋をやっているらしい彼までああして転生しているということは、他の5人も同じように新しい人生を歩んでいるのだろうか。……ああいや、約2名は引き続き存命だということが確認できているが。
「また会いたいな」と素直に思うと同時に、「会ってどうする?」といやに冷静な自分がいる。元ヒーローが3名と、裏社会の人間が2名、不明が3名。それで集まって何になる? またヒーローの真似事でもするのだろうか。よりによってこんな荒れた世界で、徒党でも組んで。
それこそ落語の噺みたいじゃないか。古典ばかりの芸風だけれど、たまには新作を書き下ろしてみるのも悪くない。
ようやく再会できた彼のことを独り占めしていたい気持ちと、彼にとって一番の『友人』でありたかったという気持ち。そんな彼を再び失うことへの恐怖や、それから未だ会えていないかつての仲間たち──と、考えることは山積みだ。
『噺家』もそのうち平素を取り戻して、テーブルの上に置かれた煙草に目を向ける。コートの内ポケットに入れておいたものだが、わざわざ出しておいてくれたらしい。さすがに人様の家で無断で吸うほど非常識にはなれないが、そろそろ落ち着かなくなってきた頃合いだ。
「……お腹すいたな」
そういえば昨日の夜から何も食べていない。どうせ彼のことだし部屋の鍵は開いているのだろうが、何となく出る気にはなれなかった。
彼が帰ってきたら何をねだろう。どうせなら高いものでも食べてみたいし、変なことを言って困らせてやるのもいい。それにこの暑さだ、何かさっぱりとした麺類でも──ああ、ところてんなんかも悪くないな。
噺家は涙の乾いた頬を拭って空想に耽りながら、階下から響く家主の忙しない足音には気がつかないふりをする。
コメント
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すごくおこがましいのですが、他の方のコメントも見て、もうこの話で完結だと思うんですけど続きが、🌩🦒が🤝の本当の気持ちに気づくシーンがみたいなと思ってしまいました… ほんとに気が向いたら続きが見たいです🥲お願いします🙏 最終話まで読めて本当に楽しかったです✨️ありがとうございました!

🤝が🌩️🦒よりも大きい感情をかかえていてそれを好きな人に言えないもどかしさがなんとも複雑ですね…😭物語における不透明な部分が全て回収されていく様子は見ていて爽快でした。長編お疲れ様でした。いつも楽しく拝見させていただいています。貴方様の作品が大好きなのでまた読み返させていただきます!素敵な作品をありがとうございます!

コメント失礼致します!長編お疲れ様でした! 最終回を読んでから見返すと、また違ったふうに捉えることができますね✨何度も読み返します、、! 浅間さんの作品はどれも刺さるものばかりで大好きです 😭素敵な作品をありがとうございました!