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咲楽先生のガラスアート教室が開講したのは、僕が高校1年生のときだった。
まだこんな立派なアトリエや工房はなく、市が主催の地域文化セミナーの一つだった。
ガラスに限らず、美術に興味があった僕に、市報を見た母親が教えてくれた。
当時先生は、そのルックスも相まって“、天才ガラスアーティスト”として、テレビや雑誌などでも注目されていた。
僕は喜んで見学に行った。
第一印象は、「オシャレなお兄さん」。
年齢は24歳とは聞いていたが、もっと若く見えた。当時は短く切り上げたアッシュの髪に、黒縁の細い眼鏡をかけ、いつも小奇麗にしていて、近づくとなんとも言えない異国のような香りがした。
「君、高校生なんだってね。嬉しいよ。未来を担う若人がガラスに興味を抱いてくれるなんて」
小説の一頁のような言葉の選び方、涼しげで軽やかで、でもどこか寂しさを感じさせる色素の薄い瞳。
自分が日々ふれている退屈な日常とは別世界の人間だと、神々しささえ感じ、僕は一気にファンになった。
教室は、最初こそガラスの基礎知識についての説明があったけど、2回目からはほとんど実技で、生徒に合わせた創作活動を先生個人的に指導していくというスタンスだった。
ジャンルは自由で、吹きガラスからステンドグラス、バーナーワークまで、なんでも教えてくれた。
彼の技術は当時から卓越したもので、僕は先生のデザインのセンス、手先の器用さ、温度を操り自由自在に形を変えるガラスに夢中になった。
やがて教室に入って初めて作った大型のバーナーワーク作品が、高校生日本美術コンペの立体の部で、優秀賞を受賞したことで、僕はますます先生への尊敬の念を深めていった。
将来は先生のようにガラス一本で生活していきたい。生涯、透明で脆く美しい世界に浸っていたい。そう思うようになった。
開講二年目を迎えると、アーティスト咲楽の活躍に比例して教室が評判になり、生徒の数も増え、中高年に偏っていた年齢層も、幅広くなってきた。そんなとき同じく高2の男子が入構してきた。
青山純。
どこかで聞いたことのある名前だと思ったら、高校生日本美術コンペの絵画の部で大賞をとった男だった。
美術を志す若者がまた入ってきたと喜ぶ咲楽先生に、ちょっとしたジェラシーを覚えた僕は、いじわるな質問をしてみた。
「君ってさ、油絵が専門だよね。ガラスは趣味の一環?」
だが純は悪びれることなく言い放った。
「そうそう。油絵も含めて、美術全部が趣味の一環」
「え、そっちの道には進まないの?」
「どうせ父の会社を継がなきゃいけないからなー俺」
純はカラカラと笑って続けた。
「社長室に飾るための絵と、階段の踊り場に置くガラス工芸品が作れれば満足かな」
これほど才能があるのに。趣味だなんて。
技術も高める環境も家じゃ限界があるし 名だたる作家の展覧会を鑑賞に行く時間もないだろうし、様々な芸術家との出会いも刺激もないだろうに。
普通に会社を経営して、結婚して子育てして、休日、家族サービスの間に筆を握る。
それだけでいいのか、この男は。
彼や彼の作品を見ていると、もどかしさを覚えたが、当の本人が拍子抜けするほど明るくその事実を受け入れているので、何も言えなかった。
それから僕らが仲良くなるのに時間はかからなかった。
僕の制作活動にアドバイスをくれたり、少し遠出して一緒に美術展を観に行ったりした。
気まぐれに教室に持ってきてくれる絵画も、習いはじめたばかりのガラスも、僕の常識を超えていて、中には咲楽先生まで舌を巻くものもあった。
そしてその才能は僕を激しく嫉妬させ、学校の授業中も、教室がない日の夜も、寝る間も惜しんでガラスのことを勉強した。
あまりに熱心なので、咲楽先生も教室が終わってからセンターの閉館の時間まで僕のに付き合ってくれるようになった。
季節は巡り、北上した桜前線が東北の僕らの町もピンク色に染まる頃、僕らは高校3年生になっていた。
教室が終わった、先生と二人だけの工房。溶けたガラスをコテで引っ張る僕を後ろから覆いかぶさるようにサポートをしていた先生とふいに顔が近づいた。
そのとき、偶然だろうか。
先生の唇が、ほんの僅かに僕の頬に触れた。
振り向いた瞬間、顎をぐいとつかまれ、キスをされた。
短く、でも熱いキスだった。
「……おっと。ごめん」
咲楽先生はまるで落としたペンを拾ってもらったくらいのトーンで謝った。
「考え事をしていたら、なんとなく」
その場はあいまいに笑って済ませたけど、帰ってからも先生の匂い、熱い唇が忘れられず、一人顔を赤くしていた。
何が起こったんだろう。
どうして咲楽先生はあんなことを。
天上人のように思い、憧れていた人物から、唐突に縮められた距離に戸惑い、頭が逆上せたみたいに熱かった。
と、夜中に携帯電話が鳴った。
「はーやと」
純だった。
「どうしたの、こんな時間に」
時計を見ると、23時を回っていた。
「こっちのセリフだよ、全然メール返ってこねーんだもん。心配するだろー」
「あ、見てなかった。ごめん。帰ってからいつの間にか寝ててさ」
「そなのー?じゃあいいけど。またな」
あっけなく電話は切れたが、ほっとしている自分もいた。
今は相手がたとえ純でも、普段通りの会話ができそうもない。
今日のことは忘れよう。咲楽先生も大きなコンクールがあるとかで制作忙しいって言ってたし、疲れてたんだきっと。
だが次の日もその次の日も、僕は先生の赤く熱い唇が頭から離れなかった。
あっという間に一週間が過ぎ、教室がある水曜日になっても、僕は忘れるどころか、一日の大半を、あの日の回想や非れもない妄想に費やした。
先生のことを思えば想うほど、ある疑惑が色濃くなっていく。
もしかして、先生は“そっち”の人間なんじゃないか。芸術家には多いと聞くし。
下劣な想像で先生には失礼だと思ったけど、もし本当にそうなんだとしたら、彼は攻めなのか、受けなのか。
一人そんなことを想像し悶々としていた。
こんな精神状態で、ガラスなんか触れられるわけない。
生涯学習センター近くのコンビニから出ると、反対方向のバス停に歩き始めたそのとき、
「隼斗」
見慣れた真っ赤なパーカー。立っていたのは純だった。
「どしたー。もうすぐ教室始まるよ。行かないの?」
「あ。今日は行かない、かな。ちょっと体調悪いからさ」
純の顔が曇る。
「大丈夫?熱でもあんの?」
「いや、本当に大丈夫だから」
純が首を傾げる。「隼斗。何か俺に隠してない?」
いくらでも取り繕うことはできるはずなのに、身体が、声が、思うように動かない。
何も言えずに黙っていると、純が僕の手を取った。
「行こう。この先に古いカラオケあったでしょ。あそこ」
純は無言で、でも有無を言わせぬ足取りで、五分ほど歩いたところにあるカラオケショップに入って行った。
受付を済ませ部屋に入るなり、ソファに座りもせずに純が振り向いた。
「で、何があったの。俺に隠し事はなしだよ」
僕は誰にも話す気はなかった。
このまま墓まで持っていくつもりだった。
だって話した瞬間、すべてが変わってしまう。
もうガラス教室にも普通の顔していけないし、純とも先生とも、これからなんの気兼ねもなく話すことなどできなくなってしまう。
「咲楽先生と、何かあった?」
まるですべてを受け入れるように、彼は微笑んでいた。
その顔を見ると、ここ一週間、先生のことを、卑猥なことを考えていた自分が恥ずかしくなってきた。
待てよ。なんで純からそんな言葉が出るんだ。いくらなんでも勘がよすぎないか。
もしかして純も、同じような目にあったのではないか。
まさかもっと先のことまでも。
だとしたら、純の僕に対してのこの態度は、咲楽先生に手を出した僕へのジェラシー?
思考巡らしすぎて、返答に詰まっていると、純が口を開いた。
「あの人、隼斗を見る目、変だもん」
純が僕の頬を撫でた。そのあと、親指で唇をなぞる。
これって、もしかして・・・。 見られてた?
みるみる顔が赤くなるのがわかる。
「俺、心配してたんだよ、ずっと。あの先生、ちょっと変だよ」
そうだったか?
今までのことを思い出してみる。
確かにガラスを溶かしたり引っ張ったりするのは体で覚えるために手取り足取り教えてもらったとは思う。
だけどそれが他の人から見て異常なほどだったとは気づかなかった。
それだけ先生に触られることに抵抗がなかった。
「・・・隼斗はどう思うかわからないけど」
押し黙った僕の代わりに純が口を開いた。
「ガラスのことだったら、もっといろいろ教室もあるし、指導者もいると思うんだ。現代ガラスアートでいえば、咲楽先生が頭ひとつ飛び出てるけど、基本的なガラスのことが勉強できる環境さえあれば、隼斗ならやれると思うんだよ、咲楽先生なしでも」
純の鞄からパンフレットやらチラシやらいろいろ出てくる。
「週一回なら県外の先生に習いに行ってもいいんだしさ、ね」
おそらく純は先週のことを知っている。
何も知らないで、このタイミングでここまでの準備をしてくるはずがない。
「ねえ、もしかしてだけど」
「うん。見たよ。先週の水曜日」
やっぱり。カッと顔が熱くなる。
「てか毎週。ずっと。何か間違いが起きないように、センターの駐車場から見てた」
ずっと?毎週?センターが閉まるまでの時間、ずっと見ていてくれたというのか。
「俺さ、隼斗がガラスの技術と引き換えに、大事なものを奪われていくのは嫌なんだよ」
薄暗い部屋の中で、純の目がキラリと光る。いつもへらへらしているくせに。こいつのこんな真剣な顔、見たことない。
距離が、近い。
いや。今までも、作品の相談をしたり、家でDVDを見たり、買い物したり、肩を組んで笑ったり、もっと近づいたことはあるはずなのに。
どうしてこんなに自分の鼓動がうるさいんだろう。
「よく考えて。隼斗。もしお前が、自分の感情や身体と引き換えに咲楽先生の技術をとるなら、お前の作品は二度と輝かない。ガラスに嘘は通じないよ」
有無を言わさぬその目付きに、
「わかったよ」
呟いてしまった。
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