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その日から、脳裏の大半を占めていた咲楽先生が、純に変わった。
今までの純との楽しい時間、彼の作品の素晴らしさ、そしてカラオケボックスで見せた真剣な瞳。
僕はいったいどうしてしまったんだろう。
咲楽先生とのキスのせいで、そっちに目覚めてしまったのか。
でも思い起こせば物心ついたときから、女性に恋をしたことや、性的に興奮したことがあっただろうか。
中学生の時などは男子とふざけてアダルトビデオ鑑賞をして盛り上がったことがあったが、女性の体に興奮していたかはわからない。
悶々と考えているうちに日々は経ち、日曜日になった。
考えすぎて寝不足だった日が続いていたからだろうか。土曜日の夜に限界が来て、僕は昏々と眠り続け、お昼過ぎまで起き上がれなかった。
だるい体をやっと起こして、携帯電話を見ると、純からの着信が入っていた。
「隼斗、大沼デパートでやってるガラスアート展、今日までだけど、もう見に行った?」
慌ててカレンダーを見る。
しまった。今日までだ。
何か月も前から楽しみにしていたのに、ここ数日のごたごたですっかり忘れていた。
「隼斗は咲楽先生以外のガラスに触れる機会を持ったほうがいいと思うんだよね。この間渡したパンフレットは見てくれた?その中の小林憲太郎って人のガラスもあるから」
「でもその展示会、咲楽先生の作品もあるよね?」
「・・・うん、まあね」
ガラスは見たい。
だけど、教室で僕たちにお手本として作ったものとは違い、咲楽先生が本気を出したガラスに触れるのが怖い。
少しずつ先生への崇拝ともいえる感情が落ち着いてきたのに、今ここで見たら。憧れ以上の感情に飲まれかねない。
「この間どこかの何とかって賞を受賞した“オーブ”だって。知ってる?」
しかも咲楽先生の代表作となるべくフラワーオーブ。
先生に見せてくださいってねだったけど、この展示会があるから終わってからと言われていたんだった。
「強制はもちろんしないけどさ」
聞きながらすでの僕の右手は寝癖を直しにかかっていた。
大沼デパートの入り口は喧騒にまみれていた。
関東の方でデパートを狙った爆弾魔、百目鬼麟太郎を名乗る愉快犯が出たことで、こんな片田舎の古びたデパートさえ、厳重警備の対象となっているようで、警備員やら警察やらでごった返していた。
彼らに若干怪しい目で見られながら、しばらく待って見たところ、ラインで「送れるから先に会場に入ってて」と連絡が入り、迷いつつも僕は中に入った。
5階に特設会場ができ、ガラスの花瓶やコップ、とんぼ玉にアクセサリー、そして造形が並んでいた。
それらをゆっくり見ながら進むと、「ツリー」という作品が目に付いた。
夕日を浴びたような橙色の木が、ものすごい躍動感で再現されている。ガラスで出来ているのでもちろん透明なのだが、不思議と木の力強さや葉の瑞々しさ、辺りをふく風まで感じることができる作品だった。
「すごい。これどうやってできるんだろう」
名前を見ると小林憲太郎とある。純が言っていた先生か。なるほど、純が選んだだけあって実力者には間違いなさそうだ。
その奥に、一際人だかりができているブースがある。
人込みをかき分けて覗く。
ーーー何だこれ。
見た瞬間、時が止まった。
ガラスでできた、赤ん坊の頭ほど球体ガラスに、紫色の無数の花が閉じ込められている。
青々しい葉、細いが硬い茎、縮れた小さな花、高く手を広げる大きめの花弁、その一輪に今にも留まりそうな蜂まで、すべてが本物のようだが、よくよく見るとすべてガラスでできている。
まるで花と周りを包む陽気、棚引く風までをも、時を止めてガラスの中に閉じ込めたような空間がそこにはあった。
名前を見るまでもなかった。
咲楽先生のオーブだ。
案の定、添えられた銀のプレートには、“フラワーオーブ ラベンダー 咲楽 ”と掘られていた。
どれだけの時間、そこに制止していただろう。 僕はいつの間にか泣いていた。
どうしてこんなものが創造できるのだろう。
咲楽先生の作品は今までも見てきた。だけど、ここまで人の心を鷲掴みにできる人、日本に、いやこの世界に存在するのだろうか。
「隼斗」
後ろから肩を叩かれ振り向くと、純が立っていた。
「遅れてごめん。でも隼斗には、一人で、オーブと出会ってほしかったんだ」
言わんとしていることがわからずに、僕は黙っていた。
「でもいつまで経ってもここから離れようとしないから、我慢できなくて声かけちゃった」
笑いながら純も並んでそれを見つめた。
「実は俺、昨日ここに来たんだ。咲楽先生のってより、小林先生の作品を見るためにさ。でも、お前と一緒だよ。俺もここで動けなくなった」
スポットライトに照らされてキラキラ光るオーブは、僕らの数日間の葛藤を覆すのに十分な存在感を示しながら、そこに在った。
「俺は、とんでもないことをするところだった。芸術を、ガラスを志すなら、咲楽先生のもとを離れちゃだめだ」
何も言えずに純を見る。
「先生から隼斗を守りたいってのも本心なんだよ。だから、君をここに誘うかすごく迷った。でも」
純の目にも涙が浮かんでいる。
「素晴らしいガラスは、隼斗に見せてあげたくて」
彼は僕のために、どれだけ悩んだことだろう。純だからこそ痛いほどわかる咲楽先生の群を抜いた才能を目の当たりにして。
僕を心配する気持ちと、僕の成長を願って。どれだけの葛藤を経ての今日の電話だったんだろう。
熱い思いが胸にこみ上げ、思わず純の手を取った。
「ありがとう。今日、オーブを見れて、本当に良かった」
純が複雑そうな笑みを浮かべる。
「ここにきて、作品を感じて、改めて咲楽先生の凄さに気づけた。
でもそれと同時に、これを超えたものを作りたいっていう気持ちも芽生えたんだ。
だからこそ、対等でいたい。これからも」
僕は純をまっすぐに見た。
「今後、先生が僕に何かしようとしたら、敬意をもって断るよ。僕には好きな人がいるのでやめて下さいって」純が瞳を潤ませる。
ああ、これが人を好きになるということか。
こんなに体の底から熱いものがこみ上げてきて、純のことをどんなことがあっても守りたい、大切にしたい、そんな風に思える。
純はずっと僕のことをそんな風に見ててくれたんだな。
咲楽先生と僕を見ながら、どれだけ心配だったろう。嫉妬してどれだけ不安だったろう。
今度は僕が応えてあげる番だ。
「ありがとう、純。僕、これからは大事にするよ。自分のことも好きな人のことも」
そうだ。男だの女だの関係ない。僕は純が好きなんだ。
「ありがとう。その、すごく嬉しいよ。隼斗からその言葉を聞けて」
両手を広げ、僕を抱きしめた。
純の臭いがする。太陽と柔軟剤が混ざったような、温かい臭い。
その体温と匂いに酔いしれている僕の耳元で彼は信じられない言葉を言い放った。
「これで俺も水曜日の夜は、気兼ねなく彼女とデートできるわ」
そう言った瞬間、彼からは甘い女性ものの香水の匂いがした。