◆
その声に、周囲の人がヒュッ、と息を忘れた。
今彼女はなんと言った?
彼らの耳が確かならば〝しちゃいけない〟と言わなかったか?
〝したくない〟でも〝しない〟でもなく、〝しちゃいけない〟とはどう言うことだろうか。
まるで〝殺意を必死に抑えてるような〟……本音では〝殺したい〟と言っている様な……そんな違和感が止まらないのだ。
そこらの凡愚が「殺したい」というのはまあ流せる。簡単に流せる。
何せ生きるとは当然に息苦しいし、辛いし吐きそうだ。
そんな毎日へ唾吐く様に殺したい相手も、その証明もできずに殺したい、と告げるのだ。
しかし目の前の少女はそう言った手合いとは明らかに違っていた。
「(なんであんなに、苦しそうに…?)」
心底、本当に本音から苦しそうに〝殺意〟を呟くのだ。
そして異常はそれだけじゃない。
「って待て。腕にナイフ刺さってるぞ!!
保健室の先生呼んでくる!!」
ざわ、とクラス中がその様相に驚く。
————アラカは自分の腕にナイフを刺し貫いていた。
「っ…!」
そしてその勢いのまま、ナイフを〝腕の肉が抉れるように〟引き抜く。
もはや引き千切ると言っても遜色ない行為は教室に血飛沫を撒き散らして周囲を恐怖させる。
「……血、赤、噴き出す真紅……
死の匂い、うん、大丈夫、大丈夫……少しずつ、少しずつ衝動(サカズキ)を満たせば、治る…から……」
そう虚な目で呟くアラカに、クラスメイトはようやく気付いた。
その深刻さに、だ。
「(……殺人衝動ぐらい、持っててもおかしくない事件だったんだ。
そりゃそうだよ、あんな事件…俺なら自殺してる)」
「(ここらであの事件にことを知らない奴なんていないし、内容も壮絶って聞いたぜ?
殺人事件の一つは平気で起きてもおかしくない程度には酷いし……仕方ないよな、殺したいと思うぐらい)」
————殺人衝動。それに近しい破壊衝動を抱えていることに周囲が示したのは〝納得〟であった。
「お、おい。俺がすぐに助けてやるから、こ、こいよ」
それを見ていた男は何を思ったのか〝こうなった原因である癖に〟下卑た性根で語りかけた—
「ひっ」
————触るな。
「ぁ、ぁあ……ぁっ……」
ぼろぼろと、涙が溢れ出す。
それも無理はないだろう、心底不快で気持ち悪いとしか思えない人間に抱き付かれたのだ。
「っ!!」
パシっ、とそこで初めてアラカは手を弾くという行いをした。
「は……?」
それを受けて、親友は呆気に取られたような表情を浮かべて、次いで気分を害したのか、酷いしかめ面を浮かべて。
「せっかく人が助けようとしてやったのに……」
次の瞬間、アラカの顔面を殴られた。
「謝ってるじゃん! 何で許してくれないの!? おこなの!? 殺すよ!? つか死ねよ!!」
「っ、ぁ゛が、……っ゛」
アラカのお腹を蹴り飛ばす。溝に入ったのか、息ができずアラカは喉を押さえる。
「ーーっ゛ーーっ゛」
「黙ってちゃ分からねえだろうがああああああああ!!!」
どんっ、どんっ、馬乗りになり顔面を殴る男、酷いなあ。
「ごめんって言ってんじゃん、とか怒鳴り始めたぞアイツ」
「口で謝るだけなら誰でも出来るし、それで気持ちよくなれるなら楽しそうな作業だな」
「謝った側から殴り出したぞアイツ、誰か止めろよ」
焦るクラスメイト、殴られるアラカ。そこは正しく地獄だった。
「……ぁ……ぁ……ぅ……」
本当に、本当に小さく呼吸をして教室の隅で必死に震えながら頭を守る姿は虐待された小動物を思わせて、周囲の人間の心を抉った。
「(何でこんな酷い目に遭うのだろう)」
何故。
過去のあの事件、そこから全てが歪んだ。
ならばあの事件がなければこんなことは起きなかったか?
いいや、あの事件がなくても性根の腐っているコイツらのことだから当然、何かが起きるであろう。
「(ああ)」
————性根が腐った屑に、攻撃されていたな。
不道徳を受けた、人生に欠損が起きた。
ならば、どうする?
「(人を傷付けた。なら、これは〝傷付けられる覚悟〟があったの、だろう。
なかったとしても、人を傷付けた奴が、平然と、のうのうと生きているのは〝悪〟だ)」
目の前の存在は悪だ。ならばこそ、
「(悪は————同質量の痛みを味、合わせねばならない、から)」
瞬間、空がドス黒い赤に染まった。