コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……おはようございます」
由樹は事務所のドアを開けた。
「新谷君、おはよー。今日は眼鏡なんだねー」
渡辺の巨体に遮られて、奥のデスクは見えない。
「ちょっと目の調子が悪くて。コンタクト入らなかったんです」
由樹は腫れた目に気づかれないよう、慌てて目を逸らすと、スリッパを出し、革靴を片付けた。
「今日で、この時庭展示場も最後だね」
渡辺が前に立ちはだかりながら感慨深げに唸った。
「明日から新谷君がいなくなると寂しいよ。ですよね?」
渡辺が振り返る。
「………っ」
由樹は少しだけ身体をずらして渡辺の背後を覗き込んだ。
「だから、俺に振るなっての」
渡辺の後ろにいたのは……設計長の小松だった。
篠崎の席には、誰もいないどころか、サマースーツの上着さえかかっていなかった。
「あ、篠崎さんね、今日休みだって」
由樹の視線に気が付いた渡辺が篠崎の席を振り返った。
「でも具合が悪いとかじゃないみたい。なんか親戚に不幸が出たとかなんとかで。東北に行くとか言ってたかな」
「…………!」
背中を冷たい何かが駆け上った。
(行ったんだ。篠崎さんは、美智さんに会いに……)
一気に肩の力が抜けた。
(そっか。手紙、読んでくれたんだ)
渡辺は気の抜けた由樹の肩を叩いた。
「まあまあ!いつでも会えるから!市内だし!隣の展示場だし!」
「……そうですね!」
由樹も笑顔で渡辺を見上げた。
なんとか自然に見えるように左右の手足を動かし、自分の席まで行くと、いないはずのその席からは、篠崎の吸っている煙草の匂いがした。
夕方、由樹は荷物をまとめた段ボール箱を持って、時庭展示場を後にした。
渡辺は小松と共に打ち合わせに出ていて、猪尾は現場からまだ戻らず、唯一いた仲田が、お客様からもらったというマフィンをくれながら、ヒラヒラと手を振ってくれた。
「…………」
展示場を見上げる。
『誰だ、てめーは』
篠崎が見下ろした2階の窓がある。
『うん、間違ってる』
篠崎が出迎えたポーチがある。
『俺に襲われても…辞めるなよ?』
篠崎に押し倒された寝室も、
『これ、LLだけど、でかいか?』
篠崎の作業着を着せてもらったクローゼットも、
『何だそれ。あ、おいっ!』
篠崎を押し倒してしまった客間も……。
『俺は、お前のことを、尊敬している。お客様一人に対する熱意、一棟に対する気持ちの重さ、それに限定して言えば、お前はこの支部でもダントツだ』
『何かの判断を迷ったとき、誰かに何かを否定された時……。迷うな。騙されるな。お前はお前の信念にのみ、従えよ』
『……お前は、お前のままでいい』
由樹は、篠崎との思い出を、篠崎への想いを、封印するように、風で開きかけた段ボールの蓋を閉めた。
そしてゆっくり踵を返すと、自分の小さな車に向けて歩き出した。
(これで………よかったんだ)
天賀谷展示場には、時庭展示場の何倍もの数の車が並んでいた。
どこに停めていいのかわからず、とりあえず紫雨のキャデラックの横に停めると、由樹は段ボールを持って、歩き出した。
両手で抱えている段ボールのせいで、事務所のドアノブが握れない。
「……これ、一回置くしかないかな」
呟きながら階段を下りかけたところで、ドアが勝手に開いた。
「……あ」
「こんばんは」
昨日のラフな格好に見慣れたためか、スーツ姿が妙に様になっている紫雨が、ドアを開けてこちらを見下ろしていた。
「リーダー」
足を揃えて“気をつけ”をした。
「今日からお世話になります。よろしくお願いします」
斜め45度にお辞儀をすると、紫雨は顔の前で手をヒラヒラと振った。
「いーから、そういうの」
言いながらドアを大きく開け放ち、由樹を招き入れた。
「言っとくけど。今日からはもう俺の部下だから。ビシバシいくよ」
口の端を上げながら笑っている。
昨日のことを敢えて触れてこない優しさを感じ、由樹は微笑んで頷いた。
二人で事務所に入る。
営業スタッフは出払っていて、林しかいなかった。
チラリとこちらを見上げた彼にもお辞儀をするが、彼はすぐに視線を落としてしまった。
「君、俺の隣の席ね」
言いながら紫雨は自分の隣を指さした。
(………あ)
窓際の紫雨。その横が由樹。
それは時庭の席順と一緒だった。
(ダメだ…。思い出しちゃ………)
由樹は振り払うように軽く首を振ると、席に鞄を置いた。
「……まず、明日からは眼鏡禁止な」
紫雨が隣に座りながら、由樹を見上げた。
「……え」
そう言えば篠崎にも眼鏡はやめろと言われた。
「……そんなに似合いませんか?眼鏡」
言うと紫雨は呆れたように目を細めた。
「ばーか。眼鏡は視野が狭くなんだよ。君さ、接客するとき、マンツーマンでするときなんてある?大抵、家族連れでくるだろ?目の前の夫婦だけじゃなくて、奥にいる父母、そばをうろつくガキンチョ、全員に目を配らなきゃいけないんだから。だから眼鏡はやめた方がいいんだよ」
「…………」
「これ、君のために言ってんだからね?」
「………ッ」
紫雨は由樹の顔を覗き込んでため息をついた。
「……顔、洗ってこい」
由樹は立ち上がると、展示場の洗面室に向けて走った。
(……篠崎さん。………篠崎さん!)
ハウスメーカーの営業としての一挙手一投足の全てを、由樹に仕込んでくれていた篠崎の存在の大きさを、指導の温かさを噛みしめながら、由樹はあふれ出る涙を洗面所のやけに温い水で洗い流した。