事務所に戻ると、林が荷物をまとめているところだった。
紫雨の姿はない。
「あの、リーダーは……」
おそるおそる聞くと、林は顔を動かさないまま視線だけで由樹を見て、軽くため息をついた。
「今日は予定があるからって定時で帰りましたけど」
「あ、そうなんですね」
明らかに敵意を感じる言い方に身を硬くする。
「あ、あの林さん」
鞄を持ち上げようとした林がもう一度こちらを睨む。
「俺、リーダーのことは何とも思ってないので、あの、安心していただいてい……」
「そんなの、俺もですけど?!」
林が、被せ気味に叫んだ。
「君、なんか勘違いしてない?!」
“キミ”の“キ”にやけにアクセントが付く言い方も、紫雨とそっくりだ。
由樹は思わず笑いそうになるのをこらえた。
「ただいまー」
事務所のドアから、秋山が入ってきた。
(そうか。この展示場は支部長も常在しているんだ)
由樹は秋山に向かって気をつけをした。
「秋山支部長、明日からよろしくお願いします!」
すると秋山は、
「君、眼鏡似合わないねー」
と笑った。
「新谷君。ちょっといいかーい?」
自席に鞄を置くと、秋山は展示場を指さした。
「はい!」
慌てて手帳とペンを手にし、秋山の後に続く。
「あ、林君」
秋山は振り返ると、林に言った。
「紫雨がいない時くらい、早く帰りなね?」
「……はい。ありがとうございます」
秋山は微笑むと事務所のドアを開け由樹を展示場に促すと、ドアを閉めて振り返った。
「紫雨がいると、みんな気をつかってなかなか帰れないからさ」
由樹は不思議に思い、事務所のドアを振り返った。
「……別に、紫雨さんはそんなの気にしない人だと思うけどな」
その言葉に秋山が微笑む。
「奇遇だなぁ!僕もそう思ってるんだよ!」
嬉しそうに言うと、彼は和室に入っていった。
由樹は慌ててその後に続いた。
「どう?やっていけそう?」
掘りごたつに足を下ろすと、クリアファイルをテーブルの脇に置き、秋山は軽く手を組んだ。
「はい。紫雨リーダーはいろいろ教えてくれますし、なんだかんだ優しいので、頑張れると思います」
心からの言葉だった。
しかし、秋山は目を細めて笑った。
「篠崎じゃなくてもいいの?」
「…………」
質問の真意がわからず、由樹は口を結んだ。
「僕はねー、君には篠崎しかいないと思った。だからわざと、時庭展示場に君を呼んだんだよ」
「え」
(わざと?間違いじゃなかったってこと?)
秋山は目を伏せた。
「……彼はさ。似てるよね?」
そしてゆっくりと由樹を見上げた。
「前の会社で、君のことを退社に追い込んだ上司に……」
「……!!」
(……なんで、そのことを)
由樹は背中の真ん中から、身体が凍っていくような感覚を覚えた。
「まあ、勘、だけどね」
秋山は後ろに両手をつき、少し仰け反って笑った。
「君の話を聞いて、篠崎にすごく似てると思った。一見ドライで冷たそうだけど、少し蓋を開ければ、情に厚くて、燃えるようなガッツがある。人が真似のできないカリスマ性があるのに、教えるのが上手で、指導も熱心だ。一度心を開くと懐に入れるのが異様に早い」
(……すごい。当たってる)
篠崎にも、そして“彼”にも、当てはまる特徴を列挙していく支部長に舌を巻きながら、由樹はただ頷くしかなかった。
「そして、一回こじれると、二度と心を開かない……」
秋山は全てをわかっているように、こちらを覗き込んだ。
「篠崎と、何かあった?」
「…………」
紫雨に聞いたのだろうか。それとも篠崎だろうか。
由樹は口を噤んだ。
「彼にも、君しかいないと思ったんだけどな」
秋山が呟くように言った言葉は、よく聞き取れなかった。
彼はテーブルに突っ伏すと顔を横に向けた。
「世の中って言うのはうまくいかないねー。新谷君」
「……すみません」
秋山は傍らに置いたクリアファイルを取り出すと、それを由樹の前に置いた。
「篠崎が昨日作成した、君の人材評価」
「…………」
「今回だけ、特別に見せてあげる」
由樹はそれを手にすると、ゆっくり開いた。
【新谷 由樹】
業績目標達成度 30点
課題目標達成度 70点
日常業務成果 55点
改善力 90点
責任性 90点
積極性 90点
協調性 80点
企画・計画力 75点
対策立案力 90点
実行力 95点
総合評価 A
知識不足、経験不足は相応にあるものの、顧客のニーズを聞きだす能力に長け、それに向けての対策立案力と実行力は、マネージャークラスにも匹敵する。
コミュニケーション能力に長け、顧客とスムーズな人間関係を構築できる。
また、社内間でも敵をつくらず、人と場所を選ばない柔軟性も持っている。
知識を吸収し経験さえ積めば、さらなる成長が期待できる。
それは全てひとえに彼の人柄によるものである。
「篠崎がさ」
秋山が顔を突っ伏したまま笑う。
「そこまで他人を褒めたの、初めて見たよ」
由樹は先ほど洗い流したはずの涙が、また溢れてくるのを感じ、思わず秋山と同じようにテーブルに顔を突っ伏した。
「うまく、いかないもんだねぇ……」
秋山が呟く。
二人はしばらくテーブルに突っ伏していた。
(…俺は、どこで間違えてしまったんだろう……)
一枚板のケヤキの湿った匂いが鼻を刺激し、由樹はまた涙を流した。
自分の上司と部下が、展示場の掘り炬燵で、向かい合って突っ伏していたその時、紫雨は店名も見当たらない古いドアの前にいた。
「……俺、帰っていいかな」
誰ともなしに呟く。
「こういう古臭くて湿っぽい店、嫌いなんだけど」
「……中はそうでもないですよ」
驚いて振り返ると、この店のマスターと思しき男が、黒いシャツと紫の腰エプロン姿で立っていた。
「どうぞ、中へ」
言いながらドアを開ける。
リンリンと昔ながらのパイプチャイムが鳴り、まばらに座っていた客がその音になんとなく振り返る。
カウンターの上には逆さにつるされた無数のワイングラスにピンク色の照明が当たっている。
(げ。ナニアレ)
口を開けながらそれを胡散臭そうに見上げると、カウンターに座っている男がゆっくり振り返った。
「お前さ、俺の番号ぐらい登録しとけよ」
強引に呼び出したくせにやけに偉そうな男に、小さく舌打ちをしながら、紫雨は一歩を踏み出した。
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