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#王子
「ゴツンっ!!」 鈍い音が響いた。
焼けるような痛みが、頭頂部から全身へ走る。
視界が赤く染まり、世界がぐらりと歪んだ。
遠くで、誰かが叫んでいる。
「……おい! しっかりしろ!」
緊迫した声が、私の意識を現実へ引き戻そうとする。」
(……私の25年。一体何だったんだろう)
時間は、少し前。 20日間、連続出勤休みなし。睡眠時間、平均3時間。
ブラック不動産会社で、上司の理不尽な罵声を浴び、ひたすらノルマの数字を追う日々だった。 デスクに積まれた、チェックを待つ図面や契約書の山。
泥のように疲れ果て、ようやく辿り着いた「自分の家」……のはずだった。 ガチャリ、と玄関の鍵を開けた瞬間。 鼻を突いたのは、安っぽい香水の匂いと、見覚えのない派手なハイヒール。 3年付き合い、この部屋で同棲しているはずの彼氏が、別の女を連れ込んでいる光景だった。
「……っ、お前が仕事ばっかで、全然相手してくれないからだろ。俺のせいじゃない」
謝罪ですらない、責任転嫁の言い訳だった。
「最近のお前、女を捨ててるもんな。癒やされないんだよ」
怒る気力すら、もう残っていなかった。 私は何も言わず、ただ静かに扉を閉めた。
私の居場所は、この街のどこにもなかった。 唯一の安らぎの場であるはずの家は、もう私の家ではない。
結局、足が向いたのは深夜の職場だった。 逃げ場所が、職場しかないなんて終わっている。
(とりあえず、仕事しよ。図面の確認も、契約書のチェックも……まだ山ほどあるんだから)
「……お疲れ様です」
資料室へ向かう階段の踊り場で、営業部の同僚と目が合った。
隣の席で、顔はそれなりにいいくせにいつも長い前髪で顔を隠している男。背は高いが猫背で、何を考えているか分からない奴。
設計部から異動してきた私の歓迎会で「髪、上げたほうがいいですよ」と適当にお世辞を言ったら、耳まで真っ赤にしていたっけ。
それ以来、時折視線を感じるようになった彼を避けようと、階段を下りようとした瞬間――。 階段の段差を見誤った。
体が、宙に浮いた。
「あ、やばい、落ちる――」
重力から解き放たれる浮遊感。
そして、今……。焼けるような痛みが、頭から全身へ走る。 世界がぐらりと歪んだ。
遠くで、誰かが叫んでいる。意識が、急速にブラックアウトしていく。 光が遠ざかり、静寂が訪れた。それが、私の人生、最後の一幕だった。
***
「ちょっと、これどういうことよ!?」
次に気づいたとき、私は大理石の洗面台の前にいた。場所は、きらびやかな王城の化粧室。 鏡の中にいたのは――私であって、私ではない「女」だった。
艶やかに波打つダークブラウンの髪。人を惑わすような、蠱惑的な紫の瞳。そして、ドレスの胸元の装飾が悲鳴を上げそうなほど、非現実的なまでに華やかな曲線美。
(嘘でしょ……なんでヒロインじゃなくて、よりによって、この『詰みキャラ』なのよ!)
私は思わず自分の頬を抓った。間違いない。ここは、前世で私が心血を注いで攻略した高難易度乙女ゲーム、通称『無理ゲー』の世界。 そして私は、破滅と処刑のデパート──悪役バイオレッタ伯爵令嬢になっていた。
バイオレッタの運命は、文字通りの『無理ゲー』だ。 婚約者である“狂犬公爵”アレク・ベルシュタインに冷遇され、最後は無残に処刑される。
手に持った羽飾りの仮面が、今夜が「あの日」であることを告げていた。 原作通りなら、私は今から会場に戻り、アレクに無視された腹いせにヒロイン・フローラのドレスへワインをぶちまける。それが、処刑台への特急券となる「最悪の日」だ。
「はあ……。マジやってられないわ。二度目の人生も即終了なんて!」
化粧室を飛び出した私は、メイン会場の隅にあるビュッフェへ直行した。 誰が意地悪なんてするのよ? 前世の私にとって、ヒロインのフローラは単なるキャラじゃない。唯一の心の支え、不動の『最推し』なのだ。
(彼女の笑顔を守るために、私はどれだけの犠牲を払ったと思ってるのよ……!)
この無理ゲーな世界で、彼女を幸せにするためだけに、私は血の滲むようなセーブ&ロードを繰り返してきたのだ。
私は給仕から奪い取った最高級の赤ワインを一気に流し込んだ。回ったアルコールが、脳を溶かしていった。
「……飲みすぎだ」
低い声だった。振り返ると、そこには夜の闇を纏ったような全身黒ずくめの男――アレクが立っていた。
(うるさいわねぇ、ほっといてよ! 飲まないとやってらんないわよ! こっちはあんたに殺される運命をどう回避するか本気で悩んでるんだから!)
アレクは、戦争の英雄らしく巨大な体躯をしていた。周囲を凍らせるほどの鋭い殺気を放ち、他の令嬢たちは彼を遠くから見ただけで震えている。
(……顔は無駄にいいくせに、目つきが悪すぎよ。このままだと、いつ私を殺してもおかしくないわ。……でも)
不意に、前世の記憶が頭をかすめる。 怒鳴り散らす地主、無理難題をふっかけるクレーマー……。
(……難しい客ほど、懐に入れば扱いやすい。これ、営業の基本の『き』よね?)
アルコールに酔った頭が、逃げろと警告する本能を、社畜の「クロージング」根性でねじ伏せた。
(どうせ死ぬなら、原作じゃありえない展開をつくってやるわ。この『難攻不落の不良物件(公爵)』を落とせばいいのよ!)
私は不敵に微笑むと、手元に残ったワインを飲み干し、一歩、アレクの方へと踏み出した。
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