母と己の仕事の都合で訪れた街、そこで偶然知り合った男が己や父にそっくりで興味を持ち、軽い気持ちで血縁関係があるか検査をしようと言ったのはいつの事だっただろうか。
さほど遠くない過去のはずだがはるか遠い昔か物語の主人公である己が発した言葉のように感じ、その時の己と対面できるのなら絶対に検査などするなと詰め寄りたくなる、そんな後悔しか生まない話をノアが聞き終えた時、古くて狭いが居心地の良いキッチンにふさわしくない重苦しい沈黙が生まれ、誰もが彼を思って口を開くことができなくなる。
その空気を感じ取り繕うように言葉を発しようとするが、隣に座ったウーヴェが無理をするなと小さく呟き、向かいに座るマザー・カタリーナも同意するように頷く。
ウーヴェが教えてくれた真実はノアにとっては確かに信じられないものだった。
己が生まれる十年以上も前に両親が巻き込まれた事件とその後の二人の行動が理解出来ずに脳味噌も心も掻き乱されてしまう。
混乱する頭でいくつか質問を返した気がするがそれも自らが発したのか物語の中の己の言葉なのかが理解出来ず、そんな様子にノアが受けた衝撃と混乱を一緒に話を聞いていたマザー・カタリーナやブラザー・アーベルが理解を示して短く祈りを捧げていたが、そんな彼らの横に見るからに病気で弱っている男がいて、蒼白な顔で震える手を握りしめるノアを無表情気味に見つめていた。
「……ショックか?」
己の両親が事件で被害者になったのもショックだが、加害者にもなっていた、しかもその罪を償うことなくそれどころか生まれた乳児を捨てるという新しい罪を重ねて逃げたのだからと、厳然たる事実を呟かれてノアの肩がびくりと揺れる。
逃げた。
その一言が想像以上にノアの肩にのし掛かり、己が犯した罪では無いのにあまり公言しないが尊敬している父が過去に犯していた罪に顔を上げられなくなってしまう。
真横でそれを見ていたウーヴェが眼鏡の下で一度きつく目を閉じた後、ノアを救う様にゆっくりと頭を左右に振る。
「……少し言葉を選んでくれないか?」
たった今尊敬していた両親の過去を知ったばかりで衝撃が大きい、それを受け入れるためには時間が必要なんだとウーヴェがノアの気持ちを慮って顔を向けるが、ゲオルグがなんとも言えない顔でウーヴェを見返す。
「リオンは受け止めていたぞ?」
今ノアが聞かされた事実、それと同じことをあいつも聞かされたがそんな風にただ震えるだけではなかったと音信不通になったリオンを思うあまりの厳しい言葉をノアに投げかけるゲオルグにウーヴェがもう一度ゆっくりと首を左右に振った後、人にはそれぞれの許容量があり、リオンの場合はその許容量が底抜けに広いだけだと伏し目がちに呟いたウーヴェは、隣で震えるノアの腕を一つ撫でて安心しろと伝える代わりに頷き、リオンが何事においても器が大きいというのはここでマザー・カタリーナやシスター・ゾフィーらに育てられ、何をしても絶対に守ってもらえるという安心感を無意識に感じ取っていたからだと告げると、皆の目がウーヴェに向けられる。
「……学生の頃はそれを理解出来なかった。だが刑事として色々な人達に接するようになり、刑事を辞めてからは毎日の中で自分がどれほど幸せだったかに気付いた」
「リオンが、幸せだと?」
「Ja.良く言ってました」
辛い事も苦しいことも沢山あるし我慢できないこともあるけど、でもそれでも幸せだよな、と。
ウーヴェがリオンと付き合い出して二人の仲を試すような事件や生きていくことが辛いと思う事件をお互いや周囲の力を借りて乗り越え、同じ道を同じ速さで肩を並べて歩いて行こうと手を繋いできたが、その間幾度となく問われては答えた言葉をウーヴェが胸に収めていることを伝えるように手を当てて眼鏡の下でそっと目を閉じる。
「親に捨てられたかも知れないが、自分には本当に理解してくれるマザーやゾフィー、仕事で働きを認めてくれるボス達がいる、それは本当に幸せなことだ、と」
己を理解し受け入れ認めてくれる、それがどれほど幸せなことか理解できるようになったと笑ったリオンの顔を脳裏に描いて一度目を伏せたウーヴェは、マザー・カタリーナの組み合わされた手が小刻みに震えているのに気付き、本心を出せば見捨てられてしまう恐怖を常に抱え恐怖から背を向けていたが、マザー・カタリーナを筆頭としたこの暖かな人達はリオンが我が儘を言うよりももっと酷く荒れていた頃でも見捨てなかった事を今はどこかの空の下で一人きりになっている己の伴侶に思い出してくれと強く願う。
お前が心底恐れていた事態は絶対に訪れることは無い。お前はもう二度とお前を庇護してくれる人から捨てられることは無いのだと、どうか一人きりになった今気付いてくれとも願い、震えるリオンの母の手に手を重ねる。
「……ウーヴェ、リオンは、幸せだと言っていたんですね?」
「はい。……自分たちを理解して受け入れてくれる母や姉に囲まれて幸せだ、と」
その幸せに気付いているはずなのに幼い頃に刷り込まれてしまった無条件で愛してくれるはずの人から捨てられた恐怖に怯えてしまい、今一人でそれと戦っていますと頷くと彼女の頬に涙が流れ落ちる。
「……あなた達が、リオンを強い男に育てました」
今は少し道が見えなくなっているけれどいずれまたすぐにあなた達の元に戻ってくると小さく笑みを浮かべると、ブラザー・アーベルが眼鏡の下の目を少しだけ潤ませながら頷き、ウーヴェに頭を下げる。
「リオンを、あいつを本当に理解してくれてありがとう……ウーヴェ」
「……誰よりも戻ってきて欲しいと思っているのは、俺自身だな」
ブラザー・アーベルに初めてファーストネームを呼ばれた緊張に唇の端が微かに震えながら持ち上がるが、紛うこと無い本心を肩を竦めつつ軽口で伝えて室内にいる皆の顔を順番に見つめたウーヴェは、隣でどんな顔をすれば良いのか分からないと眉尻を下げる愛しい男によく似た義弟の髪を撫でる。
「リオンは受け入れてくれる人が沢山いた。きみはどうだ、ノア」
きみの口ぶりから感じた家族の仲の良さ、それ以上に仲の良い友人は何人いる、両親に話せないような事を相談できる相手はいるのかと問われてロイヤルブルーの双眸を見開いたノアだったが、脳裏に浮かぶ友人達の顔よりも両親が悲しみ困惑している表情が大きく思い浮かび、その事実に更に目を瞠ってしまう。
「……いない」
「そうか」
そんなノアなのだ、両親の過去を知って衝撃に混乱してもおかしくないし誰も責めないしゲオルグの言葉はリオンを案じるがあまりの強い言葉だからと、発した方も聞かされた方も同時にフォローする言葉を告げて交互に顔を見たウーヴェは、マザー・カタリーナが席を立ってしばらくの後、湯気の立つマグカップをノアの前に差し出したことに気付き、その中身に目を細めて俺も欲しいと素直に告げる。
「マザー、俺も欲しい」
「ええ。もちろん。皆も飲みましょう」
ゲオルグとノアだけがそれが何かを知らずに疑問の目で彼女を見るがその視線を気にせずにミルクパンを片手にコンロの前に立ったマザー・カタリーナは、アーベルも飲みますねと笑って返事も聞かずにウーヴェが希望したものを作り出す。
「これは……?」
「これは、命の水とリオンらが呼んでいるドリンクだ」
水とハチミツにレモンを混ぜただけの物だが心が沈んでいる時や疲れている時に飲めばホッとするとその効能を身を以て実感しているウーヴェがノアに掌を向け、今はまず君が先に飲むべきだと促すと、ノアの震える手がマグカップを持ち皆が見守る前で口を付ける。
混乱と緊張と不信で揺らぎ喉がカラカラに乾いていることを温かな甘さと酸味がちょうど良い液体が喉を通って食道を通り胃に到達していくことで感じたノアは、一度味わってしまえばもっと欲しくなると思いつつカップを両手で持ち、ゆっくりゆっくりと飲み干して行く。
「……うまい」
「それは良かった。まだお代わりはありますよ、ノア」
身体が欲しいと思うのならお代わりをしてくださいと皆の前にカップを配りながら心なしかすっきりとした笑顔で頷くマザー・カタリーナの言葉にノアが礼を言おうとした時、横合いからそっと伸びてきた手に再度髪を撫でられてその理由が分からずに顔を振って手を払おうとするが、それでも伸ばされる手は優しくて全てを委ねても良いと唐突に感じた瞬間、頬から顎に濡れたような感覚を覚えて指で触れると、何故か理由の分からない涙が流れている事に気づく。
良い年をした大人が理由も分からずに涙を流すなど恥ずかしいと必死に堪えようときつく目を閉じるが、暗闇に閉ざされた世界でただひたすら優しく暖かな腕に肩を抱かれた事に気付き、自然と肩が上下に揺れる。
「……っ……!」
「……気にしなくて良い」
大人が辛い時に泣いてはいけないなど誰が決めたか知らないが、ここにいる人達はそんな言葉を否定し泣くことを受け入れ認める優しい人達だと最も優しい腕を持つ男の声にノアが握りしめた拳を腿に押し当てる。
「……っ……っ」
堪えきれない感情が涙となって頬を流れ落ちるがそれを恥ずかしいと感じさせる人はここにはいない為、ただ静かに涙を流すノアにウーヴェが両手を伸ばしてそっと抱きしめると、ノアの身体がウーヴェへと傾いでくる。
それを受け止めながら流れる涙と堪えようとする嗚咽も受け止めたウーヴェは、幾度か見たことのあるリオンの涙を思い出しながら今この瞬間も一人で泣いていなければ良いのにと、どこにいるかも分からないリオンを思って切ない溜息をこぼすのだった。
自分自身でも理解出来ない涙。それが自然と止まったのはマザー・カタリーナが皆のために用意をした命の水がそれぞれの胃袋に収まった頃で、いい年をした大人が人前で大泣きすると言う羞恥に今度は頭が上がらなくなる。
そんなノアの様子をしっかりと見抜いていたウーヴェがくしゃくしゃと子どもにするように髪を撫でると、さすがにそれは恥ずかしいとノアが頭を振ってその手を避けるが、つい先程まで肩を抱かれていたことを思い出し、ウーヴェに向き直って小さく頭を下げる。
「ノア?」
「……ダンケ、ウーヴェ」
「……っ!」
その言葉-というよりは言い方や雰囲気-がリオンを彷彿とさせ、ウーヴェが唇を噛み締めるが小さく息を吐いて覚えた緊張を解きほぐす。
「気にするな」
その言葉に心から安心できたのかノアの顔に小さな笑みが浮かび、一度脳味噌が知覚したリオンとノアの相似点がクローズアップされてしまい、咄嗟に口元を覆い隠して胸に芽生えた思いも覆い隠してしまう。
「ウーヴェ?」
自分しか見たことがない泣き顔やたった今見た小さな笑顔が脳裏でリオンのそれと重なり合い、抑えようとした感情が溢れ出しそうになる。
アーベルに一番会いたいのは自分だと軽口に混ぜて本心を吐露したが、それもウーヴェが日々無意識に努力して抑え込んでいたリオンに逢いたいという思いへ通じる扉を開けてしまう。
「……っ!」
「……早く逢いたいですね、ウーヴェ」
ウーヴェの様子にマザー・カタリーナがいち早く気付きマグカップを両手で抱えながら己の思いを口にした為、ウーヴェの意識がそちらに向かい、開ききる前の感情の扉が静かに閉まっていくのを感じる。
「そう……ですね、早く帰ってきて欲しいですね」
そう呟いて平常心を取り戻したウーヴェが心配そうに見つめてくるノアの視線に気付いて顔を振り向け、もう大丈夫だと呟いて眼鏡を外す。
「……なあ、ウィルとマリーがリオンを認めなかったのってどうしてだと思う?」
ウーヴェが眼鏡を拭くことで完全に気持ちを切り替えたのか、ノアの問いにそうだなと呟きつつゲオルグを見るが肩を竦められて微苦笑する。
「……リオンの存在を認めれば自分たちが犯した罪に直面することになる。それがイヤだった可能性もある」
「……罪悪感?」
「それもあるだろうな」
ただ本当のところはきみのご両親にしか分からないとウーヴェが頭を一つ振るが、ふと時計が目に入り、結構な時間長居していることに気付く。
「マザー、そろそろ帰ります。ノア、きみはどうする?」
一緒にここにやって来たが帰りはどうすると、今夜は申し訳ないが一人で考えたいことがあるから今度また一緒に食事に行こうと苦笑する。
「もっとゆっくりすればどうですか?」
「……そうしたいけど」
幼馴染みの店が開いている内に行かないと怒られてしまうとリオンが出て行ってからのウーヴェの日常生活-特に食事に関して-を一手に引き受けているベルトランが毎日店に顔を出さなければ心配すること、連絡もせずに行かなければ何を言われるか分からないと苦笑し、残念そうな義母の頬にキスをするために静かに立ち上がり、テーブルを支えに回り込んで背後から抱きしめる。
「次の休みにゆっくり来る」
「そうですね、そうして下さい」
そういうことであれば許しましょうとウーヴェのキスを頬に受けて同じ場所に返したマザー・カタリーナだったが、ノアがさっきよりは顔色が良いもののそれでもまだ何かを考え込んでいる様子だったので大丈夫ですかと問いかけ、その声にウーヴェも真正面からノアを見つめる。
「大丈夫か?」
「……マザー、あの、こんなことをお願いするのは違っているのかも知れませんが……」
再度腿の上で拳を握りしめながら意を決した顔でマザー・カタリーナを見つめたノアは、皆の視線が集まる事に頬を少し赤くするが、リオンの事をもっと知りたい、その為に当分の間ここで一緒に生活させて貰えないかと率直に伝えると、マザー・カタリーナとブラザー・アーベルが顔を見合わせ、ウーヴェとゲオルグが意外そうに目を瞠った為、無理なことを承知で言っている、生活費もちゃんと入れるからここに置いてくれとノアにとっては一世一代の頼み事だと頭を下げるが、そう言えば今どこかホテルでも借りているのかと問われて顔を上げ、昨日の夜中にウィーンを突発的に飛び出してきた、まだ何処にも決めていないと肩を落としてしまう。
よくよく考えれば、リオンとの関係を説明してくれと両親に迫って以来、両親の家にも行っていなければ顔を見せることもしておらず、また自宅やオフィスにも帰っていなかった。
両親の顔を見るのが怖い、話をして何を言われるかが怖くて距離を取り、ウィーンで写真家としての仕事をしていれば必ず父と顔を合わせる事にもなる恐怖から仕事にも手が付かなくなっていた。
その結果、まだまだ掛けだしのノアへの仕事は激減し、オフィスの留守を預かってくれている事務員にも仕事を整理すること、この先ウィーンにいつ戻って仕事に復帰するか分からないこと告げてオフィスを引き払ったのだ。
それは半月ほど前の出来事だったがすっかりと遠い過去のような事に思え、時間の流れが狂っているのかと自嘲した時、ここに寝泊まりすることについては何の問題もありませんと優しく受け入れられて勢いよく顔を上げる。
「若い男の人が増えてくれることは嬉しいことです」
今はライナーという二十代前半の青年がいるが彼女の出産が近い為に何かと慌ただしくなっていて人手は幾らでも欲しいところだったと笑われて安堵に胸を撫で下ろすが、次いで問われた言葉にはすぐさま返事をすることが出来なかった。
「ご両親が心配されているのではないですか? 帰らなくて良いのですか?」
その疑問は当然と言えば当然のものだったが、両親が過去に犯していた罪を知った上で二人の顔を見る事は今のノアには難しい事だった。
あの時の両親の顔やこの街で初めて出会った時のリオンの顔、そしてウーヴェらと一緒に食事をしている時の楽しそうに笑っている顔を思い出すと、自分一人が両親と一緒に何も知らずに笑って過ごしていたことが取り返しのつかない罪を犯していたような気持ちになる。
それ故に返事が出来ないでいると、こほんと咳払いが聞こえて皆の視線がそちらへと向けられる。
「二人に会うことがイヤなら電話だけでもすればどうだ?」
ノアの躊躇やマザー・カタリーナの心配を感じ取りながら先程ウーヴェに告げられた言葉も気にしていることを示すように、これはどうだと己の提案が厳しいものに聞こえていなければ良いと断りつつゲオルグがノアに救いの船を出す。
「そうですね。ホームにいるとだけでも伝えればどうですか?」
そうすればきっとご両親も安心でしょうとマザー・カタリーナが胸の前で手を組んで頷くものの、ある意味総ての事件の発端となった場所にノアがいる事実に驚くのでは無いかとブラザー・アーベルが天使像そっくりの顔に心配の色を浮かべると、二人の不安や心配は二人の問題で今はノアの気持ちを軽くするのが大切だとウーヴェがもう一艘の助け船をだすが、ゲオルグの船に先に乗っているノアが腹を括った顔で頷いてスマホを取り出す。
「まだ……電話をするのは出来ないから……」
スマホを見れば誰からの着信かを確かめること無く分かってしまう量の着信履歴や未読メッセージが表示されていたが、電話では無くメッセージを送る己の決意を伝えると、皆の顔に安堵の色が浮かぶ。
ここにいる人達はどうしてこんなにも他人のことに優しく真剣に向き合ってくれるのだろうかという疑問が不意に思い浮かび、何故と呟いて皆の顔に疑問を浮かべさせるが、とにかくメッセージだけでも送ろうとスマホを操作して両親のどちらにも同じ内容のメッセージを送る。
その直後、着信を伝えるバイブがスマホを揺らすが、それに出ることをせずにポケットに戻すともう一度頭を下げる。
「両親の罪を償うとかそんなことは……今は何も考えていません。でも……リオンが、いないと思っていた俺の兄がここでどんな風に育ったのか、それを知りたいんです」
だから極力迷惑を掛けませんのでしばらくの間ここで一緒に生活させて下さいとさっきよりは自然にマザー・カタリーナに告げたノアは、もちろん、好きなだけいて下さいと先程と同じ優しさで受け入れられた事に自然と頭を下げる。
「……じゃあマザー、俺は帰る」
「はい」
ウーヴェの挨拶を再度頬に受けた彼女は何かを思い出したように立ち上がってウーヴェをそっと抱きしめると、誰にも聞こえないように何事かを囁きかけ、自身の背中に回されたウーヴェの手に込められた力に返事を貰う。
「……ゲオルグ、アーベル、また」
「ああ、また来てくれ、ウーヴェ」
「またな」
ブラザー・アーベルのその一言が嬉しいと素直に頷きゲオルグの痩せてしまった手を両手で握ったウーヴェは、ノアの肩に手を載せて今日は帰るが何かあればすぐに連絡をくれと告げ、緊張と達成感に薄く染まる頬にキスをする。
「……っ」
「おやすみ、ノア」
じゃあまた来ると告げてステッキを手にしたウーヴェは家族同然では無くもう殆ど家族のような人達に挨拶を告げてキッチンを出て行くが、その耳の奥では義母が囁いた言葉が木霊していた。
『リオンもあなたに逢いたいはずです。お互い辛い夜にいますが必ず夜明けが来ます』
だから気落ちせず自暴自棄にならず、でも無理をしないで下さい。
その言葉を胸に納めて来客に気付いた子ども達が窓から顔を出している事に気付いたウーヴェは、笑顔で手を振って子ども達の笑顔から力を分けて貰う。
リオンが良くここの子ども達と遊んでいるのはもしかするとその笑顔があるからではないかとふと気になってしまうものの、今すぐ確かめる術が無いと肩を竦め、彼方此方が破れているフェンス前に止めた車に乗り込むと、ベルトランに今から店に行くとメッセージで伝えて車の天井に息を吹きかける。
今日は新鮮な鱒が手に入ったからムニエルにする、他に食いたいものがあればメニューから選べ、それとギュンターが来ているとのメッセージを受け取り、己を気遣ってくれる人がいる事に感謝しつつ車を走らせるのだった。
いつものように裏口からゲートルートに入ったウーヴェは、特に予定を入れていなかったが時間が出来たからお前のテーブルを使わせて貰っていると自宅にいる時のように寛ぎながら料理を食べていた兄、ギュンター・ノルベルトの姿を発見し、思わず震える唇の両端を下げてしまう。
ウーヴェのその様子から心の全容は分からないがそれでも危険な動きを察したギュンター・ノルベルトが寛いでいた席から立ち上がると同時にウーヴェをそっと抱きしめ、どうした、何があったと色が変わっても手触りは変わらない前髪を掻き上げつつ問いかける。
「……ノ、ル……っ」
「……ああ、分かった。だから泣くな、フェリクス」
リオンが姿を消した直後に互いの本心をぶつけて以来、家族間の断絶があった前のような関係に戻った二人の様子はゲートルートではすっかり見慣れたものになっていて、今もウーヴェが何か不安を抱えているのだろうとウーヴェの席で交わされる兄弟の言葉にスタッフが気にも留めなくなっていたが、ベルトランだけがその癖を見抜いていた為、最近は料理を任せることが多くなっていたのに珍しく自ら包丁を手に取る。
「あれ、オーナー、何か作るんですか?」
ベルトランの様子に他のスタッフが軽く驚きの声を上げるが、ポメスを作る、もし食いたいヤツがいれば言えとスタッフに呼びかけ、皆が食うと告げた為に大量のジャガイモと格闘し始め、スタッフの一人にタマネギのみじん切りを用意してくれと命令する。
ジャガイモの下処理が終わって油の中に投入し、それらが色づき始めた頃、ベルトランの予想通りにギュンター・ノルベルトが裏メニューのポメスを作ってくれないかと注文した為、もうすぐ出来るから待っててくれと額に汗を浮かべたベルトランが返す。
程なくして出来上がったポメスを皿に盛り付けてテーブルに自ら運ぶとウーヴェの目尻が赤く染まっているもののその表情は明るいものだった為、胸を撫で下ろして料理を作るからその間これを食っててくれと片目を閉じる。
「……バート」
「どうした?」
「……ダンケ」
「おー。鱒のムニエルも絶品だからしっかり食えよ」
お前が食事を疎かにして倒れることでもあればキングが激怒すると笑うベルトランに素直にウーヴェも頷き、そんな二人を嬉しそうな顔でギュンター・ノルベルトが見守っているのだった。
こうして両親と物心両面で距離を取ったノアだったが、ブラザー・アーベルが心配したように二人からの連絡がひっきりなしに入ってくるが、今はまだ向き合えないと胸の裡で両親に告げ、電源を切ったスマホをバッグの底に押し込んでしまうのだった。
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