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嵐山龍馬の手にはクリアファイルに挟んだ住民票があった。
「離婚届のコピーは頂けませんか!」
「お引き取り下さい」
「こっ、戸籍謄本は!」
「1週間後にお越し下さい」
本来ならば戸籍謄本を持参したかったのだが戸籍住民課の窓口で取得まで1週間を要すると言われた。そこで苦肉の策、住民票に《《元妻》》の名前が無い事を証明する為、世帯全員の住民票謄本を取得した。
「はっ、花屋!」
タクシー待機場の後部座席の窓をノックし由宇の住むマンションへと向かったが途中花屋に立ち寄り49本の花束を作って貰った。
「お客さん、凄いですね。誕生日ですか」
「いえ、プロポーズです」
「そりゃ良いや!今日は大安吉日ですよ!」
「そ、そうですか」
そうですかと言いつつ脇には汗が滲んでいた。昨日の今日で「はいどうぞ」と部屋に上げてくれるとも、言葉に耳を傾けて貰えるとも思えなかった。それでも|源文《もとふみ》の言うようにあれこれと考えている場合では無かった。
(どうか、どうか神様!)
心の声A(キリスト教信者でも無いのに)
心の声B(こんな時だけお祈りされても)
心の声C(神様も困るわ)
心の声D(門前払いされたら如何すんねん)
心の声一同(考えて無かったわーーまじ馬鹿だわーー)
|犀川大橋《さいがわおおはし》を渡る頃、ポツポツと雨がフロントガラスに打ち付け始めた。
「ーーーあ、雨」
「お客さん、雨降って地固まるですよ。気合い気合い」
「そ、そうですか」
急勾配の竹林の向こうに|プラザ寺町《由宇のマンション》が見えて来た。一番端の部屋には灯りが点いていた。
タクシーの扉が閉まる音で身体が飛び上がった。激しい動悸、息切れは52歳の3大疾病に依るものではない。健康診断では正常値、ただ今年になってコレステロールの値が増えた。
(そんな事は如何でも良いんだ、落ち着け自分)
エレベーターのボタンを押す指が小刻みに震えた。エレベーターのランプは5階から降りて来た。鼻から大きく息を吸い込み深く息を吐いた。2、3、4、と灯るボタンを押して逃げたい衝動をなんとか堪えた。
心の声一同(こいつちっさ、器ちっさ)
ぽーーーん
左右を見回すとベビーカーが置かれた501号室、その反対側に由宇の部屋がある。
(ーーーん?)
ただそこには先客が居た。
その先客は中肉中背でやや小柄だが見覚えのある顔の男性だった。一文字の整った眉、通った鼻筋には誰かの面影があった。
(ーーー|源文《もとふみ》くん?)
実際に会った事はないが薄暗闇のその顔は由宇の《《元夫》》であると思われた。その男性は玄関の扉を両手で激しく叩きドアノブを上下させながら何かを叫んでいた。
(如何いう事だ)
その扉を叩く音は廊下に響き住人が顔を出して覗き見ている。その声色は決して穏やかなものでは無く不満に満ちていた。
「由宇、開けろ!開けてくれ!」
(・・・・・!)
玄関扉の向こうの由宇の声はこちらからでは聞き取れなかった。
「やっぱりおまえしかいないんだよ!」
(・・・・・!)
「開けてくれよ!あいつとは別れた!由宇、やり直そう!な!」
(・・・・・!)
元夫が元妻に復縁を迫り元妻は部屋に招き入れる事を拒否していた。
心の声一同(早ぅ助けんか!ごるあ!)
これは明らかにおかしい状況で嵐山龍馬は由宇の携帯電話に連絡を入れた。着信音が3回鳴ったところで涙声が飛び込んだ。
「たっ、助けて!嵐山さん助けて!」
「如何しましたか」
「夫が、夫が訪ねて来て暴れているんです!」
やはり思い違いでは無かった。
「理由は!」
「もう1度やり直そうって、玄関で、玄関のドアを開けようとして!」
「やり直すつもりはありますか!」
由宇は怯えながらも力強い声で言い切った。
「ありません!」
「分かりました!」
嵐山龍馬は携帯電話の電源を切ると男に歩み寄り眉間に皺を寄せ厳しい面持ちで見下ろした。
「な、なんだよあんた」
「ご近所迷惑ですやめて下さい」
もう一歩近付いた。
「結城さんはあなたと復縁する気はないと仰っています」
「あ、あんたに関係ないだろう」
「お帰り下さい」
少しばかり屈み込むとその間抜けな顔を睨み付けた。
「おまえこそ帰れよ」
「お帰り下さい」
「な、なんだよ関係ないだろ!あっち行けよ!」
「お帰り下さい」
「なんだよてめぇは!」
嵐山龍馬は男のワイシャツの襟首を掴んで凄んで見せた。
「婚約者だよ」
「な、誰のだよ!」
「由宇さんに決まっているだろう!帰れ!2度と来るな!」
「ゆ、由宇にそんな男がいるなんて聞いてねぇぞ!」
「言う必要ないからな!」
怯んだ男は捨て台詞を吐き小走りにエレベーターホールへと向かった。
「くっ!くそ!誰があんな枯木女に!」
「もう2度と来るな!」
「来るかよ!」
心の声E(あー、花が勿体無い、すっごく高かったのに)
心の声一同(誰?)
心の声E(てへ♡)
心の声一同(てへ♡じゃねーよ!)
玄関の扉が恐る恐る開いた。
「あ、嵐山さん!?」
まさかその場に嵐山龍馬が居合わせていたなど思いも寄らなかった由宇は驚き、腰が抜けた様にその場に座り込んだ。ふと見遣ると玄関先には深紅の花弁が舞い散っていた。
「立てますか?」
「は、はい」
手を差し伸べると由宇はその手を取って立ち上がり嵐山龍馬の胸に飛び込んだ。
「こ、怖かった」
「はい」
「怖かったです」
「怖かったんですね」
「はい」
「怖かった」
由宇を抱き締めたその手には深紅の薔薇の花束が抱えられていた。甘くほろ苦い香を嗅いだ由宇が驚きその顔を見上げると嵐山龍馬は少し情けない面差しで「もう2度としません、申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を口にし力強く抱き締めた。
「お部屋に入っても宜しいですか」
「どうぞ」
心の声一同(はぁーーーーーーーー!)
そして正座をした嵐山龍馬はリビングの床に額を擦りつけた。
「もうっ!申し訳ございませんでした!」
「はぁ」
「もう2度と金輪際あのような馬鹿げた事は致しません!」
「はぁ」
「出来心でした!」
「はぁ、さいざんすか」
「何回なさったんですか」
「さっ、3回です!」
「正直に言わないで下さい!」
「ご、ごめんなさい!」
床に額を擦り付けたその姿を見下ろした由宇は既視感を覚えた。
それは初めてこの部屋に由宇が嵐山龍馬を《《お持ち帰り》》した翌日の朝と翌々日の夕方の事だった。
<申し訳ありませんでした!>
酩酊した嵐山龍馬は由宇と甘い一夜を過ごしたものだと思い込み、床に額を擦り付け謝罪の言葉を繰り返した。
<粗品ですがお詫びの品です!>
その手にはGODIVAのチョコレートを2箱持っていた。そして由宇という女性と|部下《もとふみ》の母親は分けて考えたいと面倒な事を言っていた。
<|源文《もとふみ》くんの了承を頂いたら!>
<源文のなんでしょうか>
<結婚を前提としたお付き合いをお願いします!>
その目は真剣で、自身の記入欄を埋めた婚姻届まで持参した。
<はぁ、結婚はご遠慮いたします>
<お願いします!>
<このままの良い関係でよろしいじゃないですか>
<お願いします!>
やがて2人は金曜日の晩になると店のカウンターでもやしのひげ根を取り由宇の部屋で熱い夜を重ねる様になった。確かに嵐山龍馬は生真面目で几帳面、根は純粋な人間である事は間違いは無かった。
(本当に憎めない人ね)
由宇は大きなため息を吐いた。すると嵐山龍馬はビクッと肩を震わせて「申し訳ございませんでした!」を繰り返した。
「宜しいですよ」
由宇はその肩に手を置いて2回程軽く叩いた。嵐山龍馬は|躊躇《ためら》いながら顔を上げたが頬には青痣、額はカーペットに擦れて赤らみ何なら糸屑も付いている。整った面差しと仕立ての良い濃灰のスーツが台無しだ。
「ーーーゆ、うさん」
「出来心だったのでしょう?」
「はっつ、はい!」
「本当に殿方は仕方の無い生き物ね」
「はっつ、はい!」
居酒屋の女将ともなれば男女関係の悶着を目の当たりにするなど日常茶飯事だ。しかも|寡婦《かふ》の49歳と離婚間際の52歳、若い頃ならばいざ知らず騒ぎ立てる事でも無いような気さえする。
「私も悪かったわ」
「え」
「つまらぬ意地を張って嵐山さんのお申し出を|無下《むげ》にしておきながらひとりで騒ぎ立てて恥ずかしいわ」
「そんな、私が悪いんです」
由宇は厳しい面立ちでその頬を軽く叩いた。
「そうです、悪いんですよ!」
「すみません」
そこで嵐山龍馬は花弁が醜く落ちてしまった深紅の薔薇を差し出した。
「これ、どうぞ」
「ありがとうございます。今日は桔梗の花ではないのね」
「特別な日ですから、49本」
由宇の眉間に皺が寄った。
「もう!40、し、死ぬの《《4》》じゃない!
「そういう訳ではなく」
「しかも9、苦しみの《《9》》!」
「そんなつもりでは!」
嵐山龍馬はまた地雷を踏んだ。
心の声一同(やっちまったなーー!)
「それに49歳!もう50歳!大台よ!50歳!」
「そんな意味では!!」
由宇は罵ったが薔薇の花束の匂いを嗅ぎながら極上の笑みを浮かべた。
心の声A(なんだどうした)
心の声B(なんだか嬉しそうですね)
心の声C(やっぱり美人だな)
心の声D(情緒不安定なんじゃね?)
心の声E(このタイミング!今ですよ!今!)
「ありがとうございます」
「い、いえ」
嵐山龍馬は一世一代の大勝負に出た。
差し出した紙は《《元妻》》と離婚した事を証明する為に取得した世帯全員の住民票謄本だった。それを受け取った由宇は頷いた。
「おめでとうございます、離婚成立ですね」
「ありがとうございます」
「ようやく所在が明らかになりまして」
「よかったですね」
「印鑑の捺印、面倒臭がられたんじゃないですか」
嵐山龍馬の視線が左右に泳いだ。
「あーーーーーーそれは」
「あ、そういう事ですか。さいざんすか」
微妙な空気が漂い次の言葉が何処かに吹き飛んでしまった。
心の声A(どうするよバレたぞ)
心の声B(バレたもなにも、もう3回って言ったじゃないですか!)
心の声C(ほんっと馬鹿だよな、馬と鹿に謝れって)
心の声D(きっと想像してるぞ、あんな事やこんな事)
心の声E(てへ♡)
心の声一同(一生、尻に敷かれる事間違いなし!)
すると由宇はチェストの棚を開けて見覚えのある薄茶色の枠が印刷された紙を取り出した。
心の声一同(あーーーーーーー!終わりだ!)
嵐山龍馬は恋が終わる瞬間を悟った。
(終わりだ、もう終わった)
《《元妻》》とのあんな事やこんな事が無ければ嵐山龍馬は|南町レジデンス《龍馬のマンション》を売却し居酒屋ゆうに程近い|犀川《さいがわ》沿いの分譲新築マンションに移り住もうと考えた。ただそれも由宇が望めばの話で居酒屋を畳んでも良いというのならば金沢市郊外に家を建て2人で余生を楽しもうとまで夢を膨らませていた。
「これ、見覚えあります?」
「はい?」
リビングテーブルには市役所で配布されている手続き順番待ちのレシートが置かれていた。日付は2024年5月17日金曜日、番号は38番だった。先程の戸籍住民課の窓口で嵐山龍馬が手にした番号も38番だった。
「これは?」
由宇は《《あの騒動》》を笑いを堪えながら語り始めた。
「嵐山さん、婚姻届を離婚届と間違って窓口に出されたでしょう」
「そうです」
「婚姻届を幸薄い茶色だと大暴れ」
「お、大暴れはしていないと思いますが。どうして由宇さんがそれをご存知なのですか」
由宇はそのレシートの《《3》》の数字にボールペンで線を足して見せた。《《3》》は《《8》》になり38番は88番になった。
「ーーーーあっ!」
「その時、知らない女性と結婚する事になりませんでしたか?」
「あぁ、確かに受付カウンターで`おめでとうございます`と言われました」
「その時、順番が違いますよと言われませんでしたか」
「あぁ、確か着物を、着物」
「そうなんです、あの時嵐山さんの隣にいた女性が私なんです」
心の声A(まじかーー!)
心の声B(あ、そうかも)
心の声C(見覚えあった)
心の声D(それで一目惚れ)
心の声E(これって運命の相手よね♡)
「私が38番」
「はい、嵐山さんが38番で私が88番でした」
そうだ、あの雨の金曜日。混雑していた列に並んだ挙句に離婚届が緑色だと窓口で告げられ腹が立ち自動扉で鼻先を打つけた。気分を害して会社に戻ると能天気な|部下《源文》が「母親の居酒屋行きませんか」と誘って来た。
「あの女性が、由宇さん」
「はい」
「いつから私だと」
「初めてお店にいらした時から、あらまぁ掃き溜めに鶴だと思いました」
「掃き溜めに鶴」
「鶴は恩返しでチョコレートを持って来てくれましたけどね」
嵐山龍馬は歪な88番のレシートをまじまじと見た。
そして恋の終わりを告げる幸薄そうな茶枠の婚姻届が目の前に広げられた。一目惚れから始まった恋愛だったが幸せな3ヶ月だったと部屋の中を感慨深く見回した。
心の声A(この部屋ともお別れか)
心の声B(52歳、寂しく老いていくのね)
心の声C(愚かなり)
心の声D(まぁ、15分が25分になっただけでも良くね?)
心の声E(んーそうとも言う)
「ありがとうございました」
鶴は涙を堪えて婚姻届を広げて見た。
「あら、喜んで下さらないの?」
心の声一同(これはーーーーーーー!)
婚姻届の記入欄には結城由宇との記載があった。結城は仕事上の通り名かと勝手に思い込んでいたが由宇の《《元夫》》は婿養子だったと言った。
「|源文《もとふみ》は格好の良い名前になれると喜んでいました」
「ゆ、由宇さん」
「私は嵐山由宇で間違いないのかしら」
「もっ勿論です!」
嵐山龍馬は由宇に抱き付くと嗚咽を漏らし由宇はその頭を優しく撫でた。
(本当にもう、可愛い人ね)