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冬になり、日が暮れるのが早くなった。
ただでさえ、来場客数の減少により外灯の数を減らしている時庭展示場の駐車場は暗い。
篠崎は煙草を咥えた。煙だか息だかわからない、白い蒸気が唇から漏れる。
それをため息とともに一気に吐き出すと、篠崎は歩き出した。
遠くに見える高速道路に列を作る大型バスの橙色の光が、ほぼ同じ速度で進んでいく。
目の前を走る国道のどこかで、クラクションが鳴る。
この風景をみるのも、あと数ヶ月だ。
時庭展示場はセゾン撤退と共に解体され、更地に戻る。
そのあとは、地元大型スーパーが建つらしい。
国道沿いだし、周りにはコンビニもドラックストアもない代わりに住宅地が軒を連ねているから、そこそこ客は入るだろう。
それを見届けることは出来ないが。
渡辺から出た“結婚”の二文字に、まだどこか動揺している自分がいる。
(自然なことだろ。付き合ってた男女が、その決断をするのは、普通のことだ)
以前なら……例えば1年前の自分であったら、そのことを何も感じず受け入れていたのだろう。
しかし今年は違う。
今は、違う。
当てもなく駐車場を歩きながらふと、顔を上げる。
「…………」
目の前には茶色のダッフルコートを着ている女性がいた。
「…………美智?」
しかし振り返った彼女は、柴犬を連れた中学生くらいの少女だった。
「んなわけ、ねえだろ……」
否応なく思い出してしまう自分に苦笑しながら、篠崎は指に挟んだ煙草を再び唇に近づけた。
新谷は、煙草の匂いは平気になっただろうか。
なにも無理して煙草を吸えとは言わないが、客の中には一定数、喫煙者がいることも事実。慣れるのが酷でも、せめて相手に気づかれないように煙を裂ける技くらいは身に着けただろうか。
また彼のことを考えている自分に嫌気がさす。
そう言えば……。
美智も煙草の匂いは嫌いだった。
マンションの自室。
招き入れた人妻。
抱き寄せた細い体は、こちらがたじろいでしまうほど、大人しく篠崎の胸の中に入ってきた。
自分を落ち着けようとしているのだろう。彼女が深い息を繰り返す度に、ただでさえ密着している身体が、篠崎の中に入り込んでくるような気がして、そこ順応さに篠崎は恐怖さえ覚えた。
しかしここで、誰かが救ってやらなければ、引き戻してやらなければ、彼女はその細く脆い道を進み続けて、本当に、殺されるか、殺してしまうかの分岐点まで行ってしまうかもしれない。
本来、分岐点はそこじゃない。
別れるか、別れないか、だ。
そこまで戻してやるには、彼女自身が振り返らないとダメだ。
そして彼女を呼び止めるのは、本来、親や兄弟であるべきだ。
だが、彼女自身が親に心配を掛けたくないと拒むのであれば。
自分がなってやらなければならない。
抱きしめたその体は、数年前、同じようにして泣き崩れた、妹の佳織よりもずっと小さくて華奢だった。
妹が当時、付き合っていた恋人に暴力を奮われ、決死の覚悟で自分に打ち明けてきたときは、頭がよくいつも強気で、ナンパしてくる男たちを読んで字のごとく蹴散らしてきた妹が、そこら辺の一般男性に暴力を奮われるなんてと驚愕したものだが、美智は、いかにもか弱くて、逆にこんな弱い生き物に手を上げることのできる門倉に対し、嫌悪感しか湧かなかった。
「どうしていいのか、わからない」
呟いた彼女の声は、震えていたが、確かにそこには、強引に何かを奪ってほしいと欲する雌の気配が混じっていた。
「…………」
篠崎はその体を優しくソファの上に押し倒した。
少しでも抵抗されたなら、よそうと思った。
肝心なのは、美智が、夫以外の男を振り返るという心情的変化であって、身体の関係は、その目的を導き出す手段として手っ取り早い、というだけだった。
しかし彼女は拒むどころか、嬉しそうに篠崎を受け入れた。
それだけ不安で、何かに縋りたかったのかと思うと、篠崎は胸に鋭い痛みを覚え、彼女の唇に自分のそれを落とした。
時庭展示場で会ってからたった1時間。
篠崎は、門倉美智を抱いた。
◇◇◇◇◇
その次の日だったか、二日後だったか、一週間後だったかは忘れたが、門倉美智はさほど間を置かずに、また展示場の駐車場に現れた。
「……これはこれは」
掃除中、2階の窓を開け放ちその姿を確認した渡辺は、美智の変化を見てため息をついた。
そして同じく展示場の窓から彼女を見下ろしていた篠崎を振り返った。
「篠崎さん。もしかして………」
その後に続く言葉は予想が出来た。
……もしかして、彼女と何かありましたか?
それが露骨にわかってしまうほど、美智は変貌を遂げていた。
季節外れの夏用ロングスカートは、ひざ丈のイエローのギャザースカートに変わり、薄くてボロボロのTシャツは、網目の大きなダークブラウンのニットに変わり、つっかけたサンダルはベージュのセンターブーツに姿を変えた。
ぼさぼさに伸ばしていた髪の毛は、美容院にでも行ったのだろうか、肩までの内巻きのボブに綺麗にまとめられており、艶やかなその髪は、とても30代には見えなかった。
「……あ、いえ、何でもないです」
半ば呆然と彼女を見下ろす篠崎を見て、何かを察したのか、渡辺はそれ以上聞いてこなかった。
美智は、ちらちらとセゾンエスペースを見ていたが、やがて2階から見下ろす二人の視線に気が付くと、遠慮がちに胸の前で手を振った。
渡辺は軽く会釈をしながら後退し、篠崎の脇を抜けると、階段を下りて行った。
篠崎は軽く息をつくと、彼女に向けて管理棟のベンチを指さした。
美智は振り返ってベンチを確認すると、ニコニコ笑って頷いた。
ベージュのセンターブーツがそちらに向かうのを確認してから、篠崎は展示場内の階段を下り始めた。
自分が降りているその階段は、正しいのか間違っているのか、自分でもよくわからなかった。
2年前、二人で腰かけたベンチに一人で座る。
あのときの自分は彼女に少しでも恋心と呼べる感情があったのだろうか。
今となっては思い出せない。
しかし嬉々として篠崎と一緒にベンチに座った彼女の目が、異様に輝いていたことだけは覚えている。
何を話したのかは覚えていないが、彼女の急激な変化に焦り、悪い予感しかしなかった。
「門倉さん」
先日、彼女を抱いた時には、意識的に“美智”と下の名前で呼んでいたのだが、あえて篠崎は苗字で彼女を呼んだ。
「……はい?」
その変化に敏感に気づいた彼女は、少し期待を裏切られたような寂しそうな顔をした。
「その恰好で家から出てきたんですか?」
言うと、彼女は質問の意味が分からないというように怪訝な表情に変わった。
「そうですけど?」
だが篠崎はトーンを変えずにもう一つ聞いた。
「その恰好で帰るんですか?」
「…………」
いよいよ美智の顔が曇る。
しかし、言わなければいけない。
このままでは、彼女の身が危険だ。
「その恰好で家に帰らない方がいい。それか、絶対ご主人が帰らない時間帯にこっそり帰ってすぐに着替え、化粧を落とした方がいい」
言うと、その意味をはき違えた彼女は悔しそうに唇を結んだ。
何が夫を怒らせるか、どうして暴力を奮われるのか、いつも身体で、肌で、感じていないはずはないのに、美智の鈍感さと幼さに少しうんざりした。
篠崎の表情の変化にだけ敏感な美智は、ひどく落胆したようで、肩を落とした。
ショルダーバックを引き寄せ、それを肩につっかけると、彼女は立ち上がった。
「てっきり……」
呟くように発した彼女の声に、篠崎は視線を上げた。
「似合いますねって言ってくれると思ったのに」
「…………」
篠崎は立ち上がり、彼女を正面から見つめた。
「似合いますよ。もちろん」
美智は篠崎の視線の奥に潜む感情を、疑うようにしばらくの間見つめていたが、それでも彼の瞳の中に温かい光を見たのか、安心するように一度深呼吸をすると、自分の家がある方向に向けて歩き出した。
彼女が救急車で運ばれたのは、その2時間後だった。