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時間帯としては夕方だが、呪いと共に封じられた土地クヴラフワから夕暮れが失われてから凡そ四十年が経過している。地平の向こうに去り行く赤い太陽も、地上を黄金色に染める僅かな時間も、厳かな夜と共に立ち昇る紫色も、昼を名残惜しむように輝く窓辺も、全てが地平線の外側へと追いやられて久しい。
変化のない緑の八つの太陽は変わらず、呪われた大地を朧気に照らしている。ユカリの話を聞いてからもレモニカは何度も空を見上げ、尋常の瞳からは巧妙に隠された神秘の存在を探した。太陽には見えないが、蜘蛛の目玉にはもっと見えない。
レモニカは一人、ビアーミナの通りを行く。今まで巡ってきたクヴラフワの外の街々と比べれば賑やかとは言えないが、この呪われた国においては一際活気に溢れている。
レモニカが一人になるのは久しぶりのことだ。思いのほか、体も心も軽やかに感じている。普通であれば一人きりで出歩くことなどソラマリアは許してくれないが、今レモニカがいる場所はライゼン大王国調査隊の拠点とシシュミス教団に認められた領域だ。多少は頑固な護衛を言い包めるための後押しになった。
調査隊の拠点は橋の街ビアーミナの西側に設営された、いくつもの建物をまるごと覆いつくす巨大な天幕だった。広々とした草原にあれば遠目には何の変哲もない丘に見えることだろう、草を模した緑色の短冊に覆われている。街の真ん中に突如現れた丘に関しては目だって仕方ないが。
王宮を守る時と変わらず大王国の戦士たちが厳めしい雰囲気を漂わせながら巡回し、睨みを利かせているがレモニカの顔を見ると直立不動の最敬礼を寄越す。知られているはずのないレモニカの人相は既に通達されているようだ。
クヴラフワ王国時代の古びた橋を渡れば、巨大な洞穴のように開かれたままになった天幕の入り口が迎える。
天幕に入ってもいくつもの時代の栄華と衰退を思わせるビアーミナ市の橋を何度か渡り、いつの時代も変わらない滔々と流れる川を越えていく。天幕の中にもさらに幾張りもの天幕がある。まるで天幕の城だ。
それに緑の太陽もどきに照らされた外よりもずっと明るい。移動式の篝火台は細やかな銀細工が目を引くが、普通の炎よりも明るくてじっと見てはいられない。換気がどうなっているのか、レモニカの知識からは窺い知れなかったが、立ち上る煙は迷うことなく犬に追われる羊の群れのように天幕の頂部へと流れていき、隙間へと消えていく。
レモニカは指輪の魔導書によって変身していて、故に聖女アルメノンこと実姉リューデシアの呪いによって変身する心配はない。人通りが少なくとも、その姿が見えなかったとしても、距離的にレモニカに最も近い人物の最も嫌いな生物に変身してしまう厄介な呪いから一時的にでも解放されるのはすこぶる気分が良かった。とはいえ不安はあったので、できればソラマリアを連れて来たかったが、連れて行きたくない理由もあった。
案内どころか誰も話しかけてすら来ないのでとにかくまっすぐに進むと、ある天幕――天幕の中の天幕の中でも一際大きな天幕――の前で呼び止められる。色濃いノルビウスの大洋のような青を基調とした海洋氏族の平服を着た細身の男だ。
レモニカは何かを言われる前に招待状を取り出して見せる。すると男は王族を出迎えるに相応しい丁寧な辞儀をした。
「お待ちしておりました。お初にお目にかかります、レモニカ殿下。不滅隊騎士が1人マナセロと申します」
ラーガ麾下の不滅隊の中でも特に優れた四騎士の内の一人だとソラマリアに教わっている。
「わたくしは一度見かけたわ。バソル谷で救済機構と一触即発だったわね」
「いやあ、これはお恥ずかしい。たしか奴ら尼僧を探しているとか言っていましたが、例外的な対応に気を回すというのは――」
「苦手かしら?」
「いえ、得意とするところです。私たちにとって無関係なら、適当にあしらえたのですが。まあ、ライゼンらしくないかな、と」
「ライゼンらしくない? 柔軟であることが、かしら?」
「ええ、断固とした態度こそライゼンの気風ではないか、と考えております」
「態度など、手段にすぎないわ。らしさにこだわって大切なものを取りこぼしては元も子もない。とはいえ、その時のその態度が、結果的にわたくしの友人を救った。礼を言うわ」
「身に余る光栄にございます」
「それで、如何なる理由でわたくしを呼び止めたのかしら? 招待状の確認だけではないわね?」
マナセロは緩みつつあった姿勢を伸ばし、威儀を正す。
「失礼いたしました。ただ、ラーガ殿下がお呼びになったのはレモニカ殿下とソラマリア殿のはず。ソラマリア殿の姿が見えませんので、何か事情がおありならお手伝いできないか、と思いまして」
いったいマナセロはどんな事情を想像しているのか、レモニカには分からなかった。
「心配無用よ。事情についてはわたくしが直接兄上にお話するし、貴方に手伝えることはないわね。他には何か?」
「一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか?」
「構わないわ」
「招待状を届けさせた者は案内役も命じられていたはずですが、お断りになった理由をおたずねしてもよろしいでしょうか?」
「兄上は怒っていらして?」
「いいえ、特に気に留めてはいらっしゃらないです。ただ隊を率いる私としては部下に何か粗相があったのであれば代わりにお詫びを、と」
「彼には何も問題などないわ。ただわたくしが1人になりたかっただけ。気を揉ませたなら申し訳ないわね」
「いいえ、恐縮です」
「他には?」
「いいえ、以上でございます。お呼び止め、失礼いたしました。こちらへどうぞ」
マナセロはまるで何度も練習したかのように滑らかに一歩引いて天幕の入り口を開く。
薄暗く、静寂に満ちていて、蝋燭の炎の囁く声まで聞こえる。その天幕自体いくつかの部屋に分けられているが、光を漏らしているのは一か所だけだった。レモニカは覚悟を決めて天幕を進み、声をかける。
「レモニカです。招待に応じ、参りました」
「入れ」
待ち受けていたのはただ一人だった。レモニカはまじまじと見つめる。溢れんばかりの色彩が目に飛び込んで来た。ライゼン各地に伝わる多種多様な豪奢な刺繍の施された幾つもの多彩な座布団の山が築かれ、一人の麗しい女性がその麓に身を預けている。レモニカに似た青い瞳はしかし深海の如く濃く、黄金の髪は、どこか艶に欠け、ずっと梳かれていないらしく乱れてほつれている。肌は日に灼けていて、皮膚の裏の筋肉が強く主張している。王者の如くどっしりとした構えだが優雅な身の振舞いのようにも見える。レモニカは再度、万彩の天幕を見渡すが他には誰もいない。男性はどこにもいない。
レモニカはその女性に見覚えがあった。いつのことだったか、レモニカがずっと幽閉されていた城の中庭で一度だけ見かけた綺麗な女性だ。きっと姉に違いないと思っていたが、やはり姉だったのだ。リューデシアにもどこか似ている。
呼び出したのは兄だと聞いていたし、ベルニージュも兄の世話になったと言っていた。マナセロも何も訂正しなかった。何かのすれ違いか、姉もいたのか、とレモニカは逡巡する。
レモニカは知る限りの礼儀正しい優雅な辞儀を披露する。
「お初にお目にかかります。ラーガお姉さま。貴女の妹のレモニカでございます」
ラーガはふっくらとした唇に弧を描くとゆっくりと頷く。
「うむ。レモニカよ。まず先に言っておかねばな」ラーガは勿体ぶり、威厳を見せるかのように胸を張る。「俺は男であり、お前のお兄様だ。そこを間違えるな。二度とな」
レモニカはまじまじと自称兄を見つめる。顔も体も男に見える部分などない。それに太くて低い凄みのある、女性の声だ。よくよく見れば男物の服を着ているが王族の服などもとより派手で、座布団に身を預けていては輪郭も分かり難く判別がつかない。
瞬時に様々な可能性を思い浮かぶが、虎の尾を避けようにも判別がつかず口籠る。
「事情を、お聞かせ願えますか?」とレモニカは出来る限り無難な言葉を選ぶ。
事情など何もなかったならやはり失礼だろうか、とレモニカは覚悟する。
「事情か。詳しく話すと長くなる。お前と同じく呪いのようなものだ、と思っておくがいい」
「それは、お兄さまもご苦労を重ねていらっしゃるのですわね」
少しばかり親近感がわくが、一方で大王家の将来を危ぶむ。ヴェガネラ王妃の長子と末子が呪われ、長姉は亡くなった。
「お前の方はどうなんだ?」ラーガは少しばかり身を乗り出す。「近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身する呪いとやらは。その女が、あるいは派手な格好が俺の嫌いな生き物だというのか? 聞いていたお前自身の人相によく似ているが」
ラーガがレモニカを上から下まで眺め、覚えのない姿に訝しむ。
「これは魔法で見せている幻のようなものです」とレモニカは嘘をつく。兄が何を嫌っているのかは想像もできない。「この魔法を使わなければおちおち通りも歩けませんわ」
「であろうな。歳は?」
「春先に十七になりました」
「まだそんなものか。何はともあれ兄妹水入らず、語り合おうじゃないか」
「その前に」とレモニカは制止する。「お姉さまのことは、ご存じでしょうか?」
「姉? どの姉だ?」
他にもたくさんの異母兄弟がいるが、母を同じくするレモニカの兄弟は二人だけだ。
「リューデシアお姉さまです」
「こと聖女アルメノンか。忘れていたわけではないが死んだ者のように考えていたな。あいつのために俺も苦労した。何かあったのか?」
「実際にお亡くなりに。救済機構は発表していませんが、わたくしがこの目でしかと」
「そうだったか。残念だ」ラーガの瞳は揺るぎなかったが、僅かばかり声に悲しみの色を帯びる。「何だって攫われた妹が機構の最上位へ上り詰めたのか、知りたかったのだがな。俺の耳には届いていなかった辺り、機構内部でもごく少数にしか知らされていないのだろうな。お前が殺したのか?」
とんでもない、と叫びかけてやめる。全く無関係だったふりなどできない。自分はこちら側に、姉はあちら側にいた。
「それに近い状況だった、とだけ申し上げておきます」
兄ラーガは頷き、召使いを呼ぶ鈴を鳴らす。
「適当に座れ。聞きたいことは多いだろう。俺の方もだ」
レモニカは座布団をいくつか譲ってもらい、ラーガの正面に、出来る限り淑やかに座る。そのようなことを気にする兄でないことは既に分かっていたが。
鈴の音の後、数人の召使いがすぐにやって来てお茶と菓子の準備を静かに手早く済ませた。
レモニカは無意識のうちに召使いたちの顔を一人一人確認するが、その中に幼馴染の召使いメールマの姿はなかった。