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兄妹二人で甘く味付けた温かな茶を啜り、一息つく。濃い砂糖の他に、ここにはない眩い太陽の光をたっぷりと浴びた柑橘の溌溂とした酸味が紛れ込んでいる。酷寒の冬に分厚い毛布に二人で包まり、囁きかける暖炉にあたって微睡んでいた時のように心の奥底からじわりと滲みだした温もりが体全体に拡がる。
「そうだ。忘れていた。シャリューレはどうした? 手紙にも書いたはずだ。あいつにも話さねばならないことがあるんだが」
ヘルヌスは未だにソラマリアというシャリューレの本名についてすら報告していないということだ。
「ソ、シャリューレにどのようなご用件でしょうか?」
「シャリューレに対する用件だ」まとわりつく仔犬を払うようにラーガの声色が尖る。「お前に話すかどうかはシャリューレ次第だ。わざと連れてこなかったのか?」
「彼女に罰を、与えるおつもりでしょうか?」
そうさせるつもりはないが、レモニカは兄の真意を問いただす。
ラーガは首を捻り、面白そうに笑みを浮かべる。「罰? 何の罰だ? 俺に何かしたのか? あいつは」
「いいえ、わたくしをライゼンに連れ戻さないことに関して、命令違反になるのではないかと考えていたのですが」
ラーガは一層居住まいを崩して面倒そうに息をつく。
「そもそもシャリューレをシグニカに派遣したのは議会の連中だ。元々奴らはあいつをあの手この手で政治的にも物理的にも封じようとしていたんだが。どうやら事情が変わったらしく、処分しようと考えたのだろう」
「暗殺、ということでしょうか?」
ラーガは微妙な笑みを浮かべるだけだった。
「もちろん奴に直接手を下すことは政治的にも物理的にも不可能。あいつは滅法強いからな。ゆえに無茶な任務に駆り立てさせたわけだ。単独のシグニカ侵入、魔導書の捜索と奪取。救済機構に寝返る心配もなし。議会としては一安心といったところか」
以前にヘルヌスに大まかに聞いていた内容だ。実際には寝返るよりよほど悪いことになりかけたというのに。
レモニカは納得できず、ヘルヌスにも使った言葉を返す。「そもそも大王家の親衛隊は私兵。シャリューレはわたくしの騎士ですわ。議会の駒であるかのように命令される筋合いはないはずですが」
「ああ、そうだ。せいぜいライゼン大王国の一臣民としての制限を加えるのが限界だ。正確には命令ではなく許可を出したんだ。条件付きのな」
「許可? 何を許可したというのです?」
「単に出国さ。あいつは前々からお前の捜索を進言していた。そこに魔導書の捜索を条件として付け加えたという訳だ。任務に失敗して死ねば万々歳。上手くいけば議会が魔導書を手に入れるという寸法だ」
レモニカは心打たれ、しかし表に出さないように努める。命令のみでレモニカを連れ戻しにきたわけではなかったのだ。
「そんな話、聞いておりません。むしろ魔導書捜索のついでにわたくしのことを探していた、と」
ラーガはくすくすと笑い、甘い杯を干す。
「正直なところ、あの女に政治的な機微が伝わるとも思えん。その必要もなさそうだ。だが俺はあいつに賭け、ヘルヌスを付けた。議会に魔導書を占有される訳にもいかんしな」
ヘルヌスがシグニカに派遣された理由は他にもあるらしい、とソラマリアに聞いている。結局何をしていたのかは分からずじまいだが。兄とて話す気はないだろう。
「申し訳ありませんがその賭けに勝者はいません」とレモニカは淡々と話す。「お兄さまも議会も魔導書を得られず、ソラマリアはわたくしを連れ戻せません」
「お前の好きにすればいいが、本国に戻らん理由は何だ?」
「戻りたくないわけではありませんが、呪いを解くために旅をしています」
「あてがあるのか?」
「いいえ、何も。ただ、わたくしの足で探したいのですわ」とレモニカはきっぱりと宣言する。
これらもまたずっと前にヘルヌスに話したことだ。ヘルヌスは主たるラーガへの報告を怠っているのだろうか。それともこうして直に会話することで部下の報告の真偽を検証しているのだろうか。
「良いだろう。親父にも議会にもそう伝えよう。奴らがどう動くか楽しみだ」
燭台の灯が僅かな隙間風に揺れ、蝋涙が一滴受け皿に流れ落ちる。天幕の内に蠢く灯火の影もここまでの会話を振り返り、繰り返すように揺らめく。暫しの沈黙を味わうべくお互いに杯に口を付ける。
杯の中身が冷めてきたことに気づき、レモニカは残りを一息に飲み干した。いつの間にか体の内に根を張っていたはずの緊張が取り去られていることに気づく。
「そもそもわたくしは今、大王国内でどのような立場なのですか? 私の存在自体を知らない者が大半と聞いているのですが」
ラーガは座布団によりもたれかかり、くつろいだ姿勢で話を続ける。
「王族や政治家以外、一般市民に関してはそんなところだな。とはいえ、平民なんぞ大王の名すら知らんのがほとんどだろう。特別に秘匿しているわけでもない。が、呪いのことは隠されている。たしか生来病弱で静養地で療養しているとかいう設定だ。それはお前が家出した後も変わらない。ただし誰がどこで嗅ぎつけたのか知らんが最近になってお前の出奔が噂になっている。俺に追放されたとか。病の治療のために魔導書を求めているとかな」
「前者はともかく後者に関しては当たらずも遠からずといったところですわね。強力な呪いですので、解呪にも強力な魔術が必要だろうと考えています」
「今ではお前の存在自体を知らなかった層に波及しているようだ。隠遁した王女の受難という物語が受けているのかもしれんな。議会の方は大慌てだ。ヴェガネラ王妃の再来を恐れているらしい。まったく、俺を見くびりやがって」
「大王家と議会はそれほどに確執があったのですね」
ソラマリアは肝心なことを教えてくれていなかった。しかし兄の評価から察するに単に政治に疎かっただけのようだ。
「いや、違うぞ。最大勢力の議会派はそのまま大王派と言い換えていい。親父の権威に集る虱のような連中だ。疎まれているのは俺やお前、それにかつては我が妹リューデシア。つまりヴェガネラ王妃の子供たちだ。生前はヴェガネラ派として大王に次ぐ勢力だったが、お袋が亡くなってからはラーガ派として俺が取りまとめている。今でもヴェガネラ派を標榜する狂信者もいるが」
「そのような話は、初めて聞きました。母は父と対立していたのですか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。そもそも親父は政治に関心が無い。唯一の人生の目標は大陸に覇を唱えること、それだけのために生きている。それ以外は議会任せ、故に議員のやりたい放題ってわけだ。お袋は多少理想が高い政治家だったし、純粋に政治以前に親父を憎んでいたからな。まあ、対立していたと言えるか」
純粋に憎んでいた。その言葉がレモニカに突き刺さる。ならば、母の世界で最も嫌いな生き物とは父だったのだろうか。
「ではお母様の死は、わたくしが……」
「当時はてんやわんやだったな。お袋は発狂し、数日後に死んだ。だが、お袋を最期まで気にかけていたのはシャリューレくらいのものだ。俺も一度は面会したが話にならなかったな」ラーガの円らな瞳が遠くを見つめている。「皆の関心は何よりも謎の存在、お前に集中していた。お袋が生んだ怪物の処遇について。これは大王と王妃の子供ではない、と概ね殺処分する方向で決まった時に、お袋が例の予言をした。その予言が試され、証され、お前は生き延びることとなった」
「待ってください。例の予言? というのを存じ上げませんわ」
ラーガは疑うように目を細める。
「シャリューレから聞いていないのか? 俺たちヴェガネラの子供たちは予言を基にした加護を母から賜っている」
初耳だった。母に守られていたと知っていれば何かが変わっただろうか、とレモニカは逡巡する。
「知りません。ソラ……リューレは知っているはずですのね?」
「ああ、そうだ」ラーガは鼻で笑う。「そうか、あいつも狂信者の一人だったな」
「どのような予言、加護なのですか?」
ラーガは小さく咳払いし、レモニカに予言を給う。
「仮初の実りは客を満たさない。真の実りは地に散り落ちる」
レモニカは少し考えるが降参する。
「どういう意味でしょうか? 仮初、変身した、実り、わたくしは……、客人とはどなたのことですか?」
ラーガは遠慮も配慮もなく淡々と答える。
「死だ。要するに、呪われている間、お前が死ぬことはない」
「それは、つまり、裏を返せば……」
「呪いの解けた時がお前の死ぬ時だな」