テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
東京都内の静かな住宅街にある小さな公園。昼下がりの陽光が、幼いふたりを優しく照らしていた。ブランコに乗るのは、小学校低学年くらいだろうか。幼い男女の風に揺れる髪と、子供らしい笑顔がそこにあった。
「運命の赤い糸って、信じる?」
彼はブランコをこぎながら、隣の女の子に問いかける。
「もし君が──だったら……僕の──になって」
その言葉に彼女は少しだけ戸惑いながらも、ふわりと笑う。
「うん、いいよ」
彼は満足げに笑うと、おもむろにブランコを降り──…
「約束だよ」
その細く白いうなじにそっと唇を寄せて甘噛みした。
***
──18年後。
関東近郊のとある温泉街。観光客でにぎわう街の中に古びたマンションがある。
そこは旅館『ながくらや』の従業員寮として使われていた。
早朝、部屋の鏡の前で髪をまとめながら、長倉 瑞穂はテレビの音に耳を傾けていた。
「まさに現代の王子!」
アナウンサーの声とともに、画面には高級ホテルの前でスーツを着こなした若い男性の姿が映し出された。
「大手ホテルグループ『S Resorts』が手がける新しいコンセプトホテル。その責任者に抜擢されたのが──篠原 桜輝氏です!」
瑞穂の手が一瞬止まる。画面に映るその男性は、どこか現実味のないほどに洗練されていた。磨き抜かれたスーツ姿に、端正な顔立ちと品のある物腰──まるで別の世界の人間のようだった。
「イケメンですね~!」
「しかも若干24歳だそうで、数々のプロジェクトを成功させた敏腕とのこと」
「さすが、α!」
コメンテーターの言葉に瑞穂はつぶやいた。
「……αって、本当にいるんだ」
どこか現実感のないまま、瑞穂はテレビを消し、静かに部屋を出た。
***
──20年前。
人類は、男女の他に「第二の性」が存在することを知った。
α、β、 Ω。
その三つの性は、人の運命と立場を大きく分けることになった。
α《アルファ》──容姿、知能、身体能力すべてに優れ、生まれながらにして支配階級としての資質を持つ。
Ω──繁殖に特化した性で、高確率でアルファを産むことができるが、発情期という大きなリスクを抱えるため、社会的な地位は低い。
そして、β──何の特性も持たず、ただの平凡な存在。
αは100万人にひとり Ωはそれよりもさらに少ないと言われており、人口10万人にも満たないこの温泉街では、まずお目にかかれない。
そう、ここには私と同じ──βしか、いない。
──そう思っていた。あの人と、再会するまでは。
***
瑞穂は旅館『ながくらや』に到着し、仲居服へと着替える。ロビーに出ると、見慣れた笑顔が目に入った。
田沢 優斗──瑞穂の高校時代の同級生で、現在は地元の銘菓メーカーに勤務している青年だった。
「今日の夜、いける?」
「うん。早番だから、17時には行けると思う」
「良かった。……デート、楽しみにしてる」
優斗は相変わらずの爽やかさで笑い、瑞穂もまた自然と微笑みを返す。
彼の存在は、瑞穂にとっての救いだった。
──高校の同級生だった彼とは、地元で再会し、半年ほど前から付き合っている。
日々の仕事は忙しい。
チェックアウトの対応、部屋の掃除、宿泊客からの急な呼び出し。
けれど、優斗との時間があるから、瑞穂は頑張れる気がしていた。
しかし、そんなささやかな幸せを引き裂くように、裏方の休憩室からヒステリックな声が響く。
「はぁ~、ほんっと最悪!」
次期女将である長倉 絵梨が、不満をぶちまけていた。
彼女の取り巻きたちもまた、それに同調する。
「絵梨さんが深夜チェックインの対応なんて……信じられません」
「次期女将がそんなことする必要、ありませんよ」
瑞穂が気づかないふりをして通り過ぎようとしたその瞬間、取り巻きのひとりがにやりと口元を歪めた。
「そうだ。『奴隷』にやらせましょうよ」
取り巻きの声に気を取られていた瑞穂と、ふと目が合ったのは絵梨の取り巻きのひとりだった。
にやりと意地悪そうに笑い、こう言い放つ。
「──そうだ、『奴隷』にやらせましょうよ」
瑞穂の背筋に嫌な予感が走る。
その空気を察したように、絵梨もくすりと笑った。
「いい考えね」
絵梨のその一言で、取り巻きたちが瑞穂の方へと歩み寄ってくる。
「聞いた? 絵梨さんの代わりのお仕事なんだから、ちゃんとやりなさいよ」
「…でも今日は私、早番で……夜は予定が……」
そう口にした瑞穂に、絵梨の目が鋭く向けられる。
「は?」
鋭い足音を立てて、絵梨は瑞穂に近づき、ためらいなく手を伸ばす。
「そんなこと言う権利、あると思ってんの?」
まとめていた髪の束を、がしっと掴まれた。
「……っ!」
痛みと同時に、髪が乱れ、視界がぐらつく。
絵梨の顔が間近に迫る。
「あんたさ、なんでウチ──『ながくらや』で働いてるんだっけ?」
瑞穂は観念したように、小さく答えた。
「事故で両親を失った私を、大旦那様が引き取ってくださったから……その恩を返すためです」
「そうよ。だから、あなたは『奴隷』。私は『お姫様』。わかった?」
ほつれた髪が肩に落ちる。
まるで階級そのもののように、瑞穂を縛っていたものが、目に見える形で露わになった。
***
夜、23時近く。
『ながくらや』はすっかり静まり返っていた。ロビーに一人残った瑞穂は、フロントカウンターの奥で宿泊者名簿を見つめていた。
「……遅いな」
今夜到着予定の宿泊客は、名簿に「田中」の名前があるだけ。連絡先の記載もなく、どこにいるのかもわからない。
「ちょっと……様子を見てこようか」
懐中電灯を手に持ち、玄関を抜けて夜の外へ出る。冷えた空気に肌がぞくりと震えた。
「……ん?」
少し離れた建物の陰から、誰かの話し声が聞こえてきた。
(こんな時間に、誰だろう…?)
声のする方へそっと近づくと、暗がりの中で、ふたりの人影が寄り添っている。
瑞穂の目が慣れてきたとき、その顔がはっきりと浮かび上がった。
「──……え」
それは、間違いなく優斗と絵梨だった。
人目を避けるように抱き合い、笑い合っていた。
「なんで、わざわざこんなところで……」
優斗は困惑したように言うが、その声音はどこか甘い。
「ふふっ。彼女の職場で悪いことするって、ドキドキするでしょ?まだ中で、一生懸命働いてるんだよ?」
「絵梨は悪い女だな」
「やーだ、それは優斗もでしょ」
くすくすと共犯者のように笑い合いながら、ふたりは唇を重ねる。
「……!」
瑞穂は息を呑み、あわてて影に身を隠す。
けれど瑞穂は気づかぬうちに、手にしていた懐中電灯の光をわずかにもらしていた。
その淡い光が茂みの影をかすめた瞬間、絵梨の目がふとそちらに向いて──
「……ねぇ、もう一度して?」
一拍の沈黙のあと、彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、わざとらしく優斗に顔を近づける。
絵梨の言葉に応えるように、優斗はさっきよりも濃密に唇を重ねた。
「……っ、嘘……」
見てはいけないものを見てしまった衝撃に、視界がじわりと滲んだ。
──どうして、よりによって絵梨なの?
胸が裂けそうな思いをこらえきれず、その場を駆け出した。冷たい夜風が涙を乾かす暇もなく、瑞穂の頬を叩いた。
***
フロントに戻ると、瑞穂はカウンターの内側にうずくまった。さっきまでの現実が、まるで悪夢のようだった。
「みーずほっ」
甲高い声が響き、瑞穂の体がびくっと震える。
「彼氏の浮気現場を見たショックで、絵梨の仕事すっぽかしてないかチェックしに来たよ♡」
そう言って、まるで遊びに来たかのように絵梨が現れた。
「絵梨……」
「さっき、見てたでしょ?」
瑞穂は立ち上がり、怒りを押し殺した声で問いかける。
「……いつから? 優斗と、そういう関係なの……?」
「ん~? 三か月くらい前かなぁ?」
悪びれる様子もなく、絵梨は笑った。
「ちょっと誘ったら、簡単に落ちたよ? あんたの彼氏♡」
悪びれる様子もなく、絵梨は得意げに笑う。
瑞穂の拳が震えた。悔しさが全身に広がっていく。
「なんで……?」
瑞穂は視線を逸らさず、静かに言葉を紡いだ。
「なんでって…だって、あんた──“奴隷”でしょ?奴隷のものはご主人様のものじゃない」
その言葉は、心臓に杭を打ち込まれたかのように重く鋭かった。
「……私のことは、どうされてもいい。でも、関係ない人を巻き込むのは……やめてください」
静かな口調で、瑞穂は絵梨を真っすぐに見つめた。
その視線に、絵梨の目が細まる。
「……は?」
絵梨の顔から笑みは消え、手を振り上げる。
「誰に向かって言ってんの!?」
パチンと乾いた音が響く直前──
その手を、誰かが掴んだ。
「──っ!?」
思わず瑞穂が息をのむ。
絵梨の背後から現れた男が、その手を確かに止めていた。
「……何があったのか知らないけど、手をあげることはないだろう」
その声は低く、静かだったが、不思議なほどの威圧感を持っていた。
「な、なに……離してよ!」
絵梨が抵抗するも、男は冷静に手を離し、ひとことだけ言った。
「わかった。──じゃあ、あんたは今すぐ帰れよ」
その瞬間、空気が一変した。
男の強い視線から目がそらせなくなり、まるで命令のように響く声が絵梨の思考を支配する。
「……は い」
絵梨は男の言葉通り、従順にその場を去っていく。
瑞穂は呆然とその様子を見るばかりだった。
「遅くなってすみません。チェックイン、お願いできますか?」
まるで何事もなかったかのように、男は瑞穂に向きなおる。
「……あ、はい。田中様ですね。お待ちしておりました」
そう答えながら、瑞穂は正面から彼の顔を見て、息を呑んだ。
(──あれ、この人……今朝、テレビで見た)
(αの……『現代の王子』……!?)
次の瞬間、胸がドクンと大きく鳴った。
体の奥から熱がこみあげ、足元がふらつく。
「っ……!」
がくりと膝が崩れ落ちそうになったところを、男──桜輝がすかさず支えた。
「大丈夫ですか?」
「……すみませ……」
離れようとしても、身体に力が入らない。息が荒くなり、頬が熱を帯びていく。
(早く、離れなきゃ……なのに)
(力が……入らない)
(……身体が、あつい……っ)
桜輝はその様子を見て、ぼそりと呟いた。
「──ヒートか」
ヒート──Ω特有の発情性質のことだ。
「でも、私、Ωじゃ……」
「そんなわけ、ないだろ」
桜輝の顔にも赤みが差し、瞳が潤む。
瑞穂のフェロモンにあてられ、彼自身もまた限界を感じていた。
「ここまで強いフェロモンを出しておいて……」
ぐいっと、瑞穂の身体を抱き上げた。
「え……」
瑞穂の意識はもう、薄れかけていた。
「部屋はどこだ?」
お姫様抱っこで廊下を運ばれる途中、瑞穂の視界は霞み、感覚も曖昧だった。
まるで夢の中を漂っているようだった。
(なんで、こんなことに……)
──私はβ。
──そのうえ、この町では最下層の“奴隷”。
(そんな私が、初対面のαと、こんなこと……?)
布団の上にそっと横たえられ、見下ろすように桜輝の顔が近づいてきた。
(私の身に、起きるはずないのに──)
桜輝の瞳は、まるで運命を悟っているかのように真っ直ぐで、やさしかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!