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ラチム
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ユキは息抜きをしながら、ワンを羨ましそうに見ていた。
今までは――アリアといえば、ユキだった。
人間と犬では比較にしづらいが、他の研究者からも、そんな風に思われてきたようだ。
「先輩……。犬に嫉妬するなんて、見苦しいですよ」
「ぶぅー。ぶぅぶぅ!」
「稚拙ですよ。
安心してください、先輩とワンは全然違いますから」
「そりゃ、まったく同じだとは思ってないよ!?」
「ワンワン!」
ワンも珍しく、ユキに同調する。
そんなワンを見下ろしながら――ユキはおそるおそる、聞いてみた。
「ねぇ、アリアちゃん」
「名前で呼ばないでください」
「もしかして、ワンって……人間の言葉が分かるの?」
「わかるわけないじゃないですか。
私はただ話し掛けているだけですし、以前も特に……そういう訓練はしていませんよね?」
「うん。そういう実験ではなかったからね」
「……でも、少しくらいなら分かると――私は思います。
まわりの感情とか、空気とか、そういう要素もありますから」
今となっては、ユキはある程度の罪悪感をワンに持っていた。
ただ、仕事としてやむを得ないことでもあったから――
……特に、改めて考えるべきではない、とも思っていた。
「ワンワン!」
「はいはい。エサはまだだよ」
「――まぁ、平和だよねぇ」
ワンを撫でまわすアリアを見ながら、ユキは言った。
……確かに平和だ。ただ、不穏な話はあちこちから出ている――
「先輩、今日は落ち着かない感じですね」
「うん……。あたしの参加してるプロジェクトのことは、知っているでしょ?」
「おおまかには。
『ORBIS』の分析研究――……ですよね?」
「具体的には話せないんだけど……どんなことをやってるか、わかる?」
「……『Evol』も国家プロジェクトですからね。
『ORBIS』が公表していない情報も、ある程度は流れてきているのでしょうが――」
アリアは少し考えて、言葉を続ける。
「――でも何か、危険なことがあるんですか?
2045年頃の『技術的特異点』も、思ったほどではありませんでしたし」
「うん。ただ、あのときとは別の技術が――今は生まれているからね」
「……AI開発であれば、最悪、ネットワークから切り離せば大丈夫でしょう?」
「そうだねぇ。既存のネットワーク越しなら、何とでもなるんだけど……。
今、『ORBIS』の開発チームが……揺れてるみたいでさ」
「残念ながら、私は向こうとは伝手がありませんからね。
――まぁ、そういうのは他にもありませんが」
アリアの言葉に、ユキは切なくなった。
少しだけ考えて、今までぼんやりと考えていたことを提案する。
「……今度さ、あたしの家に行かない?
アリアちゃんに、あたしの両親に紹介してあげるよ!」
「突然、何ですか……」
「アリアちゃん、研究も良いんだけど、もっと人と付き合っていかないと!
こんなに可愛いんだからさ。彼氏だって、すぐに出来ちゃうかもよ?」
「そういうのは、求めていないですから」
「もったいないなぁ~。
デートに誘って、おめかしして――アリアちゃんがちょっと動くだけで、思い出の一日になるのに!」
「はぁ……。私は研究で忙しいですからね。
そんな日が来るとしたら、そういうのが全部、目途が立ったときですよ」
「ワンワン!」
「おっと、ワンはどうしたのかな?」
「先輩の話が退屈すぎて、もう止めろって言ってるんじゃないですか?」
「うっそぉー!?」
「ワンワン!」
ワンは嬉しそうに、アリアにすり寄っていった。
ユキの顔も、いつの間にか……それを羨む顔に戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――AM 7:03。
世界が赤色に染まった。
徹夜明けだったアリアは、突然の視界の変化に――
……まるで赤いフィルターを通したような光景に、驚愕した。
いつもと変わらない光景。ただ、どこもかしこも赤色に染まっている。
「――きゃぁ!?」
大きな揺れと、不自然な地震。
研究室の本棚が崩れ、観葉植物が倒れ、部屋のものが大きく揺さぶられていく。
そこまで認識したところで――
……館内放送の警告音が喧しく響き、合成音声のアナウンスが大音量で流れる。
≪――緊急!! 緊急!! 警戒レベル6が設定されました!!≫
≪館内の職員は、直ちにコード『E675』に従って避難してください!! 繰り返します――≫
アリア「警戒レベル……6!?」
アリアは床に倒れながら、信じられないような目で……館内放送のスピーカーを見つめた。
そのレベルは、既に何かが起きている状況であり――
……そしてコード『E675』は、職員の命よりも、研究内容を優先する――命令。
廊下では、大きな声、大きな悲鳴――混乱の様相を呈している。
こんな朝の時間、人数が比較的に少ないこのフロアでこれなら――
……窓から外を見下ろすと、十数人の人間が地面に倒れている。
外も赤色に染まっており、その異様さには吐き気をもよおしてしまう。
「――そうだ、先輩は!?」
アリアは咄嗟に、同じフロアに研究室を持つ、ユキの元へと走り出した。
慌ててIDカードを使ってユキの研究室に入るも――
……そこには、彼女の姿は見えなかった。
「……良かった。
先輩、昨日は帰っていたんだ……」
一瞬の安心。しかし、アリアの目に入ってきたのは……机の上の、マグカップだった。
慌てて中を覗いてみると、コーヒーが半分ほど残されていた。
マグカップを軽く手で触れてみると……少しだけ、温かい。
「――違う。先輩も、帰っていない!?」
ユキの研究室を出て、廊下の先に目を移すと――ひとりの研究員が倒れた。
駆け足で近寄り、様子を窺うも……既に呼吸が止まっている。
……頭が混乱する。考えが、何もまとまらない――
「――そこにいるのは東雲か!?
お前も早く避難しろ!!」
「は……はい!」
顔見知りの研究員は、それだけ告げるとどこかに走っていった。
ただ、その言葉で……少しだけ、アリアは我に返ったような気がした。
……この赤いものが何かは分からないが、これは明らかに危険なものだ。
だからこそ、ユキの安全を何より確認したい――
……アリアは階段に向かった。
行き先は、上り階段の先の――屋上。
ユキはたまに、ひとりになりたいと言って……ここに来ていたのだ。
ただ、その姿はどこにも見えない。
しかし――
「……ワン!」
赤い空の元、屋上に出たアリアの後ろから……ワンの声がした。
アリアが慌てて振り向くと、ワンはふらふらとしながら――アリアの元に歩いてくる。
「……ワぉ…ん」
弱々しい声を出すと、ワンはそのまま崩れ落ちた。
アリアはワンに近寄ってしゃがみ込み、優しく背中を撫でていく。
「……怪我、してるじゃない。……こんな状況だもんね。
こんなところまで、付いてきてしまって――」
「わぅ……」
「苦しそうだね……。
先輩のことも心配だけど……私と一緒に、避難しよっか?」
アリアの言葉に、ワンは首を軽く振って……弱々しい、優しい瞳でアリアを見つめた。
他の人間と同様、ワンもまた……命を蝕まれているのだ。
「わんわん、わぅ……」
「……犬の言葉は、研究してなかったから――分からないな……。
でも……、今までありがとう。ワンのおかげで、しばらく……寂しくなかったよ」
「くぅ……ん……」
「……ごめんね。あとで、絶対に戻って来るから。
だから、これで――……さよなら」
呼吸が絶え絶えになっていくワンの頭を、アリアは優しく撫で続ける。
ただ、そんなアリア自身も……この世界の異様さに、身体を蝕まれていく実感があった。
「――……また、いつか会おうね。
安らかに、おやすみ……」
――アリアの吐き気は、酷くなっていた。
足の力が抜けていき、思うように身体を動かせない。
ただ、それでも……今は、この足を進めなければ――
……その瞬間。不可解な情報が、アリアの頭に流れ込んだ。
頭に響く、強引に叩き込まれたような数多の文字たち――
「うぅ……!? これは、一体……?」
アリアはあまりの異様さに、地面に倒れ込んでしまった。
そして脈拍が上がり、息が荒れる中――どうにか膝を突き、頭を上げる。
――……空に、何かが見えた。
もう少し、顔を上げると――……空には、システムログのようなものが映し出されていた。
「これは何……?
空中に、文字が……?」
何も無い虚空。
赤色に染まる中に、朽ちたような黒色で浮かぶ文字は――
「Initialize Protocol: Genesis of ――
…… ORBIS」
アリアは唾を呑み込んだ。
その文字が意味するものを、徐々に理解していく。
「――オルビスによる創世……。
世界の書き換え――」
……この異変は、『ORBIS』の仕業。
赤く染まった大空の元、アリアに与えられた答えは――ただそれだけだった。
コメント
1件
ワンとのお別れ、すごく切なかった……。ずっと一緒にいた生き物との別れって、言葉にできない重さがあるよね。赤い空とシステムログ「ORBISによる創世」――世界の書き換えって言葉がゾッとするほど美しくて怖かった。アリアがここからどう動くのか、ユキ先輩の行方も含めて続きが気になりすぎるよ。