テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
《午前4時58分/総理官邸・地下危機管理センター》
壁の時計の秒針だけが、
地下の空気を削っていた。
もう、前日ではない。
Day0。
オメガ着弾予測日。
鷹岡サクラは、
大型モニターに映る
茨城県の地図を見ていた。
主候補地点。
城里町東部~水戸市北西部境界付近。
予測時刻。
11時50分前後。
その表示は、
もう何度も見た。
昨日も、一昨日も、
その前からずっと。
だが今日だけは、
数字の見え方が違う。
今日は、
そこへ本当に到達する。
藤原危機管理監が
静かな声で報告する。
「未明から現在まで、
主候補帯からの自主流出、
公的搬送、
残留者説得を継続しています。」
「ただし、
夜明け後は
道路の逆流的混雑が
再度増える可能性があります。」
国交省が
画面を切り替える。
主要避難路。
残っている車列。
緊急搬送ルート。
封鎖予定時刻。
警戒線移行ライン。
「午前八時までに、
一般車両の主候補帯内流入は
原則停止。」
「午前十時以降は、
残っているのは
緊急車両、
救助、
医療、
警察・自衛隊関係が中心になります。」
厚労省。
「病院・施設の大規模搬送は
概ね終了。」
「現在は
個別搬送、
在宅要支援者、
残留希望者への最終対応です。」
警察庁。
「報道・配信・見物目的の接近は
なお継続中です。」
「規制は強めていますが、
完全排除には至っていません。」
サクラは
資料ではなく、
茨城県の地図を見ていた。
(ここまで来ても、
“まだ何か別の道があるんじゃないか”と
頭のどこかが探してしまう。)
(でも、
もう探す時間じゃない。)
(今日は、
残った人を
少しでも外へ出す日だ。)
「相模原は。」
「解析継続中。
着弾直前まで追跡します。」
「筑波は。」
「常駐要員は
ほぼ引き上げ完了。
遠隔運用へ完全移行寸前です。」
サクラは
小さくうなずいた。
「……分かりました。」
「今日の会見は
もう一度やります。」
「最後の一回を。」
中園広報官が
静かに言う。
「何を、
いちばん前に置きますか。」
サクラは
少しだけ考えて答えた。
「“もうすぐ来る”じゃない。」
「“まだ出られる”を前に置きます。」
《午前5時37分/JAXA/ISAS 相模原キャンパス/
プラネタリーディフェンス作戦室》
相模原の作戦室には、
朝の空気より先に
オメガの更新が来ていた。
白鳥レイナは
画面に映る軌道解を見つめている。
若手研究者が
低い声で読み上げた。
「最新更新。」
「主候補地点、維持。」
「想定時刻、
11時50分前後、維持。」
「誤差範囲、
大きな変動なし。」
変わらない。
それが今日いちばん重い。
別の研究者が
言葉を継ぐ。
「突入時の姿勢変化による
小幅なブレは残ります。」
「ただし、
大きく逸れる兆候は
現時点で見られません。」
作戦室の誰も、
“了解”と軽くは言えない。
レイナが
淡々と指示する。
「官邸更新。」
「NASA共有。」
「筑波リンク、確認。」
「着弾後初期観測フロー、
もう一回だけ回す。」
若手が
一瞬ためらってから言う。
「先生。」
「何。」
「今日、
もし最後まで
この解のままだったら……」
レイナは
画面から目を離さずに答えた。
「その時は、
そのまま地上に渡すだけ。」
「私たちは
ズレを祈る仕事じゃない。」
「最後の一秒まで、
正しい数字を出す仕事。」
でも、
その言葉を言う自分の胸の中に、
まったく別の感情があることも
レイナは知っていた。
(ズレてほしいに決まってる。)
(消えてほしいに決まってる。)
(でもそう思うほど、
数字を濁らせちゃいけない。)
壁の一角に
筑波宇宙センターからの映像。
ほとんど人のいない部屋。
落とされた明かり。
閉じられた端末。
空っぽになった机。
レイナは
その静かな映像を見て、
ほんの一瞬だけ
目を細めた。
(ここまで来たら
施設じゃない。)
(人間だ。)
(今日、
一人でも多く
生きて明日へ行かせること。)
そこまで来て、
科学者の責任は
数字の形をしていながら
中身は
ほとんど祈りに近かった。
《午前6時12分/JAXA筑波宇宙センター/無人化直前》
筑波宇宙センターは、
まだそこにあった。
建物も。
塔も。
看板も。
駐車場も。
朝の光も。
ただし、
“人が働く場所”としての姿は
ほとんど終わっている。
廊下を歩くのは
最後の確認班だけ。
非常灯。
閉じた会議室。
落とされた空調。
段ボールに入った私物。
責任者が
最後の端末を確認する。
「遠隔系統、相模原へ。」
「バックアップ、西日本へ。」
「非常通信、確認。」
若い女性職員が
ロッカーから
小さなマグカップを取り出した。
横のベテランが
それを見て言う。
「それ、
今日持って帰るんだ。」
「はい。」
「ずっと置きっぱなしでした。」
「今日じゃなきゃ、
たぶんもう持たないな。」
二人とも
少しだけ笑う。
その笑いは
明るくない。
でも必要だった。
外へ出る直前、
若い職員が
振り返らずに言った。
「本当に
出るんですね。」
責任者が答える。
「出る。」
「ここに人を残して
意味がある段階は終わった。」
「次に使えるように
切る。」
筑波宇宙センターは
逃げるのではない。
今日という日を越えたあとも
日本の宇宙機関が生き残るために、
人間を先に退避させる。
その判断は、
どこまでも
地味で正しかった。
《午前6時55分/茨城県・主候補帯》
朝の光が
主候補帯の町にも
容赦なく降りていた。
空は晴れ。
雲は薄い。
風は弱い。
あまりにも普通の朝。
だからこそ、
異様だった。
警察車両。
消防。
自治体広報車。
自衛隊。
レスキュー。
何台もの車が
細い生活道路を
ゆっくりと走っていく。
赤色灯が回る。
サイレンは鳴らない。
鳴っているのは
人の声だ。
車列の少し後ろ、
警戒線の切り替え地点で
真壁恒一は
腕時計を見た。
午前六時五十五分。
まだ四時間以上ある。
だが現場では、
四時間は長くない。
無線が入る。
『真壁三佐、
北側集落の搬送、あと二件です。』
「分かった。」
『規制ライン、
予定どおり八時で閉じますか。』
真壁は
主候補帯の地図を見た。
住宅地。
農道。
林道。
まだ拾い切れていない点がある。
「外向きだけは残せ。」
「流入は切る。」
『了解。』
彼は
目の前を走る広報車を見た。
赤色灯。
スピーカー。
避難を呼びかける声。
その全部が、
実際には
“ここから先はもう入れない”という
通告の準備でもある。
部下が
横に来る。
「三佐、
本当に間に合いますか。」
真壁は
すぐには答えなかった。
遠くの集落の屋根。
まだ動いている軽トラック。
道端で止まっている乗用車。
家から家へ走る隊員たち。
「間に合わせる。」
それは
希望ではなく、
現場指揮官としての
最低限の返答だった。
彼の仕事は、
勇ましく突っ込むことではない。
最後の一人まで
できるだけ外へ出し、
そのうえで
隊を生かしたまま
線を引くことだった。
『こちらは災害対策本部です。』
『本日、
オメガ落下予測日です。』
『想定時刻は
11時50分前後です。』
『まだ避難されていない方は、
直ちに移動してください。』
別の車両が
少し低い声で続ける。
『このあと、
対象地域では
救助活動が制限される可能性があります。』
『ご自身で動ける方は、
今すぐ避難を開始してください。』
『高齢者の方、
ご病気のある方、
支援が必要な方は
近くの職員、隊員に
ただちに声をかけてください。』
通りに立つ老人が
帽子を取って
その声を聞いている。
若い母親が
車のドアを開けたまま
立ち尽くしている。
別の家では
レスキュー隊員が
玄関で荷物を持ち、
自衛隊員が
車いすを押している。
「お薬はありますか!」
「それだけでいい、
写真はあとで!」
「お父さん、
今は乗ってください!」
“今日が最後”という言葉は
もう十分すぎるほど
伝わっていた。
問題は、
伝わってから
足が動くかどうかだった。
黒崎澪は
ストレッチャーの片側を持ちながら、
搬送車両へ向かっていた。
汗で前髪が張りついている。
喉ももう痛い。
でも、
止まるわけにはいかない。
「次!」
「在宅酸素の方、
先に出します!」
後ろから
家族の声が飛ぶ。
「荷物がまだ——」
黒崎は
振り返って叫ぶ。
「命の方が先です!」
言い切ったあと、
自分で少しだけ息をのむ。
きつい。
でも今日は
きつく言わなければ
動かない場面の方が多い。
別の隊員が
小声で言う。
「黒崎さん、
次の家、
かなり拒否強いです。」
黒崎は
ストレッチャーを押し込みながら答える。
「行く。」
「説得でだめなら?」
彼女は
一瞬だけ黙ってから言う。
「説得でだめでも、
最後まで説得する。」
それが
今日の彼女のやり方だった。
車両の中で
搬送される高齢女性の手が
不安そうに浮く。
黒崎は
その手を一瞬だけ握る。
「大丈夫です。」
本当は、
何がどこまで大丈夫なのか
誰にも分からない。
それでも
今この瞬間だけは、
“この車に乗せること”が
大丈夫へ一番近い行為だった。
《午前7時48分/茨城県・最後の搬送》
病院と介護施設の前では、
搬送車両の出入りが
まだ続いている。
サイレンは
必要な時しか鳴らさない。
音よりも
時間の方が貴重だからだ。
看護師が
患者の耳元で言う。
「少し揺れますよ。」
「大丈夫ですからね。」
患者は
反応が薄い。
けれど、
手はほんの少しだけ
握り返した。
介護士が
施設の玄関で
何度目か分からない確認をしている。
「お薬、持った。」
「保険証の控え、持った。」
「向こうの受け入れ先、連絡済み。」
隣の若い職員が
汗を拭いながら言う。
「これで終わりですか。」
先輩職員は
首を横に振る。
「終わりじゃない。」
「ここから
“残る人の対応”が始まる。」
その言い方が
ぞっとするほど現実的だった。
搬送できる人を
運び切ったあとに残るのは、
本人が拒む人。
判断できない家族。
時間切れ。
物理限界。
そして、
職員自身の撤収。
最後に残る仕事ほど、
たいてい名前がつけにくい。
《午前8時30分/残る家・残る墓・残る町》
人の流出が太くなるほど、
残るものの輪郭も
濃くなる。
閉まった家。
開け放したままの家。
持ち出せない家具。
冷蔵庫。
仏壇。
農具。
壁の家族写真。
墓石。
畑の畝。
それらは何も
悪くない。
なのに、
人を動けなくする。
墓地へ続く坂道を、
娘と父親が
無言で下ってくる。
父親の手には
昨日撮った墓の写真。
娘の肩には
小さなバッグ。
「もういいの。」
娘が聞く。
老人は
しばらくしてから言った。
「よくない。」
「でも、
置いていくより
生きて持っていく方を選ぶ。」
その言葉は
立派でも何でもない。
ただ、
ようやく辿り着いた
苦い答えだった。
町のあちこちで、
そういう答えが
少しずつ出ていた。
あるいは、
出ないまま時間だけが過ぎていた。
《午前9時12分/西日本・受け入れ側》
受け入れ側の町では、
Day0の朝も
慌ただしかった。
体育館の受付。
学校の空き教室。
借り上げられたホテル。
仮設相談窓口。
救護室。
子どもの遊びスペース。
職員が
新しい名簿をめくる。
「午前中に
追加で三十七人。」
「家族単位。」
「高齢者六名、
小児四名。」
ボランティアが
小さな靴を並べる。
別の者が
毛布を運ぶ。
ある住民が
その様子を見て
つぶやく。
「本当に今日、
まだ来るんだな。」
隣の女性が
答える。
「来るよ。」
「来るから
ここにいるんでしょ。」
その通りだった。
“受け入れ”は
昨日までに終わる準備ではない。
今日も、
今も、
流れ続ける現実だ。
《午前9時55分/世界》
世界もまた、
今日は
ただの傍観者ではいられなかった。
ワシントン。
ルース大統領は
ホットラインと支援回線を
再確認する。
ソウル。
日本時間に合わせて
特番が続いている。
パリ。
キャスターが
静かな声で
「人類はまもなく
11時50分という時刻を
共有する」と言う。
ブラジル。
日系コミュニティが
画面の前に集まり始める。
カナダ。
避難支援窓口の担当者が
まだ眠れずにいる。
SNSでは
いよいよ
言葉が削ぎ落ちていく。
〈11:50〉
〈Stay alive〉
〈Ibaraki〉
〈No spectacle〉
〈Please survive〉
〈We’re here〉
善意も、
不安も、
無力感も、
みんな短くなる。
長く説明していられない時間帯が
もうそこまで来ているからだ。
《午前10時20分/世界の空・オメガ》
世界中の観測者も、
今日は
ただ“見る”だけでは
済まされない感情の中にいた。
アメリカ西海岸の私設天文台。
フランスの観測施設。
ブラジルの大学。
日本国内の安全圏に移した臨時観測点。
望遠鏡の先、
暗い視野の中を
わずかに動く一点の光。
あれがオメガ。
ただの点。
だが今日のその点は、
地図と時刻と町と人の顔を
もう背負っている。
少年が
望遠鏡から目を離して言う。
「見えた。」
父親は
何も言えない。
NASAの観測室でも、
JAXAの画面でも、
その一点は
変わらずそこにある。
アンナ・ロウエルは
更新画像を見つめたまま
低く言う。
「まだ
小さすぎるのに。」
隣の研究者が答える。
「小さいまま
十分に壊せる。」
相模原では
レイナが
処理画像から目を離さない。
(見えている。)
(見えているのに、
止められない。)
その現実が
科学者の胸を
静かに削っていく。
《午前10時38分/黎明教団本部ビル屋上・東京》
天城セラは
東京の黎明教団本部ビル屋上にいた。
白い布も、
配信背景もない。
本物の空の下。
危険域の外ではあるが、
十分に異様な光を捉えられる位置。
配信は続いている。
だが今日は
説教めいた言葉が少ない。
「もうすぐです。」
それだけで
コメント欄の流れが
変わる。
〈怖い〉
〈茨城です〉
〈もう避難しました〉
〈父が残っています〉
〈意味をください〉
セラは
しばらく空を見ていた。
その目には
本当に来るものを待つ
生身の緊張がある。
街宣車も、
まだ止まっていない。
『恐れるな!』
『受け入れよ!』
『光を拒むな!』
だがDay0の朝になると、
その声に怒鳴り返す人すら
少なくなっていた。
怒る余力より
時計を見る余力の方が
貴重になっていたからだ。
《午前10時52分/新聞社》
桐生誠は
編集部にいた。
まだここにいる。
まだ書いている。
まだ紙面も更新も
止めていない。
見出しは
もう決まっていた。
『着弾』
シンプルすぎる。
でも今日は
それしかない。
編集長が
そばで言う。
「出すぞ。」
「はい。」
「このあとどうする。」
何を、とは言わない。
現場へ行くのか。
ここに残るのか。
明日も書くのか。
全部含んでいる。
桐生は
少しだけ考えてから答えた。
「11時50分までは
ここです。」
編集長は
短くうなずいた。
「十分だ。」
その言葉に
少しだけ救われる。
“最後まで”なんて
今日もまだ言わなくていい。
“11時50分までは”でいい。
その単位まで
人間の覚悟は
細かくなっていた。
《午前11時03分/総理官邸・最後の会見》
サクラは
最後の会見に立った。
背後には
茨城県の詳細地図。
主候補地点。
警戒区域。
避難路。
東京圏影響。
今日は
前置きを短くした。
「——本日、
オメガ落下予測日です。」
会見場が
深く静まる。
「想定着弾時刻は
11時50分前後。」
「主候補地点は
茨城県城里町東部~水戸市北西部境界付近です。」
「この時刻まで、
政府は
最後の避難、
最後の搬送、
最後の説得を続けます。」
彼女は
一呼吸置いて続けた。
「主候補帯内に
まだ取り残されている方々を、
こちらは最後まで追います。」
「各地で受け止めてくださっている自治体と地域の皆さんには、
今日も引き続き
大きな負担をお願いしています。」
「国外から届いている
支援、励まし、受け入れの申し出にも
深く感謝します。」
そして、
言葉をさらに絞った。
「まだ、
47分あります。」
時計を見る。
本当に、
あと47分。
「出られる方は、
今すぐ出てください。」
「離れられない方は、
今すぐ身を低くしてください。」
「離れている方は、
どうか連絡を取り続けてください。」
最後に
サクラは
ほとんど祈るように言った。
「一人でも多く、
11時50分の先へ
生きてください。」
《11時50分》
その数分前から、
空はもう
普通の空ではなかった。
主候補帯の外縁。
避難車両の列の先。
自衛隊の警戒線の向こう。
体育館の避難所。
東京の官邸地下。
相模原の作戦室。
世界中の望遠鏡の先。
誰もが、
同じ時計を見ていた。
11時49分。
11時49分30秒。
11時49分50秒。
そして最初に異変を見つけたのは、
たいてい
“空を見上げていた人”ではなく、
“見上げるのを怖がっていた人”だった。
「……あれ」
誰かが言った。
空の高いところ、
宇宙から地上へ向かって
斜めに深く落ちてくる
一点の白。
最初は、
昼の空に残った
妙に明るい星みたいだった。
だが次の瞬間には、
それが星ではありえない速さで
大きくなる。
白い点は、
針で紙を裂いたみたいに
青空へ細い傷を入れた。
その傷は、
一秒ごとに
太く、長く、熱を持ち、
やがて
ただの光ではなく
空そのものが燃えているような帯に変わる。
オメガは、
地上から見れば
最初から“大きな岩”として
見えるわけではなかった。
むしろ逆だ。
最初は
ありえないほど明るい一点。
次に、
その一点を先頭にして空を裂く白と青白の尾。
そして最後の数秒でようやく、
人間の目は
その中心に
“丸みを帯びた、燃えながら落ちてくる塊”を
見た気がする。
それは
満月みたいに整った円ではない。
炎と衝撃波の衣をまとって
輪郭が崩れ、
白、青白、黄、橙、
その全部が混ざりながら
脈打つように明滅する塊だった。
主候補帯周辺の人間には、
それは“天体”というより
昼の空に現れた二つ目の太陽が、
猛烈な速さで地上へ墜ちてくるように見えた。
その尾は長い。
空の一角にだけあるのではなく、
空の高さそのものに一本の白い火傷痕が走る。
雲はその光で輪郭を失い、
青空は一瞬だけ
金属を焼いた時みたいな色に変わる。
そして——
オメガは
茨城県城里町東部、水戸市北西部境界付近の丘陵と農地の境目、
那珂川水系へ下る斜面を含む一帯へ
落ちてきた。
そこには、
田と畑がある。
丘を削った道路がある。
住宅が点在し、
小さな工場があり、
農業用の倉庫があり、
林があり、
杉と雑木の混じる斜面がある。
遠くに学校跡地と避難拠点、
さらに外側に病院と幹線道路。
大規模な石油コンビナートのような
巨大危険物施設はない。
だから海沿いの都市火災シナリオではない。
その代わり、
人が何十年も積み上げた生活圏そのものへ、
質量と速度が直接打ち込まれる形だった。
落ちる瞬間、
空から来たものは
“見える”を通り越す。
視界が白で飽和する。
それは稲妻の白ではない。
もっと厚く、
もっと暴力的で、
まぶしさというより
目の奥そのものを殴る光。
主候補帯の比較的近く、
まだ外縁で待機していた
自衛隊とレスキュー隊の車列では、
隊員たちは
思わず腕で顔をかばった。
「伏せろ!」
誰かが叫ぶ。
だがその声は、
自分の声なのか
隣の隊員の声なのか
もう分からない。
彼らの目に映ったオメガは、
最後の一秒には
空から“落ちてくるもの”ではなく、
地上へ突き刺さる巨大な発光槍に近かった。
炎に包まれた塊の後ろに、
尾ではなく
空気そのものを引き裂いてできた
白い筒状の乱流がついている。
その先端が
地平線の近くで
一瞬だけ見失われた次の瞬間——
地面が光った。
正確には、
地面が光ったように見えた。
城里町東部から水戸市北西部境界付近の
着弾地点周辺で、
丘陵と農地と林の境目が
白く噴き上がる。
土も、岩も、木も、建物も、
何が噴き上がったのか
最初の瞬間には判別できない。
ただ、
地面が爆発的に上へめくれたとしか
見えない。
次いで来るのは、
音ではない。
衝撃だ。
着弾点近傍では
田の水面が消える。
畔は崩れ、
畑の土は一瞬で裏返り、
トラクター置き場も倉庫も
骨組みごと吹き飛ぶ。
木造家屋は
“壊れる”のではなく
押し潰されてから散る。
窓が飛び、
壁がはがれ、
屋根が持ち上がり、
柱が横倒しになる。
林は
一本ずつ倒れるのではない。
衝撃波の面で撫で倒される。
杉の幹が折れ、
枝と葉が一方向へ千切れ飛ぶ。
雑木林の土はえぐられ、
斜面は崩れ、
山肌は土煙に覆われる。
比較的近くの自衛隊車列では、
隊員たちは
次の瞬間、
衝撃波そのものに殴られた。
見えない壁。
そう表現するしかない。
空気が塊になって
正面から叩きつけてくる。
車体がきしみ、
窓が一斉に鳴り、
地面に伏せた隊員の背中を
何か巨大な手が押し込むみたいに
圧力がのしかかる。
その直後に
遅れて来る音は、
“ドン”ではない。
もっと長い。
空全体が裂けながら吠えるような
重低音と破裂音の連続だ。
「生きてるか!」
「全員確認!」
「耳、やられてるぞ!」
「立つな、まだ飛んでくる!」
真壁は
地面に伏せたまま、
まず自分の身体より先に
無線機を探った。
耳鳴りで、
世界が水の中みたいに遠い。
それでも
指だけは訓練どおりに動く。
「真壁班、応答しろ!」
雑音。
沈黙。
そのあとで
一つ、
二つ、
三つと
かすれた声が返ってくる。
真壁は
それを数えた。
助かった者の数ではない。
今すぐ動ける者の数を。
その数え方が、
着弾後の彼の仕事の始まりだった。
レスキュー隊員のヘルメットには
土と小石が叩きつけられ、
顔を上げた者の目の前を
木片、瓦、金属片が
まだ横に飛んでいく。
彼らの仕事は
ここから始まるはずだった。
だが着弾の最初の数十秒だけは、
救助者である前に
被災者に近かった。
黒崎は
衝撃波で地面に叩きつけられたあと、
数秒、
自分がどちらを向いているのかも分からなかった。
口の中に土の味がする。
耳鳴りがひどい。
視界の端で
何かがまだ飛んでいる。
それでも次の瞬間、
どこかで
人の声がした。
泣き声なのか、
叫び声なのか、
風の音なのか、
もう判別はつかない。
だが黒崎の身体だけが
先に起き上がろうとした。
「まだ声がある!」
その一言が、
着弾後の彼女の始まりになった。
着弾点そのものでは、
地面は抉られ、
主クレーターは直径およそ800メートルから1キロ級に達する。
縁は盛り上がり、
その内側は
土と岩と高温の破砕物が
混ざり合った
巨大な傷口になる。
落下中心部付近にあった
田畑、住宅、倉庫、道路、林は、
もはや個別の形を残さない。
地表の区画という概念ごと
消し飛んだように見える。
クレーター外縁からさらに外では、
壊れ方が変わる。
半径数キロでは
木造家屋は深刻に損壊し、
軽い工場や農業施設は
押し潰されるか散る。
さらに十数キロ圏では
ガラスが砕け、
屋根瓦が飛び、
外壁が剥がれ、
車が横転し、
電柱が倒れ、
送電線が切れる。
停電は波紋みたいに広がる。
土煙は
単なる煙ではない。
地面そのものが空へ持ち上がった雲だ。
その下で
那珂川へ流れ込むはずの小さな沢や用水路には、
土砂と木片と建材が
一気に流れ込み始める。
道路はひび割れ、
斜面道路の一部は崩れ、
橋梁点検の必要が
瞬時に生まれる。
相模原の作戦室で
レイナが見ているのは、
そのすべてを
一歩遅れて数字と映像で受け取る画面だった。
熱源。
圧力波。
位置。
異常値。
若手が叫ぶ。
「着弾確認!」
「主候補帯内!」
「初期熱源拡大!」
レイナは
立ったまま
画面を見ていた。
そこにはもう
予測線ではなく
実測の異常が出ている。
現実になった。
その一言しかない。
(来た。)
(本当に来た。)
その一瞬だけ、
科学者ではなく
一人の人間として
胸の奥が空白になる。
だが彼女は
次の瞬間には
声を出していた。
「官邸へ初報!」
「二次被害予測、更新!」
「衝撃波外縁、再評価!」
泣く時間はまだない。
悔しがる時間もまだない。
数字を出し続けることだけが
今のレイナに残っている。
官邸地下で
サクラは
直接の着弾光を見ていない。
だが、
会見室ではなく
地下の大型モニターに走る
同時多発の異常表示が
彼女の前で現実を叩きつける。
「主候補帯内、着弾確認!」
「停電発生!」
「通信不安定!」
「道路遮断情報入り始めています!」
サクラは
その報告を受けた瞬間、
一度だけ深く息を吸った。
彼女の目には
空は見えていない。
見えているのは
地図、
時刻、
初報、
被害表示。
それでもその頭の中には、
明るすぎる昼の茨城の空と
白い閃光が
勝手に浮かんでいた。
(ここから先だ。)
(ここから先が、
本当の政治の時間だ。)
そう思っても、
一人の人間としては
ただ単純に
間に合わなかった数に
胸をえぐられる。
東京では、
着弾点そのものの壊滅は来ない。
けれど
“何も起きない”わけでは決してない。
高層ビルの窓が
一斉に鳴る。
遠くの空気の圧が
遅れて街へ届く。
人によっては
胸の奥を押されるような
妙な圧迫感を覚える。
ビル内の人間が
顔を上げる。
ガラスがかすかに震える。
地震とは違う。
爆発とも違う。
だが、
“何か巨大なことが起きた”と
全身が理解する。
通信はさらに混み、
回線は不安定になり、
ニュース速報が
一斉に流れる。
鉄道は点検停止。
道路はさらに詰まり、
病院は受け入れ準備に追われ、
首都は
“直撃していない被災地”へと
一瞬で変わる。
そしてセラは、
東京の黎明教団本部ビル屋上にいた。
白い布ではなく、
本物の空の下。
危険域の外ではあるが、
十分に異様な光を捉えられる位置。
彼女の前にも
昼の空を裂く
白い帯が見えた。
最初の一瞬、
彼女の顔から
言葉が消える。
信仰でも、
思想でも、
物語でもない。
本物の質量が
本物の速度で
地上へ落ちていく。
着弾の白い閃光が
東京の空の縁を
一瞬だけ別の世界の色に変えた時、
セラはようやく
小さくつぶやいた。
「……本当に、来た。」
その声には
歓喜も、
説教臭さもない。
ただ、
自分が意味づけしてきたものが
現実として現れた時の
裸の驚きだけがあった。
着弾後、
城里町東部~水戸市北西部境界付近には
巨大なクレーターと、
その周辺の破壊帯が残る。
クレーター縁は盛り上がり、
内部は
砕けた土と岩、
焼けた木材、
高温の破片、
潰れた構造物の残骸で
ぐちゃぐちゃに混ざっている。
周囲には
本来そこにあった
田畑の区画も、
生活道路の境界も、
家の敷地も、
ほとんど識別できない。
田は、
水面ではなく
泥と破砕土の斑に変わる。
畑は
畝の形を失い、
上から巨大な鍬で
ひっくり返されたみたいになる。
林と山肌は
一方向に倒され、
斜面は剥き出しになり、
土煙と粉塵が
まだ上昇している。
周辺建物は、
残っていても
“建物”というより
潰れた箱に近い。
壁だけ残った家、
骨組みだけ立った倉庫、
窓も屋根も失った工場、
横倒しの農機具。
電柱は折れ、
線は垂れ、
道路には瓦と木片と土が積もる。
そこはもう、
“被災地”という言葉だけでは
足りない場所だった。
それでも、
そこに向かおうとする者がいる。
救うために。
探すために。
確認するために。
記録するために。
オメガの着弾は
11時50分で終わったのではない。
11時50分から、
別の物語を始めてしまった。
《着弾直後/相模原》
「着弾……!」
若手研究者の声が
かすれる。
「位置、
主候補帯内!」
「熱源確認!」
「衝撃波データ、
取得開始!」
レイナは
立ったまま
画面を見ていた。
そこにはもう
予測線ではなく
実測の異常が出ている。
現実になった。
その一言しかない。
(間に合わなかった。)
(でも、
ここで止まれない。)
「官邸へ。」
「初期観測まとめて。」
「二次被害予測、
即時更新。」
声が震えても、
指示は震わせない。
それが
彼女に残った仕事だった。
《着弾直後/総理官邸》
地下危機管理センターに
初報が走る。
「主候補帯内、着弾確認!」
「停電発生!」
「通信不安定!」
「道路遮断情報、入り始めています!」
サクラは
一瞬だけ目を閉じ、
すぐ開いた。
「初動へ移行。」
「救助可能域と不可域を
直ちに切り分けて。」
「官邸会見、
準備。」
その顔には
ショックも悲しみも
確かにあった。
でも今は
まだそれを出す時間ではない。
国の顔として、
まずは
次の一手を出さなければならない。
《着弾直後/世界》
ワシントンでも
ソウルでも
パリでも
ブラジルでも
カナダでも、
人々は
画面越しにその瞬間を受け取った。
誰かは泣いた。
誰かは言葉を失った。
誰かは祈り続けた。
誰かは
見てしまったことに
後悔した。
SNSには
短い言葉しか出てこない。
〈……〉
〈Ibaraki〉
〈Oh God〉
〈Stay alive〉
〈We saw it〉
〈No more words〉
世界が
同時に息を止め、
同時に遅れて呼吸を思い出す。
《着弾直後/茨城県外縁》
避難所の体育館。
車中泊の列。
受け入れ先の町。
道路脇。
全員が
同じ一瞬を
違う形で受けた。
子どもが泣く。
大人がしゃがみ込む。
誰かが
「来た」とだけ言う。
誰かが
家族の名前を呼ぶ。
誰かが
電波の入らないスマホを
何度も握り直す。
終わったのではない。
始まったのだ。
本当の被害確認と、
本当の喪失と、
本当の救助が。
Day0。
11時50分。
オメガは、
ついに地上へ着弾した。
それは
“世界の終わり”ではなかった。
だが、
多くの人にとって
“それまでの世界の終わり”ではあった。
その瞬間までに
逃げた人。
残った人。
受け入れた人。
祈った人。
見た人。
書いた人。
運んだ人。
そして、
止められなかった人。
すべての時間が
11時50分に集まり、
そのあとで
別の時間へ分岐していく。
ここから先は、
落下予測ではない。
着弾後の世界だ。
本作はフィクションであり、実在の団体・施設名は物語上の演出として登場します。実在の団体等が本作を推奨・保証するものではありません。
This is a work of fiction. Names of real organizations and facilities are used for realism only and do not imply endorsement.