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荒れ果てた大地に生命は実らず、無人の荒野がどこまでも続く。茶色の地面は乾燥しており、無味無臭のここは死地そのものだ。
ミファレト荒野。ウイルとエルディアは予定通り、この地にたどり着く。昨晩は想定外のアクシデントに見舞われたが、彼女にとっては好機となり、もう一人は悲しげにうなだれる。
「まさかあのまま寝てしまうとは……。本当にごめんなさい……」
寝落ちだ。昨晩の素振り後、ウイルはすっかり疲れ果て、軽い気持ちで横になる。少しだけ瞳を閉じて体力の回復をはかるつもりだったのだが、気づけば日付が変わるどころか朝になっていた。
「気~にしないで。おかげで私も早寝出来たしー」
突然の寝息にエルディアも驚かされたが、気を取り直しからは早かった。
荷物を片づけ、熟睡中の少年を抱えれば準備完了。暗闇の中、颯爽を走り出せば半刻もかからず到着する。
巨大洞窟の出口にて彼女は夜空を見上げた後、安全のためわずかに引き返してからウイル共々眠りにつく。
土地と土地の境目には魔物が寄り付かない。今回の場合、蛇の大穴とミファレト荒野の中間地点が該当する。ゴブリンや巨人族のような知能を持った種族は例外だが、それらに関してもこの付近には生息しない。
背後の洞窟は入り口が封印されており、ギルドカードがなければ通過の許可は得られない。
そして、荒野側もそれらの縄張りではない。だからこそ、この中間地点は安全が担保される。
当初の予定では洞窟の突破は夜中頃の見込みだったが、傭兵が走ればあっという間だ。
エルディアとしてもウイルの寝落ちはありがたい。なぜなら、さっさと運んでしまえばそこから先は睡眠時間にあてがえる。夜が更けるよりも先に眠れるのだから、彼女としても嬉しい誤算だった。
翌朝、パリッと乾いた空気が少年を起こし、そして今に至る。
(うぅ、またこのパターンか……。ほんと、エルさんにおんぶにだっこだなぁ。文字通り。いや、おもしろくないな)
己の不甲斐なさに委縮せざるをえない。
力尽きて寝てしまい、その間に目的地まで運送される。体力回復と高速移動が叶うのだから一石二鳥だが、道中の光景を想像すると滑稽過ぎて落ち込んでしまう。
傭兵失格だ。自責の念が少年を襲う。されど今の状況はほとんど全てが彼女のおかげであり、己を責めることすらもおこがましい。
(まぁ、無事ここまで来れたし、良しとしよっと。迷いの森はまだちょっと遠いけど、それだって数日くらい? うん、順調)
落ち込む時間は終了だ。開き直ったと表現してもよい。
母を変色病から救うため、ここからさらに西を目指す必要がある。一喜一憂するにはまだ早く、気を緩めることは自由だが、ここからは魔物と足元に注意を払わなければならない。
「そいえばさー、ここの地割れが見たかったんだっけ?」
「あ、すっかり忘れてました。そうですそうです」
この荒野には無数のヒビが地面をさいており、万が一落ちてしまったらかすり傷では済まない。
ミファレト亀裂。名所というわけではないが、この地に存在する特有の自然現象であり、その規模感は大小様々だ。
「この前の甌穴群だっけ? あれよりは見応えあると思うけど……。ただ、これだってなぁ」
歩きつつも空を見上げ、エルディアは唸る。
今日も心地の良い天気だ。早朝ゆえに太陽もまだ寝起きらしく、暑すぎず、寒すぎずの丁度良い塩梅と言える。
「迫力はあるんですよね? 底の深さも、確か平均すると十五メートルくらいとか。それだけでもすごいです」
「迫力かぁ……。落ちたら途中で挟まっちゃいそう、って妙な不安感なら抱くけど……。まぁ、その内出くわすと思うから、期待しないで待ってて」
ウイルがこの旅で楽しみにしていた二つの自然物。
それが、シイダン耕地の甌穴群とミファレト荒野の地割れだ。どちらも摩訶不思議ではあるがそれ以上でもそれ以下でもなく、十二歳の子供を喜ばすには少々心許ない。それでも興味を抱いてしまい、こうして自分の目で見る機会が得られたのだから、足取りも自然と軽くなる。
(学校の地理学はつまらなかったけど、この二つにだけは心惹かれたんだよなぁ。もっと色んなことに興味を持てば、赤点なんてとらなかったのかな?)
地理学の授業では、コンティティ大陸の様々な土地について学ぶこととなる。
王国と隣接するマリアーヌ段丘。
木々が密集するジレット大森林。
植物すら育たぬミファレト荒野。
その場所には特有の環境と歴史があり、祖国を背負う若者はそういったことを学び、見聞を広めることで将来に備える。
ウイルは理数系の人間だ。数学と物理学を得意としており、それに加えて記憶力も優れていたことから成績は常に上位だった。
だが、好きなはずの数学にて挫折を味わったことで転機が訪れる。
たった一度の失敗が勉強への苦手意識に繋がり、さらにはいじめが加わったことで少年はいっきに落ちぶれる。
痛ましい記憶だ。思い出したくもない。
退学した今となっては過去の出来事でしかないが、今でも時折夢でうなされてしまう。
傭兵として過ごす日々は非常に刺激的だ。それでも、このトラウマは払しょくされずに悪夢として出現し続けている。一生癒えることはないのかもしれない。
「ここの魔物って美味しくないんだよねー。でもでも、良い経験だし食べてみよっか」
「あ、はい」
ウイルは傭兵だ。
そして、ここは魔物が蔓延る危険な荒野だ。
心の傷は確かに苦痛だが、うじうじと悩んでいる暇はない。
殺すか、殺されるか。
人間と魔物の関係は突き詰めればこうなる。
人間は身を守るため、そしてそれらを食すため、外敵を討伐し続けてきた。
一方、魔物も人間を積極的に殺そうとするが、それを達成したところで人肉を口にしようとはしない。
そもそも一部を除き食事を必要としないため、そういった事情からも魔物という生物は通常のものさしでは測れない。
「トカゲちゃん、いないかなー」
(トカゲ……ちゃん? あぁ、ミファリザドのことかな。食べる気満々だな、この人……。美味しくないとかグルメなこと言っておいて)
献立が決定した瞬間だ。出会えなければ変更もあり得るが、少なくとも彼女の胃袋は新鮮な肉を欲している。
ミファリザド。ミファレト荒野に生息する魔物の一種だ。エルディアがそう呼ぶように、姿形はトカゲに近い。ただし、全長は人間に匹敵するほど大きく、四肢でモソモソと巨躯を運ぶ。肉質は硬く、食用には向いていないため、食卓に並ぶことはなく、そういった意味でも狩りの対象としては不人気だ。
(ミファレト荒野か。ほんと、あっという間だったな。一人でも大丈夫だろうって思い込んでたんだから……、無知って本当に罪なんだなぁ)
イダンリネア王国からこの地まで、その距離およそ五百キロメートル。平坦でもなければ安全でもない道のりを、少年は無計画に歩むつもりでいた。
母を救うため。
いじめから逃げ出すため。
いわばパニック状態だったこともあり、正常な判断は影を潜める。
その結果、単身で傭兵試験に挑み、魔物に殺されかけるのだから自業自得と言う他ない。
それでも、ここまで来ることが出来た。この事実だけは揺らぐことはなく、後はこの荒野を横断することで真の目的地にたどり着ける。
迷いの森。入り込んだ者は例外なく方向感覚を失い、気づけば森の外へ放り出されてしまう。魔物は生息しておらず、そういう意味では安全な場所ゆえ、極まれに傭兵が野宿のために立ち寄るも、それだけの土地だ。
そこには何もない。無学な傭兵でさえも常識として知っている。
魔物がいない。
人間も住んでいない。
果実の類は探せば見つかるも、精々それくらいか。
ミファレト荒野自体に旨みがないため、そこを訪れる者は少ない。
木々が生い茂るだけの無人の森。ウイルもまた、そう認識していたが、白紙大典と医者から告げられた事実は別物だ。
魔女が隠れ住んでいる。
魔女は魔物だ。イダンリネア王国の国民なら誰もがそう教わるのだから、困惑せざるをえない。
だが、白紙大典は笑って一蹴した。
魔女は人間だ、と。
その後、本物の魔女と出会ったことでその認識は確固たるものとなったが、一方で疑問は残り続ける。
王国はなぜ、国民を騙し続けているのか?
彼女らと直接話せばすぐにもばれるような、子供じみた妄言だ。それでも千年もの間、嘘を突き通せているのだから、ウイル一人が事実を知ったところでこの世界は何も変わらないのかもしれない。
もっとも、そんなことは本題とは無関係だ。
変色病を治すための特効薬。それを入手するため、魔物を退けながらここまでやって来た。
ハクアという名の魔女なら、何かを知っている。白紙大典がそう言ってのけたのだから、今はその手がかりにすがる他ない。
(後少し……。がんばろう)
ウイルは歩く。
背中には母親が愛用していたマジックバッグ。経年劣化により色褪せているが、それでも機能そのものに支障はない。
これに薬を入れて、届けたい。これはそのための旅であり、ひとまずのゴールは目と鼻の先だ。
「いないなー。三枚におろしてあげるのに」
(魚じゃないんだから……。ここの魔物ってそこそこ手強いらしいのに、エルさんにはやっぱり関係ないのか)
エルディアは今日もマイペースだ。緊張することなく、楽しそうに大地を踏みしめている。
ウイルが考えている通り、ミファリザドは危険な存在だ。動作は鈍いがそれを補うほどに怪力な上、毒の息を吐き、人間を毒殺する。
この毒が非常に危険だ。仮にウイルのような子供が晒された場合、十秒ももたずに絶命するだろう。
傭兵なら耐え凌げる可能性もあるが、体調次第では命にかかわる。
対策なしに挑むべき相手ではない。危険度で言えば巨人族の方が高いが、ミファリザドもまた、油断ならない存在だ。
(まぁ、うん、僕も天技で貢献しよ)
二人は荒野を歩き続ける。照り付ける日光を浴びながら、そして、魔物を探しながら、ただひたすらに西を目指す。
幸か不幸か、その道のりは至って平和だった。早朝に出発して以降、休憩なしの移動は正午近くまで続くも動物はおろか魔物にさえ出くわさず、味気ない風景を眺めながら淡々と進むことが出来た。
されど、ここはミファレト荒野。半日近くも歩けば、それに出くわすのは必然だ。
「あ、あれって……!」
「そだねー。あそこに着いたらお昼にしよっか」
遥か前方の地面がひび割れている。行く手を遮るように長々と切れ目が走っており、それこそがウイルの待ちわびた自然物だ。
現在地からはまだまだ遠い。にも関わらず視認出来る理由は、その亀裂が小規模ではないことと、なにより他に目を見張るものがないからだ。
ものの五分程度で二人は辿り着く。頭上から陽射しが降り注ぐも、その狭い空間だけは不気味なほどに薄暗い。
大地の裂け目、ミファレト亀裂との邂逅だ。
「これは……、思ってたよりも怖い!」
少年は唸る。落ちたら最後、地の底まで落下するのでは、と錯覚するほどの迫力だ。震えながら足腰の脱力を感じてしまう。
「気を付けてねー。私ならともかく、君だと多分死んじゃうよー」
「は、はいぃ……」
這いつくばりながらも必死に覗き込むウイル。
その様子を微笑ましく見守るエルディア。
観光名所ではないのだが、自分の目で見たいと思っていたのだから、少年の昂りは必然だ。
(あ、よく見たら一番下が見える。そうか、今はお昼だから太陽は丁度真上。だから亀裂の中へ光が真っすぐ差し込むのか。う~、やっぱり深い。十メートル? もうちょっとあるのかな? 確か、三階建ての宿屋もそれくらいの高さだったはず。だとしたら……、うん、落ちたら死んじゃうな)
四つん這いのまま、恐る恐る見下ろす姿は滑稽ながらもかわいらしい。
眼前の細く、長く、そして深い地割れは恐怖そのものだ。落下死を避けるためにも近寄るべきではない。
(これはどこまで続くんだろう……。うん、わからないな)
姿勢を保ったまま顔だけを左右に振るも、どちらの終端も視認は出来ない。裂け目の全長はそれによってまちまちだが、これに関しては人間がちっぽけに思えるほどの規模だ。
(想像してたよりも狭いんだなぁ。でも僕やエルさんならどんな姿勢で落ちたとしてもすっぽり収まるし、普通に一番下まで落ちきれそう。いや、落ちないけど)
亀裂の幅は窮屈だ。そうであろうと人間程度なら容易に飲み込める。傭兵でなくとも飛び越えることは可能だが、油断は禁物だ。もしも飛翔距離が足りない場合、飲み込まれてしまう。
(こんなのがここにはいっぱいあるんだから、ほんと不思議。甌穴群と違ってこっちは解明されてないみたいだし……、僕にも想像つかないや)
好奇心が刺激される。
このコンティティ大陸には未解明なものがあちらこちらに散見しており、ミファレト亀裂もその一つだ。人間がこの地を発見した時点で大地は既にひび割れており、その後も調査は行われたが謎は謎のままだ。
(う~ん、絶壁というかほとんど垂直……。間違って落ちちゃったりしたら、本当にしゃれにならない。一番下まで十メートルだと仮定して、だとしたら落下時間は……)
ウイルは裂け目を覗き込みながら、頭の中で計算を始める。
(深さイコール……、えっと、二分の一、重力加速度、時間の二乗だから、重力加速度は面倒だから十にして、深さも十メートル。とすると、二イコール時間の二乗……かな)
物理学で習った初歩の概念ゆえ、ウイルなら計算は容易い。
(時間イコール……ルート二か。ふむふむ、落下時間はおよそ一秒半……か。あっという間だな、こんなに深くて)
おおよそ正解だ。雑な算出ではあるが、近似値が導き出された。
落ちたら最後、二秒も経たずに裂け目の底に叩きつけられ、エルディアなら耐えられるのだろうが凡人なら無事では済まない。
ミファレト亀裂の危険性を再確認したところでむくりと立ち上がる。
「堪能したー?」
「おかげさまで。僕が落ちたら一秒半で死ぬということがわかりました」
「そっかー、すごいねー」
中身のないやり取りだ。そもそも彼女は少年の発言をこれっぽちも理解しておらず、そんなことよりも昼食を食べたがっている。
二人は残りわずかとなった携帯食を手早く食し、談笑も兼ねて長めの休憩を取った後に移動を再開する。
ミファレト荒野は平地であり、くぼ地だ。そのせいか気温が近隣よりも幾分高い。
ましてや今は正午をまわった頃合いだ。一日の中で最も暑く、ウイルの体力をじわじわ蝕む。
それでも歩みを止めない。ゴールが近いということもあるが、魔物との遭遇がなく、ペースを乱されずに済んでいることが何よりも大きい。
そう。この地の魔物は少ない。広い上に生息数が少ないことから、とろとろと歩いている内は平和な二人旅が約束される。
それでも人間が住める場所とは言い難い。枯れた大地に作物は育たず、ミルファリザドも美味ではないからだ。
魔物がいない。
王国の人間も踏み込まない。
そういった背景から、魔女は南西の森に隠れ住んでいるのかもしれない。
(今日はこのままスムーズに進めると良いな)
ミファレト亀裂の観察という願望が叶った以上、ここから先はわき目もふらず進む。
風景はどこを見渡そうとつまらない荒野だ。それが延々と続くのだから、裂け目への落下にだけ気を付けながらウイル達は西へ直進する。
空は雲一つない快晴。日光を遮るものはなく、ゆえに陽射しが強いのだが、それにとっては好都合だった。
この地には南西の森を除き木々の類が一切生えておらず、地面から伸びる突起物は魔物か人間のどちらかだ。
だからこそ、それは嬉々として歩み出す。優れた視力を持ち合わせているわけではないのだが、遠方で何かが二つ、同じ歩調で移動しているのだから、遠目からでは米粒にしか見えずとも、そうであると確信出来てしまった。
異変に気づけたのはウイル。天技がその役目を果たした瞬間だ。
(ん? 右の方に何かいる?)
このレーダーはエルディアか魔物にしか反応しない。彼女は隣にいるのだから、消去法で答えは一つに絞られる。
(ミファリザドだと思うけど……。あれかぁ、でも遠くて全然わからない。んん? シルエットが……人間っぽい?)
歩きながらだと尚更わからない。ウイルは目を細めながら立ち止まり、右手方向を凝視する。
「どしたのー?」
「あっちに魔物が……」
「お、ついに出会えたかー。今晩のおかず」
足音が止まったことで彼女もつられるように歩みを止める。少年の指さす方角は進行方向ではないが、脅威が迫るのなら最優先で排除だ。そもそもの前提として、魔物と戦いたがっていたのだから、逃亡という選択肢は存在しない。
ニシシと笑みを浮かべながら、エルディアは地平線を眺める。周囲には禿げ上がった地面しか見当たらず、一方で遥か遠くには何かが立っているようにも見える。
「人間に見えるんですけど……」
「あら? そんな感じだねー。でも、魔物なんだよね?」
だからこそ、ウイルの天技はそれの接近を感知することが出来た。エルディア以外の人間には反応しないのだから、姿形が似ていたとしても別の何かで間違いない。
「はい。え、だとしたら……」
新たな可能性が少年の脳裏に浮かびあがる。それは同時に正解であり、驚きのあまり遠方のそれを改めて凝視してしまう。
「ふーん、おもしろそうじゃん」
遠目では判別不能だ。それでも二人は感づいた。だからなのか、エルディアは高揚感を抑えられず、情熱的な笑みを浮かべる。
(やっぱり……、人間じゃない。あれは……、あの大きな体は……)
その場から一歩も動かず、相手の動向を伺い続けて数分。四つの瞳はその姿を完全に捉える。
筋肉の塊のような上半身。そこから伸びる右腕も丸太のように太く、力強い。
胸部とは対照的に腰周りはきゅっと絞られており、一方で両脚は短いながらも巨躯を支えるために屈強だ。
頭部はおろか全身にも毛髪の類が一本も見当たらず、それどころか表皮は薄い緑色。
鋭い眼光と退化した鼻、ニタァと笑う口が顔面に備わっており、遠くからでは大男に見誤ったとしてもおかしくはない。
もっとも、ある程度近づけばそんな誤解は抱かない。
巨大過ぎる体。
太い腕。
短い足。
なにより、息苦しささえ感じる殺気はまさしく人外のそれだ。
「巨人……族」
「ここにはいないはずなのに。北の山を越えて来たのかな? 珍しい」
巨人族。四メートルの背丈を誇る人型の魔物だ。ゴブリンほどではないが知能も高く、独自の文化を築き生活を営んでいる。
本来ならばもっと北西の地域で活動しており、少なくともここで遭遇したという事例は過去に一度もなかった。
つまりは非常事態だ。この状況下で二人に突きつけられた選択肢は二つ。
迎え撃つか、逃げるか。
考えるまでもない。検討の余地なく撤退すべきだ。巨人族は魔物の中でも一際手ごわい。これを単独で倒せる傭兵はごく一部に限られる。
等級四。
等級三の傭兵が昇級試験を受け、見事合格出来た者だけがその肩書を名乗ることが許される。
問題はその試験の難度だ。誰の手も借りずに巨人族を倒さなければならないのだから、そのハードルの高さが多くの傭兵を等級三で足止めする。
もちろん、それで困ることはない。等級三なら何不自由なく傭兵として活動可能だからだ。付け加えるのなら等級二でさえ実害はほとんどない。
エルディア・リンゼーは等級三の傭兵だ。この数字だけを見れば、巨人族に敵うはずがない。
もし戦う場合、最低でも三人で立ち向かうことがセオリーであり、ここにはエルディア以外には足手まといの子供しかいないのだから、選択肢としては逃げるべきだ。
にも関わらず、彼女はうれしそうに右足を前へ踏み出す。
「大物だぁ。こういうの待ってたんだよねー」
戦うために。
討伐するために。
己の退屈を解消するために。
エルディアは笑みを浮かべながら前進する。
「お、お気をつけて……」
「だいじょぶー。さくっと倒してくるね」
ウイルは心配だ。彼女の実力を信じているが、それでもなお、遠方の巨体には恐怖心を抱いてしまう。
(巨人族を一人で倒したことがあるって以前言ってたから、今回もきっと勝っちゃうんだろうけど……)
楽観視など出来ない。
一方で臆する必要もない。エルディアの実力は等級四と遜色ないのだから。
彼女が昇級試験を受けない理由は単純明快だ。
そのための金銭を捻出出来ず、その上、仮にお金が工面出来たとしても面倒くさいと思ってしまっている。
申し込み費用は五十万イール。この金額は平均的な給料のおおよそ二か月分に等しい。金欠気味なエルディアには高額だ。
そもそも等級を上げるメリットがないのだから、等級三に甘んじていても困ることはなく、彼女は彼女の望むがままに日々を駆け抜けている。
「腕がなるぅ」
想定外の遭遇だが、傭兵と魔物が出会ってしまったのだから、ここからは雌雄を決する時間だ。
エルディアは背負い鞄をどかっと下ろし、身軽さを手に入れる。もっとも、背中にはスチールクレイモアが携帯されており、その重量は先ほどの鞄以上だ。
(あの巨人……)
(なんだろ? あー、左腕が……。よく見たら全身傷跡だらけだし、歴戦の猛者って感じなのねー)
ウイルもエルディアも同時に気づく。徐々に迫り来る巨人は五体満足ではない、と。
片足を引きずるように歩いており、その足並みはどこかぎこちない。
また、両足の動きと連携して右腕を前後させるも反対側の腕が見当たらない。二の腕部分から先が切り落とされたのか、左腕は完全に失われており、そればかりか顔を含む全身に多種多様の傷跡が見受けられる。
昨日今日の傷ではないのだろう。痛々しいが、痛そうな素振りは見せない。
(どれだけの戦いを潜り抜けてきたんだ……。相手は王国軍? それとも傭兵? 傷つきながらも人間をいっぱい殺してきたのか? だとしたら、昨日のゴブリン同様、手ごわいんじゃ……)
エルディアの後姿とまだまだ小さな巨人を見比べながら、ウイルはゴクリと喉を鳴らす。
迫り来る魔物。体中の傷が、越えてきた死線の数を物語っている。それは一度や二度ではないはずだ。挙句には左腕を失ったにも関わらず、人間への執着心は失われていない。
決して消えぬ闘争心。それは殺気となって荒野を駆け巡り、十二歳の少年を委縮させる。
戦いが始まる。傭兵のエルディアと隻腕の巨人がそれぞれ前進しているのだから、その瞬間はもう間もなくだ。
両者が近づくにつれ、全身の傷がより鮮明に見え始める。
剣やナイフで斬られたと思われる裂傷。
槍や矢で突かれた痛々しいくぼみ。
炎の魔法で焼かれた大きな火傷痕。
顔も、胸部も、右腕も、腹部も、短い両脚も、あらゆる場所が傷だらけだ。二人からは見えないが、腰蓑のような衣服の下や背中もそうなのだろうと容易に想像出来る。
この魔物は古傷を勲章のように誇っているのか、威風堂々と見せつけながら歩みを進める。人間という至高の獲物がその先にいるのだから、立ち止まるはずもない。
真剣な顔つきながら、この状況を楽しむエルディア。
彼女が落とした鞄まで歩み寄り、静かに見守るウイル。
そんな二人を嘲笑いながら、先ずは長身の人間に狙いを定めた巨人。
天高い空から大地を見下ろす太陽もまた、観客の一人なのかもしれない。足音だけが響く荒野の片隅でいくつもの視線が見守る中、傭兵と魔物の距離はグングン縮む。大声なら届くほどの立ち位置だが、それでもなお、両者はあゆみを止めない。
殺し合うにはまだ遠い。つまりはそういう判断だ。
「さーて……」
エルディアが戦いに備える。担いでいる大剣の柄を右手で掴み、超重量のそれを鞘から引き抜けば準備は完了だ。
むき出しの刃は分厚い。灰色のこれは鋼を主成分としており、その大きさゆえ本来ならば持ち歩くことさえ困難なのだが、彼女の右腕は普段通りのテンポで前後に揺れている。
オレンジ色のロングスカートを蹴り上げながらの足取りも軽快だ。彼女自身を進行方向へ運び続ける。
その様子を眺めながら、愉悦に浸る隻腕の巨人。狩るか狩られるかの死闘を前にして、高揚感を満喫している。
もちろん、それはエルディアも同様だ。長身の彼女だが、前方の魔物は倍以上。比較してしまうと赤子のようでさえある。
周囲には何も見当たらない。
強いて挙げるなら、ウイル達が進む予定だった西方向には大きな亀裂が走っており、跳躍可能な狭さではあるが、落ちたら最後、人間程度ならゴクンと飲み込めてしまう。
荒れ果てた大地に命の暖かさは存在せず、殺風景だからこそ、これから始まる殺し合いには相応しい。
少ない観客が固唾を飲んで見守る中、エルディアと巨人はついにたどり着く。
彼女は見上げ、それは見下ろす。
殺し合いの始まりだ。
ギュっと握られた大きな拳。巨人は唯一の右手をさっと持ち上げ、力強く振り下ろす。シンプルな動作ゆえ無駄もなく、その先にいる人間一人を潰すには十分な破壊力だ。
しかし、この初手は空振りに終わる。獲物がそこにいないのだから当然の結果だ。
では、どこにいる? 歴戦の魔物といえども、一瞬だが困惑してしまう。
この状況、エルディアにはいくつかの選択肢が提示されていた。
後方への避難。
左右どちらかへの回避。
通常ならこのどれかだろう。
しかし、巨人の視界内に彼女はいない。ならばそれ以外の行動を選んだのだとこの巨人もすぐに理解する。
背後からヒシヒシと響く、強烈な闘争心。それは対戦相手のものであり、狩り損ねた以上、なにより実力を見誤った以上、その一撃は授業料として受け入れる他ない。
そこにいる者こそ、歴戦の傭兵だ。頭上から迫った拳を、その腕をかいくぐりながら避けきるばかりか、相手の後方へ回り込んでみせた。
眼前には隙だらけかつ傷だらけの背中。ならばやるべきことは一つだ。スチールクレイモアを左から右へ走らせ、薄緑色の皮とその下の肉を削ぐように切り裂いてみせる。
その結果、赤々とした鮮血が噴出するのだが、二人の人間は全く別の感情を抱く。
(巨人相手にも楽勝なんて……。すごいや)
ウイルは遠方から大いに喜ぶ。巨人族の一撃を避けるばかりか、一撃必殺とも言うべき斬撃を命中させたのだから、その出血量も相まって勝者がどちらかは子供にも明白だ。
一方、エルディアは現状に眉をひそめる。
(思っていたよりも……。これは侮れない)
そう。この戦いはまだ終わらない。
彼女の大剣はその背中に横一線の傷を付け加えたが、深手を負わせるには至らなかった。
目測を誤ったからではない。寸でのタイミングで、この巨人が状況把握と回避行動を済ませたからだ。
剣先がかすめてはしまったが、魔物は体をずらすことで致命傷を避ける。おびただしい出血は、薄緑色の皮膚だけではなく、皮下脂肪もわずかに切り裂かれてしまったからであり、そういう意味では軽傷では済まなかったが、戦闘の継続にはなんら問題ない。
攻撃を避け、背後からのカウンターを成立させたエルディア。
拳の鉄槌を避けられ、背中を斬られた巨人。
どちらが優勢かは明らかなのだが、両者の抱く感想は真逆だ。
エルディアは後方へ飛び跳ねつつも気を引き締め直し、隻腕の巨躯はゆっくりと振り向きニタリと笑う。
(うん、好きだなー、こういうの)
実は、最初の打撃も危うかった。頭上から迫った拳は予想以上に速く、彼女の反射神経はそれに対応してみせたが、紙一重だったという事実が巨人の実力を物語る。
それでもこの傭兵は逃げない。
正面の魔物は、闘争心を満たしてくれる最高の対戦相手だ。簡単には勝てないかもしれないが、逃走などもったいない。
なにより、それくらいが丁度よい。
恋焦がれていた機会が訪れたのだから、依頼人を送り届けるというくだらない茶番は後回しにしてこの闘争に全力を注ぐ。
一瞬の静寂はただの間奏だ。向かい合う両者は相手の出方を伺っているだけであり、その時間も乾いた北風によってあっという間に吹き飛んでいく。
互いが数歩進めば、ぶつかるほどの間合い。手を伸ばしても届きはしないが、彼女の特異とする距離だ。
ジャッ! エルディアは地面を蹴り、一瞬だが宙に浮く。
前方へのわずかな跳躍。低空だが両足は大地から離れており、着地地点は両者の中間付近だ。
そこまで進めば事足りる。落下エネルギーを大剣に上乗せし、一撃必殺の振り下ろしで魔物の体を切り裂く算段だ。
しかし、その刃は空振りに終わる。
人間の実力を一度は見誤ったが、裏を返せば二度目はない。予想よりも素早く動くということがわかったのだから、それを加味すれば済む話だ。
慌てることなく、されど迅速に、巨人は左足を支点に右足と体を後方へずらして寸での回避をやってのける。
次の瞬間、灰色の刃が大地を砕き、両者の足元が崩壊を開始する。巨躯にぶつけるはずの破壊力が、八つ当たりのように荒野を砕いた結果だ。
咄嗟に後退することで両者は態勢を立て直しつつも、闘志を燃やしながら相手の動向を伺う。
「暗黒拳」
その号令と共に、エルディアの右手が黒いもやに包まれる。
ネザーエナジー。彼女は暗黒拳と名付けているが、正しくはこちらが正しい。魔防系が習得する二つ目の戦技であり、使用者の筋力を高めてくれる。シンプルであるがゆえにあらゆる局面で役立つのだが、効果時間はたったの三十秒。使うタイミングは考えなければならない。なぜなら次に使えるタイミングは二分後と少々待たなければならず、連続しての使用は不可能だ。
臆することなくエルディアは駆ける。正面にはでこぼこのクレーターが出来上がっており、戦場には適さない。彼女はそれを避けるため左回りのルートを選び、魔物との距離をいっきに詰める。
漆黒のオーラは右手だけに宿っているが、戦技の適用箇所は見た目に反して全身だ。ゆえに重たい両手剣はさらに容易く扱えるようになっており、身構えていた巨人でさえ、その斬撃には目測を誤る。
駆け抜けると同時に打ち込まれる、えぐるような一閃。灰色の刃は今日一番の鋭さと共に巨人の脇腹を深く切り裂く。
そのはずだった。
「なっ⁉」
敵を追い越し、減速しながらエルディアは振り向く。その表情は普段の能天気なものとは一線を画し、戸惑いの色を隠せない。
隻腕の巨人はその場から動かず立ち尽くしている。先ほど負わせた背中の傷が痛々しいが、出血箇所はそこだけだ。
エルディアは驚きながら視線を右手方向へ落とす。その手はスチールクレイモアのグリップを握ったままだが、剣身が半分しか見当たらない。
(叩き折られた? あの一瞬で? ふーん、すごいなぁ)
それを裏付けるように、対戦相手の足元にはカラカラと音を鳴らしながら残り半分の刃が揺れている。
すれ違いざまの斬撃は見事と言う他なく、この巨人も避けられないと即座に思い知った。
ならば別の方法を講じるまでだ。その瞬間、唯一の右腕に全力をこめ、幅広の刃を力一杯叩くことで破壊を試みる。
目論見は成功だ。鋼で作られた両手剣はその負荷に耐えられず、剣身は割られ、その長さは半分以下まで縮まってしまう。
歴戦の傭兵であるエルディアでさえ、このような経験は初めてだ。スチール製の武器や防具は一人前の証であり、そう言われる理由はその頑丈さに起因する。
多くの魔物を両断し、その攻撃を受け止めてくれるからこそ、鋼製の武具は一級品として扱われている。値段も決して安くはなく、スチールクレイモアの購入には一年近くの貯蓄が必要だと言われている。
鋼は鉄よりも頑丈な金属だ。細い棒状であろうと常人には折り曲げることがやっとであり、殴ったところで拳が痛むだけだ。
重く、頑丈な素材から作られた自慢の両手剣。それを打撃によって折られてしまったのだから、彼女としても唸るしかない。
(だけど……!)
揺るがない。エルディアはむしろ歓喜に震えている。これほどまでに強い魔物と戦う機会など早々ないのだから、己の使命などもはや完全に忘れ、戦いに没頭したい。
ネザーエナジーは未だ健在だ。手持ちの武器が通用せずとも諦めないにはまだ早い。
ゆえに、砕かれた相棒を捨て、駆ける。
その後ろ姿には左腕がなく、背中は新旧様々な傷で痛ましい。同時に、驚くほど隙だらけだ。
狙いは後頭部への打撃。振り向かれるよりも先に、強化された拳を打ち込む算段だ。
その威力は、人間なら首から上が粉みじんになるほど。いかに巨人族が頑丈であろうと無事では済まない。
目論見通り、振り向かれるよりも先にエルディアは距離を詰め終える。彼女の脚力の成せる業だ。
直後の激突音。漆黒のオーラをまとった拳が、無毛の後頭部へ直撃した瞬間だ。
勝負あり。誰もがそう思うだろう。
唯一、殴られた者だけが、戦闘の継続を主張する。
「ガハッ!」
裏拳のように、大きな右手が傭兵の右半身を激しく殴打する。
右回りに振り向くついでのような、手の甲による打撃。後頭部を殴られてもなお、平然とそれをやってのける頑丈さと体幹の強さは異常という他ない。
エルディアは地面に打ち付けられながら己の思い違いを感じ始める。
(肋骨が折れた? く……、今のも通用しない?)
大地にこすられながら停止し、よろめきながら立ち上がる。致命傷ではないが、五体満足とも言い難い。
両手剣を失った時点で、彼女の優位性は失われていた。
武器の有無が両者の身長の差を覆しており、つまりはリーチにおいてエルディアは上回っていた。戦いにおいてそれは重要であり、殴り合いへの移行を即決してしまった今となっては後の祭りだ。
(こんなに強い魔物は初めてかも……。燃えるけど、痛いなぁ)
内臓が損傷したのか、彼女が咳き込むと血が飛び散り、茶色の大地を赤く染める。
前方から聞こえる、ドシンドシンと重々しい足音。その足並みはぎこちなく、歩く度に上体が必要以上に揺れ動いていることからも、過去の戦闘で足を負傷したことは間違いない。
徐々に近づく騒音を聞きながら、エルディアはその場で直立を維持する。せっかく訪れた休憩時間、呼吸を整えるにはうってつけだ。
(ふっふっふ。まだまだいけちゃうよー)
手痛い打撃を受けてしまったが、彼女はどこか満足気だ。自由に、己の意思で戦えることが心の底から楽しく、邪魔が入らないのだからとことん満喫するつもりでいる。
自身の生死すらも軽視する思考回路。実はそれこそがこの傭兵の本質であり、死にたがっているわけではないのだが、行動だけを見れば否定出来ない。
戦いたい。
闘争本能に従って魔物を狩りたい。
それこそがエルディアという人間の根幹であり、行動の方針だ。
その結果、敗北したとしても仕方ないとさえ開き直っている。
今までの人生において自身よりも強い魔物と出会えた機会は数える程度。その際は協力し合える仲間が同伴しており、彼女らとの連携もあって格上の魔物を狩ることが出来た。
今回はそういう意味では危機的状況だ。残念ながら、手を貸してくれる戦力は他にいないため、最後まで孤独な闘いを強いられる。
むしろ、エルディアにとっては好都合だ。軍人時代のように命令通りに戦うことを強要されることもなければ、同業者から事細かな指示を受け、息苦しさを感じながら戦う必要もない。
彼女自身が考え、思うがままに戦える。それこそが至高であり、願望だ。
邪魔が入らず、わがままに魔物と戦える。
その上、今回は想定以上の強敵だ。
楽しくて仕方ない。
死の危険が付きまとうも、それすらも許容範囲だ。傭兵という職業を選んだ時点で覚悟はしており、そうでなければこの生き方は続けられない。
この世界は、殺すか殺されるか。そのどちらかだ。彼女の奇怪な欲求を満たすためには、残酷なルールから目を背けられない。
(暗黒拳は時間切れ……か。まぁ、いいだけどねー)
大きく息を吐き、口元の汚れを拭う。
まだ負けてはいない。
ましてや、死んでもいない。
ならば続行だ。
脇腹の痛みを無視して、右腕をぐるぐると回す。
(うん、大丈夫)
両手剣と骨は折られても心は無傷だ。戦いに飢えていたのだから、がむしゃらに没頭する。大事な用事を忘れるほどに、エルディアは正面の遊び相手しか見えていない。
短時間ながらも休憩がコンディションを整えてくれた。気合と根性で痛みを紛らわしながら、右足を前へ踏み出す。
嬉しそうに笑みを浮かべるエルディア。負けるつもりなどなく、現状が劣勢であるとも思ってはいない。
それは隻腕の巨人も同様だ。眼光に殺意をみなぎらせながら口元を歪ませており、人間を狩りたくて仕方がない。
そんな両者を遠方から眺める少年。一人ぽつんと客席から、不安を払拭するように応援する。
「エ、エルさん……、がんばって……!」
実はわかっている。
気づいてしまっている。
エルディアが終始押されていると、子供ながらに悟ってしまっている。
それでも認めたくない。
劣勢だと思いたくない。
迷いの森はもうすぐだ。日中の移動を徒歩だけで済ませたとしても二日足らずで到着するだろう。
彼女のおかげでここまで来ることが出来た。母の病気を治すため、直前での失敗など受け入れられない。
出来ることはただ一つ。
祈るのみ。
無力な自分が歯がゆいが、力を持たぬ少年に手を差し伸べることなど出来ない。
それを誰よりもわかっているからこそ、ウイルはその場から動かず、彼女が落としたリュックサックと共に見守る。
その視線の先で発生した、突風を伴うほどの轟音。それは一度や二度では止まず、繰り返し少年の前髪を揺らし続ける。
殴り合いの始まりだ。
傭兵と魔物が、拳をぶつけ合うでたらめな殺し合い。まるで力比べのような催しだが、両者としてもそのつもりでいる。
人間ごときが巨人族に腕力で勝るはずがない。子供でも知っている常識であり、本来ならば試す価値などないのだが、エルディアは自分で実行しなければ納得しない性分なため、他者がなんと言おうと無駄だ。
身長差は大人と子供どころではない。
倍以上。
腕の太さも拳のサイズも桁違いだ。
それでも正面から殴る。
そして、巨人もそれに応じる。片腕というハンディキャップなどもろともせず、右腕だけで彼女と渡り合う。
ぶつかり合う拳と拳。
肌の色も、背丈も、立場も、種族も異なるが、互いの意志は合致している。
本能の赴くままに、相手を倒したい。
ならばやることは一つだ。
エルディアは両腕を用いた全力の連打を無呼吸で繰り出し続け、隻腕の巨人は片腕で迎え撃つ。
いつまでも続くかと思われた激しいラッシュは、時間にしてみれば十秒足らずで決着を迎える。
あっけない幕切れだ。必然の結果ゆえ、巨人は不敵に笑い、敗者を見下ろす。
「があっ、ぐぅ、腕……が……」
折れてしまった。右腕も、左腕も、その内側の骨が断裂し、もはや使い物にならない。
対する魔物は平然としており、両腕をだらんと垂らしながら苦しむ人間を、心底楽しそうに見定めている。
勝負ありだ。決着がついたのだから、勝者は敗者を自由に弄ぶ権利を得た。
再起不能な彼女を、巨人は大きな手のひらでがっしりと握る。足は無傷であり、逃げられでもしたら興覚めだからだ。
握力が強すぎたのか、両腕が痛むのか、その両方なのか。苦悶の表情で悲鳴をあげる人間を、隻腕の巨人はゆっくりと持ち上げ満足そうに眺める。
荒地に響く、エルディアの悲痛な叫び声。巨大な右手が、細腕を巻き込むかたちで上半身を捕縛しており、スチールアーマーや多数の骨もまた、ミシミシと悲鳴をあげている。
「エ、エルさん!」
ウイルは無計画に駆け出してしまう。
完敗だ。少年の動体視力では戦いのありようはほとんど理解出来なかったが、現状の光景が勝者と敗者を雄弁に物語っている。
少年の叫び声は届かない。それほどまでに離れているということもあるが、彼女の悲鳴が飲み込んでしまうからだ。
(急げ……!)
全力で走る。傭兵と比べれば歩いているような速度だが、これが今の実力だ。嘆くことも否定することもせず、受け入れた上でがむしゃらに両手両足を動かす。
ウイルはわかっている。駆けつけたところでエルディアを救えないと。
何もしてあげられず、ついでのように殺されてしまうことを。
それでも両脚を止めない。
力が足りないのなら頭を働かせる。混乱してもなお、その程度のことは可能であり、少年は走りながらも脳を回転させる。
しかし、打開策を探そうという試みは、次の瞬間に完膚なきまでに打ちのめされてしまう。
「こ、このぉ!」
エルディアもまた、諦めてはいない。両腕は折られ、その果てに今は囚われの身だ。巨人の指にがっしりと掴まれ、もはや振りほどくことなど夢のまた夢だ。
それでも自由な部位が存在する。
腰から下は束縛されておらず、彼女は最後の力を振り絞って巨人の醜い顔面を蹴り飛ばす。
エルディアを人形のように持ち上げたことが仇となった。紺色のロングスカート内に凶器が潜んでいるとは思ってもおらず、隻腕の魔物は奇策に怯んでしまう。
「グァウ、ググググ……」
「う、嘘っ⁉」
それも一瞬だ。巨人はすぐさま笑みを取り戻し、人間の無駄な抵抗を嘲笑う。
彼女の足の太さは鍛え上げられた結果だ。決して太っているわけではなく、脚部から繰り出される破壊力は並の魔物なら容易く葬り去れる。
それでも足りない。この個体は遥か高見にあり、自慢の蹴りもその顔にわずかな擦り傷を作るだけに終わる。
だからといって諦めるわけにはいかない。エルディアは不自由な態勢ながらも利き足で顔を何度も蹴り続ける。勝機があるとは思えないが、彼女は降参という選択肢を持ち合わせていない。最後まで抗い続けるつもりだ。
そして、その瞬間は訪れる。
大きな口が、エルディアの足をガブリと食いちぎる。
靴ごといとも容易く、慈悲などなく、巨人は人間の右足を噛みちぎり、顔を歪めながら地面へ吐き捨てる。
魔物は人間を食べない。その多くが食事を必要としないからだ。
ゴブリンや巨人は例外であり、人間同様、動物や魔物を食べるのだが、人肉は美味しくないのだろう、積極的に食べようとはしない。
そもそも今回は靴も口に含んでしまった。ならば放り出すに決まっている。
衝撃的な光景と痛ましすぎる絶叫が、少年の足を止めてしまう。当然だ、こんなものを見せつけられてしまったら、前進などありえない。
体は震え、頭は真っ白に。
もはや助からない。ウイルですら諦めかける。
恐怖と絶望。いじめを苦に死のうと思った時と同様か、それ以上のストレスだ。
駆け寄るという選択肢は完全に消え去った。
残された方針は二つ。
ここに立ち止まり、彼女が殺される様子を見届けるか、踵を返し逃げ出すかのどちらかだ。
(何やってるのぉ! 早く逃げなさい! 今ならきっと間に合う!)
赤の他人が、頭の中でやかましく叫ぶ。透き通るその声は女性のものであり、数日ぶりの発言だ。
白紙大典。本でありながら言葉を話す異質な魔導書。純白のそれは中身も真っ白なのだが、その理由を少年は未だ知らない。
「逃げる……?」
(そう。残念だけどあの子はもう無理。だからあなただけでも逃げるの)
彼女の忠告はその通りだ。今が最後の機会であり、タイミングを逃せばウイルの犬死は避けられない。
「嫌です……」
(わ、わがまま言わない! 見捨てたくない気持ちはわかるけど……。君が立ち向かったところでどうすることも……! だから、だから逃げるの! あれの関心が君に向く前に。さぁ!)
正論だ。否定の余地すらない。
ウイルは十二歳の子供だ。それ以上でもそれ以下でもない。傭兵試験には合格したが、自分の力では無理だった。
草原ウサギにすら勝てない未熟者。そんな傭兵に巨人族と戦う資格などあるはずもない。
エルディアの骨を折るほどの怪力なら、ウイルの殺傷に一秒もかからないだろう。勝負にすらならず、蟻を踏み潰す程度の難度だ。
「嫌です……」
(完全に手遅れよ。もうじき握り潰されるもの。それに、奇跡が起きて脱出出来たとしても、あの出血じゃあ……)
そんなことは言われずともわかっている。
少年が見つめるその先では、隻腕の巨人が敗者を握りしめている最中だ。耳をつんざくほどの悲鳴が心地よいのか、今日一番の笑顔を見せており、心底楽しそうに獲物をいたぶっている。
宙に浮かぶエルディアの真下には、先ほどまではなかった水たまりがその面積を着実に広げている。真っ赤なそれは遠目からでも視認出来てしまうほどだ。
二重の意味で、助からない。
魔物に潰されてしまう。
出血多少で死んでしまう。
確定だ。覆す手立てなど思い浮かばない。
それでも希望があるとすれば、それはウイルだけでも生き延びられるかもしれない。可能性は高くないが、この隙を無駄にしなければありえる話だ。
それをわかっているからこそ、白紙大典は訴える。
もちろん、彼女とてエルディアという人間を諦めたくはない。可能ならば救いたいという気持ちはウイルと一緒だ。
しかし、それを成すための手段がここにはない。
ゆえに心を鬼して、契約相手に訴えかける。
(お願い! あなただけでも逃げて! お母さんを助けたいんでしょ! だったら、すべきことをしなさい!)
痛ましい悲鳴が風に運ばれ、この地を駆ける。
右足の欠損は想像を絶する痛みのはずだ。出血も酷く、意識が途絶えるのもそう遠くはない。
そして、上半身を潰されかけている最中なのだから、肉と臓器が破裂し、命が砕かれるその瞬間が彼女の終わりを意味する。
助からない。
助けられない。
この時間はそれを受け入れるための猶予だ。ウイルも本能でそう理解してしまっている。
ならば、すべきことは一つしかない。
アドバイスに従って、この場から逃げ出す。
もしかしたら、エルディアがそのための時間を作ってくれるかもしれない。苦痛に耐えながら一秒でも長く意識を保ち、魔物の関心を引き付ける。それが少年の逃亡距離を稼ぐことに繋がる。
非情だ。
この世界のルールは残酷だ。
弱肉強食。シンプルがゆえに美しく、抗えない決まり事。
魔物が強者か。
人間が弱者か。
それは当人達が競って決めればよい。
今回は巨人族が勝った。それだけのことだ。
敗北したエルディア。命の灯はもう間もなく潰える。
残されたウイル。みすぼらしい荒野にポツンと立つその姿は、惨めで情けない。
嘲笑う勝者。
死を迎える敗者。
非力な傍観者。
茶色の大地はさらに赤く染まり、今まさに生命が一つ消え去ろうとしている。
ウルフィエナ。神々が作り出した理想郷。人間と魔物が戦い続けるその光景は、まさに在りし日の思い出そのものだ。
千年経とうと、それは変わらない。白紙大典は誰よりもわかっているからこそ、少年に訴え続ける。
逃げるしかない、と。
そのための犠牲が今回は彼女だった。
弱者が生き延びるためには、そうするしかないのだから。