しずくとの会話が少なすぎる。最近の赤城はそう感じていた。
今までは逆にうるさすぎたくらいだ。しずくは何かにつけて文句を言い、口答えをし、ちょっかいをかけてくる。黙って血だけ寄越せと何度思ったことだろう。
だが実際そうなってみると、それはそれで不満、というより不安であった。
水曜日と金曜日の吸血の日、しずくによってドアが無言で開かれ、玄関先でほぼ目を合わさずに血を吸うだけ。
「いただきます」
「ん」
「ごちそうさま」
「ん」
交わす会話はそれだけ。いくら何でも少なすぎる。
毎月のトマトジュースは郵送で送っているし、サミゼリアには金欠なのか来ないし、顔を合わせる機会といったら吸血の時しかないのだが、それすら仕方なくやっているかのような機械的な時間と化している。
話したいならこちらからいくらでも話しかければいいのだが、かといって特に話題がなく、しずくからも話しかけるなと拒絶するようなオーラを感じ、気まずい空気が流れているのみだ。
気付くとそんな日々が一ヶ月も続いていた。
俗に言うマンネリ化。といっても恋人らしいデートも接触もまだほとんどしていないというのに。熱くなる前から冷め切ったのか。そんなに相性が良くなかったというのか。
思えばいつもしずくから話しかけられるばかりで、赤城から話しかけることは数えるくらいしか無かった気がする。だが赤城は己を恥じることはせず、本当に話すことがないんだから仕方ないと開き直っている一方だ。
こないだ桜の花見だって誘ったし(といっても4ヶ月前だが)、やれることはやった。それでも冷めたというなら不可抗力だ。
赤城は半ば諦めていた。無気力にソファに倒れ、ぼうっと意味もなく天井を眺めていた。
最初から分かっていたことだ。所詮一時の気の迷いだと。
永遠に一緒なんて、幸せなんて、そんなのあるわけがない。
それでも血とトマトジュースを交換し合うという特殊な関係にあり、それ故に波乱万丈な出来事があった分、あと何年かは続きそうだと思っていたのだが。人生同様、人間関係はあっという間に終わりを迎えるらしい。不老不死のくせに何を言っているんだという話だが。
寂しさのせいか、夏にもかかわらず若干の肌寒さを感じ、赤城は薄い毛布を一枚被った。そのせいで寝るつもりではなかったのにうたた寝をし始め、しかも浅い眠りのせいでおかしな夢を見る羽目になった。
気付くと赤城は、みくるの首筋を噛んで血を吸っていた。しずくの血の甘さにこそ敵わないものの、記憶より苦さはマシであり、今はこれでもいいと納得していた。
どういう経緯でこうなったのかは分からない。確か高校生の時もそうだった。成り行きで、身を任せて、なんとなく。それは楽そうに見えて、自分や相手を粗末にした残酷な行為だったように思う。
ではなぜ今同じことを繰り返しているのか。全てがどうでも良くなったからだろうか。しずくと別れるごときで。たったそれごときで。
赤城はとうとう己の弱さを恥じた。だが頭に反して身体は止まらなかった。理想そのものの悦び方をするみくるを前にして、赤城は何が本当の“好き”なのか分からなくなっていた。
夢であったから良かったものを。
「はぁ……嫌がらせがすぎるだろ……」
酷い汗と共に飛び起きた赤城は、果てしない罪悪感で額に手をやった。『一瞬の快楽、一生の後悔』とはまさにこの時の為にある言葉だろうと思った。だが人は忘却の生き物だ。どんなに重い後悔も簡単に忘れ、新たな快楽に手を伸ばすことを止めない。特に吸血鬼は欲望に忠実だ。何をしでかすか自分でも分からない、そんなスリルと混ぜこぜになったような恐怖が常に付き纏っているのだ。
しばらくみくるとは顔を合わせないようにしよう。そう思った矢先、夜の静かな空気に不穏なチャイムが響いた。
「シュウくんいるー?鍋お裾分けに来たわよー」
流石間女、嘘かと思うほど間が悪すぎる。呆れを通り越してある意味感心しつつも、赤城は当然のように無視を決め込むことにした。
「シュウくーん?おっかしいわね、この時間帯なら絶対居るはずなんだけど。もしかして何かあったとか……しずくちゃんに連絡してみようかしら」
それだけはやめてほしかったので、赤城は慌ててインターホンに出た。
「いる、いるから帰ってくれ」
「ほらやっぱりね!最初からさっさと出なさいよ!」
やはり確信犯だった。どうりでやけに独り言が大きかったわけだ。
「お前こそさっさと帰ってくれ」
「失礼な!いるなら出るのが礼儀でしょ!?重い鍋頑張って持ってきたのよ!?」
「余計なお世話すぎるだろ。何だ鍋って」
「だってシュウくん、鍋なら比較的美味しそうに食べるから……野菜もちゃんと摂ってしずくちゃんと健康に長生きしてほしいと思って、だから私……」
声がみるみる萎んでいく。手慣れた演技だと分かっている。分かっているからこそ、赤城はついドアを開けてしまった。
「……分かった、受け取ればいいんだろ」
「あはっシュウくん何だかんだ優しいんだから♡」
「付け上がるな」
何も同情したわけではない。久しぶりの他人とのくだらない会話に気楽さを感じて、少しだけ現実逃避したくなっただけだ。逃避したとて分別は弁えられる、夢と同じことには決してならない、その確たる証拠も欲しかった。
赤城は目を合わせることなく鍋を受け取ると、そのまま玄関には戻らずソファに座った。
「ほら用は済んだだろ、帰れ」
「ちょっと、感謝の言葉ってもんはないの!?」
「お前が勝手にやったことだろうが」
「ったくほんとは嬉しいくせに〜。あ、フリパラ今もちゃんと観てるのね!面白いもんね〜!」
「え?」
声の近さにぎょっとして横を見ると、いつの間にかみくるが真隣で足を組み、リモコンで録画リストをスクロールしていた。
「おいおい何勝手に!!」
リモコンを取り返そうとするも、上体を反らして容易にかわされる。軟体で小狡い黒猫を感じさせるような黒のワンピース、そのフリルに縁取られた襟から大胆に露出した胸元に危うく腕が当たりそうになり、赤城は咄嗟に腕を引っ込めた。それを察してか否か、みくるはわざとらしい笑みを浮かべた。
「いいじゃない、私とシュウくんの仲なんだから♡」
これがもし彼女だったらさぞ可愛らしかっただろう。だがこいつは赤の他人、それも自分の為に人を傷付けることに躊躇のない性悪女である。
無性に怒りが湧き上がって、赤城はみくるの足を蹴り飛ばした。
「あ〜んいったぁい!!冗談だってばぁ!!」
口で怒るだけもできたが、このように本人はあまり反省していない為、直に痛みを与えたかったのだ。
その怒りの矛先は自分にも向いていた。いくら寂しさがあるからといって、詐欺のような今の言葉に心のどこかで嬉しいと感じてしまった自分に腹が立ったのだ。
少しでも隙があれば容易く入り込まれそうで、自分の単純さや愚かさやも浮き彫りにされるようで、だからなるべく関わりたくなかったというのに。
「クソが……もういい加減にしてくれ……」
絶望するように項垂れ、痛みが増してきた額を押さえる。すると蹴られたことを既に忘れたかのように、みくるは至近距離で顔を覗き込んできた。
「待って、なんか汗だらけじゃない?」
これは純粋に心配してくれているだけらしいが、それにしたって距離が近い。
「き、気のせいだろ」
相変わらず顔立ちだけは端正だ。長いまつげに縁取られたビビッドピンクの瞳に真っ直ぐ見据えられ、一瞬どきりと心臓が反応するが、不可抗力だと自分に言い聞かせる。
「顔色も悪いし、ちょっと冷やした方がいいわね」
みくるは使命感に駆られたように冷凍庫に向かう。
「いやいや、大袈裟だろ」
「舐めないでよ、熱中症は怖いんだから。いくら不老不死だって後遺症が残る場合も有り得るのよ」
母親のような心配をしながらいそいそと保冷剤を持って戻ってくる。
「……確かに、さっきから少し頭痛と目眩もするような」
「ほらぁ。さては冷房付けないで寝たでしょ」
「あと毛布もだな」
「もう夏だってのに馬鹿じゃないの?子供じゃないんだからきちんと体調管理しなさいよ。本当は私だってわざわざこんな間女みたいなことしたくないんだから」
嘘つけ。そう内心でツッコミながらも、またしても嬉しいと感じている自分がいた。これに関しては別にやましいことではないし、友人からの善意として、純粋に喜んでも良いのかもしれない。
──そう思ったのも束の間。突然みくるの手が額に伸びてきて、石のように身体が硬直した。
「うん、一応熱はないわね。はいっ保冷剤!どう?気持ちいい?」
表面にじんわりと伝わってくる冷気。それを感じれば感じるほど、中身の脳は沸騰するように熱せられていった。
「……みくるはまだ、俺のこと好きなのか」
無意識に、思ってもいないことを口にしていた。
「えっ?な、なんでそんなこと聞くの?」
珍しく戸惑ったみくるの顔を見てまずいと自覚したが、既に手遅れだった。
「まだ好きなんだよな、そうだよな」
「えっと、好きは好きだけど、今はもう好きでいられるだけでいいっていうか……」
「何だそれ、意味が分からないな。どいつもこいつも意味不明な言動ばっかりしやがって。嫌がらせだろ、これもう嫌がらせでしかないだろ」
幼稚な感情を顕にして吐き捨てる。
分からないから分かりたい。そんなことを以前しずくに言ったはずだ。だが今は分かりたくないことの方が多い。強制的に思考を停止させて、考えるより先に身体を動かしたかった。いっそ取り返しがつかないほどの快楽に溺れてみたかった。
「好きならいいだろ。ちょっと貸してもらうだけでいいから」
「いや、ちょっ……ほんとに駄目!!」
手のひらで口を押し返されて、一気に身体が冷えた。
こいつ、ここで踏み留まれるような奴だったのか。それに比べて自分は──
一層自分の醜さを思い知って、赤城はふらつきながら後退った。
「本当にどうしたの?こんなの私の好きなシュウくんじゃないわよ」
みくるは喜ぶどころか引いたような、されど心配そうな表情を浮かべていた。それが余計に癪に障った。
「黙れ」
「何キレてんのよ。キレたいのはしずくちゃんの方でしょうが」
「いいんだもう、あいつは俺を捨てる。二度と帰ってこない。俺なんか忘れて、他の男と、どうせ若いイケメンと勝手に幸せになっていくんだ」
「しずくちゃんがそう言ったの?若いイケメンと幸せになるって?」
「いいや。でももうすぐ振られることは確実だ。その前にさっさとこっちから離れて……」
「なんか、また昔のあんたに戻ってるわね」
「え?」
的確に言い当てられたような気がして、赤城は反射的に顔を上げた。真面目な顔をしたみくるは淡々と自分の意見を告げる。
「自分でも分かってるでしょ。しずくちゃんと出会ってからあんたは変わった。クソ小姑の私に邪魔された時も、しずくちゃんと一緒にいることを諦めなかった。孤独に逃げなくなったのよ。だから私は感動して身を引いたのに……なのに今のあんたは何?私という障害を故意に設置してまでしずくちゃんから逃げようとしてる。何それ、自信喪失?しずくちゃんを好きでいる自信が無くなったってこと?」
「違う!!しずくのことはちゃんと好きだ!!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
「……そうでしょ?」
みくるは少し寂しげに目を細めながら、落ち着いた声で続けた。
「ならあなたは自信を持ってしずくちゃんの側にいるべきよ。そしてたとえ自信喪失するようなことがあっても自暴自棄になるのはやめなさい。もしもの場合の覚悟ができていないなら今すぐ別れなさい。シュウくんはただしずくちゃんを好きでいればいいのよ。好きでいることは自由なんだから。……なんて、ストーカーが言っていい台詞じゃないけどね」
本当にその通りだ。そう内心ではツッコんだが、その真剣な言葉は普通に心に刺さるものがあった。
「なんか、ストーカーだからこそ響くものがあったかもしれん」
「ほんと?ストーカーしてた甲斐があったわ〜」
「だから付け上がるなよ。別にストーカーのことを許したわけではないからな」
「はいはい、私もあんたに劣らず自分勝手でごめんなさいね」
おもむろに立ち上がり玄関に向かうみくる。赤城も引き止めたいという気持ちは既に綺麗さっぱりなくなっていた。ただ友人として一応、感謝は伝えなければならないと思った。
「ありがとうな、みくる」
華奢な背中に声をかけると、一瞬動きが止まる。
「ううん、私は何もしてないわ」
背を向けたまま、明るく取り繕ったような声が返ってくる。
「お前も勝手に謙遜するな。俺は今、確かにお前に助けてもらったよ」
また数秒空いたかと思うと、みくるは腰に手を当てて胸を張り、ドヤ顔で振り返った。
「ふふんそうでしょう、もっと感謝しなさいよ!」
「態度が極端すぎるんだよな」
「あんたに言われたくないわ。じゃあね、せいぜい仲良くやんなさいよ。鍋もちゃんと食べなさいよ」
「分かったから早く帰れ」
扉が閉まると同時に、赤城は次に会ったしずくと何を話そうか考え始めていた。少し気分が晴れたからか、案外すぐに答えは出た。心の底でずっとやりたかったことを、ようやく自信を持って言える気がした。
長いようで早く訪れた水曜日。赤城がチャイムを押すと、しずくはやはり無言でドアを開け、床に座って襟を捲り、そのまま人形のように停止した。
どこか緊張しているせいで、本当はしようと思っていた挨拶もできなかった。このままだとまた何も言えないまま終わる。だったらいただきますの前に言おう。言わないと血を吸えないことにしよう。赤城はそう決意して一歩を踏み入れた。
「……」
早く吸わないのか、とばかりに睨んでくるしずく。出会った当初を思わせるような鋭い他人行儀な視線に、一瞬怖じ気付きそうになりつつも。みくるから貰った言葉を思い出しながら、赤城はその目を真っ直ぐ見返した。
「な、なぁしずく」
「何?」
「一緒に海に行かないか?」
「……え?」
しずくの切れ長の瞳が驚きで丸くなる。
どうせこの後、すぐに嫌そうな顔をして断るに違いない。海なんて一番しずくが嫌がる場所だろう。別にそれならそれで構わない。こちらはただいつも通りの会話がしたいだけなのだ。
だがしずくはきょとんとした表情のままで、むしろ警戒心も薄まっていくように見えた。
「え、なんで?」
「なんでって、それは海に行きたいからで……」
『そんなタイプじゃないでしょ』と揶揄われるかと思ったのに、それもまた違った。
「怒って、ないの?」
「え?」
今度は赤城が目を丸くした。本当にしずくは予想外のことばかり口にする。
「いやいや、怒ってるのはそっちじゃないのか?」
「なんで私が怒るの。シュウさん何もしてないでしょ」
「まぁそうだよな。だったらなんで……」
まさか自分が知らないところで、とんでもない悪事を起こされたのではあるまいか。違う意味で緊張が走る。
しずくは目を伏せ、重たい口を開いた。
「……こないだ私、シュウさんがソファでうたた寝してる時に乳首当てゲームしてたでしょ。それが余程許せなかったんだろうなって」
バカかこいつは。
「バカかお前は」
つい思ったことが口に出ていた。
「ほらやっぱり怒ってる」
「呆れてるんだよ。何だそれ、お前そんなことしてたのか?」
「あれ、知らなかったの」
「知ってたとしてもその場でキレて終わりだろ。俺がいつまでも根に持って不機嫌にしてるような奴だと思うか?」
「うん、前もそうだったし」
「うん、前はそうだったな。でも今は違うだろ。大体付き合ってるんだからそれくらい何てことな──」
「駄目。絶対駄目なの」
珍しく狼狽したような声に、赤城は思わず黙り込んだ。しずくはどうやらこの一ヶ月、自分を責め続けてきたらしかった。
「自分がされたくないことを人にした。一時の気の迷いとはいえ許されることじゃない。ゴキブリと一緒。ううん、ゴキブリ以下。だからあの時シュウさんを殺したみたいに、シュウさんも私を殺していいよ」
「なんでそうなる!?」
「それが仁義だから」
「お前は極道か。というかそれを言うなら武器で攻撃してくることについてはどうなんだ。そっちの方が酷いだろうが」
「それは悪事を成敗してるだけだからいいの」
「何だその言い草は!?」
「だから前から言ってるでしょ、シュウさんも許せなかったらやり返していいって。ほらこのナイフで刺して。ひと思いにぐさっと」
しずくは目を閉じ、上体を倒して床に仰向けになると、自分の横に御用達のナイフを添えた。
赤城は全く意味が分からなかった。まず、なぜそんなに殺すこと・殺されることに躊躇がないのか。人の命は重いはずではなかったのか。
それにもう一つ。
「そのやり返し理論で行くと、殺すんじゃなくてお前の乳首を当てることになると思うんだが……」
その瞬間しずくは目を全開にして飛び起き、慣れた手つきでナイフを構えた。
「いやバリバリの臨戦態勢!!結局こっちだけ理不尽じゃないか!!」
「ふぅん、そんなに触りたいんだ。じゃあちょっとだけなら」
「触りたいなんて一言も言ってないだろ!!もういい、特別に許すからこの件はこれで終わりだ!!」
両手を広げたポーズで強制終了させると。
「……そっか」
しずくは真顔ながらも小さく口元を緩め、安心したような表情を浮かべた。
それを見て良かったと思う反面、こちらを散々困らせたくせに何を勝手に安心しているんだと、赤城は僅かに加虐心を覚えた。
「でもその代わり絶対海行けよ」
「いいよ」
「あっいいのか」
拍子抜けだった。やはりしずくとは実際会話してみないと分からないことが多い。実際の言動と心情が矛盾していることもしばしばだ。勝手に決めつけることがどれだけ無意味な行為かを、この件で改めて思い知らされた気がする。
「じゃあお前水着着てくれるんだな」
「着てほしいならシュウさんも着てね」
「……諦めるか」
「じゃあいつものトマトTシャツで」
「何だそのTシャツ」
「でも私、海は結構好きだよ。よく犯人が追い詰められるから」
「崖の方かい」
「砂浜の方も嫌いではないよ。よく人が殺されるから」
「そんなことはない」
「でも入水自殺は嫌い。心中をエモくするくらいなら人ぶん投げて殺した方が良い」
「サイコパスか」
くだらない冗談も交わせるようになったところで、赤城は完全に気を許したしずくの無防備な肩に手を回した。
「なぁ、そろそろ血吸っていいか?余計な疲労で腹減った」
「疲労?もしかしてシュウさんも気にしてたの?」
「いや別に?いただきます」
誤魔化すように首筋を噛むと、じんわりと口内に染み込んでくる血が、いつもよりやけに美味しく感じられた。ここ最近、余程上手く味わえていなかったらしい。こんな些細なことを気にして吸血に影響が出るなんて、つくづく自分は吸血鬼に向いていないなと笑うしかない。
「あ、噛み方、リラックスしてる時のやつだ。つまり今まで緊張状態だったんだ」
どうやら噛み方にまで気分が表れているらしい。
「あぁそうだよ、めちゃくちゃ気にしたんだからな」
「シュウさん」
「あ?」
「可愛いね」
「黙れ」
隠しようが無いので正直に答えたものの。
落ち込んでいる最中、海心中ものの映画を観て、若干のエモーショナルと憧れを感じていたことは一生の秘密である。
梅雨の海は湿度で生温くベタついていて、中途半端な海らしくない海だった。一人で来ていたら確実にすぐさま帰っていただろう。
隣にもう一人いる。たったそれだけで、こんな海もそこまで悪くないと思えてくる。それを分かっているからわざわざ連れて来たのだ。
「どうだ、帰りたいか」
「んー、ちょっと眺めてる。あとソフトクリーム食べたい」
「あそこの売店にあるぞ」
「じゃああそこまで競争ね。負けた方の奢りで」
「やらんて。どこぞの青春映画か」
「海と言えば競争か殺人でしょ」
「海のイメージを汚すな」
本当は純粋で繊細で、青春映画に憧れているくせに、それを狂った言動で照れ隠しのように隠し続ける。
しずくの好きなところといえば、そういうところかもしれない。しずくの髪色と同じ灰色の空の下で、赤城は今更のように理解した。
同じく灰色にぼやけた地平線を眺めながら、しずくは珍しく前髪をかき上げる仕草をしていた。
「シュウさんってさ」
「あぁ」
「寝てる時乳首立ってるんだね」
「お前やっぱ淫乱だよな」
「海に沈めるよ」
「ソフトクリーム食べてからな」
「そうだね、上からトマトジュースもかけよう」
無謀な挑戦だ。
こちとら何の覚悟もできていない。全てその時になってみないと分からない。分からないままでも大丈夫、本当にそうなのかすら分からない。
いちいちそんなことを考える必要があるのかと言いたげに、服の隙間を涼しい風が通り抜けていく。
なるべく考えない為にも、いくらか会話を交わして、血を飲んで、そうしてこの夏も生き延びていくんだろうと、赤城はどこか他人事のように思った。
その間にも、しずくはソフトクリームを3個も食べていたのだった。
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