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秘策
「なんで勝手に決めちゃうのよ!」
長屋に志麻の声が響いた。共同井戸で洗い物をしていたカミさん連中が、手を止めて長屋の奥を窺うように覗き込む。
「今の、志麻ちゃんの声だよねぇ?」大工正吉の女房、お豊が訊いた。
「さっき慈心の爺さんと一刀斎の家に入って行ってたみたいだけど・・・」船頭秀の女房、加代が訝しげに答える。
「どうせまたあのぐうたら浪人二人が、つまらない事を言って志麻ちゃんを怒らせちまったのさ。まったく懲りない連中だよ」お梅婆さんが忌々しそうに顔を顰めた。
「グゥの音も出ないくらい、志麻ちゃんに取っちめられりゃいいのさ」
「ははははは!まったくだ!」
それから三人は、興味を失ったようにまた洗い物を再開した。
*******
「だからぁ、お前ぇだって金子は必要だろうが?後どれくらい江戸に居なきゃなんねぇのかわかんねぇんだから?」
「当面の生活費は父上がちゃんと用意してくれてましたぁ!娘を一人で江戸にやるんだから当然でしょ!」
「だ、だってよぉ・・・慈心の爺さんがそう言って・・・」
「まぁ、親としちゃ当然の事だろうよ、独り身のお前さんにゃ分からないかも知れぬがな」
「汚ねぇぞ慈心!分かってて俺を騙しやがったのか!」
「ふん、ああでも言わなきゃお前はうんと言わなかっただろうが。こんな大仕事滅多に出会えるもんじゃないんだぞ」
「だがよ・・・!」
「それに、お紺に逢うのにちっとやそっとの端金はしたがねじゃ足りないんだよ」
「なんでぇ、吉原の花魁おいらんじゃあるめぇし、深川の芸妓風情にそんな大金、要りゃしねぇだろうが!」
「なんだ、お前一人でお紺に逢いに行くつもりだったのか?」
「はぁ?お前ぇらがそう言ったんじゃねぇかよ!」
「そんな事は言ってない、儂は長屋の全員を招待するつもりだったんじゃよ」
「なんだって!」
「わぁ!お爺ちゃんそれ本当!」突然志麻の声音が変わった。
「ああ、本当だとも。これから世話になる長屋の連中に恩を売っておくのも悪くないからな」
「それ、楽しそう!それだったら私やってもいいわよ!」
「し、志麻!お前ぇ本気か!」
「本気も本気、大本気!一刀斎を楽しませる為だけだったらお断りだけど、長屋のみんなと行けるんなら絶対にやる!」
その時、入口の戸障子がガラリと開いた。見ると洗濯物の桶を抱えたお梅婆が立っている。両の目尻が下がって恵比寿顔だ。
「お茶屋で芸妓あげて宴会が出来るなんて、生きてて良かった・・・」
熱い吐息を吐いている。
「お婆ちゃん!」
「婆さん、今の話聞いてたのか!」
「当たり前さね、もう、お豊と加代が長屋中に触れ回ってるよ」
「な、なんと・・・呆れてものが言えぬ」慈心が溜息を吐く。
「お婆ちゃん、楽しみにしてて!私絶対みんなをお茶屋さんに連れて行ってあげるから!」
「志麻ちゃん頑張っといで!」
「はい!」
*******
志麻が茶の支度に立つと一刀斎が小声で耳打ちした。
「慈心、お前ぇさっきの話、思いつきだろう?」
「馬鹿者、ああでも言わなきゃ志麻が乗って来んじゃろうが。志麻が居なきゃこの仕事は引き受けられないんじゃよ」慈心も小声で答える。
「だがよ、長屋の連中みんなってのはどうなんだ、餓鬼まで入れると二十人以上住んでるんだぜ?」
「諦めろ、今更後には引けぬ。長屋の連中に恨まれたら、もうここには住めなくなる・・・」
茶器の触れ合う音がして、志麻が盆を両手に戻って来た。
「何話してるの?」
「い、いや、何でもねぇ・・・」
「それよりさっきの話の続きだが・・・」慈心が話柄を変えた。
「ああ、異人さんたちに変装をさせるって話ね?」
「儂は町人より侍の方がいいと思うのじゃ。身分の高い武士の身形みなりなら頭巾を被っていても怪しまれぬ」
「そうだな、町人に頭巾はおかしいや。それに奥方にも御高祖頭巾を被せりゃいい」
「娘さんはどうするの?子供に頭巾はおかしいんじゃない?」
「そうさな、鬘と付け髪でなんとか誤魔化せねぇか?」
「髪の色はそれで良いとして、目の色は誤魔化せないわよ」
「なるべく顔を伏せて歩いてもらうのじゃ、その方がしおらしい武家娘に見えるからの」
「それじゃ、設定は身分の高い勤番武士の江戸見物という事でいいわね?」
「俺たちはどうする?」
「一刀斎は近習役、儂は差し詰め側用人というところじゃな」
「じゃあ私は?」志麻が自分の鼻を指差した。
「そうじゃな、奥方様お付きの腰元かな?」
「え〜、女の格好をするの?」
「って、お前ぇは元々女じゃねぇか?今の格好の方が変なんだよ」
「だって、動きにくじゃない!」
「贅沢言うんじゃねぇ、その格好じゃとても主人と家臣の御一行様にゃ見えねぇんだよ。怪しまれたら元も子もねぇじゃねぇか!」
「仕方がないわねぇ・・・」
「ただ、刀を差せないのが困ったところじゃ。短剣だけでは子供を守りきれるかどうか・・・」
「そうねぇ、いざとなったら身を挺して守るつもりではいるけど・・・」
一刀斎がポンと膝を打った。
「そうだ、お前ぇ足の悪いふりをしろ」
「え?」
「杖を持つんだよ」
「杖?短剣の方がましじゃない?」
「仕込みだよ、仕込み杖」
「おお、それなら怪しまれずに済む」
「そうか、私の演技力が試されるのね」
「上手くやれるか?」
「任せといて、歌舞伎芝居みたいでなんだか楽しくなってきた!」
「馬鹿野郎、遊びじゃねぇんだぞ!気ぃ抜いてると怪我だけじゃすまねぇぜ!」
「分かってるわよ、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない!」
「待て待て、喧嘩はよせ。良いか、護衛は連携が大事じゃ、絶対に現場で喧嘩なんかするんじゃないぞ」
「は〜い」志麻が素直に返事をする。
「一刀斎は!」
「お、おう・・・」
「よし、ならば変装はこの線で行く。早速松金屋に戻って、準備を整えようではないか」
「待て、松金屋は見張られてるかもしれねぇ、別々に行こうぜ」
「うむ、そうしよう」
三人はそれぞれ別の道を通って、松金屋で落ち合うことにして長屋を出た。