街から車で小一時間ほど南に走った町の中で最も大きな敷地を誇る邸宅の玄関先に、心配そうに顔を見合わせては右に歩いたり左に小走りになったりと落ち着かない様子の老夫婦がいた。
二人の視線の先-といっても敷地の端を示す門扉と人の背丈の二倍以上はある鉄柵は小さなものに見える程離れている-に真っ直ぐに伸びる一本道があるのだが、二人が今朝の早くから見守っている間にその道を通ったのは野生の兎たちと出勤していくギュンター・ノルベルト運転の古いビートルだけだった。
早くあの小さな門扉が開いて白い車に乗ったウーヴェが来ないものかと老夫婦が顔を見合わせながら溜息を吐いていると、背後の背の高いドアが開いてアリーセ・エリザベスが顔を見せる。
「フェルが来るまで中で待っていればいいでしょう?」
「アリーセ様、でも、ここでウーヴェ様を待ちたいんです」
アリーセ・エリザベスの呆れが少しだけ含まれた、だけど愛情に満ちた声に頷きつつもここを離れたくないと首を振ったハンナにヘクターも申し訳なさそうな顔で妻の意見に同意する。
「じゃあ仕方ないわね。ここに椅子を運ばせるから座って待ってなさい」
「そんな、申し訳ないので構いません、アリーセ様」
「あなた達を長時間立たせたままなんて私は嫌よ。ここで待つならちゃんと椅子に座ってちょうだい」
彼女の声は厳しく冷たいものだったが二人を見る目には愛情だけが溢れていて、二人もその思いに気付いて頷くと、こんな所に椅子を運んで貰うのは気が引けると苦笑して開いたままのドアから中に入ろうとする。
いつの間にか小さくなってしまった優しくて暖かな印象だけを残すヘクターとハンナの背中に手を宛いながら中に促したアリーセ・エリザベスは、車のエンジン音が背後から聞こえてきたことに気付いて顔を振り向け、今もっとも待ちわびている人が来たことを知ると、足を止めた二人の顔を交互に覗き込みながら来たわよと笑みを浮かべる。
「アリーセ様?」
「ウーヴェ様が帰ってこられたのですか?」
彼女の言葉に二人の顔が一瞬にして晴れ渡った青空のような笑みに彩られ、アリーセ・エリザベスも一つ頷いて踵を返す。
「ようやく帰ってきたわね」
以前、兄から実家で二人の世話をするように告げたと教えられたのだが、それから何日経ってもウーヴェから連絡もなかったため、もしかするとここには帰って来ないのかも知れないと危惧していた彼女の不安は杞憂だったようで、再度玄関から転げかねない勢いで出て行ったハンナとヘクターに溜息を零すが、玄関から門にまで真っ直ぐ伸びる道をキャレラホワイトのスパイダーがゆっくりと走ってくるのを細めた視界で見守る。
車は秋の日差しを跳ね返しながら噴水を回り込んで玄関へと繋がる階段下で止まると、ドライブ用のサングラスを外しながらウーヴェが姿を見せる。
「ウーヴェ様!」
ウーヴェが階段の手摺りから身を乗り出しているハンナを見上げて笑みを浮かべると、ヘクターが年齢を感じさせない素早さで階段を駆け下りてくる。
「ウーヴェ様……! 久しぶりにございます……!」
「久しぶりだな、ヘクター。……ハンナのことは聞いた」
本当に本当に心の底から残念で仕方がないと拳を握るウーヴェにヘクターが無言で頭を左右に振ったかと思うと、ウーヴェの荷物は何処だと問い掛ける。
「荷物ぐらい自分で持つから良い」
ヘクターの身体を慮ったウーヴェの言葉をヘクターが笑顔で遮り、首を傾げられた為に自慢するように僅かに顔を上げたヘクターがウーヴェに問い掛ける。
「ウーヴェ様、今回は私たちにおつきあい下さるんですよね?」
「そのつもりだ」
「ならば家でも申しておりましたが、こちらでも私の言葉に従って頂きますよ」
「ヘクター……?」
ウーヴェが年に一度クリニックを休診しヘクターとハンナが暮らす小さな村に出かけるのだが、その時も二人は甲斐甲斐しくウーヴェの世話をしてくれていたが、ここでもそれをすると暗に宣言されて瞬きをしたウーヴェは、それでは俺が何のために来たのか分からないと不満を訴えるとヘクターがスパイダーのトランクからボストンバッグを取り出しながら満足そうに笑う。
「ウーヴェ様の世話をすることが私たちの生き甲斐なんですよ」
「……その事については後でゆっくり話をしようか」
ヘクターの言葉を一端聞き入れることを示すように頷いたウーヴェは、階段の最後の一段を下りきらずにずっと待っているハンナの前にゆっくりと歩いていくと、涙を浮かべる彼女の身体を抱き締めて日だまりの匂いに顔を埋める。
「ウーヴェ様……」
「ハンナ、痛いところなどは無いか?」
精神科医として働くウーヴェだから最先端のガン治療については勉強不足だったが、それでもガンに冒された人たちが辿る道は良く知っていた。
だから今痛みはないのか、苦しいことはないのかと問えば、腕の中の小さな身体が大丈夫だと気丈な声を発する。
「無理をする必要はないからな?」
「ええ、ええ、ありがとうございます、ウーヴェ様」
今回の第一の目的であるハンナとヘクターと一緒に沢山の思い出を作る第一歩を踏み出そうとしたウーヴェだが、階段の手摺りに寄り掛かりながら見下ろしている姉に気付いて笑みを浮かべる。
「エリー、遅くなった」
「本当にね。連絡ぐらいしなさい、フェル」
姉はいつまで経っても優しく厳しいものだと改めて気付き、ハンナと荷物を持ったヘクターに頷いて階段を登ろうとするが、大切なものを思い出したと呟いて踵を返し、驚く三人の前で助手席のドアを開けて金色の毛並みを燦然と輝かせるテディベアを抱き上げる。
「テディベアを持ってきたの!?」
「……リオンがどうしても持っていけと、いう、から……」
いい歳をした男が助手席にテディベアを座らせて町中を車で走るのは結構勇気が要るものだと頬を僅かに赤らめたウーヴェは、今ここにいないリオンのせいにしてしまおうと無意識に判断し、ちゃんとシャツとサングラスも掛けさせたと笑うとヘクターとハンナが顔を見合わせてくすくすと笑い出し、アリーセ・エリザベスが呆れたような顔になるものの、テディベアを抱いた弟など何年ぶりに見るのかしらと呟いて笑みを浮かべる。
そんな三人の笑い声に顔色を更に赤くさせたウーヴェだが、階段を登った先で待っているアリーセ・エリザベスの肩に手を置き頬にキスをすると彼女も弟の頬にキスをし、ついでにテディベアの頬にもキスをする。
「中に入りましょう。母さんも中でずっと待っているわ」
「ミカはどうしたんだ?」
「まだ寝てるわ」
昨夜は遅くまで起きていたようだと肩を竦める姉に苦笑した弟は、久しぶりに帰ってきた実家をぐるりと見回して感慨深げに目を細める。
この家を捨てる思いで出て行く時は既に父や兄とは絶縁状態だったため、母と姉、そして今ここにいる祖父母のような二人に見送られたのだが、大学入学を切っ掛けに半独立状態だったウーヴェは己のクリニックを開設する際に完全に家を出たのだ。
振り返れば長いようで短い時間、ここにいる三人は常にウーヴェを気遣ってくれていたことを思い出し、足を止めたウーヴェを振り返って怪訝そうに首を傾げるアリーセ・エリザベスに何でもないと答えると、母が待っているリビングに向かって歩き出す。
ウーヴェの自宅もかなりの広さを誇るがそれが小さく感じる屋敷の廊下を進み、最も日当たりが良くて居心地の良いリビングのドアをアリーセ・エリザベスが開けると、その音に気付いたイングリッドが立ち上がる。
「お帰りなさい」
ウーヴェが家を出てから何度か帰ってきた事はあったがそれは短時間の滞在であり、今回のように二週間以上もここで寝起きすることはなかったため、彼女も何か思うことがあるようで、軽く頷くウーヴェの前に静かに歩み寄るとテディベアを抱える息子に満面の笑みを浮かべてそっと抱きしめる。
「……お帰りなさい、ウーヴェ」
「……二週間……」
世話になりますと呟くウーヴェに母は悲しそうな声でそんな言葉を使うのではありませんと優しく窘める。
「このテディベアはどうしたの?」
姉と似た質問をされて苦笑しつつもリオンの提案だと伝えると、母が一瞬驚いたような顔になるが再び嬉しそうな笑みを浮かべて何度も頷く。
ウーヴェが家を出る前はいつも美しく笑みを絶やさない母だったが、こうして久しぶりに間近で顔を合わせると、その母の顔にも年月の皺が刻まれていることに気付き、今回の帰省が自分たちにとって良い事であるようにと願いながら母に頷いてソファへと向かおうとするが、そこに人の姿を見いだして踏み出した足を止めてしまう。
母がいるのならば父がここにいても当然のことだと一瞬で判断をすると、ソファに座っていた父が立ち上がってどうしたと問いかけてくる。
「みんなでそんな所に突っ立ったままでいるのか?」
早くこっちに来いと笑って手招きをするレオポルドにイングリッドがうっすらと目元を赤くしながら頷き、アリーセ・エリザベスがヘクターとハンナを連れて父の呼びかけに応じるが、ウーヴェも深呼吸をした後にテディベアを一度ぎゅっと抱きしめて歩き出す。
「やっと来たな、ウーヴェ」
お前が来るのを誰よりも待っていたヤツは気の毒なことに抜けられない会議があるから泣く泣く仕事に行ったと笑われ、誰の事かを察しながら硬い表情で頷いたウーヴェは、父の顔を正面に見ることがまだ出来ない為、一人掛けのソファに腰を下ろしてテディベアを膝の上に置くと、その巨体の横から父の横顔をちらりと見つめる。
「何だ、テディベアを持って来たのか?」
焦げ茶色のテディベアがいないと眠れないと泣いていたのは小さな頃だったが、今でもテディベアがいないと眠れないのかと父が笑うと、ウーヴェ以外の皆が昔を思い出して懐かしそうに目を細める。
「そう言えばそうだったわね」
小さな頃、眠りに落ちるまでの短い間や夜中に不意に目覚めた時に身体の半分近くもある焦げ茶色のテディベアが傍にいないと不安に襲われたウーヴェが泣いていたことを思い出して笑われるが、当のウーヴェにとっては記憶にないことだったため、そんな事はないと小さな声で反論するものの、部屋にいる皆が一斉にそんな事はあると返した為に何も言えなくなってしまう。
今ここにいる皆はウーヴェが本能のみで生きていた頃から見守り続けている人たちばかりで、到底太刀打ちできないと本能と理性が囁きかけるが、生来の負けず嫌いが顔を出し、今はテディベアが無くても大丈夫だと返すと、代わりにリオンをハグしているのだろうと父に笑われて喉の奥で奇妙な声を発してしまう。
「このテディベア、リオンと似たような毛色をしているわね」
アリーセ・エリザベスが気付かなくても良いことに気付き、形の良い唇に指先を宛って茶目っ気たっぷりに目を細めると、ハンナとヘクターが目を丸くして身体を固めてしまう。
「仲が良いのは良いことだ」
「………………」
父のその一言に止めを刺されたウーヴェが口を閉ざしてそっぽを向き、そんな息子の様子に父が微苦笑を浮かべつつも嬉しそうに何度も頷き、隣に腰を下ろすイングリッドに何ごとかを囁きかけた時、リビングのドアがノックされてウーヴェも見知っている紳士然とした初老の男が遠慮もなく入ってくる。
「レオ、今日のゴルフを何故中止にした!?」
この間お前に負けた憂さ晴らしをしようと思っていたのにと白くなっている口ひげを怒りに震わせる男に家族の目が向けられるが、それがレオポルドの幼馴染みだと知って皆一斉に笑みを浮かべて口々に語りかける。
「うるさいぞ、ウルリッヒ。ウーヴェが帰ってきたからゴルフになど付き合ってられるか」
「おぉ!? ウーヴェが帰ってきたのか!?」
長い間顔を見なかったがバルツァーの末っ子が帰ってきたのかと笑ってウーヴェの姿を探すウルリッヒだったが、テディベアの向こうで拗ねたようにそっぽを向いている顔を発見し、大股に近寄ると遠慮容赦なくその頭に手を載せてわしゃわしゃと髪を掻き乱す。
「――!!」
「久しぶりだな、ウーヴェ! 随分と見なかったが元気にしていたか?」
「……っ……ウルリッヒおじさん……、痛い、ので、やめて、くれ……」
「なーにを小さな声で言ってるんだ?」
止めて欲しければ手をはね除けろと笑ってウーヴェの顔を覗き込んだウルリッヒだったが、本当に何年ぶりになると声音を急に変えるとテディベアをウーヴェの手から取り上げて驚く痩身を抱き締める。
「まったく、お前がレオとケンカをして無視するのは勝手だが、俺まで無視する必要はない」
家族間の不仲もその理由もすべてを知っている父の幼馴染みには勝てず、懐かしいウルリッヒの腕の中で素直に頷いて悪かったと詫びたウーヴェは、いつの間にか小さくなった背中を一つ撫でて離して欲しいと伝える。
「今日はゴルフ?」
「そのつもりだったんだがな、お前が帰ってきたのなら仕方がない。レオ、この間の勝負の続きはまた今度だ!」
「分かった分かった。だから早く帰れ」
幼馴染みを素っ気なく手で追い払う父にアリーセ・エリザベスが苦笑し、いつまで経っても悪ガキだった頃を彷彿とさせる顔で舌を出したウルリッヒを見送るために立ち上がる。
「フェル、ミカを起こしてきてちょうだい」
「アリーセ様、私が……」
父の友人の腕に腕を絡めた姉が弟を振り返って苦笑すると、ヘクターが立ち上がろうとしたために彼女が慌てて彼を制止し、もう一度ウーヴェに夫を起こしてきてくれと片目を閉じる。
「分かった」
「お願いね」
口を利くどころか顔を見るだけでも名前を見ただけでも頭痛を起こしてしまう程嫌っていた筈の父と、以前と比べれば遙かに自然に会話が出来た事がウーヴェにとっては理解できない心の動きで、その心を整理する前にウルリッヒが飛び込んできたためにウーヴェの脳内はパニック寸前に陥っていて、それに気付いたアリーセ・エリザベスが助け船を出してくれたことに気付いて感謝しつつ立ち上がったウーヴェは、ヘクターとハンナに頷いて己の荷物もあるから部屋に行って来ると伝えると、父と母には無言で会釈をしてテディベアの腕を掴んで巨体を引きずりながら部屋を出る。
「エリー」
「なにかしら?」
さり気なく助け船を出してくれた姉に感謝の言葉を伝えようとしたウーヴェだが、振り返ればそれはごく自然になされてきたことだと気付き、今までの分も込めてありがとうと礼をすると、陶磁器のような白い頬がさっと赤くなる。
「……早くミカを起こして来てちょうだい」
照れ隠しに顔を背ける姉に苦笑しつつ頷き、己がこれからの滞在で使う部屋に向かったウーヴェは、そのドアを開けた瞬間に時間が巻き戻されたような錯覚に囚われて蹌踉けてしまう。
咄嗟に手を出してドアで身体を支えたために倒れることは無かったが地面がぐにゃりと歪んでいるように足下が覚束無くなり手にしたボストンバッグを床に落としてしまい、水の中にいるような感覚に全身を包まれつつもテディベアをぎゅっと抱き締めると、そのあやふやな感覚が一瞬で消え去って現実の音が耳に流れ込んでくる。
「……っ……!」
一瞬にして巻き戻された時計が再び瞬時に現実に戻ったような錯覚の中何とか広い部屋の中央にあるベッドに何とか辿り着くと、テディベアを抱えたままベッドに倒れ込む。
物心つく前から使っていた部屋に戻ってくることがこんなにも身体に負担を与えるのかとも思うと何やらおかしくて、そんな己を冷たく笑いそうになったウーヴェだが、無意識に腕を動かしたらしく、頬が触れている柔らかな金色の毛並みからふわりと匂いが漂ってくる。
その匂いがごく自然に太陽のような笑顔を引き連れてくるが、己へと向けられる嘲笑を消して普段の冷静さをも取り戻してくれる。
テディベアに着せたシャツやその体毛から伝わるリオンの存在が心を軽くしてくれると同時に、どうしても過去へと向いてしまう気持ちを現在に引き留めてくれることに気付くと、身体を起こしてテディベアにもたれ掛かりながら携帯を取り出す。
仕事中のリオンに電話を掛けることはあまり好きではなかったが、第一関門とも言える実家への帰省を無事に果たし、次いで問題になると思われていた自室で過去に引きずられるのを堪えられた報告もしたかったが、何よりも今、己にとって必要不可欠となったリオンの存在を匂いで思い出すのではなく、声を聞いて実感したい思いが強くなったのだ。
仕事に集中させたい思いから電話を控えようとしていたが、己に言い訳をする必要はないと携帯を耳に宛がうと、コールが5回を数える前に陽気な声が響いてくる。
『ハロ、オーヴェ! もう家に着いたか?』
「……っ……!……ぅ、ん、着いた……」
その声がウーヴェの声を喉の奥に籠もらせ詰まらせてしまうが、心の動きを見抜いたらしいリオンがちょっとだけ待ってくれと言い残して声を消してしまい、ウーヴェが首を傾げて次の声が聞こえてくるのを待つが、程なくして聞こえてきたのは先程とは打って変わった真摯な声音だった。
『オーヴェ、レオはいるか?』
「あ、あ、……いる……」
『そっか。じゃあ大丈夫だよな?』
何に対する確認なのかは口に出さなかったが、リオンが言わんとすることを察したウーヴェが見えないのに頷いて返事をしてしまうと携帯の向こうからキスが届けられる。
『俺の誇り、俺の自慢のオーヴェ。お前ならやれる、大丈夫だ』
キスの後に聞こえる声は絶対の信頼を示すもので、その声が今のウーヴェに与えるものは大きく、抱きしめてキスされるよりもウーヴェの顔を真っ直ぐに上げさせる力を持っていた。
ここまで己を信じてくれるリオンに応えたいとの思いが強く芽生え、背筋を伸ばして深呼吸を一度だけすると部屋をぐるりと見回して大きく頷く。
「だ、いじょうぶ……だ」
『Ja.……兄貴には会ったのか?』
「いや……まだ、会ってない」
『そっか。ああ、そうだ、明後日一日休みが取れそうだから、ホームに顔を出してからそっちに行くつもりだけど、大丈夫か?』
「明後日だな? 分かった」
『ん、頼む』
その声に遠くでリオンを呼ぶ声が重なり、そろそろ戻ると口早に告げられて仕事中であることを思い出したウーヴェは、気をつけて仕事をしろと慌てながら気遣うと、その気遣いに対する礼が明るい声で返ってくる。
『ダンケ、オーヴェ!』
じゃあ仕事に戻ると教えられて頷き、こちらも義兄を起こさなければならないことを思い出してベッドから降り立ったウーヴェは、携帯にキスをした後で小さく愛を告げると、密やかな声が俺も愛してると返してくれ、一度通話を終えるものの伝えられた愛と体内に宿った力は決して消える事は無いと頷くと、安心したような顔で見つめて来るテディベアの頭にキスをし、この部屋に入った時とは全く違う顔で部屋から出て行くのだった。
同僚の呼び声に顔を向けて通話を終えた携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込んだリオンは、最初に聞こえてきた声が不安と恐怖に震えていたことを思い出すが、次第に声に力と自信が戻ってきたことを察して胸を撫で下ろす。
一人で実家に向かわせることはリオンにとってもある意味試練のようなものだったが、昨日ウーヴェに告げたようにお前なら大丈夫だと今朝も伝えて送り出したものの、さっきも感じた不安はどうしても拭い去れなかった。
長年顔を合わせることすら避けていた父や兄と二週間間近で接しなければならないことはウーヴェの神経をどれ程すり減らすことになるのかと危惧するが、先程の電話でも自信を取り戻してくれた様子から大丈夫だと己を納得させるように頷くと、皆が集まっている部屋に戻って己のデスクに腰を下ろす。
今日から祭りなのに仕事に励む自分は偉いと、ヒンケルが聞けば呆れて溜息を零すような自作の歌を口ずさみながら書類に向き直っていたリオンは、内勤の警官が客を連れてヒンケルの部屋に向かうのをちらりと確認し、向かいに座っているヴェルナーに顰めた声で呼びかける。
「あれ、誰だ?」
「え? ああ、誰だろうな……中近東出身っぽいな」
その客は十代後半から二十代前半と思われる青年で、黒髪と健康そうに日焼けした肌を持っていて、その外見的特徴を何となく脳味噌に焼き付けたリオンは、己が問いかけておきながらそれ以上の興味を持たないとヴェルナーに告げて書類を書き上げると、コニーに確かめて貰おうと席を立つ。
「コニー、ちょっとこの書類を見て欲しいんだけどさぁ……」
コニーのデスク横にしゃがみこみながらリオンが書類を出すが、今抱えている事件で中近東出身者が絡むものがあるのかと問いかけると、コニーがその言葉に首を傾げた後、ヒンケルの部屋へと顔を振り向ける。
「いや、聞いていないな」
「ふぅん。何だろうな、あれ」
「何か気になるのか?」
普段の言動はふざけていることが多く、ヒンケルや他の同僚達に幼稚園児並みの扱いを受けることが多いリオンだったが、仕事に関してはそんな面々が舌を巻くような鋭さを見せることがあり、その特質から何かを察したコニーが声を顰めるが、全く分からないと返されて肩透かしを食らったように身体を前のめりに揺らす。
「何なんだ、それは」
「んー、いや、何となく気になったんだよなぁ……」
何かそんな事件があったかともう一度呟いたリオンは、十歳で時を止めざるを得なくなってしまった少年の顔が不意に思い浮かんだことに気付いて目を瞠り、その少年も中近東出身者だったと呟くと、コニーが眉を顰めてリオンを呼ぶ。
「どうした?」
「次の休みに観光地に行こうと思って色々調べ始めるとさ、あちこちからそれに関係するようなことが出てくるよなぁ」
「は? ああ、そうだなぁ、それについてアンテナを張り巡らせているからなぁ」
だから驚くほど関係のある事象を見聞きすることになるが、それは別に珍しい事ではなく良くあることだと苦笑されて納得したように頷いたリオンは、一体何を言いたいのかと苦笑を深めるコニーに肩を竦めて立ち上がる。
「リオン?」
「ちょーっと資料室に行って来る」
「は?」
「大切なことを思い出しちゃったー」
だからクランプスが何かを言っても上手く誤魔化しておいてくれと片目を閉じたリオンは、目を丸くするコニーの肩をぽんと叩いて軽やかな足取りで部屋を出て行くが、コニー以外の同僚達も呆気に取られて何も言えずにその背中を見送るのだった。
コニー達の疑惑を背中に受けつつ軽やかに部屋を出たリオンは、人の目が無くなると同時に表情を切り替えて足早に資料室に向かうと、普段は滅多に入りたがらない部屋で並べられている棚の間を通り抜けて目当ての事件ファイルを探していく。
リオンが探しているのは昨夜ようやく調べる許可を貰えたウーヴェが巻き込まれた事件の資料で、この警察署に捜査本部が立ったのかは分からないが、管轄内で誘拐事件が起きている為に資料ぐらいあるだろうと予想していたのだが、その予想は間違いではなかったようで、二十数年前の事件のファイルが並ぶ棚を発見してファイルを順番に引き出していき、数冊目でそのファイルを発見する。
他の事件のファイルに比べれば圧倒的に書類の枚数が少ないそれは異様なものに思えてしまい、セレブが絡むと事件の書類すら少なくなるのかと嫌味の籠もった声で呟いてしまうものの、書類が少ない理由を何となく思案したリオンが辿り着いたのは、事件の首謀者や被害者たちの誰からも事件についての話を聞き出せなかったことだと思い至ると無意識に身体を震わせてしまう。
事件の唯一の生き残りはウーヴェだったが、本人からも聞いたように事件直後は家族ですらも話が出来ないような状態になっていたし、また事件で命を落とした人達の家族も口が重かったようで、ロクに事情を聞き出せなかったようだった。
犯人達は二組の男女のカップルだと聞いたことを思い出し、昨夜教えられた衝撃の事実と照らし合わせると犯人達はウーヴェの実母とその姉、そしてそれぞれの恋人かもしくは夫だが、その犯人達の家族-がいたのであれば-が口を閉ざす理由は理解出来るが、誘拐された挙げ句に殺害されたハシムや他の三人の家族が黙っている理由が分からず、資料を捲りながら必要な情報がないかを探っていくと、事件直後にハシムの両親がドイツを出国していることが書かれていて手を止めてしまう。
事件で息子を無残に殺されてしまった両親としてはこの街に、ひいてはこの国に止まることが辛かったのだろうと一定の理解を示そうとするが、その資料に殴り書きのように書かれていた言葉を見つけて瞬きを繰り返す。
「……不法滞在?」
二十数年前と言えばドイツを含めたヨーロッパでは欧州共同体がすでに存在していたが、もちろんその共同体にハシムらの出身国であるトルコは入っていなかった為、ドイツに滞在するには許可が当然ながら必要だった。
そんなハシムの両親の情報が記された欄の傍に殴り書きとはいえ不法滞在という決して見過ごすことの出来ない文字を発見したリオンは、どういうことだと首を傾げつつ書類を捲っていくが、肩に手を置かれて思わず飛び上がってしまう。
「うひぃ!」
「うわっ! 何て声を出すんだっ!」
リオンの素っ頓狂な声に背後から声を掛けたロルフが飛び上がり、更にそれに驚いたリオンが飛び上がってファイルの棚に手を強かにぶつけてしまい、今度は痛みに蹲る。
「痛ぇっ!!」
「だ、大丈夫か?」
「いてー! ……ロルフかよ、驚かせんなよ」
手を振ることで痛みを忘れようとするリオンに苦笑し事件を調べているのかと問い掛けたロルフは、一瞬だけリオンの青い目がぎらりと不気味に光ったのに気付くが、口を開こうとした次の瞬間にはその不気味さは消えていて、こちらに来てから行動する機会の多いふざけているような青年の顔に戻ってしまう。
「ちょーっと気になったことがあったから調べてるんだけどさ……」
一度口を閉ざしたリオンが思案したのは、当時あの事件の捜査に加わっていた張本人が目の前にいるのに話を聞かないのはもったいないという思いで、ウーヴェのことを思えば事件について他言するつもりはなかったが、やはり過去に囚われ続けるウーヴェを傍で見るのは辛く、また、ようやく教えられた真実が思いも掛けない衝撃をリオンに与えていたことから、事件に関することを知っておいた方が良いと判断を下し、首を傾げるロルフを真正面から見つめてあの事件について教えて欲しいと口を開く。
「あの事件?」
「バルツァーの末っ子が誘拐された事件」
「ああ、あれか……警部から聞いたが、事件の被害者と親友なんだって?」
「親友?」
「警部が、お前が最も信頼している人だと言っていたぞ」
先日聞かされた言葉を思い出しているロルフにリオンが驚いたように目を丸くするが、上司の心が手に取るように理解できたために微苦笑を浮かべつつ頷いてその言葉を肯定する。
「そーだな、一番信頼しているし俺もして貰ってるな」
「良い関係だな」
「ダンケ。で、事件のことなんだけど、調書類が何でこんなに少ないんだ?」
他の事件を調べてみればあるものはファイルが何冊もあったりするのに、事件の規模を思えばこの事件の書類の少なさには驚かされると素直に告げると、ロルフがリオンの予想通りの言葉を返す。
「調書を取りたくても取れなかったからな」
「それはオーヴェが聴取できるような状態じゃなかったからか?」
「そうだな、それもあるし……事件の関係者の口が重かったってのもあるな」
犯人を含めた総勢八人が死んでいることから世間の注目度も高かったが、何しろ被害者はドイツでも有数の大企業の末子だったし、事件が解決したときには医者も手の施しようがない状態だったと教えられて改めて事件の凄惨さに思いを馳せたリオンは、そんな事件で本当に生還できたと小さな安堵を見出す。
「でもさ、犯人達にも家族はいたんだろ?」
「主犯格の男女は事実上の夫婦だったが、女の妹ともう一人の男は付き合っている様子はなかった」
事件を追いかけていくうちに犯人像をほぼ正確に描き出せるようになったが、教会ではなく山の中で僅かの金を所持したまま射殺された男と崖から転落して絶命した女が当時住んでいた町でも悪名高い夫婦であったことを知り、あの二人ならばそんな事件を起こしても不思議ではないことを教えられたと呟くと、リオンの拳が一度だけ握りしめられるものの表情にまったく変化はなかった。
「主犯格の女は確かマリアと言ったはずだ」
「……すげぇマリアもいたもんだな」
「ああ」
今お前が考えたことを当時の俺たちも考えたと笑われて肩を竦めたリオンは、資料を捲りながらマリアの顔写真が添付されているページを開き、ついで妹のページを開いて昨夜見せられた幸せそうな家族写真と比べられないほど暗い顔をまじまじと見つめる。
「このマリアとこっちのレジーナってのが姉妹なのか?」
「そうだ。妹は近所での評判は悪くなかったな」
極悪非道と名高い姉とは違って妹は周囲の人たちの評判も良く、あんなどうしようもない姉と一緒にいる必要はないのにと良く忠告されていたそうだが、どんな忠告を受けても妹は姉のそばから離れることはなかったようで、結局事件に荷担して子どもを庇って命を落としたことを遠い目をしながらロルフが溜息混じりに語るとリオンが子どもを庇うと呟く。
「ああ。お前の友人を庇って主犯格の男に撃たれたようだ」
「じゃあ何だ、その妹、レジーナってのがオーヴェを庇ったってのか?」
それまでの間、犬か猫のように首輪を付けさせて虐待していたのに最後になって庇ったのかと、この時だけは寒気がするような気配を滲ませながらリオンが呟くと、ロルフが訳が分からないなりにも頷いてどうしたと問い掛ける。
「リオン?」
「……ロルフ、この事件で死んだ三人の男がいただろ?」
「ああ」
「この三人、そもそも何で二週間も犯人達と行動を一緒にしてたんだ?」
リオンがこの事件について初めて聞かされた時に抱いた印象を思い出しつつ問い掛けると、ロルフの目が見開かれた後に何とも言えない表情を浮かべる。
「いい歳をした大人じゃないか。誰一人としてどうして逃げたり逃げだそうとしたりしなかったんだ?」
誘拐されたウーヴェと関係のあるのならばともかく、縁もゆかりもないのならば子ども一人を見捨てて自分が助かるために逃げ出してもおかしくないだろうと問えば、ロルフがその疑問は当時から存在し、三人の身元を調べて家族に話を聞きに行こうとしたが、その家族がまるで夜逃げのように引っ越しをしてしまったために連絡が取れなくなったことを教えられてリオンの目が丸くなる。
「被害者だろ? その被害者の遺族がいなくなった?」
「ああ。……家族の横槍が入ったといつかも言っただろう?」
「!!」
ロルフと初めて事件の話をしたとき家族の横槍が入ったために詳しい調査が出来なかったと教えられたが、それが何であるかを知ったリオンが納得するものの更に納得できないと脳内で叫ぶ。
何故被害者の遺族が夜逃げするように姿を消さなければならなかったのか。マスコミ対策として一時的に姿を消すのならば理解出来るが、遺された家族すべてが引っ越しをして連絡が付かなくなる理由は何だと目まぐるしく脳味噌を働かせたリオンだが、不意に一つの単語が脳内で声を上げ、そんなまさかと呟いてしまう。
「リオン?」
「なあ、この三人ってさ、犯人に弱味でも握られてたのか?」
「お前もそう思うか?」
「思うね。でなきゃ逃げ出さない意味が分からねぇ」
事件の間中行動をともにし最後には殺されてしまった男達だが、もしかすると純粋な被害者では無いかも知れないと呟くと、リオンの脳裏に先程見つけてしまった意外な単語が明滅する。
「不法滞在……」
「?」
「ハシムの両親が不法滞在だった可能性は?」
ハシム少年の両親が事件後ドイツを出国している理由は何だと呟きその呟きにロルフも腕を組んで考え込むが、出国理由は当時も分からなかったと答えたとき、資料室のドアが開いて場違いなのんびりとした声が聞こえてくる。
「おーい、リオン、ロルフ、ここにいるかー?」
「ここにいるけどどーしたー?」
警部の信頼を一身に受けるだけではなく、同僚達からの信頼も厚いコニーの声にリオンが暢気に返して顔を棚の向こうに突き出すと、警部が二人を呼んでいると親指で背後を指さされてしまう。
「へ? クランプスが呼んでる?」
「ああ。何か小難しい顔をしてたぞ」
「げー! 俺怒らせるようなこと何かしたっけ?」
ロルフがしたんだろう、そうに決まっていると断言するリオンに反論の声を上げたロルフだったが、ヒンケルが呼んでいるのだから早く戻ろうと促して書類を棚に戻す。
「何のことで呼んでんだ? さっき客が来てなかったか?」
「その客が呼んでるらしい」
「はぁ!?」
警部を訪ねてきた客がロルフとお前を呼んでいるそうだとコニーも意味が理解できない顔で囁いたため、二人が顔を見合わせて何ごとかと探り合うものの、呼んでいる張本人に聞き出すのが一番早いと気付いて三人揃って資料室を出る。
「ボース、呼びましたか?」
二人を呼びに来たコニーが席に戻りヒンケルの部屋のドアをゴンゴンとノックしたリオンは、返事よりも先にドアを開けて声を掛けると、先程気になった来客者の青年が素早く立ち上がり、リオンと次いで入ってくるロルフの顔を交互に見つめて軽く会釈をしてくる。
その青年に見覚えはなかったが、過去に己が担当した事件の関係者だろうかと思案し手を持ち上げたときにヒンケルが青年を紹介したため、その姿勢のまま動きを止めてしまう。
「こちらはメスィフ・デミル氏。彼の兄が関わった事件について、お前とロルフに話をしたいそうだ」
「メスィフ・デミル? 兄……って……まさか……?」
心優しそうな顔を憂いに歪めた青年が頷いてロルフに向き直ると、柔和な印象を与える声がその名前を口にする。
「ぼくの兄、ハシムが亡くなった事件についてお話をしたいのです」
「ハシムの弟!?」
「何だって……!?」
リオンが発した驚愕の声にロルフとヒンケルが顔を見合わせるが、固有名詞から連想するものをほぼ同時に思い浮かべると、ヒンケルは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がってリオンと己が紹介した青年を交互に見つめ、ロルフはと言えばつい先程資料を目にして話題に上らせていた事件の関係者が姿を見せた偶然にただ呆然としているのだった。
そんな室内の驚愕と困惑を、初秋の雲が涼しい顔で見下ろしながら窓の外を悠然と流れていくのだった。
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