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約束?果たしに見に来たんですけど いや、あの…神すぎません、?? 軽く泣きました…( ´•̥̥̥ω•̥̥̥` )
声出して泣きました、まじで神作です
神作品だし、めっちゃ号泣しました……(´;ω;`)
ほんのり苦いガトーショコラ。
甘いのが苦手な君に、今年も作る。
橙 『…焼けた!』
一番可愛くて綺麗なお皿にガトーショコラを乗せ、甘さ控えめなクリームを少し絞る。
橙 『よし…!完成!』
俺は出来上がった皿を持ち上げ、君の元へ持っていった。
橙 『桃ちゃん』
橙 『今年も…作ったで』
小さな枠の中で静止画となった君の前に、そっとガトーショコラを置く。
橙 『美味しい…?』
橙 『去年よりも上手く出来た自信あるんやけど…』
どれだけ話しかけても、君からの返事なんてあるわけがない。
_________
7年前。
俺たちは高校3年生で、お互い進路も決まった頃だった。
橙 『桃ちゃん、将来何になるん?』
桃 『んー…声優かな』
橙 『声優かあ…!すごいなあ!』
桃 『いや…これから頑張んないとなれないよ』
橙 『桃ちゃんは十分頑張ってるやん!』
橙 『絶対なれる!』
桃 『…ありがと笑』
桃 『橙は?』
橙 『俺は…桃ちゃんみたいにすごい夢ないから』
橙 『普通に大学に進むよ』
桃 『普通…』
桃 『俺にとっては普通じゃないけどな…』
橙 『え…?』
橙 『いや…普通…の道やけど…?』
桃 『普通って誰が決めたの?』
橙 『それは…』
桃 『普通にとらわれなくて良いと思うけどね』
橙 『……』
“普通”を求められないなんて初めてだった。
ずっと、“普通”を求められてきた人生で、用意された道を外れてはならなくて、学校も、習い事も、全部、自分の意見なんて今まで一度も通ったことなどなかった。
だけど、桃ちゃんだけは、“普通”にこだわらなかった。
桃 『大学に行くことは、普通じゃないよ』
橙 『…!』
橙 『そうかな…』
桃 『うん』
橙 『ありがとう…』
桃 『当たり前のことを言っただけだよ』
橙 『…ねえ、桃ちゃん』
桃 『ん?』
橙 『俺、桃ちゃんのことが…』
「好き」
本当は、そう言いたい。
母 『大学を卒業して、社会人になって、結婚して、家庭を持って、可愛い子どもが生まれて、仕事も頑張って…』
母 『そういう普通の人生を歩みなさい』
どうしても、そんな母の言葉がよぎってしまう。
男が男に恋をするのは普通ではない。
普通ではない人生を歩んではならない。
だから、俺は諦めるしかない…。
橙 『…やっぱなんでもない』
桃 『橙』
橙 『…?』
桃 『今、諦めただろ』
橙 『諦めてなんか…』
ない、と言い切れない自分に腹が立つ。
桃 『言い切れないってことは諦めてんだよ』
桃ちゃんの言うことは正しい。
その言葉に、一つの欠点もない。だけど。
橙 『…桃ちゃんには、わかんないよ』
桃 『え…?』
橙 『桃ちゃんには俺の苦しさも、しんどさも、辛さも、何にもわかんないじゃん…』
俺は何を言っているんだろう。
桃ちゃんは何にも悪くないのに…
桃 『…そうだな』
橙 『…へ?』
桃 『俺には橙の気持ち、何にもわかんない』
桃 『でも…』
桃 『伝えてくれたら、少しは役に立てるかもしれない』
桃 『少しは橙の気持ちもわかるかもしれない』
桃 『伝えてくれたら、の話だけど』
橙 『……』
俺は伝えることさえ諦めてたんだって、桃ちゃんの言葉で初めて気づいた。
辛いことも、苦しいことも、隠して生きていかないといけないと思ってた。
ずっと、明るくて、面白くて、“普通”な俺でいないとって。
そうやってとらわれて、いつのまにか伝えることを諦めるようになってたんだ。
橙 『…ごめん』
桃 『なんで謝ってんだよ』
橙 『だって俺…ひどいこと言っちゃったし』
桃 『人なんだから、間違うことくらいあんじゃないの?』
桃 『俺は謝ってほしいんじゃない』
桃 『本当の気持ちを聞いてんの』
桃 『何を言いたかったのか、何を悩んでんのか』
桃 『それを知りたいだけ』
…なんてかっこいいんだろうか。
同い年なはずのに、君の方がずっとずっと大人で、俺みたいなやつのことを真剣に考えてくれて。
そんなところが、好き。
好きで好きで、たまらないんだ。
橙 『…好きなの』
橙 『桃ちゃんのこと、好きなの』
桃 『……』
橙 『男が男を好きになるなんて…』
桃 『普通じゃない、だろ?』
橙 『…!』
桃 『普通なんてない』
桃 『…本当の気持ち、伝えてくれてありがとな』
桃 『あー、俺から言いたかったなあ…』
桃 『まあ安心しろ。俺も同じ気持ちだから』
橙 『え…?』
桃 『だから!俺も橙が好きだって言ってんの』
橙 『それ…本当?』
桃 『なんで今嘘つくんだよ』
橙 『…確かに』
桃 『一つは解決したな…』
橙 『一つ…?』
桃 『もう一つ、聞かないといけないことがあるだろ』
橙 『聞かないと…いけないこと…?』
桃 『なんでそんなに“普通”にとらわれてるかってこと』
橙 『…!』
なんで…“普通”にとらわれてるのか…わからない。
気づいたら、“普通”を求められる人生だったから。
橙 『…わかんない』
桃 『え…?』
橙 『気づいたら、“普通”を求められる人生やったから…』
桃 『……』
怒ってる…?
ちゃんと理由を考えて答えた方がよかっただろうか…などと悩んでいると、桃ちゃんが口を開いた。
桃 『…橙ってさ』
桃 『いつも人の顔色伺うよな』
橙 『え…?』
桃 『それが悪いって言ってるわけじゃないんだけど、何かに怯えてるっていうかさ』
桃 『なんか自分を隠してるっていうかさ…』
桃 『なんで言ったら良いんだろ…w難しいな』
うーん、と悩む君。
何かに怯えてる…か。
だとしたら…親、かな。
橙 『…親』
桃 『…?』
橙 『親に、嫌われたくないんや…』
橙 『“普通”に生きるのも、自分を隠すのも、人の顔色を伺うのも、全部、親が原因やと思う…たぶん』
たぶん、なんかじゃない。
絶対、だけど…。
橙 『…だから、本当は、桃ちゃんと付き合うのも、怖い』
橙 『桃ちゃんは普通なんてないって言ってくれたけど、やっぱり今までの“普通”がすぐには変えられなくて』
橙 『…本当は、桃ちゃんみたいに、自分を持って、夢に向かって生きたいんやけどな』
橙 『もう…遅い、よな』
桃 『さっきからさ』
少し怒ったような口調。
そんな桃ちゃんは、初めて見た。
桃 『なんで諦め口調なの?』
橙 『…え』
桃 『橙の人生なんだから、橙がやりたいようにすれば良い』
桃 『それは、今からでも全く遅くない』
桃 『さっき俺に気持ちを伝えてくれたことが、その第一歩になってんじゃないの?』
橙 『……』
桃 『自分を決めるな』
桃 『ここまでしかできないって限界を決めるな』
桃 『…限界を決めてるのは、自分だろ』
橙 『…!』
限界を決めてるのは、自分…
ずっと親のせいにして、伝えることもしないで、全部全部、諦めて…考えるのを、やめていただけだった。
桃 『俺は、生きたいように生きる橙の方が好き』
桃 『自分のために、生きてほしい』
桃 『そのためのサポートだったら必ず、俺がする。約束、な!』
橙 『…!』
橙 『…ありがとうポロ』
桃 『な〜に泣いてんの』
桃 『せっかく生きるんなら、笑おうぜ』
橙 『…うん!』
恋人になった俺たち。
桃ちゃんは声優を目指す道へ。
俺は、大学に。
それぞれが、自分のやりたいことに向かって進み出した。
親にも、桃ちゃんの力を借りながら、自分の本当の気持ちを伝えた。
嫌われるんじゃないか、とか、気持ち悪がられるんじゃないか、とか勝手に思っていたけど、実際全然そんなことなくて、
「気づかないうちに傷つけてたんだね」
「ごめんね」
「好きなように生きなさい」
と意外にも応援の言葉をかけてくれた。
卒業後はお互い一人暮らしを始める予定だったので、それなら二人で暮らそう、ということになり、高校卒業と共に桃ちゃんとは同棲を始めた。
入学して数ヶ月はお互い忙しくて、全く二人の時間を取れなかった。
半年以上経って、やっと二人揃って一日中休みの日ができて、その日は出かけることになった。
_________
12月20日。
橙 『今日は桃ちゃんとお出かけできる〜』
桃 『そんなに嬉しいのか?w』
橙 『嬉しいやろそんなん!桃ちゃんは嬉しくないん…?』
桃 『バカ、嬉しいに決まってんだろ』
橙 『//』
桃 『ほら、行くぞ』
_________
桃ちゃんがデートに選んだ場所は、おしゃれなカフェだった。
橙 『すごい…おしゃれ…』
桃 『なんだそれw』
橙 『桃ちゃんっぽくない…』
桃 『それは悪口だろw』
橙 『あ、いや良い意味で…w』
桃 『まあ、間違ってはないな』
橙 『…?』
桃 『ちゃんと調べたから。「おしゃれなカフェ」って』
橙 『ははw』
橙 『桃ちゃんらしいw』
桃 『そこは俺っぽいんかいw』
橙 『うん笑』
桃 『ほら、橙の好きなやつ頼みなよ』
橙 『え〜…何にしよ〜』
桃 『俺は〜…ガトーショコラにしようかな』
橙 『ガトーショコラ好きなん?』
桃 『まあな』
桃 『甘いの好きじゃないから』
橙 『そうなんや…』
桃ちゃんは甘いのが好きじゃない。
ガトーショコラは好き。
メモメモ…
桃 『橙は?』
橙 『俺は…これにする』
桃 『…パンケーキ?』
橙 『うん!』
俺が選んだのは、いかにも甘そうなホイップクリーム山盛りのパンケーキ。
メニューのイメージ写真にはメープルシロップもたっぷりかかっている。
桃 『橙、甘いの好きなんだ』
橙 『めっちゃ好き』
桃 『w』
桃 『俺たち真逆じゃんw』
橙 『ええやんw二人で一つみたいな感じでw』
桃 『何言ってんだよw』
橙 『わからんww』
桃 『早く頼むぞw』
橙 『はーい』
桃 『このガトーショコラを一つと…』
注文してる姿さえかっこいい桃ちゃん。
こんな彼氏がいるなんて、俺は幸せ者やな…
桃 『…!橙!』
橙 『…?』
桃 『何回も呼んでんのに気がつかないから』
橙 『あ〜ごめんw』
まじか…全然気づかなかった…
見惚れるってこういうことなんやな…
桃 『何考えてたんだよ』
言えない…
かっこよくて見惚れてたなんて…。
橙 『まあ…内緒?』
桃 『なんでだよw』
橙 『あ〜楽しみやなあ。パンケーキ。』
桃 『話変えるの下手かw全然楽しみそうじゃないしw』
橙 『はは笑』
_________
橙 『ん〜!美味しい!!』
桃 『それはよかったなw』
桃 『俺のガトーショコラ、一口いるか?』
橙 『ええの…!?』
桃 『良いよ別に笑』
橙 『やった〜!』
…パク
橙 『美味しい!けど…』
桃 『何?w苦い?w』
橙 『うん…』
桃 『ふはww』
甘いココアで口直しをしていると、「そんなに?ww」とまた茶化してくる桃ちゃん。
橙 『なんで笑うん!』
桃 『橙って味覚子どもなんだなw』
橙 『俺は子どもじゃない!』
桃 『ww』
怒りを紛らわすために甘いパンケーキを口いっぱいに放り込む。
桃 『橙w』
名前を呼んだかと思えば、小さくて整った顔がどんどん近づいてきた。
橙 『…何//』
そう言っても無言で近づいてくる彼。
すると、俺の唇に桃ちゃんの指が触れた。
橙 『へ…?』
桃 『…ペロ』
橙 『へ…?あ、え…?』
桃 『甘いなあ…』
今、何された?どういうこと?
状況を掴めていない俺をよそに、当たり前のようにガトーショコラを頬張る桃ちゃん。
桃 『何?どうかした?』
橙 『どうかしたも何も…』
橙 『さっきのあれ…何?//』
桃 『え?さっき?あー…口にクリームついてたから取って食べただけだよ』
だけって…。
こっちからしたら全然だけじゃないんやけど!
桃 『ちょっと甘かったなあ…』
桃 『きついわ』
橙 『いやいや…』
こいつおかしいやろ。
なんの羞恥心もないんか。
桃 『まあでも、橙の味したしよかったかあ…』
橙 『は!?』
桃 『ふはw』
俺の味ってなんやねん!
まじで狂ってる…
桃 『早く食べなよ』
いや食えるか!
「早く食べなよ」ちゃうねん。
食べるけどさ…
橙 『…パクパク』
桃 『よく食えるな…そんな甘いの』
橙 『美味しいやん』
桃 『美味しくないわけじゃないけどさ、胃もたれするくね?』
橙 『しない』
桃 『まじかよ…』
そう言いながらアイスコーヒーを飲む桃ちゃん。
本当に食の趣味が違うんやな…と改めて思う。
橙 『ごちそうさまでした』
大好きな彼に見守られながらも照れずに完食した俺。
偉すぎる。
桃 『んじゃ、払ってくるわ』
橙 『いや、俺も払うから待ってや』
慌てて準備をしていると、「いいって」と言いながら会計に行ってしまった彼。
まあいいや…後で払うし。
桃 『美味かったな〜ガトーショコラ』
橙 『めっちゃ美味しかった!…ところで、いくらやったん?』
桃 『教えない』
橙 『え?いや、払いたいから教えて』
桃 『やだ』
橙 『なんでやねん』
橙 『桃ちゃんだけに払わすわけにもいかんから、な?』
桃 『ダメ!俺の奢り!』
一度決めたことは変えない頑固な性格の彼。
ここは仕方なく諦めることにした。
橙 『…わかったよ』
桃 『次どこ行きたい?ちなみにもう少し歩けば観覧車があるっぽい』
観覧車、か。
もし乗ったら頂上で桃ちゃんとキス…なんてないか…
俺は何を想像してるんや…
桃 『乗りたい?』
橙 『あ、え、うん、まあまあ乗りたい』
まあまあじゃないやろ橙。
すっごい乗りたいやん自分。
桃 『まあまあって何だよww』
桃 『じゃ、乗りに行きますか!』
橙 『やった〜!』
桃 『喜んでんじゃねーかw』
_________
ついに来てしまった…観覧車…
なんか知らんけど変に緊張してる…
別に何されるわけでもないのに。
桃 『橙…?高いとこ、苦手?』
あー、心配させちゃってる。
俺は全然高いとこ平気。
ただ緊張してるだけなんやって…。
橙 『全然大丈夫』
桃 『よかった』
桃 『めっちゃ夜景が綺麗らしいからさ、見てほしいなって思って』
ちゃんと調べてきてくれてる…。
そんなマメなところも尊敬するし、大好きなんだよな…。
桃 『…寒いな』
さっきまで明るかった空はいつのまにか暗くなり、夜風も吹いてきていた。
橙 『うん…少し、ね』
桃 『…ここ、手入れなよ』
そう言って彼が指差した先は、桃ちゃんの上着のポケットだった。
橙 『え…?』
桃 『ほら』
戸惑っていると、強引に手を取られ、あっという間に彼の温もりを感じた。
桃 『あったかいっしょ』
橙 『…うん//』
桃 『なんだかんだ忙しくしてたらもうクリスマス近いもんなあ…』
橙 『そうだね…』
桃 『そりゃ寒くもなるわな』
橙 『…あ、次俺たちの番』
ついに回ってきてしまった。
行列だったから、まだまだ先なんて思ってたのに…。
桃 『よし、行くぞ』
そう言うと、上着のポケットから俺の手を出し、今度は手を繋いで観覧車に乗り込んだ。
橙 『…//』
やっぱり緊張する…
桃 『橙…?』
橙 『え、あ、何?//』
桃 『本当に大丈夫?無理してない?』
橙 『ぜ、全然大丈夫!』
桃 『ならいいけど…あ、高くなってきたな』
橙 『綺麗…』
だんだんと目の前に広がっていく夜景。
クリスマスが近いのもあると思うけど、あちこちでイルミネーションが光っていて、桃ちゃんの言っていたとおり、すごく綺麗だった。
桃 『…ふっ笑』
橙 『何…?//』
桃 『橙って本当顔に出やすいよなw』
橙 『そ、そんな顔に出てた?//』
桃 『うんw』
桃 『「綺麗…ポカーン」みたいな感じだったw』
橙 『//』
どんどん頂上に近づくにつれ、なぜか俺の心も高ぶってくる。
桃 『ほら、ここ、頂上』
桃 『ちゃんと景色見て』
橙 『う、うん//』
桃 『そのまま動くなよ』
橙 『え…んっ!?//』
唇に何か触れた。
ふわっとして、全身が溶けてしまいそうな感覚になる。
桃 『…景色、ちゃんと見た?//』
橙 『へ…えと…?//』
正直、景色どころではなかった。
俺の全部を君に奪われていたから。
桃 『ふふ笑』
桃 『俺はね、橙しか見えてなかった』
橙 『//』
桃 『大好き』
橙 『…俺も//』
__。
_________
着いちゃった…。
桃 『…降りよ』
橙 『うん…//』
先に降りて手を差し出してくれる桃ちゃん。
さりげなくそういうことをしてくれる彼に、またキュンとしてしまう。
橙 『ありがとう//』
桃 『帰ろうぜ』
手に桃ちゃんの温かみを感じながら、家に向かって歩き出す。
桃 『…あのさ』
橙 『…?』
桃 『さっき…いきなりキスしちゃってごめん』
橙 『全然…!逆に嬉しかったし…//』
桃 『本当に!?よかった〜…!』
本当に安心した様子の桃ちゃん。
急にキスしただけで俺が嫌いになるとでも思ったのだろうか。
絶対嫌いになんてなれないけど。
桃 『何の心配もなく寝れる〜』
橙 『そんなに?笑』
桃 『そりゃ心配だろ!あの時は気持ちが前のめりになって…こう…なんていうか…理性が働いてないっていうか…だったからさ?』
桃 『橙の嫌なことはしたくないし』
橙 『俺は桃ちゃんになら何されても平気よ』
桃 『橙は優しいなあ…』
橙 『当たり前のことを言っただけやし』
桃 『あっ!それ俺のセリフ!』
橙 『バレたか〜笑』
桃 『バレるって何だよw』
橙 『ははw』
桃 『あ、家ついた〜』
橙 『うん…』
桃ちゃんの言うとおり、家はもう目の前だった。
帰りたくない。
そう思っても、帰るしかないのはわかってる。
明日も早いって聞いてるし。
でも、お互いお休みが取れるのなんて今度いつになるのかわからないし、もっといろんなところ行きたい…。
桃 『橙?』
橙 『…あー、ごめん…w中、入ろ?』
桃 『ダメ』
橙 『え?』
桃 『家帰りたくないって顔してた』
橙 『……』
ほんっと、なんで桃ちゃんにはすぐバレるんやろ。
桃 『どっか行きたいとこあるなら、行こうよ』
桃 『俺の行きたいとこにしか行けなかったからさ』
橙 『大丈夫…!明日も朝早いんやろ?』
桃 『俺のことはいいんだよ』
桃 『「橙の生きたいように生きるためのサポートだったら必ず俺がする」って約束しただろ?』
橙 『…!』
確かに、付き合う時に言われた。
自分の気持ちも伝えないと。
橙 『…あの』
桃 『うん』
橙 『もう少し、遊びたい』
桃 『よく言えました』
俺の頭をポンポンしながらそう言う桃ちゃん。
橙 『え…//』
桃 『どこ行きたいとかある?』
橙 『え…えと…』
行きたいところ。
考えていなかったけど、桃ちゃんのいつも通っている声優学校とかなら、ずっと行ってみたいと思っていた。
橙 『桃ちゃんの…いつも行ってるとこ』
桃 『ん?学校のこと?』
橙 『…コクリ』
桃 『そんなとこで良いの?』
橙 『俺にとってはそんなとこなんかじゃないよ』
桃 『…そうか』
桃 『行ってみる?』
橙 『うん…!』
_______
桃 『ここだよ』
桃 『夜だから暗くてあんま見えないけどな』
橙 『…すご』
目の前に立ちはだかる立派な建物。
まさに“大手”という感じだった。
桃 『エントランスだけなら入れんのかな』
桃 『ちょっと確認してみる』
そう言うと、建物の中に入っていく桃ちゃん。
…すごいなあ。
本当に、夢に向かって頑張ってるんやなあ。
そう思うと、そんな彼氏がいることを誇らしく思ったり、反対に自分がちっぽけに見えたりする。
桃 『…もう遅いからダメらしい』
戻ってくるなり、バツの悪そうな顔でそう言う桃ちゃん。
橙 『全然大丈夫!来れただけでも嬉しいし』
桃 『ごめんな』
橙 『桃ちゃんのせいじゃないんやから気にせんで!』
少し大きな声で励ましたせいか、ぐぅ、とお腹が鳴ってしまった。
橙 『あ…』
桃 『…w』
桃 『飯、食ってなかったもんなw』
桃 『この辺の美味しいお店知ってるから行こうぜ』
橙 『う、うん//』
恥ずかしい…でもご飯食べられるならいっか…。
_______
桃 『ここ!』
着いたのは、お昼に連れて行ってくれたおしゃれなカフェとは打って変わって、ガッツリ中華って感じのお店だった。
桃 『ラーメンとチャーハンがめっちゃ美味いんよ』
橙 『そうなんや!早く食べたい!』
とにかくお腹が空いていたので、口に入れられれば何でも良いとまで思っていた。
桃 『入ろうぜ』
その言葉を合図に、俺たちはにんにくの香りに包まれていった___。
_______
橙 『めっちゃ美味しかった!』
桃 『ww』
桃 『それは良かった笑』
橙 『今度1人で来ようかな…』
桃 『なんでだよw』
桃 『一緒に行こうよ』
橙 『うんw』
桃 『醤油ラーメン、美味かったっしょ』
橙 『めっちゃ美味しかった!さすが桃ちゃんやな〜って思った』
桃 『おま…//よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるな//』
橙 『へへw』
いつも恥ずかしげもなくかっこいいこと言ってるのは桃ちゃんの方だけどね。
桃 『…もうこんな時間か』
スマホで時間を確認すると、“22:05”と表示されていた。
橙 『…帰ろ?』
桃 『そうだな…』
同じ家に住んでいるのだから、いつでも会えるはずなのに、なぜか寂しく感じて、帰りたくないなんて思ってしまう。
それは彼も同じようで、お互い歩く速度が遅い。
桃 『…俺さ』
橙 『…?』
桃 『本当は、声優の道、諦めようって思ってたんだ』
橙 『え…?』
半年以上彼と密に過ごしてきたが、そんな話は一度も聞いたことがない。
桃 『橙と進路の話をしてた時もだし、橙と暮らし始めてからも、実は悩んでて』
橙 『…なんで?』
桃 『んー…やっぱりさ、声優としてやっていくって厳しい世界だし』
桃 『声優になるまでのお金とかもたくさんかかっちゃうからさ』
桃 『そのお金とか努力が無駄になっちゃうかもしれない世界に入るのが怖いなって思ってたんだ』
橙 『……』
桃 『…橙と暮らし始めてからは、この先橙を幸せにできなかったらどうしよう、って考えちゃって』
桃 『でも、どんなに忙しくて、橙との時間を取れなくてもずっと応援してくれて』
桃 『「桃ちゃんならできるよ」って励ましてくれて』
桃 『頑張ろうって思わせてくれた』
橙 『…』
桃 『これから橙のために、もっともっと頑張って、夢を叶えて、仕事をしてるところを見てもらえるように頑張るから!』
桃 『また橙との時間取れなくなっちゃうかもしれないけど…必ず、またデートしような』
“必ず”。普段気にならないはずの言葉が、その時ばかりはなぜか気になった。
橙 『…うん!ずっと応援するし、絶対デートする!』
桃 『…約束、な』
橙 『うん…//』
君と交わした約束。果たせるって信じてた。あの日までは。
_______
2月7日。
年も越して一ヶ月が経ち、気づけば2月に入っていた。
桃 『じゃあ行ってくる』
桃 『今月は休める日ありそうだから、デート行こうね』
橙 『本当に…!楽しみにしてる!』
デートの約束、できちゃった。
楽しみやなあ…。
桃 『うん!じゃあね』
橙 『気をつけてね…!フリフリ』
パタン、と扉が閉まる。
橙 『…よし』
今日は大学も休みなので、存分に“あれ”ができる。
2月といえばバレンタイン。
ということで、“お菓子作り”に挑戦する。
もちろん作るのは、桃ちゃんが好きだと言っていたガトーショコラ。
美味しいものを渡すために、まずは練習をしなければ!
作ることは決まってるけど、まずは材料を買ってきて、レシピを調べて…などまだまだやることがたくさん。
まずはレシピを調べて、何を買ってくるか決めよう。
橙 『レシピレシピ…』
「ガトーショコラ 作り方」と検索をかける。
橙 『うーん…』
どのレシピも甘そうなものばかり。
桃ちゃんは苦いのが好きやからなあ…。
そこで今度は
「ガトーショコラ 苦い 作り方」
で検索をかけてみる。
橙 『…あ!これええやん』
俺が見つけたのは、“カップガトーショコラ”なるもの。
甘いのが苦手な人に、と書いてある。
お菓子作りは初めてなので、いきなりホール状やパウンドにするより、カップの方が良い気がした。
橙 『ビターチョコ、砂糖、小麦粉、生クリーム、純ココア…』
意外とあるんやなあ、などと思いながら材料をメモしていく。
橙 『…書けた!』
メモできたのは良いとして、これを買いに行って、作るという作業がまだ残っている。
出来るだけ早く買い物を済ませようと思い、急いで身支度を済ませ、俺は家を出た。
_______
橙 『つ、疲れた…』
買い物に行ったは良いものの、同じチョコでもたくさんの種類があったりして、どれを買えば良いのか散々迷ったため、疲れてしまった。
でもこれも桃ちゃんのため。
早く練習しないと。
買ってきた材料を出し、キッチンに持っていく。
橙 『よし…!』
エプロンをして気合を入れてみる。
まだ練習段階なんだけどね。
まずは…
“卵を卵黄と卵白にわける”…。
そんなん出来るんか…?
そういえば、卵を割るときに卵黄を落とさないように割って、割れた何も入っていない殻に移すと、卵黄だけが残る、とどこかで聞いたことがある気がする。
…とりあえずやってみるか。
橙 『…うわっ!』
卵が思い切り割れてしまって、卵黄を殻に残すことが出来なかった。
この卵は俺の昼ごはんの卵かけご飯になる運命やな…。
そんなことを考えている場合ではない。
もう一度…!
橙 『…おぉ〜』
今度は上手いことできた。
不器用なので、何十回もやる羽目になるかと思ったが、意外と2回で成功した。
次は…
“卵白を角が立つくらいに泡立てる”…。
そんなん出来へんて…。
…あ、そういえば、そんなこともあろうかと、電動泡立て器を買ってきたんだった!
俺、天才やん。
橙 『えーと…あった!』
少しだけ値段の高かった泡立て器。
壊さないように、ちゃんと説明書を読もう。
橙 『…んー』
何やら事細かく書いてあるが、たぶんスイッチを入れれば使えるはず。
面倒くさくなった俺は、説明書を置いて、泡立て器を手に取った。
目の前の卵白に泡立て器を入れ、スイッチをオンにする。
橙 『…おわっ!』
予想以上に威力が強かったが、何とか上手いこといった。
橙 『ふぅ…』
次!
“チョコレートを湯煎で溶かす”…。
湯煎、ってことはお湯使うよな…。
沸かしておけば良かった…!
そんなことを言っても、沸かしてないものは沸かしてないのだから、早くやってしまおう。
とりあえず鍋に水を入れて火をかけておく。
橙 『…次のことやっとくか』
“卵黄の入ったボウルに砂糖、生クリーム、純ココア、小麦粉、溶かしたチョコレートを入れてゴムべらで混ぜる”。
溶かしたチョコレートいるのか…。
チョコレートはまだだから、他のものを先にボールに入れておこう。
橙 『砂糖30g、生クリーム100ml、ココア30gと、小麦粉30g…』
橙 『…よし』
そうこうしているうちに、さっき火にかけた水が沸騰していた。
お湯をボールに移して…。
橙 『チョコレート…』
ビターの板チョコを適当に割って、湯煎で溶かしていく。
橙 『…おぉ』
溶けていくことに謎に感動する俺。
橙 『…溶けた!』
溶かしたチョコレートを持ち上げ、さっき用意しておいたボールに入れる。
ゴムベラで混ぜて…良い感じ!
次は…
“泡立てた卵白を3回に分けて入れ混ぜる”。
3回に分けて…?急に難しいやん…。
でも…やってみるか。
ちなみに、“分離しないように気をつける”のがポイントらしい。
橙 『…できた!』
初めてにしては上出来なのでは…?と自分でも思うくらいスムーズに進んでいる。
この調子で成功させたい!
…まだ練習だけど。
“オーブンを180℃に温めておく”。
オーブン…?ということは…
もう焼く作業に入るってこと!?
俺…やるやん…//
いや待て、あまり調子に乗ると良くない。
慎重に慎重に…。
オーブンの設定をした俺は、少しばかりの自由時間になった。
何時なのかと思い、スマホで時間を確認すると、“14:20”と表示されていた。
…もうそんな時間か。
お昼ごはん、食べておこう。
食べないと桃ちゃんが怒るんよな。
さっき失敗した卵を朝炊いたご飯にかけて食べながらテレビを見ていると、ピー、という音が聞こえた。
橙 『…温まった?』
オーブンを確認しにいくと、しっかり180℃になっていた。
次の工程…。
“カップに8〜9分目くらいまで生地をいれ、トントンと軽く落として空気を抜く”。
空気を抜くところは、以前動画で見たような気がする。
橙 『カップカップ…』
このレシピは6個分らしいので、とりあえず6個用意した。
溢れないように…慎重に…。
橙 『…入った!』
トン、トン、と空気を抜けば、後は焼くだけ。
ワクワクしながら生地をオーブンに入れ、タイマーを20分にセットし、焼き上がりを待つことにした。
_______
ピー、ピー、と電子音が鳴る。
焼き上がったかな…。
ドキドキしながらオーブンを開けると、チョコレートの良い香りが家中を満たす。
橙 『竹串…』
ちゃんと焼き上がったかどうか、竹串を刺して確認する。
橙 『…焼けてる!』
出来た…!
オーブンも爆発させなかったし、泡立て器も壊さなかったし、俺、天才やん!
ただ…これをどうやって食べようか。
迷った末、温かいままのものと、冷やすものに分けた。
温かい方は、今食べよう。
出来上がったカップガトーショコラを取り出し、フォークで一口頬張る。
橙 『パク…』
橙 『…にが』
桃ちゃん用に作ったものなので、甘党の俺にはあまりにも苦かった。
でも、味は美味しい気がする。
生焼けでもないし、ちゃんと出来てる、はず…。
橙 『…でもなあ』
不安、やな…。
仕方ない。彼を呼ぶしか…。
_______
紫 『おじゃましま〜す』
橙 『紫〜く〜ん!』
俺が呼んだのは、幼なじみで、今でも仲良くしている紫。
通称“紫ーくん”。
優しくて、ほんわかした感じで、俺を助けてくれる、最高の友達。
桃ちゃんとも仲が良くて、3人で遊んだりする。
紫 『急に連絡来るからびっくりしたよ〜』
橙 『えへへ…』
紫 『それで…ガトーショコラを作ったって?』
橙 『う、うん』
橙 『紫ーくんに味見をしてほしいなと…』
紫 『…なんで俺に』
橙 『その…桃ちゃん、甘いのが苦手で、桃ちゃんのためにビターチョコを使って作ったんだけど…』
橙 『俺には苦くて美味しいかどうかさえわかんなくて…』
橙 『苦いのも美味しいと感じられる方に食べていただきたいと思いまして…』
紫 『そういうこと笑』
紫 『橙くん、甘党だもんねw』
紫 『子供の時から変わんないね〜笑』
橙 『やめてや!//』
紫 『はは笑』
橙 『…//』
紫 『それでこれを食べてほしいと…』
目の前に置かれたガトーショコラを指差しながら言う紫ーくん。
橙 『はい…//』
紫 『仕方ないなあ…笑』
なんだかんだ言いつつも、結局食べてくれる紫ーくん。
そんな彼の優しさも、子供の時から変わらない。
紫 『…パク』
どうかな…。美味しいかな…。
橙 『…ど、どう?』
紫 『橙くん…』
え…不味かったかな…。
不味かったらどうしよう…。
紫 『…めっちゃ美味しいよ!これ!絶対桃くんも好きだし!』
橙 『ほんまに!?』
紫 『うん!本当に初めて作ったの?』
橙 『うん』
紫 『すごいね〜』
橙 『よかった〜…不味いって言われるかと思った…』
紫 『はは笑』
紫 『たとえ不味くてもそんなはっきり言わないよ笑』
橙 『え〜』
橙 『言ってや〜』
紫 『言わない言わないw』
紫 『そういえば桃くんとは最近どうなの?』
橙 『ん〜…桃ちゃん、忙しいみたいでさ、去年クリスマス前にデートしたっきり、2人の時間はあんまりとれてないんよ』
橙 『まあ、年越しとか正月は少しだけ2人で家にいたけど』
紫 『そっか…』
紫 『橙くんは…寂しくないの?』
橙 『まあ寂しいっちゃ寂しいけど…今月は休める日がありそうって言ってたし、デートの約束もしたし…//』
紫 『嬉しそうで何よりw』
紫 『俺も全然桃くんと話せてないからさ、久しぶりに会いたいな〜』
橙 『よかったら、桃ちゃん帰ってくるまで家にいる?』
紫 『え、この後用事とかないの?』
橙 『うん。大学も休みやし』
紫 『そうなんだ!』
紫 『迷惑じゃなければ居させてもらおっかな〜』
橙 『全然ええで!』
橙 『夜までたくさん遊ぼ〜!』
紫 『お〜!』
ということで、紫ーくんと2人で桃ちゃんの帰りを待つことになった。
昔やったゲームをやったり、思い出話をしたり、冷やしたガトーショコラを2人で食べてみたり…。
紫ーくんいわく、「俺は冷やした方が好き」だそうで、好みは分かれるみたい。
そうこうしていると、ガチャ、と扉の開く音がした。
桃 『ただいま〜』
橙 『おかえり!』
桃 『あれ、誰かいんの?』
紫ーくんの靴を指差しながら疑うような目で俺に聞いてくる桃ちゃん。
橙 『まあまあ、入って入って!』
桃 『なになに』
手を引っ張り、紫ーくんのいるリビングに連れていく。
紫 『お疲れ様〜』
桃 『紫ーくん!?』
紫 『ふふ笑』
紫 『久しぶり!』
桃 『ひさ、しぶり…』
困惑している桃ちゃん。
こういうところはあんまり見ないから、なんだか新鮮。
橙 『ぷっ…w』
桃 『橙、何笑ってんだよ』
橙 『ごめんて笑』
桃 『で、でもなんで紫ーくんが…』
紫 『まあ…橙くんに呼ばれて?w』
橙 『ちょ…紫ーくん!』
まるで浮気をしてると勘違いされるような言い方をする紫ーくんに焦る俺。
紫 『はは笑』
紫 『お昼には帰る予定だったんだけど、桃くんとも話したいなと思って待たせてもらってたの』
橙 『ふぅ…』
桃 『そうなんだ!』
桃 『わざわざありがとう』
紫 『俺が待ちたくて待ったんだから良いんだよ〜』
2人には2人なりの空気感があって、どっちも大人っぽいから、落ち着いた雰囲気って感じ。
3人でいると、俺は大人に弄ばれる子供みたいになる。
桃 『ちょっと着替えてくるわ』
橙 『うん』
桃ちゃんが部屋に戻ると、また紫ーくんと2人になる。
橙 『紫ーくん、なんであんな言い方するん…』
橙 『焦るやんか…』
紫 『ふふ笑』
紫 『良いじゃん、別に桃くんひとつも疑ってなかったよ?笑』
紫 『それに、桃くんにガトーショコラのこと、バレたくないんじゃないの?』
橙 『そ、そうだけど…』
紫 『じゃあ良いじゃん』
笑顔でそう言う紫ーくん。
そういうことではないんだけど…まあ良いや。いつもこんな感じだし。
桃 『お待たせ〜』
数分してリビングに戻ってきた桃ちゃん。
ピンクのパーカーに黒いスウェット。
うん。いつもの桃ちゃんやな。
紫 『あ〜!そのパーカー!可愛いよね〜』
桃 『あ、気づいちゃった?w』
え、なになに。
なんか特別なパーカーなん?
桃 『なんか安く売ってたから買っちゃったw』
紫 『安かったんだ!いいな〜』
紫 『正規の値段でパープル買っちゃった』
桃 『え!じゃあおそろやん!』
紫 『確かにw』
いやいや、入っていけないって。
なんのパーカーなんや…。
桃 『橙も買えば良いのに』
橙 『え、それは…なんなの?』
桃 『え?』
紫 『ぷっ…w橙くん、忘れちゃったの?w』
忘れる…?なんかあったっけ。
橙 『…?』
桃 『ガチで忘れとるやんこいつ!w』
紫 『本当に忘れちゃってるねw』
紫 『高校生のとき、遊びに行ったじゃん』
遊びにはたくさん行ったけど…。
桃 『その時に橙がディズニー行きたい〜って言って』
桃 『今から?みたいな感じだったけど行ったあの時よ』
それは、覚えてる…。
橙 『…あ!』
紫 『ふふw思い出したかな?w』
あの時…
_______
桃 『家でゲームでもする?』
紫 『良いね〜!』
橙 『え〜…』
紫 『橙くん、行きたいとこあるの?』
橙 『ディズニー行きたいっ!』
桃 『は?お前、今からはきついだろw』
橙 『え〜行きたい…』
紫 『まあ…まだお昼だし、行ってみる?』
桃 『マジかよ〜』
橙 『じゃあ、一回家戻って着替えてくる!』
桃 『なんでだよ』
橙 『ディズニーに行く時に着たいと思ってた服があるの!』
紫 『わかったw着てきな?ここで待ってるから』
橙 『うん!』
桃 『はあ…あいつマジかよw』
紫 『良いじゃん、橙くんらしくて笑』
桃 『おせえな…』
紫 『まあまあ、落ち着いて…あ、来たよ!』
橙 『お待たせ〜!』
桃 『…は!?お前、バカやんw』
橙 『何が…?』
紫 『橙くん、それは…ユニバに着てくやつだねw』
橙 『え…?』
俺が着ていたのは、“デイジー姫”のイラストが小さく描かれているパーカーだった。
桃 『お前…ディズニーに行きたいんだよな』
紫 『はは笑』
橙 『…//』
_______
橙 『あの時の…//』
桃 『思い出したw』
紫 『そのパーカーのシリーズがあってね?橙くんには内緒で、桃くんと2人で買い続けてきたのw』
桃 『マジでおもろいなあw』
橙 『…//』
紫 『そんなこともあったね〜』
桃 『紫ーくんは最近どんな感じなの?』
紫 『楽しいけど大変かな〜…』
紫ーくんは心理士を目指して頑張ってて、すごく頭が良い。
みんなが名前を知ってるような一流大学に行ってるから、勉強とか大変なんだろうな…。
桃 『やっぱ勉強とか大変なん?』
紫 『そうだね〜』
紫 『やっぱり人の心って難しくてさ、数学とか理科みたいに答えが決まって出てくるものじゃないから、やりがいもあるけど勉強するには大変かな』
橙 『そうなんや…』
紫 『桃くんは?声優への道、大変?』
桃 『マジでね〜なんて言えば良いんだろう』
桃 『ただ声がいいとか色んな声を出せるとかだけじゃ通用しないんだなって思うし』
桃 『大体の人はアニメ声優を目指してるから練習とかするんだけど、一つのアニメを作るのにはたくさんの人が必要でさ』
桃 『同じアニメを作ろうとしてるはずなのに、気持ちがバラバラだったり、良いものにしようって全員が思ってなかったりすると、やっぱり良いものは出来ないからさ』
桃 『コミュニケーション能力というか、そういうものも必要なんだなって感じて』
桃 『俺コミュニケーションとか苦手だからさ、ちょっと大変かなって感じ』
桃 『あとは忙しいね』
桃 『全然橙との時間取れない』
橙 『…//』
紫 『ふふw』
紫 『忙しいのは仕方ないとして、コミュニケーションの話でいくと別に桃くんは苦手じゃないと思うんだよね』
桃 『そう?』
紫 『うん』
紫 『ちゃんと自分の意見伝えられるし、相手の意見も聞けるじゃん』
桃 『まあ…』
紫 『たぶん桃くんが苦手だと思ってる原因は、相手の意見を聞いた上で納得できない時の話だと思うんだよね』
橙 『納得…?』
紫 『桃くん、頑固なところあるからさ』
紫 『あと、自分が正しいと思ったらすぐには受け入れられない感じがするから』
桃 『…すご』
桃 『さすが紫ーくんだわ…』
紫 『ふふ笑』
紫 『だから橙くんと上手くいってるんだよ』
橙 『紫ーくん、それはどういうこと〜?』
紫 『ばれたw』
紫 『桃くんだからこそ、橙くんの本音を引き出せるんだと思う』
桃 『…//』
桃 『なんか元気出たわw』
紫 『それはよかった笑』
桃 『…腹減ったな』
橙 『俺も…』
紫 『じゃ、そろそろ帰ろっかな〜』
桃 『え、なんで』
橙 『一緒に食べようや』
紫 『え〜?2人に悪いから良いよ〜』
桃 『いや、食べようよ』
紫 『仕方ないなあ…ありがたくご一緒させていただきます』
桃 『ふはw』
橙 『なんか作ってくるね』
桃 『いや良いよ橙』
橙 『…?』
桃 『Uber頼も』
紫 『お〜!桃くん太っ腹〜!』
桃 『誰も奢りとは言ってねーよw』
紫 『あれ』
橙 『はは笑』
_______
桃 『はあ…もう無理』
橙 『俺も無理』
紫 『俺も…』
桃 『いや紫ーくんは全然食べとらんのよw』
紫 『食べたよ〜…普段の3倍くらい』
桃 『普段が少なすぎるやろそれはw』
橙 『紫ーくんの少食は昔からやからな〜』
紫 『うーん…』
こんなに食べた紫ーくんは初めて見たくらい、今日は食べていた。
「眠い…」などと言い出し、さすがにこの家で寝られるとお互いに困るので、紫ーくんには帰ってもらうことにした。
紫 『今日はありがとね〜』
橙 『紫ーくんのおかげでうまくいきそう!マジでありがと〜』
紫 『いえいえ〜』
紫 『またなんかあったら呼んでね〜』
橙 『うん!』
紫 『じゃあ桃くんまたね!』
桃 『また会おうぜ〜』
紫 『じゃあね〜!フリフリ』
パタン、と扉が閉まり、桃ちゃんと二人になる。
橙 『桃ちゃん、今日もお疲れ!』
桃 『ありがと笑』
桃 『橙もお疲れ様』
橙 『俺は何もしてないから…』
桃 『生きてくれてるじゃん』
橙 『…//』
桃 『俺は橙が生きてくれてるだけで頑張れるよ』
橙 『ありがとう//』
桃 『…そういえば2月20日、休み取れたよ』
橙 『ほんまに!?』
橙 『やった〜!』
桃 『w』
桃 『それまでお互い頑張ろうな』
橙 『うん!』
桃ちゃんとの予定が立っただけで、明日を頑張れそうな気がした。
_______
2月13日。
今日は、本番用のカップガトーショコラを作る。
そのために大学だって休んだ。
桃ちゃんはいつも通り朝早く出ていったので、バレることはないと思う。
橙 『…よし』
練習した通りに作っていく。
ちゃんとお湯を沸かしてから、卵もうまいこと卵黄と卵白に分けて、泡立てて…。
チョコを用意して、さっき沸かしたお湯をボールに移してから湯煎で溶かして…。
分離しないように混ぜて、カップに流し入れて…オーブンを180℃に設定!
温まったら…あとは焼くだけ!
練習って大事なんやなあ…。
めっちゃスムーズにいけた!
橙 『あ、20分経った』
焼けたかな…と思いつつ、そっとオーブンを開く。
…うん、あの時の匂い。
6個作ってあるから、一つ味見しよう。
苦いってわかってても、桃ちゃんのためなら食べられる。
橙 『いただきます…パク』
…苦い。
知ってたけど。
でもたぶんこれが桃ちゃんの好きな味。
ってことは…?
橙 『…できた〜!』
一人でお菓子作りできた〜!
俺も成長したんやなあ…//
桃ちゃん、喜んでくれるかな…。
冷蔵庫に残りのガトーショコラを入れながら考える。
大丈夫!絶対喜んでくれる!
そう自分で自信をつけ、俺は夜ご飯の準備を始めた。
_______
桃 『ただいま〜』
橙 『おかえり〜!』
桃 『美味そうな匂いする〜』
橙 『ふふ笑』
橙 『ハンバーグ作った!』
桃 『よっしゃ!早く食べよ!』
橙 『うん!』
桃 『いただきま〜す』
橙 『いただきます!』
桃 『パク…うま!』
橙 『よかった笑』
橙 『…あ、桃ちゃん明日朝いる?』
桃 『朝…?』
橙 『うん…10時くらい』
桃 『たぶん…いれる』
橙 『よかった!』
桃 『なんかあんの?』
橙 『なんでもな〜い//』
桃 『なんだよそれw』
橙 『はは笑』
明日、上手くいきますように。
_______
2月14日。
バレンタイン当日。
ちゃんとお皿にカップごと乗せて、生クリームもつけて、粉砂糖振って…。
橙 『よし!完成!』
はっ…!
桃ちゃんがいるのに声を出してしまった…!
桃 『何が完成〜?』
少し眠そうな声でそう聞いてくる君。
橙 『い、いや…その…』
予定変更!今もう渡してしまおう!
橙 『バレンタイン…だから、お菓子作った…//』
桃 『マジで!?』
さっきまでの眠そうな声はどこへいったのかと思うくらい大きな声。
なんでこっちが驚かなきゃいけないんだ。
橙 『う、うん…//これ…』
そっとお皿を差し出す。
桃 『え〜!ガトーショコラやん!食べて良い?』
橙 『ええよw』
ここまで食いつかれると照れを通り越して笑ってしまう。
桃 『パク…うんま!』
桃 『え、めっちゃ美味い!何これ!』
橙 『ふふ笑』
桃 『これ、ビターチョコだよね』
桃 『俺が甘いの苦手なこと、覚えててくれたんだ』
橙 『そりゃあ…覚えてるよ//』
桃 『ありがとう!めっちゃ美味い!』
桃 『来年も食いたいな〜』
桃 『作ってくれる?』
橙 『もちろん…//』
桃 『やった〜!』
_______
桃 『…ごちそうさま!』
桃 『マジで美味かった!』
橙 『ありがとう//』
桃 『…あ、そういえば』
橙 『…?』
桃 『俺、オーディション受けさせてもらえることになった!』
橙 『ほんまに!?良かったやん!』
橙 『桃ちゃんの努力の結果やね』
桃 『俺、橙のために頑張るから!』
橙 『いや、そこは自分のために…』
桃 『いや!橙のために頑張るの!』
橙 『…ありがと//』
橙 『…オーディションはいつなの?』
桃 『えっと〜…19日!』
橙 『休みの日の前日か!頑張ってな!』
桃 『うん!ありがと!』
ついに、いや、やっと、桃ちゃんの声優への道が拓けてきた。
元々才能もあるし、声も良いし、努力家やから認められたんやろな…と思う。
…俺も頑張ろう。
でも…その前にガトーショコラ喜んでもらえたことを紫ーくんに報告したい!
橙 『…ちょっと電話してくる』
桃 『うん!俺も準備するわ』
橙 『ほ〜い』
俺はスマホを開き、紫ーくんに電話をかけた。
_______
橙 『…もしも〜し』
紫 『橙くん!どうだった〜?』
橙 『めっちゃ喜んでもらえたよ〜!紫ーくんのおかげや…』
紫 『いや、橙くんが作ったんだから橙くんの力でしょ!』
紫 『俺食べただけだよw』
橙 『それでも紫ーくんのおかげなの!』
紫 『そう?wありがとう笑』
橙 『ほんまにありがとう…』
紫 『こちらこそですよ…笑』
橙 『…あ!そういえばな?』
紫 『うん』
橙 『桃ちゃん、オーディション受けさせてもらえるんやって!』
紫 『え?本当に?すごいじゃん!』
橙 『しかもその次の日に休みも取れたって言ってた!』
紫 『え〜!最高じゃん!』
橙 『オーディションに関してはほんまに桃ちゃんの努力としか言いようがないわ…』
紫 『桃くん努力家だからね〜』
橙 『本当にすごい…』
紫 『きっと橙くんの支えもあったからだよ』
橙 『俺は何も…』
紫 『いや、本当に橙くんのために桃くんは頑張ってるんだと思う』
紫 『橙くんはいるだけで支えになってるんだよ』
橙 『…そうかな//』
紫 『うん!オーディションの成功を願って応援しよ!』
橙 『うん!』
紫 『じゃあまた…』
橙 『あ、紫ーくん』
紫 『ん?』
橙 『桃ちゃん誕生日も近いやんか…』
紫 『あ〜そうだね』
橙 『また助けてもらうかもしれん…』
紫 『ふふ笑』
紫 『全然大丈夫だよ!いつでも電話かけてきて!』
橙 『ありがとう…!』
紫 『は〜い!じゃあまたね〜!』
橙 『またね〜』
_______
通話が切れ、リビングに戻ると、すっかり着替え終わった桃ちゃんがいた。
桃 『誰と電話?』
橙 『紫ーくん』
桃 『マジかよ…俺も入れてよ』
橙 『はは笑』
橙 『ダメだったの!w』
桃 『え〜!なんでだよ〜!』
橙 『ww』
桃 『ケチ…』
橙 『w…桃ちゃん時間、大丈夫?』
桃 『…あ、やっべ!もう出るわ!』
桃 『マジでガトーショコラ美味かった!もう一つある?』
橙 『あるけど…』
桃 『じゃあ帰ってきたら食べる!』
橙 『わかった笑』
桃 『あとデート、楽しみにしといて!』
橙 『うん…//』
桃 『行ってきま〜す!』
橙 『行ってらっしゃい!』
忙しい人やなあ…と思いながら、桃ちゃんが閉めていかなかった鍵をかけた。
_______
午後の授業を受けるため、今は支度中。
大学って自分で時間割組まないといけないから大変なんよな…。
とりあえず髪セットしないと。
そう思い、手に水をつけたその時、プルルル、と俺のスマホが鳴った。
画面を見ると、全く知らない番号からだったので出るか迷ったが、一応出ることにした。
橙 『はい、もしもし』
? 『橙さんのお電話で間違いないですか』
橙 『そうですけど…』
青 『私、いちご病院の青と申します』
病院…?
直近で行った記憶もないし、この病院にはかかったこともない。
青 『突然なんですけれども…』
橙 『…はい』
青 『…桃さんが事故に遭われました』
橙 『…え?』
桃ちゃんが…事故…?
そんなのありえない。
さっき見送ったばっかりなのに…。
青 『今すぐ、こちらに来ていただけますか』
橙 『すぐ行きます…』
青 『お待ちしております。それでは失礼します』
ツー、ツー、と通話が切れる音だけが部屋に響く。
生きてる…よな。
…そんなことを考えている場合ではない。
早く出ないと…!
俺は必要なものだけを持ち、玄関の扉を開けた。
_______
橙 『はあ…はあ…』
駅から走ってきたせいで、息がなかなか整わない。
病院は想像以上に大きく、総合病院であることがわかった。
橙 『桃…!桃の…友達です!』
こんな時にも“彼女”というのはなんだか恥ずかしくて、“友達”と言ってしまった。
看 『桃さんのご友人様ですね』
看 『728号室にお向かいください』
橙 『ありがとうございます』
病室へ入ると、機械で命を繋がれている君がいた。
橙 『…桃ちゃん』
そう話しかけても君からの返事はなくて、ただ見つめることしかできなかった。
青 『…失礼します』
ガラガラ、とドアが開く。
青 『橙さん、でお間違いないですか』
橙 『…はい』
青 『改めて、先ほどお電話させて頂いた青と申します』
橙 『青…先生…』
青 『早速…桃さんの状況を説明させて頂いてもよろしいですか』
橙 『はい…』
青 『それでは、こちらへ』
青先生に案内され、診察室へ俺は入った。
青 『どうぞ…お掛けください』
橙 『ありがとうございます…』
青 『桃さんなんですが…脳に大きな損傷が見られていて、大脳があまり機能していない状態にあります』
青 『つまり…昏睡状態であると言えます』
橙 『昏睡状態…』
青 『脳死ではないので、回復する可能性も十分にありますが…回復しても今まで通りには生活できないことが多く、突然死する可能性もあります』
橙 『突然…死…』
青 『延命処置には相当な費用もかかります』
青 『…どうされますか』
突然事故に遭ったと言われて症状を説明されても、正直理解が追いつかなくて、どうするべきかわからなかった。
橙 『…一度、考えても良いですか』
青 『もちろんです』
青 『できれば…今日中に決断をお願いします』
橙 『…はい』
失礼します、と診察室を出ると、やけに白い廊下が俺を迎え、音一つないその空間に孤独を感じる。
なんで桃ちゃんが…。
なんで、なんで…。
オーディションあるって言ってたやん…。
デートだって、あったのに…。
誕生日だって、近かったのに…。
なんで…俺じゃないんや…。
気づくと、俺は彼に電話をかけていた。
紫 『橙く〜ん!どしたの〜?橙く〜ん…?』
橙 『…紫ーくんポロポロ』
紫 『え?ちょ、橙くん?』
橙 『もう…どうしたらいいんや…ポロポロ』
紫 『どうしたの、橙くん』
紫ーくんの包み込むような声。
その声に、少しだけ安心する。
橙 『桃…桃ちゃんが…ポロポロ』
紫 『桃くんが…?』
橙 『事故に…あったポロポロ』
紫 『…わかった』
紫 『教えてくれてありがとう』
紫 『俺も今から行くから、どこの病院か教えてくれる?』
橙 『いちご…病院…ポロ』
紫 『了解』
紫 『電話繋いどくから、そこで待っててね』
橙 『…ポロ』
彼にも予定があるはずなのに、すぐに来てくれるという優しさにさえ泣けてくる。
紫ーくんが来るまでがすごく長く感じて、俺の周りの時間だけがゆっくり進んでいるようだった。
紫 『…あ!橙くん!』
十数分経ち、彼はやってきた。
橙 『紫ーくん…!ポロポロ』
紫 『頑張ったね…驚いたね…』
そう言って抱きしめてくれる彼。
その言葉だけで、勝手に涙が溢れ出てくる。
橙 『桃ちゃんは…!どうなっちゃうの…!ポロポロ』
橙 『どうしたらいいの…!ポロポロ』
紫 『大丈夫大丈夫』
紫 『二人でお話聞こうね』
橙 『…コク』
それからのことはあまり覚えていない。
紫ーくんが色々青先生とお話してくれて、とりあえず今日は無理なので、明日決断することになった。
_______
「俺の家に泊まってほしい」と彼の方からお願いされ、彼の家に来た。
紫 『落ち着いた…?』
橙 『…フルフル』
紫 『そうだよね…』
紫 『とりあえず温かいココア作ったから一緒に飲も?』
橙 『…コク』
俺がココア好きってこと、覚えてたんだ。
さすが紫ーくんやな、と感心する。
橙 『…ゴク』
体中にじわりと染み渡るそれは、紫ーくんの温かさだった。
紫 『ふふ笑』
紫 『美味しい?』
橙 『うん…』
紫 『よかった…笑』
橙 『ありがとう…』
紫 『…橙くん』
紫 『桃くんのことなんだけどね…』
橙 『……』
紫 『橙くんはどうしたいかな』
橙 『…生きてほしい』
橙 『一緒に生きたい』
橙 『でも…延命治療をし続けるお金は俺にはない…』
紫 『うん…』
橙 『バイト代だって、俺が暮らせるくらいしかない』
紫 『そうだよね…』
紫 『あのね』
橙 『…?』
紫 『桃くんの…通帳を見てみたらどうかな』
橙 『通帳…?』
紫 『桃くんのことだから、橙くんのためにお金貯めてるんじゃないかなって…』
桃ちゃんの通帳…。
少し見るのは罪悪感があるが、桃ちゃんのために確認してみるのもありかもしれない…。
でも…なんで急にそんなことを言い出したのだろうか。
まあ彼が言うことだから、ちゃんと理由があるのだろう。
紫 『…明日の朝、見てみよ』
橙 『うん…』
紫 『じゃあ、今日は寝よっか』
紫 『おやすみ…!』
橙 『…おやすみ』
_______
橙 『はあ…』
紫ーくんが用意してくれた簡易ベッドに身を投げる。
…こんなに寂しいんやな、誰かがいないって。
改めて、人の温かみの大切さを知る。
…なんで事故になんて遭うの。
なんで、今なの。
もう帰ってこないの?
もう、一緒に暮らせないの?
夢はどうなるの?
デートは?
来年のガトーショコラは?
俺は桃ちゃんがいないと、ダメなんだよ…。
この先桃ちゃんがいない生活なんて考えられないんだよ…。
…どうしたらいいの…?
橙 『…ポロ』
紫 『ギュ…』
橙 『…!』
そっと抱きしめてくれる彼。
紫 『不安だよね…辛いよね…』
橙 『紫ーくん…ポロ』
橙 『桃ちゃん、死んじゃうの…?ポロ』
紫 『…、』
紫 『…わかんない』
紫 『死なないよって言ってあげたい…』
紫 『でも…変に期待もさせたくない』
紫 『ごめんね…』
橙 『…ポロポロ』
どこまでも、彼は優しい。
呆れるくらい。
紫ーくんだって、辛いはず。
大切な友達が事故に遭ってるのだから。
「ごめんね」なんて、彼が言うべき言葉ではないのに。
俺のせいで…迷惑かけてるな…。
紫 『迷惑なんて、思ってないからね』
橙 『…!』
紫 『寝れないんじゃない…?一緒に寝る?』
橙 『…コク』
心に空いた穴を、少しだけ埋めてくれるようなそんな優しさに包まれ、俺は眠りについた。
_______
2月15日。
一度桃ちゃんの通帳を取りに、家に戻ってきている。
紫 『…橙くん』
橙 『…?』
紫 『その通帳、先に見せてもらっても良いかな』
なぜかはわからなかったけど、とりあえず紫ーくんに渡すことにした。
紫 『ありがとう』
通帳を受け取り、静かに開く紫ーくん。
じっと通帳を見つめるその目が、一瞬だけ潤んだ。
…泣いてる?
そう思ったのも束の間、紫ーくんはすぐに通帳を閉じ、「お金、あるみたい」と小さく言った。
橙 『…ある?』
確認するため紫ーくんの持っている通帳を取ろうとすると、紫ーくんに手を止められた。
橙 『…え?』
紫 『ごめん、橙くん』
紫 『俺がやる』
橙 『…なんで?』
紫 『…桃くんのプライドのため、かな』
橙 『は…?』
橙 『桃ちゃんの彼女は俺や…!プライドなんて関係ないやろ!』
もう一度通帳に手を伸ばしたが、同じように止められた。
紫 『…ダメ』
橙 『なんでなん…』
橙 『俺は桃ちゃんの彼女なのに、助けることも、力になることもできないの…?』
紫 『…、』
紫 『もう十分、橙くんは力になってるよ』
橙 『嘘や!俺は何にも…!何にもしてない!できてない!』
橙 『紫ーくんにはわからんやろ…この気持ち…』
橙 『紫ーくんは桃ちゃんに恋愛的な感情持ったことないやろ…!』
橙 『俺がどんだけ好きで、どんだけ大切で、どんだけ今辛いかなんて…!わからんやろ…』
何も悪くない紫ーくんにあたる自分にも腹が立ってくる。
なんで感情的になってるんやろ…。
紫 『…確かに、俺は桃くんに恋愛的な感情を持ったことはない』
紫 『橙くんがどのくらい好きかも具体的にはわからないし、二人の間でどんな思い出を作ってきたのかもわからない』
紫 『でもね…』
紫 『どれくらい辛いかは…少しわかる』
橙 『……』
紫 『あくまで友達として、その辛さは分かり合える』
紫 『俺だって…桃くんは大切な友達だもん』
紫 『一緒に生きてきた仲間だもん』
紫 『だから、桃くんの気持ちも大切にしてあげたいんだ』
橙 『……』
紫 『桃くんのためにも、俺が費用に関しては決めても良いかな』
感情的に言ってしまった俺に対しても、冷静に、温かく包み込むように理由を伝えてくれる彼に、思わず涙が溢れる。
橙 『コク…ポロポロ』
紫 『ありがとう…ギュ』
紫 『心配だよね…辛いよね…』
紫 『俺には、たくさんあたっても良いからね』
橙 『…ポロポロ』
部屋には、ほんの少しだけ桃ちゃんの匂いが残っていた。
_______
青 『それでは、延命治療は継続で、桃さんが目を覚ますのを待つ形で進めて参ります』
紫 『お願いします』
橙 『…ペコ』
青 『昏睡状態の方は目を覚ます場合が多いので、たくさん声をかけてあげてください』
橙 『…はい』
青 『こちらも全力を尽くします』
橙 『よろしくお願いします』
診察室を出て、桃ちゃんのいる病室に向かう。
紫 『桃くん、目を覚ますと良いね』
橙 『うん…』
紫 『橙くん先入りな』
病室のドアの前で立ち止まり、そう言う紫ーくん。
橙 『…コク』
ガラガラ、とドアを開けると、昨日と全く変わらない状態で眠る君がいた。
紫 『…桃くん』
橙 『…、』
紫 『愛しの彼女、連れてきたよ』
橙 『…//』
紫 『ほら、彼女、なんか言ってあげなよ』
橙 『…桃ちゃん』
橙 『俺…何にも力になれへんねん』
橙 『何にも…桃ちゃんのためにできない』
紫 『…、』
橙 『悔しいし、辛くて仕方ない…』
橙 『でも…』
橙 『「自分の限界を決めてるのは自分」って桃ちゃんが教えてくれたから、ちゃんと出来ることは探していくつもり』
橙 『俺、頑張るから…目、覚ましてよ』
橙 『…大好き』
紫 『…偉いよ、橙くんギュ』
橙 『…ギュ』
桃ちゃんの前で抱き合うのは抵抗があったけど、少しだけこうさせてもらうことにした。
_______
紫 『…そろそろ帰ろうか』
橙 『うん…』
部屋から出て、外に向かって歩き出す。
紫 『…橙くん、桃くんと出会ってから変わったよ』
唐突にそんなことを言う彼。
橙 『そう…?』
紫 『うん…すごく明るくなった』
紫 『昔は全然自分の意見も言わなくて、自信がなさそうでさ…』
紫 『全部を諦めてる感じがしてた』
橙 『……』
紫 『でも桃くんと出会って、たくさん気持ちを伝えてくれるようになった』
橙 『そうだね…』
橙 『全部桃ちゃんのおかげやからね…』
紫 『…気づいてたのに助けてあげられなくてごめんね』
橙 『…?』
紫 『俺の方が橙くんと長く一緒にいてさ、橙くんが自分の気持ちを言えなかったりするのもずっと見てきてたから』
紫 『でも…俺は何も出来なかった』
紫 『…テスト期間は隈ができて』
紫 『当日は引きつった笑顔になって』
紫 『テストが返ってくる時は手が震えてて』
紫 『部活がない日にも一人で自主練して』
紫 『受験する学校に「行きたい」って強い意志はどこにも感じられなくて』
紫 『全部…知ってた』
紫 『わかってたのに…』
紫 『橙くんに寄り添うこともしなかった』
紫 『…もし桃くんと出会ってなかったら、橙くんの心は無くなってたかもしれないって思うんだ』
紫 『そう思うと怖くて怖くて…』
身を小さくしてそう言う彼。
その声はとても悔しそうで、申し訳なさそうで、自分を責めているようだった。
橙 『…紫ーくんのせいやないよ』
橙 『確かに桃ちゃんがいなかったら、俺の心はどこかにいってたかもしれんけどな』
橙 『紫ーくんがいなかったら、俺の今はない』
橙 『桃ちゃんとも出会えなかったかもしれんから』
橙 『今だって、こうして俺を支えてくれてるやん』
橙 『…ありがとう』
紫 『…橙くんは優しいね』
橙 『紫ーくんには負けるけどな』
紫 『ふふ笑』
その笑顔は、俺の心の穴をまた少し塞いでいた。
_______
2月18日。
あの日から4日経った。
まだ君は目を覚まさずに、ずっと眠っている。
毎日毎日お見舞いに行って、声をかけて。
当然返事なんてなくて、それが辛くて。
そんな日々を支えてくれてるのは紫ーくんで、彼がいなかったら俺はこの世界から姿を消してたかもしれない。
でも、やっぱり紫ーくんじゃ足りないの。
桃ちゃんじゃないと、ダメなの…。
いい加減、目を覚ましてよ…。
紫 『おはよ〜!』
橙 『おはよ…!』
紫 『…無理に笑わなくて良いよ』
橙 『…、』
橙 『紫ーくんにはバレバレやな…w』
紫 『辛かったら、ちゃんと言うんだよ』
その言葉だけで、少し心が軽くなる。
橙 『…ありがとう』
紫 『…今日も行くか!』
橙 『うん…!』
_______
エレベーターを降りて、左に曲がり、突き当たりにあるのが彼の部屋。
コンコン、とノックをしていつものように部屋に入る。
橙 『…桃ちゃん、来たで』
紫 『俺も〜』
その言葉たちは、跳ね返りもせずただその空間に飲まれる。
橙 『…桃ちゃん』
橙 『明日、オーディションだよ』
橙 『受けるんじゃないの…?』
紫 『…、』
橙 『明後日、デートだよ』
橙 『ずっと楽しみにしてる』
橙 『来週、桃ちゃんの誕生日だよ』
橙 『同い年になるんちゃうの…?』
話しかけているはずなのに、独り言になるその言葉は、彼の耳には届いているのだろうか。
紫 『…そうだよ!』
紫 『まだまだ先は長いんだから!』
明るく言う紫ーくんにさえ、なんの反応もない。
橙 『お願い…起きてや…』
ほんの少しの希望にかけて桃ちゃんの手を握ってみる。
桃 『…ギュ』
橙 『…!?』
手を握り返される感触。
もう一度声をかけてみる。
橙 『桃ちゃん…?』
桃 『…ギュ』
反応…した…?
橙 『…紫ーくん!桃ちゃんが!』
紫 『…?』
橙 『手をぎゅって!』
紫 『本当に!?』
紫 『すぐ青先生呼ぼう!』
紫 『ナースコール押して!』
橙 『…わかった!』
慌ててそのボタンを押す。
青先生はすぐに部屋に入ってきた。
青 『どうされました!』
橙 『あ…あの…』
紫 『手を握ったら反応があったみたいで』
紫ーくんが即座に説明してくれる。
青 『ありがとうございます』
青 『今確認します』
青先生は桃ちゃんに話しかけながら体の色々な部分を触っていく。
もしまた眠ってしまったら、と思うと怖くなって、手が震えてきた。
震えを抑えようと、必死で手を揉んでいると、その手は紫ーくんに握られた。
紫 『大丈夫』
紫 『俺がいるよ』
橙 『…!』
俺の気持ちが見えているかのように、力強く言ってくれる紫ーくん。
橙 『…コク』
この声に出ない感謝と不安は、頷きでしか表せなかった。
青 『…橙さん』
橙 『…はい』
青 『桃さんの意識の確認は出来ました』
橙 『本当ですか…!』
青 『ですが…』
青 『今の桃さんには、話すことも、体を自由に動かすことも出来ません』
橙 『……』
青 『ただ、耳は聞こえているはずですので、たくさん話してください』
青 『…これからこちらの方で脳波検査、機能MRI検査を行い、脳の活動を確認します』
青 『検査結果をお伝えするときに、今後についても考えましょう』
橙 『…はい』
紫 『ありがとうございます』
青 『失礼します』
橙 『…ペコ』
扉が閉まり、静かになった部屋。
口を開いたのは、紫ーくんだった。
紫 『…桃くん』
紫 『生きてて良かったよ…』
紫 『どんだけ心配したか…』
橙 『……』
桃ちゃんの手に触れると温かさを感じて、生きていることを実感させられる。
橙 『…良かったポロ』
橙 『このまま会えなくならなくて良かった…ポロポロ』
君の指が少し動く。
それがどれだけ嬉しいことか。
その手が、その顔が、その存在が、どれだけ愛しいか。
言葉では伝わらない思いを、手から手へと伝えてみる。
橙 『…ギュ』
紫 『…また明日、来るから』
橙 『検査あるって言ってたから…頑張ってな』
部屋を出る時に「またね」と声をかけると、少しだけ君の頬が緩んだ気がした。
_______
2月19日。
本来オーディション会場に向かっていたはずの君は、今検査を受けている。
俺はいまだにその事実を受け入れられない。
君の方がよっぽど悔しいはずなのに、なぜか勝手に涙が頬を伝う。
紫 『橙くん…』
紫 『橙くんが暗くなってどうするの…?』
紫 『桃くんが生きていることの方がよっぽど嬉しくて、それが何よりの幸せなんじゃないの…?』
そう、だよね…。
桃ちゃんの方が辛いよね…。
検査から帰ってきた時、俺が泣いてたら困るよね…。
橙 『…コク』
服の袖で涙を拭い、紫ーくんの買ってきてくれたココアを一口飲む。
紫 『橙くんならきっと分かってるよね』
紫 『ごめんね』
橙 『…大丈夫』
橙 『ありがとう…』
どこまでも彼は優しく、俺の心を温めてくれる。
紫 『あ、青先生』
紫ーくんの声が聞こえ、顔を上げると、検査が終わったらしい青先生が立っていた。
青 『検査は終わりました』
青 『検査結果が出るまでお待ちいただいてもよろしいですか』
橙 『はい…』
紫 『ありがとうございました』
青 『桃さんはお部屋にいますので、行って頂いても構いませんよ』
青 『それでは失礼します』
そう言ってから、軽く礼をして歩いて行った。
紫 『…桃くんの部屋、行こ』
橙 『…うん』
ノックをして、部屋に入る。
やっぱり寝ている君だけど、意識があるって分かっているだけで心が軽くなる。
橙 『桃ちゃん、来たよ』
橙 『検査、お疲れ様』
橙 『疲れた?』
橙 『検査ってどんな感じなんやろ』
紫 『…、』
橙 『…桃ちゃんの声、聞きたいよ』
橙 『桃ちゃんに抱きしめてほしい』
橙 『桃ちゃんとご飯食べたい』
橙 『桃ちゃんと…デートしたい』
橙 『桃ちゃんと…生きたい…』
独り言のような言葉は、いつしか俺の思いに変わっていく。
君も同じだと信じて、一緒に今を乗り越えたいと思って、敢えて俺はその思いを言葉で紡いだ。
紫 『橙くん…』
橙 『……』
橙 『…桃ちゃんの辛いことは、俺にとっても辛いこと』
橙 『桃ちゃんの嬉しいことは、俺にとっても嬉しいこと』
橙 『じゃあ…今だって辛い気持ちは一緒じゃん…』
紫 『…、』
橙 『…ごめん、桃ちゃん』
橙 『分かってるんや…桃ちゃんが一番辛いことなんて…』
橙 『…勝手なこと言って悪かった』
君の手をとる。
「大丈夫」
そう言われている気がした。
_______
青 『…それでは結果の方と、今後についてお話出来ればと思います』
橙 『……』
紫 『お願いします』
それから、青先生は桃ちゃんの状態について詳しく説明した。
正直、聞きたくない気持ちが強くて、内容が全くと言って良いほど頭に入ってこなかった。
後から紫ーくんに聞いた話によると、認識能力は完全には損なわれていないということ、脳の異常な電気的活動は見られなかったことなどを説明していたらしい。
俺が気づいた頃には、もう別の話になっていた。
青 『…と言う感じなのですが』
紫 『はい』
青 『この結果であれば、回復する見込みは十分にあります』
青 『ですが…一度昏睡状態や植物状態となった方は、急死される方も少なくありません』
紫 『急死…』
青 『今から5年の間に、です』
紫 『5年…』
橙 『…、』
青 『死因のわからないまま亡くなられる方も多くいます』
橙 『…じゃあ』
橙 『じゃあ、あと数年しか生きられないって言うんですか…!』
橙 『先は長くないとでも言いたいんですか…!ポロ』
紫 『橙くん…』
青 『…、』
青 『…我々としては、その可能性も十分あるとしか申し上げられません』
青 『力不足で、申し訳ありません』
深々と頭を下げる青先生。
違う…。違うの…。
青先生が悪いなんて一つも思ってないし、誰のせいでもないことだってわかってる…。
ただ…受け入れられないだけ…。
紫 『…すみません、青先生』
青 『…いえ、こちらの伝え方も悪かったと思います』
橙 『…、』
橙 『ごめ…なさい…ポロ』
青 『大丈夫ですよ』
青 『桃さんを思われている気持ちの表れだとお察しします』
青 『少しずつ、受け入れていただければと思います』
紫 『はい』
青 『桃さんの回復の状況に合わせて、リハビリ等も行っていけたらと思っています』
青 『ただ、それは今から数日、数週間の間の話ではなく、数ヶ月単位の話です』
青 『こちらも出来ることは全てやる覚悟ですので、ご協力よろしくお願いします』
紫 『こちらこそ、よろしくお願いします』
橙 『…ペコ』
部屋から出ると、窓から見える外はすっかり暗くなっていた。
紫 『…もしさ』
橙 『…?』
紫 『桃くんが目を覚まさないまま死んじゃってたら、橙くんはどうなってたと思う…?』
橙 『……』
もし、あの時すぐに死んでしまっていたら。
俺はどうなっていたのだろうか。
泣き崩れる?
放心状態になる?
自分も死を選ぶ?
どうしていたのだろう。
橙 『…わかんない』
紫 『そう、だよね』
紫 『俺もわかんない』
橙 『…なんでこんなこと聞いてきたの?』
紫 『…もしものことなんてわからないってこと、伝えたかった』
橙 『…!』
紫 『橙くんだけじゃなくて、俺もだけどさ』
紫 『不安だと、どうしても「もし死んじゃったら」とか、「もし目を覚まさなかったら」とか色々考えちゃうんだよ』
紫 『でも…残酷なことにさ』
紫 『俺たちは現実を受け入れていくしかない』
紫 『起こった出来事を、処理する力しかないんだ』
紫 『…だから、俺たちは前を向くしかない』
紫 『本当に死んでしまうのかも、生きる保証があるのかも、俺たちにはわからないから』
紫 『一緒に乗り越えよう』
俺はずっと、“もしも”のことを考えて勝手に不安になって、前に進もうとさえしてこなかったんだ。
紫ーくんの言葉で、そのことにやっと気づいた。
橙 『うん…!』
_______
2月24日。
今日は君の誕生日。
あの事故から10日経った今、少しずつ回復していると聞いている。
もちろん、お見舞いには行っているけど、前のように長くはいることはなくなった。
授業の帰りとか、バイトの前とかに少し来て、様子を見て帰る。そんな生活。
でも、今日はずっといようと思って準備を完璧にしてきた。
プレゼントも持ってきたし…//
バレないようにそっとドアを開け、中に入る。
ベッドの上の君は目を閉じているようだった。
紫 『…橙く〜ん!』
橙 『静かにっ…!』
紫 『あっ…ごめんごめん』
紫ーくんが勢いよく入ってきたせいで、彼の目はすっかり開いてしまった。
首だけこちらに向けて、不思議そうな顔をする桃ちゃん。
作戦変更…。
もう!なんでいっつもこうなるんや!
橙 『…あ!桃ちゃん!えっと…』
橙 『お誕生日、おめでとう〜!』
紫 『おめでと〜!』
桃 『…ニコ』
声こそ出ていないが、ふわりと笑う君は世界一カッコよくて、輝いて見えた。
橙 『本当はプレゼント食べ物とかにしたかったんやけど…病院やし無理やん?w』
橙 『だからベタやけど、花束にしました』
桃 『…ニコニコ』
机の上にそっと花束を乗せると、嬉しそうにする桃ちゃん。
そんな君を見て、俺も嬉しくなる。
橙 『たくさんピンクのお花入れてもらったんやで〜?かわいいやろ!』
桃 『…ニコ』
紫 『喜んでもらえてよかったね…!』
橙 『うん…!//』
歳を重ねることが、どれだけすごいことなのか、少しだけ、分かったような気がした。
_______
4月14日。
ついに、あの日から二ヶ月経った。
今日は青先生から話があると伝えられたので、病院に向かっている。
…もちろん、紫ーくんも一緒に。
紫 『…二ヶ月か〜』
しみじみ言う紫ーくん。
その姿は少し寂しそうにも見える。
橙 『そうやね〜』
橙 『早いんだか遅いんだか…』
紫 『確かにね…』
紫 『今日、どんな話されるんだろ』
橙 『全然わからん』
紫 『良いお話だといいね』
橙 『うん…』
病院に入ると、看護師の方に「今日もいらしたんですね」と声をかけられた。
すっかり顔見知りになってしまったな…なんて思いながら、紫ーくんといつもの部屋に向かう。
紫 『…失礼します』
青 『あ、どうぞお入りください』
橙 『…ペコ』
青 『わざわざ来ていただきありがとうございます』
紫 『いえ…!いつも来てますので笑』
橙 『ふふ…笑』
青 『…早速本題の方なんですが』
紫 『はい』
青 『そろそろリハビリの方を始めたいと考えておりまして』
橙 『…!』
青 『様々な検査をこの数ヶ月行ってきましたが、結果もだんだんと安定してくるようになったので、体を動かす訓練をしていきたいと思っています』
橙 『本当ですか…!』
青 『ただ、リハビリを始めるにあたっては、ご家族やご友人のサポートは必須になります』
青 『身体面だけでなく、リハビリは精神面も大変な部分が多いものです』
青 『ご協力いただけますか』
橙 『もちろんです…!』
紫 『よろしくお願いします』
青 『…こちらこそ、よろしくお願いします』
紫 『良いお話で良かったね!』
部屋を出ると笑顔でそう言ってきた紫ーくん。
橙 『うん!』
橙 『早く桃ちゃんに言いに行きたい!』
紫 『行こ行こ〜!』
ガラガラ、と横開きのドアが音を立てる。
こんなに嬉しい気持ちでこのドアを開けたことはない。
橙 『桃ちゃん!』
桃 『…クル』
桃 『…ニコ』
こちらを見るなり、ニコリと笑う彼。
橙 『あのね、リハビリ、始めるって!』
桃 『…!』
少し驚いたような顔をした桃ちゃんだったけど、その後すぐに笑顔になった。
橙 『俺、頑張って桃ちゃん支えるから!』
紫 『俺もね!』
桃 『…ニコ』
君の笑顔を見ただけで、自分も頑張りたいと思えた。
_______
6月1日。
ついに6月に入った。
リハビリを始めて、約二ヶ月。
桃ちゃんは持ち前のストイックさを生かし、少しずつ体が動くようになってきていた。
橙 『桃ちゃん、お疲れ様』
桃 『あ、りが、と』
言葉も途切れ途切れだけど話せるようになってきた。
本当に彼の努力の賜物だと思う。
橙 『辛いとかない?』
桃 『な、い』
橙 『すごいなあ、桃ちゃんは』
桃 『な、んで?』
橙 『リハビリが始まってから、一回も弱音吐いたことないもん』
橙 『俺やったらすぐ諦めるしすぐ弱音吐いちゃう』
桃 『ふは、w』
桃 『橙、のた、めだった、らで、きる』
桃 『橙、が支え、てくれ、るからがん、ばれ、る』
橙 『桃ちゃ〜ん…!ポロ』
桃 『w』
紫 『もう〜また泣いてんの?w』
橙 『だって桃ちゃんが泣かせてくる〜!ポロ』
桃 『かっ、てに、泣いた、んでしょw』
橙 『違うし…グス』
紫 『ふふ笑』
紫 『どっちでも良いけど、橙くんは帰りますよ〜』
橙 『え!なんで!』
紫 『桃くんこれからリハビリなんだから、邪魔しないの!』
橙 『え〜…』
桃 『また、来れ、ばいい、じゃん』
紫 『そうだよ!また来よ!』
橙 『…俺は子供じゃない!』
紫 『誰も子供なんて言ってないよw』
橙 『みんな子供扱いするもん!』
紫 『はいはい、わかったよ〜』
桃 『w』
紫 『じゃあ桃くん頑張ってね!』
ズルズルと俺を引きずるような形で桃ちゃんに声をかけている紫ーくん。
負けじと俺も声をかける。
橙 『頑張ってね〜!』
桃 『あり、がと!』
扉の閉まる最後まで、こちらを見てニコニコしていた桃ちゃん。
そんなどんどん元気になっていく彼を見て、俺たちも明るくなっていった。
_______
7月14日。
あの事故から五ヶ月経ったこの日。
俺の元に一本の電話が入った。
橙 『もしもし』
青 『いちご病院の青です』
橙 『青先生?』
青 『桃さんなんですが…』
橙 『はい…』
青 『リハビリが出来なくなってしまいまして…』
橙 『え?』
青 『とりあえず、病院に来ていただけますか』
橙 『…わかりました』
電話が切れた後、真っ先に紫ーくんに連絡を入れた。
「すぐ行く!」と返事が来て、少し安心した俺は急いで家を出た。
_______
橙 『はあ…はあ…』
病院の入り口の前でふと立ち止まると、走ってきた疲れが一気に出て、息切れが激しくなった。
紫 『橙くん!』
ちょうど紫ーくんも来たらしく、疲れ果てている俺に声をかけてくれた。
紫 『大丈夫?走ってきたの?』
こくりと頷くと、「考えて走ってきてよ〜」などと言いながら俺の肩を持ち、病院の中へと入っていく。
紫ーくんに連れられるような形で入った診察室。
青先生はいつも通り座っていた。
青 『急いで来ていただいてありがとうございます』
紫 『いえ…こちらこそ、わざわざお電話していただきありがとうございます』
青 『とんでもありません』
青 『突然ですが…桃さんについてお話してもよろしいですか』
紫 『お願いします』
橙 『…、』
青 『リハビリを始めてから今まで順調に回復に向かっていましたが、昨日の夜、体調が悪くなってしまいました』
青 『原因は確かではないですが…多臓器不全ではないかと思われます』
紫 『多臓器…不全…』
青 『はい…』
青 『以前も説明させて頂いたかもしれませんが、“急死”する可能性が最も高い症状になります』
青 『つまり…急死する確率が高くなったということになります』
橙 『そんな…』
青 『治療をすることは可能ですが、一時的な現状維持に過ぎません』
紫 『…もう、今まで通りにはいかない、ってことですよね』
青 『…はい』
橙 『…きっと、残り時間も少ないんですよね』
青 『そこに関してはなんとも言えませんが…“5年の間に”という話が、より具体化してきた可能性は高いです』
紫 『…、』
橙 『…桃の意見を最優先に、今出来ることを全てしてあげてください』
橙 『桃が苦しくないように…お願いします』
紫 『…お願いします』
青 『もちろん、最善を尽くさせていただきます』
青 『桃さんのお気持ちを最優先に、取り組んでいきますのでよろしくお願いします』
_______
ロビーの机を挟み、紫ーくんと向かい合って座る。
恋人が一種の余命宣告を受けたのにも関わらず、俺は変に落ち着いていて、逆に怖い。
紫 『…橙くん』
紫 『…ショックじゃないの?』
橙 『…、』
ショックだよ。悲しいよ。辛いよ。
でも、それは表に出ないくらい、深い感情なんだ。
橙 『…もちろん』
橙 『でも…泣けないの』
紫 『…、』
橙 『言葉が出ないって、このことなんだと思う』
紫 『…ギュ』
彼は突然立ち上がり、俺を抱きしめた。
包み込むような温かさよりも、強い、深い悲しみを感じるような、そんなハグ。
優しく抱き返すと、一粒、また一粒と俺の肩は濡れていく。
紫 『…俺だって、泣いていいよねポロポロ』
紫 『橙くんが泣けないのすら、俺は悲しくて仕方ないよ…ポロポロ』
橙 『…、』
橙 『…ええんやで』
橙 『紫ーくんは十分頑張ってるんやから』
橙 『泣く場所すら失ったら、紫ーくんじゃなくなっちゃうからな』
紫 『…橙くんポロ』
紫 『今だけ、桃くんがいない今だけ、一緒に泣こう…ポロ』
橙 『…、』
紫 『泣いて良いんだよ…』
その言葉で、今まで溜め込んでいた思いの全てが、一気に溢れ出した。
橙 『…また、また一緒に過ごせるんだって思ってた!ポロポロ』
橙 『まだ、あの優しさを、あの強さを、温かさを、ずっと感じられると思ってた!ポロポロ』
橙 『またデートできると思ってたポロポロ』
橙 『また毎日抱きしめてくれると思ってたポロポロ』
橙 『また一緒に暮らせると思ってたポロポロ』
橙 『またあの声を聞けると、あの姿を見続けられると思ってたポロポロ』
橙 『また…一緒に歳を重ねるんだって信じてた…ポロポロ』
橙 『まだ…一緒に生きたいの…ポロポロ』
紫 『…、ポロポロ』
橙 『どうして…どうして桃ちゃんがそんなことにならないといけないの…?ポロポロ』
橙 『桃ちゃんがなるくらいなら、俺がなった方がマシやったのに…!ポロポロ』
橙 『もう「もしも」の話なんかじゃないって現実を突きつけられて…俺はどうしたら良い?ポロポロ』
橙 『認めたくない…ポロポロ』
紫 『…ギュ』
さっきとは違う、包み込むような温かさを感じる。
紫 『ごめんね…ポロ』
紫 『言葉にさせちゃってごめん…ポロ』
橙 『いいの…ポロポロ』
橙 『…俺のためやってわかってるからポロ』
紫 『ありがとう…』
紫 『…桃くんのところ、行ってから帰る…?』
橙 『…コク』
涙を拭いて椅子から立ち上がり、桃ちゃんの部屋へと向かった。
_______
コンコン、とノックをすると、微かに君の声が聞こえる。
橙 『…失礼しま〜す』
桃 『橙…ニコ』
俺の名前を呼んで、ふわりと笑う君。
よっぽど君の方が辛いはずなのに、なぜそんなに綺麗な笑顔でいられるのか。
桃 『あ、紫ーくんも』
紫 『来たよ〜』
桃 『ありがと〜』
一ヶ月前までは話すのも難しかった彼が、ここまでスムーズに話せているのにはどれだけの努力があったのだろう。
本当に尊敬しかない。
桃 『青先生から聞いた…?』
橙 『…うん』
桃 『そっ、か』
桃 『また迷惑かけちゃうけど…よろしく』
紫 『…、』
何一つ表情を変えずに言う君が、苦しそうで、辛そうで。
でも、俺たちは何も力になれない。
それを心苦しく感じているのは、紫ーくんも同じようだった。
橙 『…迷惑なんかじゃないよ』
橙 『今度は俺の番や』
桃 『…、』
少しだけ君の目が潤んだ気がしたけど、すぐにいつもの調子に戻った。
桃 『まあ、助けてもらっても良いけど…?w』
橙 『なんやそれ!w』
紫 『ふふ笑』
桃 『…あ、一つお願いなんだけどさ、一回紫ーくんと二人にしてもらっても良い…?』
紫 『…!』
橙 『なんで?』
桃 『んー…友達だけの会話ってやつ?w』
橙 『まあええけどw』
桃 『また後で戻ってきて』
橙 『了解』
「また後で〜」と手を振りながらドアを閉める。
…紫ーくんと二人で何を話すのだろう。
まあ、俺よりも紫ーくんの方が大人な会話が出来るんやろな…。
聞き耳を立てることも考えたが、それは流石にやめておいた。
プライバシーに欠ける人にはなりたくないから。
なんとなく中庭に来てみたけど、俺以外に人は見つからなかった。
ベンチもがら空きなので、どこでも座り放題。
どこに座ろうか迷った末、花壇の見えるベンチを選んだ。
橙 『…ふぅ』
心地よい風が俺の体を撫でる。
…今ごろ何を話してるんやろな…。
紫ーくんと桃ちゃんだけの会話ってどんな感じなんやろ。
そういえば二人の会話ってあんまり聞いたことないなあ…。
などと、色んな気持ちが俺の頭をめぐる。
スマホを取り出し、ふとカレンダーを開く。
2月で止まったままのカレンダー。
桃ちゃんとの予定が書かれていた。
“7日「お菓子作りの練習」”
“13日「本番用作る!!」”
“14日「桃ちゃんに渡す!」”
“19日「桃ちゃんオーディション(頑張れ!)」”
“20日「久しぶりのデート♡」”
“24日「桃ちゃんの誕生日!」”
今となっては恥ずかしいくらい事細かに書かれているそれを見て、少し寂しい気持ちにもなる。
次のページを開けば、空白が続いていく。
予定を立てることすら出来ない現実を突きつけられているようで、無意識にカレンダーを開いた自分に腹が立った。
紫 『…くん!橙くん!』
橙 『あ、ああ』
紫 『「ああ」じゃないよ!何回呼んだと思ってんの?』
少し怒った口調でそう言う紫ーくんに「ごめんごめんw」と軽く返す。
橙 『…もう話終わったの?』
紫 『うん』
紫 『桃くんのとこ戻ろ!』
橙 『は〜い』
_______
部屋に戻ると、彼はベッドに座っていた。
橙 『戻ったで〜』
桃 『うい〜』
ニコニコでこちらを見る桃ちゃん。
橙 『早かったんやな、話』
桃 『え…?』
なぜか不思議そうな顔をする。
桃 『もう1時間半は経ってるよ』
橙 『え…!?』
紫 『ふふ笑』
紫 『やっぱり橙くんは橙くんだな〜笑』
橙 『もうそんなに経ってたんか…』
桃 『ふはっww』
独り言のように呟く俺を見て爆笑する桃ちゃん。
いつもと変わらないはずの日常が、今だけはすごく特別に感じる。
…ずっと、続けば良いのに。
そんな願いが通じるわけなかった。
_______
7月28日。
俺の誕生日が来てしまった。
ついに20歳…。俺ってもしかしておじさん?
…ってそんなことを考えている場合ではない。
今日は桃ちゃんと久しぶりのデートの日なんだから!
外出許可が出たのは一日だけ。
もしかしたらデートをするのは今日で最後になるかも、なんて縁起でもないことを考えてしまう。
橙 『…よし』
桃ちゃんが前に買ってくれた服を着て、準備は万端。
なるべく長く一緒にいたかった俺は、面会開始時間ちょうどに着くように家を出た。
_______
橙 『おはよ〜!』
桃 『お前…早くね?』
驚いた顔で俺の方を見る桃ちゃん。
橙 『ええやん!だって今日、“デート”でしょ?』
桃 『そうだけど…いくらなんでも9時半は早いだろ…』
橙 『いいの!』
橙 『早く準備してよ!』
桃 『お前なあ…外出許可は11時からなんだぞ?』
橙 『わかってるけど〜…いいの!』
桃 『わかったわかった…』
そう言って、唯一動く手をゆっくりとこちらに伸ばす。
その手をとると、ニコリと微笑みながら弱い力で握る君。
その仕草だけで、桃ちゃんが確実に弱っていることを感じる。
桃 『…橙の手はあったかいな〜』
橙 『なんやねん急にw』
桃 『こっち来て』
手招きして俺を呼ぶ。
桃 『…ギュ』
橙 『…、』
…細い。
俺よりがっしりしていた君がこんなにも細くなっていることに、俺は言葉も出なかった。
桃 『…大好き』
橙 『…俺も//』
君の言葉には魔法がかかっているようで、「大好き」って言葉一つで、俺は照れてしまう。
桃 『あったかいな…』
橙 『そう?』
桃 『うん』
桃 『人の温かみを感じる』
桃 『橙の寄り添うような優しさを感じるよ』
橙 『…//』
少しの間、沈黙が流れる。
桃 『…車椅子、押してくれる?』
橙 『もちろん!』
少し不安げに聞いてきた君に、俺は笑顔でそう答えた。
紫 『おはよ〜!』
紫 『あれ?橙くん?』
桃 『そうなんだよ紫ーくん…!こいつめっちゃ早くてさ〜』
橙 『ええやん!会いたかったんやもん!』
紫 『はは笑』
橙 『なんで紫ーくんが?』
紫 『ちょっと桃くんに用事があってね』
橙 『そうなんだ』
橙 『俺、いない方がいい?』
紫 『そうしてくれると助かるかも!』
橙 『おっけ〜』
紫 『すぐ終わるから、出たとこで待ってて!』
橙 『は〜い』
言われた通り、俺は部屋の前で待つことにした。
数分経って、ドアが開く。
紫 『おまたせ〜!いいよ〜!』
部屋に戻っても、さっきと何も変わっていなかった。
桃 『なんでキョトンとしてんだよw』
橙 『何にも変わってないなあ、って…』
桃 『ふはw』
桃 『別に何したわけでもないからなw』
紫 『少しお話しただけだよ笑』
橙 『ふーん…』
紫 『…あ!もうこんな時間!俺授業あるから行くね!』
桃 『了解!ありがとな〜』
橙 『気をつけて〜』
桃 『…俺たちもそろそろ行くぞ』
橙 『う、うん//』
_______
青 『必ず19時までには帰ってきてください』
青 『何かあればすぐに連絡をお願いします』
橙 『はい…!ありがとうございます』
青 『桃さん、楽しんで来てくださいね』
桃 『ありがとうございます!』
青先生に一礼し、車椅子を押し始める。
デートは桃ちゃんが計画を立ててくれているらしいが、俺は何も聞いていない。
橙 『…どこ行くの?』
桃 『まずは…高校!』
橙 『高校!?』
そんな無茶な…と思いつつ、桃ちゃんの言う通り俺たちの通っていた高校へと向かう。
橙 『…なんで高校なん?』
桃 『俺たちの出会った場所だから』
橙 『ロマンチストが…』
桃 『ww』
そんな他愛のない会話をしていると、いつのまにか高校についていた。
橙 『懐かし〜』
桃 『めっちゃ懐かしいなあ』
橙 『まだ卒業して2年くらいだけどw』
桃 『それなw』
橙 『…桃ちゃんに告白したなあ』
桃 『俺が告白したかったのになあ』
橙 『してくれればよかったやん!』
桃 『いや…なんかできなかったんだよw』
橙 『なんやそれw』
桃 『はあ…』
校舎を見つめる君の目は、少し寂しげで、何かを焼き付けているようだった。
桃 『…時間もないし、次行くか』
橙 『大丈夫?もう行っていいの?』
桃 『うん』
そう返事をする桃ちゃんは、覚悟を決めているようでもあった。
橙 『次は…?』
桃 『次は…俺の通ってた声優学校!』
“通ってた”。
過去形で話すことがどれだけ君にとって悔しいことか、想像するだけで心苦しくなる。
橙 『声優学校か…』
橙 『あの立派なとこやろ?』
桃 『そうw』
橙 『了解』
目的地に着くなり、彼は黙り込んだ。
桃 『…、』
橙 『……ギュ』
抱きしめたその体は、小刻みに震えている。
桃 『…ポロ』
桃 『…やっぱりダメだったwポロ』
桃 『割り切ってたはずなのにな…wポロ』
橙 『…我慢せんでええよ』
桃 『…ポロポロ』
俺はそんな彼の背中を、たださすることしかできなかった。
桃 『…次、行こ』
数分経って、「次に行こう」と言い出した。
橙 『どこ行く?』
桃 『そこ』
指差した先にあったのは、あのラーメン屋だった。
桃 『そろそろ橙、お腹空いたんじゃないかと思って』
橙 『ありがとう笑』
自分がどんな状態であれ、気遣いを忘れない君にまた惚れる。
橙 『桃ちゃんは…』
桃 『うん…俺はいいよ』
橙 『そう、だよね…』
桃ちゃんは、多臓器不全の影響で、ご飯もあまり食べられない。
それでも、こうして俺とご飯の時間をとってくれているのは、彼の優しさであり、気遣いの塊だ。
俺がラーメンを食べている間、ずっとニコニコしながらこちらを見てくる桃ちゃん。
「照れるからやめて//」と言っても、することがないから、と俺を見ることをやめない。
恥ずかしさも相まってラーメンを爆速で食べ終えた俺は、会計を済ませ、桃ちゃんと共に外に出る。
橙 『次は?』
桃 『次は…前行ったカフェ』
橙 『また食べるん?w』
桃 『歩いていけばお腹空くってw』
桃ちゃんの言うとおり、ここからあのカフェまでは結構な距離があるので、歩いていけばお腹は空くかもしれない。
暑さに耐えながら40分ほど桃ちゃんと会話をしながら歩くと、目的地に到着した。
橙 『ついた〜』
桃 『入ろ〜』
橙 『ああ…涼しい…』
桃 『相変わらずオシャレだな』
店に入ると、あのオシャレな雰囲気は何一つ変わっていなかった。
変わったのは…俺たちだけ。
桃 『…あれ頼んでよ』
席に座るなり、桃ちゃんは俺にお願い事をしてきた。
橙 『ガトーショコラ?』
桃 『違うよwパンケーキ』
橙 『ああ!あのパンケーキね』
橙 『いいよ』
クリームたっぷりのパンケーキを注文し、届くのを待つ。
桃 『ガトーショコラもいってほしかったけどね…w』
橙 『食べられへんもん!』
桃 『ふっ…w』
桃 『それでまたココアとパンケーキを頼んだと…w』
橙 『何が悪いんや!』
桃 『悪くはないけどw』
そんな話をしていると、あのパンケーキが運ばれてきた。
桃 『出た〜!クリームばっかり〜!』
橙 『桃ちゃんが頼めって言ったんやん!』
桃 『ごめんてw』
橙 『…いただきます』
口に入れたそれは、パンケーキ、というよりクリームを食べているような、そんな感覚。
また見つめられながら頬張っていると、「こっち来て」と呼ばれたので、身を乗り出して桃ちゃんに近づく。
桃 『…ペロ』
橙 『…!//』
口についたクリームを、ほんの少しだけ舐めたらしい。
急にそういうことをするのはやめてほしい…//
でもカッコいいから許す。
橙 『…美味しかった〜!』
桃 『本当によく食うな…そんなもの…』
橙 『美味しかったよ』
橙 『次行こ!』
桃 『行くかっ!』
桃 『次はね…家』
橙 『家?』
桃 『うん』
桃 『橙と俺の家』
橙 『本当に家がいいの?』
桃 『うん』
橙 『わかった』
カフェから家は近いので、それほど暑さも感じずに到着した。
橙 『ついたよ』
桃 『…入ろ』
橙 『うん…』
正直、俺も最近はあまりこの家にいることがなかったから、じっくり家にいるのは久しぶり。
鍵を開け、ドアを開ける。
うちはバリアフリーなどではないので、とりあえず椅子を持ってきて、桃ちゃんをそこに座らせてから、車椅子のタイヤを拭いて、もう一度桃ちゃんを乗せた。
桃 『ありがと…』
小さく呟く君は、本当に申し訳なさそうな顔をしていて、俺は大変だとは思っていなかったので、「気にせんで」とだけ返した。
桃 『…家だ』
橙 『家よ…』
桃ちゃんにとってこの家に帰ってきたのは約5ヶ月ぶり。
「行ってきます」と出て行ってから、戻ってくることができなかった場所。
ここに戻って来れることの幸せさを、お互いに噛み締めていた。
自分で車椅子をゆっくり進め、部屋中を見渡す桃ちゃん。
押してあげるか迷ったけど、桃ちゃんのペースで、自由な時間を過ごして欲しいと思った。
ある程度見終わったのか、桃ちゃんはリビングに戻ってきた。
桃 『今日は…家で終わりだから』
橙 『わかった』
橙 『他に行きたいところ…なかったの?』
桃 『あったけど…』
桃 『今の俺には…無理だった』
力なく笑う君に、何も声をかけられない自分に腹が立って仕方ない。
「そっか」なんて素っ気ない返事しかできない自分も嫌になる。
橙 『…家で何する?』
桃 『今…何時?』
時計を確認すると、“17:10”と表示されていた。
橙 『17時10分』
桃 『もうそんな時間か…』
桃ちゃんは19時までに病院に戻らないといけない。
つまり、ここを18時半には出ないといけないということ。
俺たちに残された自由時間は、あと1時間20分。
桃 『橙に…大事な話があるんだ』
橙 『…?』
桃 『そこ、座って』
橙 『…わかった』
ソファーに腰掛けて、桃ちゃんの方を向く。
桃 『…まず』
桃 『事故に遭ってから、いや、事故に遭う前から、ずっと支えてきてくれてありがとう』
桃 『俺は橙がいなかったら、きっとすぐに声優の道も諦めてたし、目指すものもなくただ生きる日々を送っていたと思う』
桃 『平凡で、わがままな俺を好きになってくれてありがとう』
桃 『…ただでさえ、橙との時間を取ってあげられなくてずっと寂しい思いをさせてきたのに、事故に遭って、一生寂しい思いをさせることになって、本当にごめん』
桃 『橙は優しいから、きっと俺を許してくれる』
桃 『でも、俺は橙に何もしてやれなかった』
桃 『橙を幸せに出来なかった』
桃 『橙が生きたいように生きるためのサポートをするって約束したのに、叶わなかった…』
桃 『…俺は嘘つきだよ』
桃 『幸せにするって誓ったのに、ただ迷惑をかけているだけ』
桃 『橙の優しさに甘えてるだけなんだ』
桃 『…それでも、橙は俺のために泣いてくれて、俺と一緒に喜んでくれて…嬉しかった』
桃 『本当にありがとう』
桃 『…本当は、リハビリ続けたかったんだ』
桃 『お願いします、って何度も頼んだ』
桃 『…橙の前で立って見せたかったから』
桃 『…でもそれも叶わなかった』
桃 『死ぬのを待つだけになっても、俺は明るく振る舞うのに必死で』
桃 『橙の前で泣きたくなくて』
桃 『声で、気持ちを誤魔化してた』
桃 『…一日が過ぎるのが早くて』
桃 『このまま時が止まれば良いのに、なんて馬鹿なこと考えて』
桃 『もう明日はいないかも、なんて未来に怯えて』
桃 『…それでも、明日に希望を持って生きてきた』
桃 『それは確実に橙がいたからで』
桃 『橙がいなかったら俺はもう生きようともしなかったし、生きる意味もなかった』
桃 『そのくらい大切な存在に「大好き」って言われることの幸せを』
桃 『大切な存在と「おはよう」「おやすみ」を言えることの幸せを』
桃 『大切な存在と生きることの幸せを感じる数ヶ月だった』
桃 『…今から言うのは、俺の人生最後の大事なお願い』
桃 『…俺と結婚してください』
桃ちゃんはポケットから小さな箱を取り出し、そっと開ける。
橙 『指輪…』
桃 『…一緒にいれないってわかってて結婚しようなんて、自分でもおかしいと思う』
桃 『だから断っても良い』
桃 『でも…この指輪だけは、受け取って』
橙 『…ぜひ、お願いします』
俺に迷いはなかった。
桃 『え…?』
桃 『本当に言ってるの?』
橙 『もちろん』
桃 『俺なんかと…結婚してくれるの…?』
橙 『「俺なんか」じゃない。「桃ちゃんだから」や』
桃 『…ポロポロ』
桃 『ありがとう…ポロポロ』
橙 『“これからも”よろしくね』
桃 『…!ポロポロ』
桃 『…“どんな形であれ”な』
橙 『…、ポロ』
橙 『ずっと…いてほしいポロ』
橙 『このまま…続いてほしいポロ』
分かってた。
そんなこと、桃ちゃんの方がよっぽど思ってることなんて。
桃ちゃんの何よりの願いであることなんて、分かりきってた。
でも、止められなかった。
橙 『…離れたくないポロ』
桃 『ごめん…ごめんな…ポロポロ』
桃 『…この指輪、俺がはめてもいい?ポロ』
橙 『コク…ポロ』
頷くと、小さな箱から丁寧に指輪を取り出し、俺の手を取る。
桃 『…お誕生日、おめでとう』
彼は俺の指に指輪をはめながらそう言った。
橙 『…!ポロポロ』
桃 『本当は…観覧車に連れて行きたかった』
桃 『観覧車の頂上で、あの時と同じようにキスをしたかった…』
桃 『大好きって伝えたかった…』
桃 『もっと完璧なデートをしてあげたかった…』
桃 『でも…もうそれは叶わないことだから』
桃 『…俺からの誕生日プレゼントは、これでも良いですか』
寂しげに揺れる君の瞳は、覚悟さえ出来ているように感じた。
橙 『…もちろんポロポロ』
橙 『俺にとっては、これが完璧なデートやからポロポロ』
橙 『今日の最後に、誕生日祝ってくれてありがとう…ポロポロ』
桃 『…、ポロポロ』
桃 『こっち…来てポロ』
君に近づく。
桃 『大好き…』
君の整った顔がどんどん近づいてくる。
橙 『…!//』
静かに、俺たちは唇を重ねた。
桃 『…こんな姿でキスされても嬉しくないかもしれないけど…w』
そう悲しげに笑う君。
橙 『んーん、世界で一番カッコよかったよ…//』
桃 『ふっ…w』
桃 『橙らしいな』
橙 『…//』
桃 『橙も、世界で一番可愛いよ』
そんなことを照れずに言えるところは変わってなくて、改めて桃ちゃんは桃ちゃんやなあ…なんて思う。
桃 『最後に…ハグ、させて?』
橙 『…コク』
桃ちゃんの胸に飛び込む。
心臓の音が、君が生きていることを証明していた。
桃 『…もう少し、このままいさせて』
橙 『…うん』
桃 『ふぅ…』
深く息を吐いて、俺を抱きしめる力が少し強くなる。
桃 『…大人になるってすごいことなんだよ』
桃 『当たり前じゃない』
桃 『だから…自分らしく、楽しく、命を大切にこの先も生きてくれ』
桃 『俺がいなくなっても、必ず橙を助けてくれる人がいる』
桃 『やりたいようにやる』
桃 『生きたいように生きる』
桃 『普通なんてないから』
橙 『…、ポロ』
付き合ったあの日と同じように、俺を励ましてくれる君。
俺の方が今は年上なのに、君の方がずっと大人で、冷静で、尊敬しかない。
桃 『俺は…橙の心に生き続けられたらいいな』
そう言って見せた笑顔は儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
橙 『もちろん…!ポロポロ』
精一杯明るく振る舞っても、涙は隠せない。
桃 『…大好き』
桃 『ありがとう』
その二言に、どれだけの想いが詰まっているかなんて、計り知れなかった。
桃 『…よし』
桃 『戻ろう…』
橙 『…、ポロ』
何かを覚悟したように、「戻ろう」と言い出した君。
本当は戻ってほしくなんてなかったけど、今ここで引き止めてしまえば、彼の気持ちを踏みにじることになりそうで、病院へと向かうことにした。
_______
外はすっかり暗くなっていた。
車椅子を押し、進もうとすると、「ちょっとだけ…待って」と、止められた。
桃 『…少しだけ、この家を見てたいんだ』
橙 『…、』
家を見上げる君すら景色になってしまいそうで、少し怖くなる。
今のこの瞬間でさえ、この先を生きていく人にとっては思い出の一部にしかならないのだと思うと、悲しくなった。
桃 『…もう、いいよ』
橙 『…わかった』
一歩、また一歩と病院へと進み出す。
俺たちはしばらく無言だった。
桃 『…楽しかったな』
先に口を開いたのは君。
橙 『…うん』
桃 『橙の20歳の誕生日…祝えてよかった』
桃 『祝えなかったらどうしようって…ずっと思ってて…』
桃 『いつが最後になるか…わかんなくて…』
桃 『…怖かった』
橙 『…、』
桃 『橙が帰るその瞬間が辛くて』
桃 『ドアが閉まるあの瞬間が苦しかった』
桃 『でも…橙がいる時は絶対笑顔でいるって決めてて』
桃 『それはこれから先も変わらないから』
桃 『橙はいつも通り、会いに来てくれたら嬉しい』
橙 『…もちろんや』
橙 『泣きたい時は…泣いてええんやからな』
桃 『ありがとう』
桃 『…よろしくな』
そう言った君の笑顔は、人生の儚さを物語っていた。
_______
青 『“デート”は楽しかったですか?』
橙 『ちょっと先生…//』
桃 『めっちゃ楽しかったです!』
橙 『桃ちゃんまで…!//』
桃 『ふはw』
橙 『もう…!//』
青 『くふ笑』
青 『わざわざ送ってくださってありがとうございます』
橙 『いえ…いつもお世話になってますので』
青 『明日からも、ぜひお見舞いにいらしてくださいね』
橙 『はい…!』
桃 『ありがとな』
桃 『…また明日』
橙 『…!』
橙 『うん!』
君の「また明日」がどれだけ勇気のいる言葉なのかを分かっているからこそ、嬉しかった。
控えめに手を振る君に手を振り返しながら、俺は病院を後にした。
_______
8月14日。
あの日から6ヶ月。
すっかり“夫婦”になった俺たちは、自分たちらしく、楽しく日々を過ごせていた。
そんな俺のもとに、プルルル、と一本の電話が入る。
橙 『もしもし』
青 『…桃さんが危険な状態です!』
橙 『え…?』
青 『今すぐこちらにお願いします…!』
橙 『…わ、わかりました!』
「わかりました」などと口では言っているが、内心は焦りで何も考えられないほどだった。
橙 『とりあえず外出ないと…』
必要な物を手に取り、俺はドアを開けた。
_______
橙 『…紫ーくんに連絡…!』
こんな状況でも、紫ーくんに頼ろうとする俺。
でも、なんとなく一人では対応しきれない気がして、彼に連絡することを咄嗟に思いついた。
紫 『…もしもし?』
橙 『紫ーくん…!』
紫 『橙くん?大丈夫?』
橙 『桃ちゃんが…!』
走りながら必死に訴える俺の声で何かを察したのか、「すぐ行くから!先に行ってて!」と言って電話を切られた。
手に持っているスマホが手汗で濡れていることにも気づかず走り続けると、病院に着いていた。
_______
青 『…橙さん!』
橙 『桃ちゃんは…!』
青 『今のところ眠っています』
橙 『生きてるってこと…ですよね』
青 『はい…ただ、大変危険な状況です』
紫 『…橙くん!』
青 『…ペコ』
紫 『青先生…』
青 『こちらの部屋で詳しくお話ししても良いですか』
橙 『…はい』
_______
もう何度来ているかわからないこの診察室。
青先生はいつにも増して深刻な表情をしている。
青 『…桃さんのことですが』
紫 『はい』
青 『先ほど、心不全を起こしました』
橙 『心、不全…』
青 『一命は取り留めましたが、今も危険な状況です』
青 『…一番初めにお伝えしたことが、現実になりかけているかもしれません』
一番初めに伝えられたこと…。
「5年の間に死亡する確率が高い」という青先生の言葉が脳内で再生される。
それが…現実に…?
分かっていたことのはずなのに、いざその状況になると現実を受け入れられない。
紫 『…、』
青 『…桃さんの状況からして、持って二ヶ月というところでしょう』
橙 『二ヶ月…?』
青 『…はい』
青 『我々も出来る手は全て打つつもりですが…厳しいかと』
橙 『そんな…』
青 『…申し訳ありません』
深々と頭を下げる青先生。
紫 『頭を上げてください』
そう言ったのは、紫ーくんだった。
紫 『先生は何度も助けてきてくださりました』
紫 『何度危険な状況になっても…ずっと、救ってきてくれたんです』
紫 『今もきっと大変な状況だったと思います』
紫 『それでも、命を守ってくれたんですよね』
橙 『…、』
紫 『…青先生が全力を尽くしても救えなかったら、きっとそれは彼の運命ですから』
青 『…ありがとうございます』
青 『必ず最後まで、全力を尽くします』
紫 『お願いします』
橙 『…ペコ』
_______
紫 『…ギュ』
部屋を出た途端、抱きしめてきた彼。
その体は、俺の冷え切った心を温めてくれていた。
紫 『…今ある時間を、大切にしよ』
彼は「残された時間」などではなく、「今ある時間」という言葉を選んだ。
「今ある時間を大切に」。
決して桃ちゃんとの時間だけではない。
全員に共通して言えることだからこそ、納得できた。
橙 『…コク』
紫 『…桃ちゃんのとこ、行ってみよ』
橙 『うん…』
_______
コンコン、とノックをしても君の返事はない。
入ってみると、ベッドに横になり、酸素マスクをつけ、たくさんの管で機械に繋がれた君が眠っていた。
橙 『…来たよ』
その声は反響することもなく、部屋に吸収されていく。
橙 『生きててよかった…』
君の手を取り、そんな独り言を呟く。
手に伝わる温かさは、お互いに生きている事実を証明していた。
紫 『…心配したよ』
紫 『生きてるだけで良いけどね』
彼の声もまた、独り言と化している。
桃ちゃんの心臓が働く音だけが、部屋に響いていた。
_______
9月14日。
一ヶ月前に倒れたあの日から、俺たちは毎日君の部屋に行っていた。
今日もまた、君に会いに来ている。
橙 『…桃ちゃ〜ん』
桃 『橙…』
日に日に君の声は小さくなっていることに気づかないふりをして、明るく振る舞う。
橙 『今日はどんな感じ?』
桃 『昨日と同じ』
橙 『そっか』
橙 『悪くなってないならよかった』
桃 『…あのさ』
橙 『…?』
桃 『俺…もう少しで死ぬと思うんだ』
突然、そんなことを言い出す君。
俺たちが余命を伝えた記憶はない。
じゃあ…どうして。
桃 『…橙は分かってるんだと思うけど』
桃 『自分の死ぬ時がわかるってのは本当なんだな…w』
そう言って力なく笑う。
桃 『…話せるうちに話しとこうかなって思ってさ』
橙 『…、』
桃 『…橙は優しくて人の痛みがわかる、素直で最高な人っていうのはこれから先も頭に入れておいてほしい』
桃 『必ず、自分が自分を認めること』
桃 『“普通”なんてないこと』
桃 『自分らしく生きること』
桃 『…命を大切に生きること』
橙 『…!』
桃 『俺の分を、橙が生きること』
橙 『…、ポロ』
桃 『俺が死んだ時は…泣かないこと』
橙 『…そんなの無理やポロ』
桃 『出来る』
桃 『そこで泣かなくても、十分橙の思いは伝わってるから』
桃 『最後くらい、笑ってて』
そう言って微笑む君。
改めて桃ちゃんの強さを感じる。
桃 『あと…』
桃 『バレンタインには、ガトーショコラを作って欲しい』
橙 『…!』
桃 『あの味、もう一回食べたかった…』
桃 『…一回しか食べてあげられなくてごめん』
そんなことを言う君を見て、心苦しくなる。
桃 『本当に口に入れることはできなくても、食べたいからさ…』
桃 『この前は「来年も作る」って約束したけど…』
桃 『「毎年作る」に変えてもいい?』
橙 『もちろん…!//』
桃 『ありがとう』
桃 『…楽しみにしてる』
急にこんなお願いをしてきたのは、きっと彼なりの優しさなのだと思う。
毎年2月14日に、なるべく「事故に遭った日だ」と俺が思い出さないようにしてくれてるのかな、なんていうのは想像でしかないけれど。
桃 『笑顔で、楽しく自分らしく、やりたいことに向かって生きてほしい』
桃 『俺の願いは、それだけ』
橙 『…ポロ』
橙 『ありがとう…ポロ』
桃 『わがまま…言っても良い?』
橙 『もちろん!ポロ』
桃 『ぎゅってして』
橙 『…!//』
…もう君の方から来ることはできないのだと実感する。
橙 『うん…//ギュ』
彼を優しく抱きしめる。
筋肉もすっかり落ちてしまった君は、このまま持ち上げられそうなほど軽かった。
桃 『…チュ』
橙 『…!?//』
まさか君の方からキスされるなんて思ってもなかった。
君のことだから、意地でも自分からしたかったんだろうな、と思う。
俺の腕の中にいる君は、負けず嫌いだから。
桃 『…下ろして』
橙 『ごめん…!』
慌ててベッドに下ろすと、少しだけ辛そうな顔を見せていた。
でもそれはすぐに戻って、またいつものように話し出した。
桃 『…橙がこの先やりたいと思ってること、教えて?』
…俺の、やりたいと思ってること。
目の前のことしか考えられない俺だけど、一つだけ、やりたいと思ったことがあった。
橙 『…声優、今から目指そうかなって』
桃 『…、』
橙 『俺は…桃ちゃんのために生きることが、今までもこれからも俺の目標やから』
桃 『…本当に言ってるの?』
疑うような目で聞いてくる君。
橙 『もちろん、本当だよ』
橙 『元々アニメとか好きで…色んな声優さん調べたりしてたんだ』
橙 『まあ…色々あって、アニメとか見れなくなっちゃってさ』
桃 『……』
橙 『桃ちゃんが声優になりたいって言った時は、正直、「良いなあ…」としか思ってなかった』
橙 『…やりたいことできて良いなって』
桃 『…、』
橙 『でも…やりたいことに向かってどんなに努力しても、結ばれないことだってあることを知って』
橙 『…生きたくても生きられない人がいることを知って』
橙 『小さい時にやりたかったことを、この先の夢にしても良いかなって思った』
橙 『もちろん、やるからには本気で、桃ちゃんと一緒に目指す』
桃 『…ポロポロ』
橙 『だって…俺は桃ちゃんの“妻”やからな』
桃 『絶対…叶えろよポロポロ』
橙 『…必ず』
俺は桃ちゃんを抱きしめた。
それは夫婦、というよりも固い絆で結ばれた友達同士でのハグだった。
橙 『大好き…//』
小さくそう言うと、君の頬が少しだけ赤くなった。
_______
9月21日。
「もうすぐ死ぬと思う」
そう言われてから一週間経ったこの日、君は呆気なく空へと旅立った。
死因ははっきりとしていないらしいが、おそらく心不全だろう、と青先生は言う。
青 『…救うことができず、申し訳ありません』
そう言って深々と頭を下げる。
橙 『頭…上げてください』
橙 『…桃ちゃん、ちょうど一週間前に俺に言ったんです』
橙 『「もうすぐ死ぬと思うんだ」って』
青 『…!』
橙 『誰も余命の話はしていないはずなのに、そう言ったんです』
橙 『だから…きっとこれは運命です』
青 『…、』
橙 『俺たちは、こうなると定められていたんです』
橙 『…誰のせいでもありません』
橙 『望んだ運命とは違ったけど、きっとこの運命にも意味がありますよ』
橙 『それに…青先生は約束通り、最後まで全力で彼を救おうとしてくれました』
橙 『その思いは、俺たちにはもちろん、彼にも伝わってますよ』
青 『…ありがとうございます』
橙 『こちらこそ…』
紫 『橙くん!』
橙 『紫ーくん…、』
紫 『よかった…生きてた…』
橙 『…?』
紫 『あ…橙くんが…』
来たと思えば、俺がいることに安心し出した紫ーくん。
橙 『…なんで?』
紫 『だって…大切な人を失ったら、逃げ出したくなるかなって』
橙 『…、』
紫 『…良いんだよ、弱音吐いても』
橙 『大丈夫…』
橙 『桃ちゃんに言われたから』
橙 『…「俺が死んだ時は、泣かないこと」って』
紫 『…そっ、か』
紫 『桃くんらしいお願いだね』
にこりと微笑む紫ーくん。
その笑顔で、俺の心が少しだけ軽くなる。
紫ーくんは青先生の方に向き直り、「青先生」と呼んだ。
青 『…、』
紫 『青先生、本当にありがとうございました』
青 『…救うことができず、申し訳ありません』
青先生は、俺の時と同じように紫ーくんに頭を下げる。
紫 『謝らないでください』
紫 『もう、僕は青先生を家族だと思ってますよ』
青 『…!』
はっと顔をあげる青先生に、彼は微笑む。
紫 『…たとえ患者と医師の関係だとしても、こんなに長い間毎日桃くんのことを気にかけて、救おうと努力されてきたんですから、青先生も僕たちと同じように悲しいと思うんです』
紫 『青先生はきっと、相当な覚悟を持って桃くんを担当されてたんだと思います』
青 『…、』
紫 『どんな過去があったかは僕にはわかりません』
紫 『でも、過去に何かないと、こんなに何度も僕たちに謝ることは無いと思うんです』
しばらくの沈黙の後、青先生は口を開いた。
青 『…紫さんはすごいですね』
青 『…その通りなんです』
青 『救えた命を…救えなかったことがあって』
青 『その時の記憶がずっと残ってるんです』
青 『だから…桃さんのことも救えたんじゃないかって考えちゃうんです』
少し目を潤ませる青先生。
青 『すみません…』
青 『僕よりもお辛いはずなのにお話聞いてもらってしまって』
紫 『…全然大丈夫です』
紫 『俺たちには、“友情”だったり、“思い出”は沢山あっても、“責任”はついてこないんです』
紫 『青先生が、今の今までずっと責任を持って、治療にあたってくれたことに、俺たちは感謝しかありませんよ』
橙 『その通りです…本当に、ありがとうございました』
青 『こちらこそ、治療へのご理解、本当にありがとうございました』
俺たちはお互いに礼をして、最後の時を過ごした。
_______
紫 『…ふぅ』
家に帰って早々、ため息をつく紫ーくん。
橙 『ため息なんて、紫ーくんらしくないな』
紫 『ふふ…笑』
紫 『色々あったなあって…』
橙 『ほんまやな…』
橙 『最後に「愛してる」って言ってくれて嬉しかったな…』
紫 『桃くんらしい言葉…笑』
橙 『絶対にカッコよく終わるんやなあ…』
紫 『はは笑』
紫 『俺も「今までありがとう」だったよ笑』
橙 『ふっ…w』
橙 『桃ちゃんやなあ…w』
紫 『…俺もありがと〜!』
突然大きな声で叫ぶ紫ーくん。
俺も続けて叫んでみる。
橙 『俺も愛してる〜!// 』
紫 『ふふ笑』
紫ーくんの声と混ざるように、君の笑い声も聞こえたような気がした。
_______
1月1日。
君がいなくても自然と時は進んでいるようで、ついに年が明けてしまった。
紫ーくんが家に来ると言うので、今は急いで片付け中。
ちなみに俺は大掃除とかしないタイプ。
そこにピンポン、とチャイムが鳴った。
正直掃除は途中だけど、「は〜い」と言いながらドアを開ける。
紫 『やっほ〜!』
紫 『明けましておめでとう〜!』
ウキウキで入ってきた彼の手には酒。
一丁前に持ってきているが、彼は酒が飲めない。
橙 『明けましておめでとう…』
橙 『その酒…どうすんの?』
紫 『これ〜?橙くんと桃くんにあげるの〜』
橙 『いやいや…』
紫 『とりあえず入るね〜』
そう言ってどんどん入ってくる紫ーくんを渋々中へ通し、ドアを閉めた。
_______
紫 『意外に綺麗にしてる〜』
紫 『桃くんいないとできないのかと思ってたw』
橙 『うるさいなあ//』
紫 『まあまあ…桃くんの話でもして落ち着こうってw』
橙 『どの口が言うてんのや!w』
紫 『はは笑』
_______
俺だけがお酒を飲み、ゆったりとした時間を過ごす。
紫 『…その指輪、つけてるんだね』
照明に当たってきらりと光る指輪を指しながらそう言うと紫ーくん。
橙 『当たり前だよ』
橙 『桃ちゃんからの誕生日プレゼントなんやから』
橙 『…でもさ、ずっと疑問やったんやけど』
橙 『桃ちゃん、あの時指輪なんて買いに行ける状況やなかったのに…どうやったんやろ』
紫 『ふふ笑』
紫 『教えてあげよっか』
不敵な笑みを浮かべる紫ーくんに、俺は頷いた。
_______
紫 『橙くんの誕生日の一週間くらい前だっけな…』
紫 『「紫ーくんと二人で話したい」って桃くんに言われたの覚えてない?』
紫ーくんと二人で…。
…あ!あの時か…?
橙 『「すぐ戻ってきていいから」みたいに言われた意味不明なやつ?』
紫 『そうそう笑』
紫 『あの時…』
_______
紫 『話って…?』
桃 『まあ、そこ座って』
桃 『…あの、さ』
桃 『橙の誕生日、もうすぐじゃん』
紫 『うん』
桃 『その日に外出許可とったんだけど』
紫 『え!?すご!』
桃 『驚くのはそこじゃなくて…』
桃 『その日までに、指輪を買ってきて欲しい』
紫 『指輪…』
桃 『…通帳、見たでしょ?』
紫 『…コク』
桃くんの治療費をどこから出すか決めていた時、確かに俺は桃くんの通帳を見た。
そして、確かに書かれていた。
“結婚指輪代”
という文字が。
桃 『そのお金で…買ってきて欲しい』
紫 『…ごめん、桃くん』
紫 『そのお金少しだけ、治療費にあてたの』
桃 『…、』
紫 『だから…桃くんがあると思ってるお金よりは少ないかもしれない』
桃 『…わかった』
桃 『少し安くても良いから、お願いできるかな』
紫 『…良いよ』
紫 『ごめん…』
桃 『大丈夫』
桃 『紫ーくんは何も悪くないから』
桃 『よろしくね』
_______
紫 『って話があってさ…』
橙 『そうなんや…』
…だからあの時、俺に通帳見せてくれなかったんだ。
本当に優しい人に恵まれたな…としみじみ考える。
紫 『俺がジュエリーショップに行って、桃くんに写真を送りつけまくったの笑』
橙 『はは笑』
橙 『…それで選ばれたんやな、この指輪が』
紫 『うん』
紫 『その指輪には俺たちの全てが詰まってるよ笑』
橙 『それは言い過ぎやw』
指輪にそっと触れると、君の温もりが感じられたような気がした。
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紫 『そろそろ帰るわ…』
橙 『うん』
明日が早いという紫ーくんは、少し早めに帰ることになった。
橙 『また来てや』
紫 『うん!すぐ来る!笑』
橙 『それはちょっと…w』
紫 『はは笑』
紫 『…まあ、また今度!』
橙 『うん!気をつけて』
紫 『はーい!』
その言葉を最後に、パタン、と扉の閉まる音が響いた。
リビングに戻り、桃ちゃんの前に行く。
ありがとう。もっと指輪大切にするね。大好き。
「…俺も」
そう、聞こえた気がした。
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2月14日。
また、この季節がやってきた。
今日は桃ちゃんのガトーショコラを作る。
「めっちゃ美味かった!」
そう、もう一度言ってもらえるように。
この日記と共に捧げよう。
_____今年も君に。