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その夜、一日中降り続いた雨は冬の太陽が沈む頃には雪になり、街灯の頼りないそれでは心まで温まらずに急ぎ足で帰路に就く人達の中にややぼんやりとした顔で煙草を咥えながらブルゾンのポケットに手を突っ込んで路面電車を待っているリオンがいた。
今日は朝から天気が悪く自転車での出勤を諦めたため、自宅に帰るには路面電車か地下鉄を利用しなければならなかった。
その電車がなかなか来ないとぼんやりと雪の中に霞む世界を見遣り、白い息を吐いて空腹感を紛らわせようとしたその時、斜めに降る雪を街灯が照らしだし、その頼りない明かりが描く楕円の中、寂しげに佇む人影を発見して目を瞠る。
その人影は女性のようでロングスカートの裾が雪と風によって広がり、このクソ寒い中良くそんな所にぼんやりと立っているなとリオンが呆れた時、淡い黄色の光の中でその女性が振り返り、もの言いたげにリオンを見つめる。
その人影-なのに何故かはっきりと目鼻立ちがリオンには理解出来た-に見覚えは無かったのだが、一度瞬きをするとその女性も目を伏せ、次いで伏せた目を上げた時には決して忘れることの出来ない女性の顔になり、リオンの蒼い瞳が限界まで見開かれる。
広くなった世界に斜めの雪が降りしきり、その雪を照らす街灯の下、ぼろぼろになったシスターであることを表す服を着たゾフィーが胸の前で手を組んでリオンを見つめてきていた。
「ゾフィー!?」
どうしてゾフィーがここにいるのか、そして何故そんなぼろぼろの服を着て雪の中に立っているのか。
冷静になればそれらの疑問総てがおかしいのだが、冷静さを失ったリオンは彼女の背後から近づく二つの明かりに気付いてはいたものの、ゾフィーのことが心配で一歩を踏み出そうとし、けたたましい警笛に我に返って何とか足を止めた鼻先を路面電車が通り過ぎていく。
危うく電車の鼻面に飛び込むところだったと冷や汗を流したリオンは、電車が通り過ぎた後にもう一度同じ場所を見るがすでに彼女の姿は無く、今のは一体何だったんだと首を傾げ、さっき己が飛び込みそうになった路面電車が自宅方面へ向かうものだと気付いて乗降のために停車したそれに慌てて飛び乗るのだった。
いつもと変わらない丁寧さで仕事を終え、クリニックを後にする時にリオンから連絡がなかった為に一足先に帰ったウーヴェは、窓の外が吹雪き始めたことに気付いて今夜のメニューを伝統的なカルテスエッセンから心身ともに温まるスープへと切り替える。
日が沈む前に連絡がなかったこととクリニックに顔を出さなかったことから今夜リオンの帰宅は遅くなるかもしくは帰宅できないかだと気付き、常備してあるザワークラウトのスープを作るものの、作り終えた時にもまだ連絡がない為にかなり遅くなるだろうとリビングの暖炉前に置いたソファに雑誌を、サイドテーブルにアプフェルヴァインのグラスを置き、本の世界に完全に入り込まないように携帯を真横におくと雑誌を捲り出す。
そしてそのまま予想外の長さでリオンからの帰宅コールを待つことになるのだが、ウーヴェが雑誌を読み終えて凝り固まった肩を解すように上下に揺らしていると、携帯が軽快な映画音楽を流し出し、壁の時計を見ながら携帯を耳に宛がう。
「Ja」
『…………オーヴェ?』
「ああ、もう仕事が終わったのか?」
電話から聞こえてくるのは荒い息遣いだったために仕事中なのかという疑念を抱きつつ問いかけると、ああだの、うんだのという不明瞭な言葉が返ってきて眉を開いてしまう。
「リーオ?」
『…………オーヴェ、なあ、オーヴェ』
「どうした?」
リオンが発する不明瞭な声はウーヴェの心胆を少し冷やすものであり、声に焦りを出さないように気をつけつつどうしたと返すと、先程と同じ不明瞭な言葉が伝えられた後に今から帰るとも告げられて瞬きをしてもう一度壁の時計を見たあとに暖炉の上で微笑む姉弟の写真に目を細める。
「今どこにいる? 迎えに行こうか?」
『……え、いや、うん、大丈夫……』
いつもならばその言葉をすぐさま明るい声で否定したり暗い声であっても大丈夫と返すのだが、今夜は本当に何事かに気を奪われているようで、その返事すらも明確なものではなかったためにソファから立ち上がると意を決して暖炉上にあるキーホルダーを掴んでリビングを出ていく。
「リオン、どちらの駅にいる?」
『……平気、オーヴェ。今アパートの下に着いたから、もう、大丈夫』
今朝出掛ける時に自転車を置いていくと笑った顔を思い出し、どちらの駅、つまりは路面電車と地下鉄のどちらを利用していると口早に問いかけたウーヴェに到底大丈夫とは思えない声が届けられ、慌ててリビングに戻って窓を開けて横殴りの雪が降る世界に頭を突き出す。
確かに言葉通り雪のカーテンの向こうにくすんだ金髪と見慣れたブルゾンが見え隠れし、アパートの中に入っていったのを確かめたウーヴェだったが様子がおかしいことから通話を終えることが出来ず、携帯を耳に当てたまま再びリビングを出ると、そのまま長い廊下を進んで玄関のドアを開け放つ。
ただひとつしかないドアの向こうに広がるフロアは静まりかえっていてただエレベーターが上昇していることを教えてくれるが、そのドアが開いて中から携帯を掴んだまま荒い呼吸を繰り返しているリオンが転げるように出てくると、ドアが閉ざされないようにサンダルを挟んでリオンに呼びかける。
「リオン!」
その呼びかけに応えるように顔が上がって視線が重なると、リオンの蒼白な顔に赤味が差すが背後を気にするように何度も振り返りながらウーヴェの元に駆け寄ると、震える手を伸ばしてウーヴェにしがみつくように抱きついてくる。
「どうした?」
「…………分からねぇ……なんか……何が……」
「?」
リオンの蒼白な顔など今までほとんど見た事が無く、唯一見た時の事を思い出すと同時にウーヴェの背中に嫌な汗が伝い落ちるもののあの時のように静かに心が壊れていく不安とはまた違う何かに脅えている理由が分からず、小刻みに震えている背中を安心させるように何度も撫でながら何とか家に連れ込むと、ようやく落ち着いたのか安堵の小さな溜息が一つ落ちる。
「どうしたんだ?」
「…………電車、待ってたんだ、けど……」
頭にうっすらと積もっていた雪を払ってやりブルゾンを脱がせながらリオンの顔を覗き込んだウーヴェは、電車を待っている間に不可思議な出来事に遭遇したと教えられて眉を寄せる。
「不可思議な出来事?」
「あ、うん、……何だったんだ、あれ……」
「落ち着いて話が出来るか?」
リオンの混乱をひとまずは落ち着かせたい思いから問い掛けると、己の言動ながら自信がないとリオンが眉尻を下げたため、リビングに行こうと背中を抱いて手を取るが寒いからベッドに行くと手を振り払われてただ驚いてしまう。
今までこのように手を払われることも無ければ、まるで顔を合わせることを避けるようにベッドルームに向かうこともなかった。
その事からリオンが受けた衝撃が大きいものだと察し、食事はどうすると背中に問い掛けると微かな声が要らないと返してくる。
寒い夜に食事も取らずシャワーも浴びずにベッドに入るのは良くないと尚も声を掛けるが、それに対する返事は無く、頼りなく見える背中がベッドルームの中に消えるのを呆然と見送ることしか出来ないのだった。
いつも優しく己をまず案じてくれるウーヴェの手を払ったことすら気付いていないリオンは、ベッドルームに駆け込むなりシャツを脱いでジーンズを脱ぎ散らかすと同時にベッドに潜り込み、つい先程己が経験した出来事を脳内で反芻する。
頼りない街灯の下、ボロボロのシスターの衣装を身に纏ったゾフィーが助けを求めるように手を組んでじっと見つめてきたのは一体何だったのか。
リオンの網膜には彼女の顔や姿がはっきりと焼き付けられ、見間違いとは考えられなかった。
半年ほど前の悲しい事件の時、ゾフィーを真っ先に迎えに行くことが出来なかったリオンは、遺体となって病院に運ばれた際に監察医であるカールによってその死因を詳しく調べる場に立ち会った。
だから彼女がもうこの世に存在しないことを知っており、その後時間はかかったが本当に親しい人たちだけが参列する葬儀を行い、彼女が神の元へと旅立つのを見送ったのだ。
それなのに、ゾフィーはあの当時着ていたであろう衣装-しかも暴行を受けたときさながらに彼方此方が破けて素足が見えていた-で姿を見せ、じっと自分を見つめてきたのだ。
何か言いたいこと、言い残したことがあったのかと思案した時、不意に天啓のような声が頭上だけではなく横臥する身体に降り注いでくる。
死に際に誰とも会えず最期の言葉を誰にも告げることが出来なかったのだ、言い残したことなどそれこそ山ほどあっただろうし、言いたいことも海のように深くあるに決まっている。
その言葉にリオンの目がみるみる見開かれていくが限界まで開かれたとき、天から降り注ぐ声が嘲笑混じりになり、その嘲笑を聞きたくなくて両手で耳を押さえて遮ろうとするが、何故かその声は直接鼓膜にぶつけられるように鳴り響く。
「――っ!!」
耳を押さえても聞こえる嘲笑を何とかしたくて頭を振るが、まとわりつく小さな虫のように嘲笑が頭の周りを飛び回り、コンフォーターと毛布を被ってもそれが止むことは無かった。
「うるせぇ!」
嘲笑に対する苛立ちを罵声に込めてベッドの中から飛び起きたリオンは、耳を押さえて頭を立てた膝の間に突っ込んで身体を小さく丸めるが、それでも脳内に響く嘲笑が消えることはなかった。
誰かこの嘲笑を消してくれと叫ぶために口を開いたとき、ドアが開いてウーヴェが姿を見せ、脱ぎ散らかした服を集めながらベッドサイドにやって来るが、リオンが頭を抱え込んで身体を丸めているのを見ると人一人分の間を取りながら正対するようにベッドに腰を下ろす。
「リオン」
一体どうした、何があったんだとは問わずに名を呼んで口を閉ざしたウーヴェは、緊張に白くなっているリオンの手から徐々に力が抜けて頭から離れたのを確かめるともう一度その名を呼ぶ。
「リーオ」
膝の間に埋めるように垂らされた顔がびくりと揺れ、手から力が抜ける時以上に時間をかけて頭が擡げられ、その顔色の悪さと未だかつて見たことのない表情に息を飲んでしまうが、躊躇いを覚えるよりも先に身体が動いていて、先程とは違い今度は何があっても手を離さないことを教えるように不安と恐怖と絶望に染まる頬に手を宛って額を重ねる。
「どうしたんだ?」
「オーヴェ……っ……」
「ああ。どうした?」
逸る心を抑えつつどうしたと根気よく問い掛ければ、掠れた声が笑い声がうるさいと呟きウーヴェの手を振り払うように頭を振る。
「うるせぇ……っ!」
この笑い声を誰か止めてくれと叫んで頭を抱えるリオンにウーヴェの目が見開かれ、笑い声が聞こえるのかと問い掛けつつ再度その手を掴んで抱き寄せると、胸板に悲鳴じみた声がぶつけられる。
「オーヴェぇ……っ!」
「大丈夫だ、リオン。大丈夫だ」
このままではいつかのように過呼吸の発作を引き起こしかねないと気付きさすがに落ち着きを喪いそうになるウーヴェだったが、それでも己にも言い聞かせるように大丈夫だと繰り返し、リオンが少し落ち着きを取り戻したのを見計らい、俯く顔を両手で挟んでしっかりと目を合わせる。
「俺が分かるな?」
「オーヴェ……っ、声、が……っ……!」
ずっと俺を嗤う声が聞こえるんだと、絶望的な現実に笑うしかできない顔でリオンが告げるとウーヴェの顔から血の気が引いてしまう。
おそらくリオンが言う笑い声はウーヴェがあの事件以降ずっと耳の奥で響いているものと同じだろうが、それが聞こえるようになってしまったことが悲しくやるせなくて、だけど幼い頃の己のようにそれに囚われて欲しくない一心でリオンの見開かれる青い瞳を真っ正面から見つめ、ウーヴェだけが呼べる名を呼ぶ。
「リーオ。俺のリーオ。誰がお前を笑うんだ?」
ここには俺とお前しかいない、誰も笑う人などいないと幼い子どもに言い聞かせるように優しく告げて額にキスをし、誰も笑っていないと念を押すように告げる。
「で、も、聞こえる……っ」
「その声は嗤ってるだけか?何か言っていないか?」
「……笑ってるだけだ」
「そうか……リーオ、リオン。俺の声とその声だとどちらが大きい?」
笑い声と俺の声のどちらが大きいんだと問い掛けつつもう一度額にキスをし、どうか伝わってくれますようにと願いながら名を呼ぶと、お前の声の方が大きいと掠れながら答えられて胸を撫で下ろす。
「じゃあ大丈夫だ。俺とお前しかいない。俺は笑っていないだろう?」
だったらその笑い声はもうすぐ小さくなって消えていくから安心しろと小さく笑い、目を瞠るリオンを安心させるために手を取ると、掌にぴたりと掌を重ねて軽く手を組む。
「もう大丈夫だ、リーオ。誰ももう笑っていない」
頭の回りに張り付いているように感じるがもう聞こえないだろうと、リオンの気持ちをある方向に向けるように囁くと、永遠にも感じる時間が経過した後に溜息と一緒にうんという頼りなげな声がこぼれ落ちる。
「もう大丈夫だな?」
もう笑い声は聞こえないだろうと囁いて汗が浮く額を袖で拭いてやると、リオンの身体から力が抜けてウーヴェに寄り掛かってくる。
「…………なんだったんだ……?」
「笑い声は急に聞こえてきたのか?」
脳内で木霊する笑い声がいつから聞こえてきたのかを問いかけるウーヴェにリオンが分からないと頭を振るが、路面電車を待っている時に奇妙なものを見たと呟くと己の呟きに過敏に反応するように目を瞠る。
「…………ゾフィー……」
「彼女を見たのか?」
その呟きから連想するものはただひとつで、リオンの心が半年前の時のように壊れかける恐怖に拳を握ったウーヴェだったが、あの時から自分たちは二人で支え合う力をつけてきたと己に言い聞かせ、事件で命を落とした彼女の姿を見たのかともう一度問えばリオンが信じられないが事実だと言いたげに眉を寄せる。
「街灯の下にいたんだ、オーヴェ」
ゾフィーが、あの事件で死んだはずの彼女が街灯の下に立っていてこちらを悲しそうに見つめていたのだと答え、ウーヴェの手を取って胸元に引き寄せるとそのまま力を失ったようにベッドに横たわる。
「オーヴェ……」
「今日はもう寝るんだ、リオン」
そんな状態では起きていることも辛いだろうからこのまま横になっていればいいと空いた手でリオンの汗ばんで湿り気を帯びた髪を撫で、どうかこの後の眠りが穏やかなものでありますようにと願いながらその髪にキスをすると、リオンがウーヴェの手を胸元に巻き込むように身体を丸める。
「オーヴェ、ゾフィーが……あいつ、何か言いたそうだった……」
「……そうか」
お前の見た彼女が何かを言いたげにしていたのならきっと言いたいことがあったんだろうと告げてリオンの髪を撫で続けるが、自分が同じような状態になった時に心身を温めてくれる命の水をリオンが作ってくれることを思い出し、お前が作ってくれる命の水とは比べられないが少しでも身体を温める飲み物を作ってくると告げて手を抜こうとすると、いつもとは違ってすんなりと手放されて驚きながらも少しでも早く温まるものを持って来ようと立ち上がる。
そしてキッチンで温めたワインに投入するだけで作る事の出来るグリューワインを手早く作り、ポットとカップをトレイに載せてベッドルームに戻ったウーヴェが見たのは、ブラインドが冷たい風に揺れている様だった。
そのブラインドが揺れる傍のベッドには人が抜け出したのを簡単に想像させるようにコンフォーターが膨らんでいて、先程までそこにいたはずのリオンの姿はなく、トレイをサイドテーブルに置いてバルコニーに出ると、薄く雪が積もるバルコニーの柵に下着姿でぼんやりと座っているリオンを発見し、姿を見つけたことで安堵すると同時にその危険性に気付くと足下から寒さ以外の震えが這い上がってくる。
慌てて大声を出して驚かせて落ちてしまえば危険だとこんな時でも何処か冷静な己が的確に指示をしたため、小さく息を吸った後にいつもと変わらないように心がけつつバルコニーに出る。
「リーオ、風邪を引くから部屋に戻ろう」
こちらに垂らした両足をぶらぶらとさせ、器用にバランスを取りつつ雪の向こうの上空を見上げているリオンに呼びかけると、その声が聞こえたことが意外だったのか、肩が揺れて次いで雪が積もり始めた頭がウーヴェを見るために下げられる。
「リオン?」
「…………あいつ、怒ってるなぁって……」
助けを求めていたのに俺は助けられなかった、だからそれを怒って姿を見せたのだと自嘲に歪む顔など直視したくなかったが、逸らすことも出来ずに頷くウーヴェに尚も色を濃くした嘲笑の声が届けられる。
「怒ってるから、だから……今もあの時着てた服のままなんだろうなぁ」
棺桶に入れた時には真新しい服を着せたはずなのに何でボロボロの事件を否が応でも思い出させる服なんだと顔を歪め、空に向かって苛立たしげに舌打ちをしたリオンは、ずっとずっと助けてくれと言っていたのに助けられなかった俺が許せないんだろうとも笑うが、そんなリオンの前に立ったウーヴェが静かにその言葉を否定する。
「俺はそうは思わないけどな」
「……どうしてそう言えるんだ?」
ウーヴェの呟きにリオンが暗く鋭い問いを発したため、こちらを向けとウーヴェも同じく強い声で呼びかけて視線を重ねる。
「お前に比べれば遙かに短いがそれでも彼女を、彼女のことをお前やマザーを通して見てきた」
そこから感じた思いに嘘や偽りはないと思うと肩を竦め、驚くリオンの右手を取って薬指に光るリングに恭しいキスをするとリオンの目が更に見開かれる。
「彼女はお前の大切な家族だ。その彼女がお前を許さない筈がない」
「……でも……あいつは……」
自分がぐだぐだしている間に殺されてしまったんだと、ウーヴェの視線から逃れるように顔を背けたリオンの口から感情に震える声が零れ、ウーヴェが右手を包んでいた手を伸ばしてリオンの背中を抱き締めると、意外なほど強い力でその身体を柵から引きずり下ろす。
「助けに行かなかったんじゃない、行けなかっただけだ」
お前にはお前の立場というものがあり、それを擲って駆けつけたい気持ちは誰もが理解できていたがそれが出来ないこともまた皆理解していたことだし、何よりも誰よりもお前が刑事であることを誇りに自慢に思っていたのは彼女だろう、そんな彼女がお前の立場を擲って駆けつけたとして本当に喜んだだろうかと問い掛け、冷たくなっている身体に熱を移すように身を寄せたウーヴェは、息を飲んだリオンを強く抱きしめ、お前はあの時出来る限りのことをしたと告げて熱と思いが伝われと頬をくすんだ金髪に押し当てる。
「……オーヴェ……っ……!」
「お前は出来ることを、お前にしか出来ないことをした。そんなお前を彼女が恨んだり許さないなどと思うはずがない。逆に迷惑をかけたことを謝りたいと思うんじゃないのか?」
お前の姉は気の強い性格の裏に大きな優しさを秘めている筈だと伝えながら空を見上げ、降りしきる雪に目を細めて空に語りかけるように口を開く。
「……リオンを連れて行かないでくれ」
その呟きは風と雪に掻き消されるほどの小さなもので、リオンが腕の中で身動いだことに気付いて苦笑すると、このままでは風邪を引くだけではなく凍傷になる可能性があることを伝えて外気が入ったことで少し温度の下がったベッドルームに戻る。
「シャワーを浴びるか?」
「…………」
冷え切った身体のままベッドに入れば風邪を引くとの思いから声を掛けるが、黙ったままベッドに横臥するリオンに溜息を一つ落としたウーヴェは、その横に腰を下ろすと同時に寝返りを打った腕が己の腰に巻き付いたため、先程の言葉に納得は出来ないが理解は出来ているのだと気付いて濡れた髪を何度も撫でると、その温もりに閉ざされていた口が開いて名を呼ばれる。
「…………オーヴェ……」
「ああ。どうした?」
「……ゾフィーさ、マジで怒ってねぇ……?」
「ああ。ボロボロの服と言っていたが彼女は真新しいきれいな服を着て大好きな向日葵に囲まれて旅立ったんだ。顔もキレイにして髪も元通りにしてもらった」
それで何を怒るんだ、さっきも言ったが彼女がお前を怒る理由が分からないと返すと上目遣いで見つめられて肩を竦めるが、本当に怒っていないのかと念を押すように問われて斜め上を見つめたウーヴェは、額に張り付く前髪を掻き上げてやり腕を撫でて自由を得るとリオンの横に並んで寝転がり、見つめてくる青い瞳に片目を閉じる。
「もしも怒っているとしたら彼女が大好きだった花を入れられなかったことぐらいか?」
「…………花?」
「ああ。確かアネモネを入れる約束したんだろう?でも棺には入ってなかった」
怒るとすればそれか、検死をした病院になかなか迎えに行かなかったことぐらいだろうと小さく笑って髪を撫でると、訝るような青い瞳がみるみる見開かれて顔にも表情が戻り始める。
「彼女のことだ、どうしてもっと早く迎えに来ないのリオンのばかぐらいは思ってるんじゃないか?」
それ以上もそれ以下もない、彼女が怒るとすればただそれだけの理由だろうと笑うとリオンが顔をシーツに埋めて一つ肩を揺らす。
「だってさぁ…………」
あの時は本当にショックが強くて仕事を放り出してしまったんだとくぐもった声で言い訳をするリオンに覆い被さったウーヴェは、己の胸の下でもぞもぞと動く身体をやんわりと押さえつけながら見え隠れする耳に口を寄せる。
「あの時は俺も本当に心配したんだぞ、リーオ」
俺にも黙っていなくなったことに対しては俺も彼女と同じで怒っていると、声を聞くだけでは到底怒っているとは思えない優しさで囁いて更にリオンの身体を揺らせたウーヴェは、小さな小さな声がごめんと謝った為、許しを与えるようにくすんだ金髪にキスをする。
「許して欲しいか?」
ウーヴェの何かを企んでいるような声音にリオンが顔だけを振り向けるが、何とかウーヴェの身体の下で寝返りを打って端正な顔を見れば、今まで己の傍にいて見守ってくれていたゾフィーと似ていながら確実に違う顔で見下ろされ、思わず息を飲んで次に出てくる言葉を待っていると、聞こえてきたのは意外な-当たり前と言えば当たり前の言葉だった。
「今からシャワーを浴びて来るんだ」
お前が今すぐシャワーを浴びて出てきたらグリューワインを飲んでベッドに入るのなら許してやると寛大さを見せながら片目を閉じるウーヴェにリオンが唇をきゅっと噛むが、顔を背けて一度だけ大きく深呼吸をする。
その呼吸がリオンの体内を巡って外に吐き出されると身体の中に巣くっていた暗い感情も吐き出されたように胸の裡が軽くなり、その軽くなった力を借りてウーヴェを見上げたリオンは、お前も一緒なら入るとつい口をついて出た言葉に自身で驚いてしまうものの、今はどれ程甘えようとも決してはね除けられないことを無意識に感じ取っている為、分かり切った答えを待っていると溜息と一緒に短く分かったと返される。
「じゃあ着替えを用意するから先にバスルームに行っていてくれ」
「………………」
「着替えを取ってこなければならないだろう?」
それでなくても誰かさんは雪が積もっている柵に下着姿で座り込んでいたのだからと、じろりと見つめられて思わず視線を逸らしたリオンは、ウーヴェの手が頭にぽんと載せられたことに気付いて顔をくしゃくしゃにする。
「……ダンケ、ウーヴェ」
「シャワーを浴びて温かくして。グリューワインを飲んで寝ようか、リーオ」
「うん」
すべての行動が己の心身を気遣うものだと改めて気付いたリオンが自然と素直な気持ちで頷くと、見つめてくるウーヴェの表情が安堵に取って代わり、次いでそのまま額にキスをされる。
「リーオ。俺のリオン。早く暖まろう」
「……うん」
その短い言葉に込められた万感の思いに心が温まったリオンは、ベッドの上を転がってベッドから降り立つと、不意に覚えた気恥ずかしさからバスルームに駆け込んでいく。
その背中にもう一度安堵の溜息をついたウーヴェは、リオンとの約束と己の前言を守るためにクローゼットを開けて二人分の着替えを取り出すとバスルームに足を向けるのだった。
温め直したグリューワインではなく、リオンの好物でもあるが心身の疲労が蓄積されていると欲しくなるらしいホットチョコにブランデーとシナモンを加えたものを飲ませると、シャワーで暖まった身体を内側からホットチョコで温められたためか、落ち着きを取り戻したリオンがベッドに横臥し、ウーヴェの腿に頭を寄せて腕を回す。
今までに何度かこのような精神状態になったリオンを見てきたが、その度に感じたのはリオンが一人になることを極度に恐れている事実で、今もまた一人になる恐怖を感じているように身を寄せてきたため、ウーヴェも同じように横になりながらリオンの手を取るともう一度薬指のリングにキスをし、ここに踏みとどまってくれてありがとうと礼を言う。
「オーヴェ?」
「……もう笑い声は聞こえないか?」
「……うん、平気」
「そうか。もしもまた聞こえたらこれを思い出せ」
この薬指に嵌っているリングの存在を思い出せば一人ではないことも思い出せるだろうと笑い、これは己が実践している方法だとリオンの目を覗き込む。
「オーヴェもやってるのか?」
「ああ。……事件を思い出させるようなことがあればリザードとこの指輪のことを思い出すようにしている」
そうすることで自然とお前のことが思い出され、結果として一人ではない、もう一人で苦しまなくても良いのだと思い出せると笑うと、リオンが軽く唇を噛む。
「俺の荷物を半分持ってくれるんだったな」
「………うん」
「じゃあお前の荷物、半分は無理かも知れないが俺が持てる限りのものは持っていよう」
目に見えない荷物を互いに分け合って持てばきっと楽になるだろうと誘うようにリオンを見たウーヴェは、黙ったまま頷くリオンの鼻先、頬の高い場所、額の順にキスをし、最後に噛み締められている唇にもキスをすると、もう寝ようとその髪を撫でる。
「明日も仕事だろう?今日はもう寝よう」
「……」
「大丈夫だ。夢を見ても起きれば俺がいる」
それにこれから目を閉じた世界で見るものは夢なのだ、どんな夢であっても目を覚ませば消えてしまうことを穏やかに伝えるとリオンの身体から力が抜けたようになる。
「……おやすみ、オーヴェ」
「ああ、お休み」
いつもよりは遙かに大人しい声でお休みを告げるリオンに良い夢が訪れますようにと願い、穏やかな寝息が聞こえてきたのを確かめたウーヴェも小さく欠伸をして目を閉じるが、リオンの手が眠りに落ちつつあるのに何かを探るように動いていることを知り、その手を掴んで手を組んでやると子どものような吐息がすぐ傍に落ちてくる。
これで安心して眠れるのなら手などいくらでも繋いでいてやると誓い、その夜、自然な動きで手が離れた後にリオンが起き出した気配を素早く察したウーヴェは、小さく見える広い背中に覆い被さるように身を寄せてキスをし手を繋いでやると安心したように眠りに落ちるのだった。
この夜以降の雪が降る夜にはリオンの脳裏に時々嘲笑が響き渡ることやゾフィーが悲しそうな顔で姿を見せることがあったが、ウーヴェが教えた方法で一人ではないこと、一人で苦しむ必要はないことを思い出し、眠るときもウーヴェと手を繋ぐといつの間にか嘲笑が聞こえなくなり、その直前に必ず見えていたゾフィーの悲しそうな顔もいつしか笑顔になっているのだった。