テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#お仕事
#秘密
「サキさん、これを消さないで! これは、みんなが明日、目を開けるための燃料なんだから! これがなきゃ、みんなただの動く肉の塊になっちゃう! 絶望できるのは、期待があったから。痛いのは、そこに心が生きている証拠なのよ!」
「しかし、抱えていれば苦しみ続ける。期待は絶望の種子でしかない。人間は、この重みに耐えられるほど強くはない」
サキが静かに叫んだ。その瞳に、初めて「苦悩」の色が浮かんでいた。
「苦しくてもいい! 空っぽでいるより、絶望している方がずっとマシよ! 私は、自分の重みを自分で背負いたい。たとえ背骨が折れたって、誰にも代わってもらいたくない! それが、私の人生なんだから!」
私は狂ったようにバッグのジッパーに指をかけ、剥がれかけた爪を立てて力任せに引き開けた。
その瞬間、天地がひっくり返るような轟音とともに、凄まじい突風が吹き荒れた。バッグの中から溢れ出したのは、黒い霧じゃなかった。それは、まばゆいばかりの、眼を焼くような黄金の光の粒だった。数万人の妄想、数万人の期待、数万人の「もしも」。弘前の夜空に、死んだはずの花筏が、重力に逆らうように一斉に舞い上がっていく。
空を埋め尽くす光の花びらの渦。その中で、私は見つけた。佐伯くんとエレベーターで会う、あのささやかな、手に負えない妄想。宝くじが当たってカフェを開き、香ばしいコーヒーの匂いに包まれる、あの青臭い夢。私はそれらを二度と逃がさないように、両手でしっかりと、強く捕まえた。
「これは、私のもの……私の、大切な、重たい荷物よ!」
胸の奥に、あの心地よい、火照るような微熱が戻ってくる。視界に色が、匂いが、音が戻る。世界が再び、残酷で美しい多面体として、私の前に立ち上がった。
ふと見ると、サキの姿が淡い光に包まれて、空へと昇っていくのが見えた。バックパックは消え、彼の表情は、初めて人間みたいに和らいでいた。彼は羽のように軽い足取りで、光り輝く花びらの中に溶けていく。
……黒川さん。あなたは、私よりもずっと強い。煩悩という名の地獄を、笑って歩けるほどに。その重みが、いつかあなたの翼になることを祈っています
最後に、そんな声が聞こえた気がした。
連休明けの月曜日。東京の桜はすっかり散り、木々は力強くて、少し厚かましいほどの鮮やかな緑の葉を茂らせていた。
午後三時。私は新しい職場で、PCの画面に向かっている。前の会社は結局辞めた。あんな課長の下で、効率という名の死を待つ時間は、私の人生にはもう一秒たりとも必要なかったから。新しい仕事は、小さなデザイン事務所の事務だ。給料は少し下がったけれど、窓からは街路樹の緑が見え、ラジオからは誰かが選んだ少し古臭いラブソングが流れている。
指先は軽やかに動くけれど、時折、ぴたりと止まる。
もし、来年の花見に、私から佐伯くんを誘えたら。いや、まずは今度の週末、偶然を装って彼が通っているジムの近くを歩いてみるのはどうだろう。それとも、新しい靴を買って、彼に似合うような服を選んで……
新しい妄想が次々と頭をもたげる。彼は驚くかもしれない。あるいは、もう彼女がいるかもしれない。最悪の場合、完全に不審者扱いされるかもしれない。けれど、その「最悪」を想像することすら、今の私にはたまらなく愛おしい。退屈な伝票入力の作業が、その可能性の影を含んで、万華鏡みたいに輝き始める。
ふと、オフィスの窓から一筋の風が吹き込んだ。葉桜が五月の乾いた風に、誇らしげに揺れている。
カバンの中には、弘前からの帰りに買った新しい宝くじが眠っている。当たるはずなんてない。数学的確率を見れば、紙屑に等しいのはわかってる。でも、もし当たったら、青森に小さな家を買って、毎年あの花筏を見に行こうか。いや、それとも……。
私は静かに微笑み、再びキーボードに指を置いた。
私の煩悩は、私だけのもの。誰にも預けず、誰にも消させず、私はこの愛すべき「重み」を一生背負って、次の季節へと歩いていく。
世界は、どうしようもなく美しくて、そして重たい。私は今、その重さを噛み締めながら、確かに「私」として呼吸をしている。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!