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翌朝。
斗希は休みだからか、私が出社する時も眠っていて部屋から出て来ない。
いや、休みの日でも、私に合わせて起きて、朝食の用意をしてくれていたな。
キッチンに行き炊飯器を見ると、
ご飯も炊けていなくて。
元々、私は朝食をちゃんと食べていなかったけど、
習慣なのか、最近は朝起きるとお腹が空くようになっていた。
出社途中に、何処かファストフードでも立ち寄って、何か食べよう。
まだ実感はないけど、私は妊娠している。
よく聞くように、つわりが始まったら、食事なんて摂れないかもしれないから、今のうちにしっかり食べておこう。
色々と覚悟が決まっているからか、
その日は、心が妙に軽やかだった。
後は、全てを終わらせるだけ。
秘書室の自分のデスクに座り、壁に掛かった時計を見ると、
15時を回った所。
この時間、予定では川邊専務は専務室にいる。
今日は朝からマリトイトイ社への打ち合わせに出向き、先程、帰社している。
私は、適当に用意したその書類を持ち、
専務室へと、向かう。
ノックをすると。
中から返事があり、扉を開き専務室へと足を踏み入れる。
川邊専務は執務机の前に座っていて、特に何かをしていたわけではなさそう。
「俺に、何か用か?」
そう訊かれ、はい、と頷いた。
「その持ってるやつはなんだ?」
「これはいつか私が間違えて用意し損ねた、マリトイトイ副社長山本礼二氏の、経歴を纏めたものです。
流石に、手ぶらでこちらに伺うのもあれなので」
私は執務机に近付くと、それを机に置いた。
「で、なんだ?」
相変わらず、目付きの悪い人だな、と思ってしまった。
「あれから、寧々さんどうなりました?」
私のその問い掛けが予想外だったのか、少し拍子抜けしたような表情を浮かべている。
「ああ…。
今週から、言ってたうちの子会社で働き出している。
親権とかの問題は、まだまだだけど」
「そうですか」
とりあえず、寧々さんの事はいい方向に向いていて、良かった。
「後、川邊専務と奥さんの問題は…」
川邊専務の左手の薬指には、今日も結婚指輪が光っている。
それは、シンプルなプラチナのリング。
私と斗希には、手に入れられなかったもの。
「ああ、それは大丈夫だ。
梢は俺にベタ惚れだし、俺も同じで。
結局、お互い好きなら、どんな問題が起こっても大丈夫なんだろうな」
そう言い切る川邊専務と、
その奥さんの梢さんが、本当に羨ましいと思った。
「って言いたい所だが、まあ、少し。
ほら、こないだ梢とお前らの所行った後、
家帰ってから、朝方まで土下座させられて。
んで、あれだ。
朝、寧々の電話で俺が勝手に家から飛び出したから、
また梢の奴、スゲェキレて。
謝り倒して、なんとかなったけど」
それは大変だったのだろうけど、
何処か楽しそうに語るその顔を見ていて、
大丈夫なんだ、と安心出来た。
「本当に、私のせいですみませんでした」
そう言って、頭を下げた。
顔を上げると、川邊専務と目が合う。
「いや、お前だけが悪いわけじゃねぇ」
「え、私が全部悪いでしょう?」
もしかして、斗希も?とか?
私が川邊専務を嵌めたのは、そもそも私と斗希とのつまらない争いから。
「いや。マジで浮気する気はなかったんだけど。
なんつーか、俺もお前みたいな若い女に飲みに誘われて、あの時ちょっと浮かれたんだよ。
お前がババアでブスなら、俺絶対行ってねぇし。
そういう所を梢に見透かされていて、あいつもキレてんだろうな」
「そうですか…」
この人、本当にこの先も浮気は絶対にしないのだろうか?
私には関係ないけど、ちょっと心配。
「後、悪いけど。
俺の秘書から外れてくれねぇか?
梢は何も言わねぇけど、やっぱり嫌だろ。
俺の方から、秘書課の室長に言っとく」
川邊専務はそう言って、ごめん、と謝った。
「いえ。それには及びません。
今朝、人事部に辞表を出しました。
室長にも話してます。
今週一杯は出て、後はたまっている有給を消化する予定になっていますが、明日からは体調不良を理由に欠勤しようと思ってます。
暫くは、専務の秘書は岡田さん一人になりますが、室長もフォローしてくれるだろうし、大丈夫だと思います」
「なんで辞めるんだ?」
そう訊かれ、それに答えられなくて口を閉ざしてしまう。
私の妊娠は、このままお腹が膨らんだら、いつか周りに知られる。
川邊専務の秘書を辞めても、
この会社の顧問弁護士の斗希とは、ここに居たらまた顔を合わせてしまう。
斗希には、この妊娠を知られたくない。
私が妊娠している事を知って、斗希はどう思うのかと。
「いや。答えにくいなら、いい。
そっか。分かった。
斗希と仲良くな」
斗希の名前に、胸がギュっと痛くなる。
この人は、私と斗希が離婚する事を知らない。
遅かれ早かれ、それは知られるだろうけど。
「斗希の奴、マジで小林の事好きみたいだな。
寧々にお前の事殺すって言われて、
あいつあの部屋に行く迄、スゲェパニックになってて。
長い付き合いだけど、あんな風なあいつ初めて見た」
なんだか涙が込み上げて来そうになるけど、
それは、どういう涙なのか自分でも分からない。
単純に嬉しいのか、斗希と別れる私は、今さらそれを知って、悲しいのか。
「川邊専務、私もう小林じゃないですよ。
結婚して、滝沢ですよ」
また、小林に戻るけど。
「うっせぇ、滝沢って、なんか呼びにくい」
そう言って笑う川邊専務に、
「今までお世話になりました」
ともう一度頭を下げると、
専務室から出た。
今日の私は、川邊専務だけではなくて、
もう一人話したい人物がいる。
久しぶりに訪れる、社長室。
先程、社長の担当秘書の中島さんに、
退社するので、最後に眞山社長に挨拶がしたいから、と、伝えてある。
ノックをすると中から、はい、と眞山社長の声が聞こえた。
「失礼します」
そう言って中に入ると、私を歓迎するような笑みを浮かべている。
「この度、退社する事となりました。
一年程社長の担当秘書としてお世話になりましたので、
最後に、挨拶にやって来ました」
「いえ。こちらこそ、結衣にはかなり助けられた。
ありがとう。
これからも、元気で」
この部屋に私達以外誰も居ないから、私を結衣と呼ぶけど。
その言葉は、私とは仕事以外で特別な何かがあったと思わせないもので。
「眞山社長、私妊娠してるんです」
そう言うと、ほんの少し驚いたように、目を開いた。
「それは、おめでとう。
それで、退社するの?
お腹はまだ目立ってないけど、つわり酷い?」
この人は、それは斗希の子供だと思っているのだろうか?
「眞山社長の、子供です」
その言葉を聞いても、眞山社長の表情は変わらない。
「あの夜に出来た子供です。
私、もうピル飲んでなかったんですよ。
今度は、本当です」
以前、そんな嘘を付いた事を思い出した。
この人に別れを切り出され、苦し紛れに。
「でも、結衣は滝沢君と結婚していて。
滝沢君の子供って事はない?」
「斗希とは、そんなんじゃ…。
眞山社長もなんとなく気付いてたでしょ?
私と斗希との結婚には、何か訳があるんじゃないかって。
でなきゃあ、ああやって結婚した私を、ホテルに呼んだりしないですよね?」
そう言う私を見ながら、眞山社長は、まあ、と笑っている。
「確かに、なんで滝沢君、結衣と結婚したんだろ?と不思議には思ってた。
滝沢君もそうだけど、結衣も、そんな感じじゃなさそうだし。
けど、それを結衣に聞いてやぶ蛇になるのもね」
やはり、この人にとって私は面倒な女で。
その私を、斗希に押し付けられて、ラッキーくらいに思っているのだろう。
「話を戻しますけど、私妊娠してます。
証拠は、こんなものしかないですけど」
昨日、病院で貰ったエコー写真を、眞山社長の目の前の執務机に置いた。
「本当に、俺の子供?」
「はい。斗希とは体の関係はないので」
そう、嘘を付いた。
「で、何が目的?
妊娠をネタに、結婚でも迫る?」
「まさか。もうあなたなんかどうでもいい」
そう口にして、もうこの人に一切特別な感情がないと思った。
「私、この子供を、産もうと思っています」
「え?けど…」
けど、に続くその言葉は、結婚しないのに?って事だろう。
「別に、あなたの子供だなんて、誰にも言うつもりはないし。
斗希とも別れて、私一人で育てるつもりです」
「それなら、わざわざ俺に話さず、勝手にすればいい事だと思うけど。
俺にこうやって話す結衣の目的は、何?」
「―――お金です」
意を決したように、そう言葉にする。
「口止め料って事?
で、それはいくら?」
「300万…」
それくらいあれば、なんとかなると考えた金額だった。
私は実家には頼れない。
とりあえず、この会社を辞めても、
何処かで働ける迄は働くつもり。
在宅ワークとかも考えて、いる。
だけど、子供を産んだら暫くは働けないだろう。
その間をなんとかする為に、そのお金が必要。
「分かった。
小切手で、いい?」
眞山社長の、こうやってあっさりとしている所は、この人に付いていた仕事上でも、楽だと思う事があった。
その時、ノックが聞こえた。
「はい。どうぞ」
眞山社長がそう答えると、社長室の扉が開く。
その扉から姿を現したのは、斗希。
え、と、眞山社長を見てしまう。
「あれ、結衣知らなかった?
一時間程前、滝沢君から少し時間を作って欲しいって言われてて」
その眞山社長の言葉を聞く感じ、
斗希も眞山社長に何か用があったのだろう。
でも、今日、斗希は休みのはず。
けど、しっかりとスーツを着ていて、
普段裏向けに付けている弁護士バッチも、表向き。
「失礼します」
斗希はそう言って、私の横迄歩いて来る。
「もしかして、また結衣から社長の子供を妊娠したとか言われて、脅されてました?」
斗希の視線の先にある、エコー写真。
私は慌てて、それを手に取り隠す。
「もしかして、美人局か何か?
夫婦で?」
眞山社長は苦笑している。
私は私で、斗希に妊娠を知られた事に、頭が混乱している。
「結衣のお腹の子供は、俺の子供です」
斗希の言葉に、私も眞山社長も、え、と声が漏れる程驚いてしまう。
「夕べ、結衣とちょっと喧嘩してしまって。
それで、お腹の子供が俺の子供じゃなくて社長の子供だとか言い出したんでしょう。
夫婦喧嘩に、社長の事を巻き込んでしまってすみません」
そう言って、斗希は笑みさえ浮かべている。
もしかして、斗希は、この部屋に来てエコー写真を見る前から、私の妊娠に気付いていた?
でなければ、こうやって驚きもせず、
そんな言葉を口にしたりしないだろう。
「それで滝沢君、今日は何の用?」
「それなんですけど」
斗希は、私よりも前に一歩出る。
それは、少し私を押し退けるように。
「単刀直入に言いますけど、
篤の奥さん宛てに、あの写真や音声が入った封筒を彼らの家のポストに入れたのは、あなたですね?」
その斗希の言葉に、驚いて眞山社長の顔を見てしまう。
その口角が、楽しそうに上がる。
「あの写真は、ベリトイの社員の誰かに撮らせました?」
そう言えば、あのイベントにはうちの会社の社員も沢山参加していたし、
同じホテルにも何人もうちの社員が宿泊していたはず。
「この会社に、あなたと同じように、元々NANTENスクエアの社員が数名居ます。
そうやって、あなたの息が掛かった社員にでも、あの出張の時篤の事見張らしてました?
実際に篤と結衣が過ちを起こさなくても、そんな風に見える写真でも押さえて来い、と」
「あれ?滝沢君にしては、そんな憶測だけの言葉だけしか用意してないなんて」
「篤の住んでるマンション、エントランスのポスト付近に防犯カメラがあって、管理会社に頼んで見せて貰いました」
その言葉には、眞山社長も少し動揺を見せていた。
「嘘、です。
いくら弁護士でも、そこまでの権限はないですよ。
それに、その防犯カメラに映っているのはあなたではなく、あなたに命令された誰かでしょう」
「映ってるのは、俺だと思うよ。
ほら、川邊専務、この会社近くに住んでるだろ?
ちょっと、そっちに行くついでがあったから、それで」
自供とも思える、その言葉。
眞山社長は、笑っていて。
「まあ、それが公になれば名誉毀損や侮辱罪。
篤の立場を考えたら、脅迫罪?」
「川邊専務は、俺を訴えるつもり?」
「いえ。篤はあなたがだなんて、一切気付いてない。
それに、篤的にあれは公にしたくないでしょう。
今回、俺が気付いたのは、もしかしたらって。
結衣のスマホから、あの音声を手に入れました?」
その斗希の言葉に、え、と眞山社長を見るが、ふ、と口元を綻ばせている。
「結衣がスマホを指紋認証にしていたのを、前から知っていたから。
あの日、結衣を睡眠薬入りのワインで眠らせて。
ゆっくりと、スマホの中見せて貰ったよ。
結衣ったら酷くて。
俺とのエッチの途中で寝ちゃって。
それで興醒めして、あの時、結局イケなかったな」
眞山社長はクスクスと楽しそうに笑っていて。
斗希を見ると、驚いてしまった。
斗希は怒りを現すように、眞山社長を睨み付けていて。
「だから、生ではしたけど、最後迄はしてないから。
結衣に俺の子供を妊娠したって言われて、ちょっと半信半疑だった。
絶対ないとは言えないけど」
あの時、中では出されてはいないとは思っていたけども、
眞山社長のその話を聞いていて、
この人の子供の可能性が少しでも下がったのだと、安堵してしまう。
「さっき、滝沢君が言っていた通り。
うちの社員に川邊専務と結衣が不貞に見えるような写真を撮るよう命令した。
じゃあ、本当にそうなっていて。
後は、もっと確実な何かが欲しくて、結衣のスマホを見せて貰った。
川邊専務とのメールかLINEのやり取りとか、不倫を匂わせるものでもないかと。
そうしたら、あんなもの見付けて。
結衣のスマホから、あの音声をメールで俺に送った」
眞山社長は、私や斗希、川邊専務がそれを公にするつもりはないと分かっているからか、
イタズラを得意気に話す子供のように語る。
「で、滝沢君は、どうしたいの?
俺からその真実を聞いて?」
「もし、まだあの音声データが眞山社長の手元にあるなら、消去してくれませんか?」
「もし、それを断ったら?」
その問い掛けの答えなのか、斗希はスーツのポケットからICレコーダーを取り出した。
斗希の事だから、今の会話も録音してあったのだろうけど、
この件を公にしないのならば、
今の眞山社長の自供は、なんの脅しにもならないのでは?
斗希は、それを触り、それを再生する。
『―――父親に、婚約前に身辺を綺麗にしてろって言われて。
結衣の事は、けっこうお気に入りだったんだけど。
ゴムにアレルギーがあるとかちょっと嘘付いたら、ピル飲んでくれて、中出しさせてくれるし。
それに、まだ処女だったから、俺しか知らなくて、可愛くて。
けど、重いんだよな』
その録音の声は眞山社長で。
時々、相槌のように斗希の声が聞こえる。
きっと、私との別れの代行を、斗希に頼んだ時の音声なのだろう。
斗希はもう十分だというように、それを止めた。
本当に、なんでこんな人を、と、眞山社長を睨み付けてしまう。
「あの音声は、消して下さい。
この先、あれを篤に対して何かの脅しや嫌がらせに使う事があれば。
そうなれば、今のこの音声が、誰の耳に入るか分かりませんよ?」
「けど、そんな事したら、滝沢君もヤバいんじゃないの?」
「そうでしょうね。
守秘義務違反で、下手したら、弁護士資格の剥奪もありうるかもしれない。
でも、俺、公認会計士の資格も取ってるんで」
そう言って、クスリと笑う斗希に、
眞山社長も小さく笑う。
「眞山社長、なんでこんな事をしたんですか?
この先、あなたにとって篤の事が邪魔になるからですか?
離婚でもさせて、篤の会社内でのイメージを悪くさせようと?」
斗希のその言葉の意味は、いつか眞山社長が今よりも上に行く事に、川邊専務が邪魔だという事だろう。
現在、親会社であるベリナングループの社長は、眞山社長のお父さんだけど、
会長は、川邊専務のお父さん。
いつか、眞山社長と川邊専務はこのベリトイを出て、
ベリナングループの会長の座を争うのかもしれない。
「いやいや、もっとシンプルな理由。
俺は、川邊専務が嫌いなんだよ。
ああいう、子供がそのまま大人になったような人間が」
そう、軽く笑いながら話しているけど、
その言葉は真実のような気がした。
「滝沢君も、そうじゃない?
そう感じたけど?」
その眞山社長の言葉に、斗希は笑みを返している。
それを、肯定するように。
「篤は…。
子供のまま大人になったんじゃなくて。
あいつは、子供の時からずっと俺なんかより、大人だった」
その斗希の言葉が、なんだか悲しく胸に響いた。
「俺に結衣との事を頼んで、そうやって俺に近付いて。
この先、俺があなたの駒になって、篤を裏切るかどうか確かめてました?」
斗希のそれに、眞山社長は否定も肯定もしなかった。
「後、眞山社長の方から、川邊会長の娘さんとの婚約は、断って頂けたら、と思います」
「分かった。
それはうちの父親が、煩く騒ぐかもしれないけど」
困ったように、クスクスと笑っている。
「では、眞山社長。
これで失礼します」
斗希は私の手を引き、そのまま社長室を出た。
「あの、斗希…」
社長室を出て、斗希に色々と訊きたかったけど、
「あ、結衣。
次は、川邊専務に取り次いで。
専務の担当秘書でしょ?」
そう、先に言われて。
「―――分かりました」
社長室からすぐの所にある、専務室の扉をノックした。
すると、すぐに、はい、と返事がある。
私は扉を開け、
「川邊専務。
Y法律事務所の滝沢様が、川邊専務にお会いしたいと、今、お見えになってますけど。
いかがしましょう?」
そう伝えた。
「斗希が?
分かった。通せ」
その言葉を待っていたかのように、
私の後ろに居た斗希は、そのまま専務室へと入って行く。
それは、私の手を引いて。
私と斗希は、川邊専務の居る執務机の前へと立つ。
「なんだ?」
相変わらず、目付きが悪いのだけど、
なんとなく、その川邊専務の声に力がないような気がした。
「円さんとの事、聞いたんでしょ?
前に円さんから電話があって。
篤に全部話したって」
「ああ。
寧々の事があって、すぐくらいか?
そん時、姉貴に謝られた。
もし、もっと早くに俺に打ち明けていたら、
もしかしたら、俺とお前の関係がそこまで拗れなかったんじゃないかって」
川邊専務はそれを知って、怒っているのだろうけど、それは静かで。
なんとなく、もっと激しく怒ってくれていた方が、
川邊専務と斗希とのその関係は、修復出来たんじゃないかと思ってしまう。
今、川邊専務が感情的に怒らないのは、
もう、斗希に対して諦めているのだろう。
円さんと斗希との関係は、18年間。
その長い年月、斗希は何もなかったように川邊専務の隣で笑っていて。
川邊専務は、18年間、ずっと斗希に裏切られていた。
その年月の、重み。
円さんの言うように、もっと早ければ…。
まだ、二人は元に戻れたかもしれない。
「篤、俺はお前の事がずっと嫌いだった」
「そうか」
斗希のその言葉を受け止める川邊専務の顔は、きっと、それを分かっていたんだろうな、と思うもので。
「後、所長に言って、ベリトイの顧問をうちの他の先生に代わって貰う。
元々、俺が篤の友達だから、って、
川邊会長が俺を推薦してくれてたみたいだけど。
その辺りは、なるように」
「分かった」
「後、結衣を今日は連れて帰っていい?
今後の事について、夫婦で話さないといけない事が多くて」
ね?、と急に斗希に笑いかけられて、戸惑う。
確かに、この人に訊きたい事は沢山あるけど。
「分かった。
俺も適当にこいつの上司に言っといてやる」
私の意見を無視して、勝手に二人の間で話が進んでいて。
退職届を出した日に、早退っていいのかな?
そりゃあ、明日から体調不良で休むつもりだったけど。
「つーか、こいつがベリトイ退職するのは、お前知ってんのか?」
「え?
知らなかったけど、予想はしてた。
近いうちに、この会社辞めそうだなって。
結衣、妊娠してるんだ。
俺の子供を」
再び言われた、その言葉。
一体、どういうつもりなのだろう?
「そっか。
小林、体大事にな。
いや、滝沢だったな」
そうかけられた言葉に、なんだか目頭が熱くなる。
「なんかあれだよな?
女と別れる時って、なんつーかその少し前から予感あるだろ?
こいつと次会ったら、別れ話になりそうだな、って。
友達同士でも、あんだな?」
「そうだよね。
俺も次に篤に会ったら、それが最後になりそうだな、って思ってた」
だからお互い、最近は全然連絡を取り合っていなかったのだろうか?
次が最後だから、その次を先延ばしするように。
「斗希、じゃーな」
「うん」
斗希はそう言うと、私の手を引いて専務室から出た。
◇
私は室長に体調不良の為早退すると伝え、
妊娠している事も伝えた。
もう、斗希に知られているので妊娠を隠す必要はない。
そうすると、体が辛いなら、明日も遠慮なく休んでもいいと言われた。
室長の奥さんが妊娠の度、重度のつわりで入院していたらしく、
それで親身になってくれた。
「斗希」
私は荷物を纏め、会社の近くの公園のベンチに座っている斗希に、近付いた。
斗希は、やはり本を読んでいて。
それを閉じて、私に視線を向ける。
私も、斗希の隣に腰を下ろした。
「斗希、どういうつもり?」
「え?
あれ?眞山社長や篤に、お腹の子供が俺の子供だと言った事?」
「そう…。
斗希も分かっているでしょ?
絶対に斗希の子供か、分からない」
だから、何を考えているのだろう?
「眞山社長もO型なんだって。
前に話した時、言ってた」
「えっと…」
それは、その。
血液型だけでは、斗希か眞山社長の子供か、どちらか分からないって事?
斗希も、O型。
「もし、俺の子供じゃなくても。
子供がある程度大きくなって、自分の血液型知って、それで気付かれる事はない。
それに、俺は父親みたいに、確めたりしない」
それは、DNA検査って事だろうか?
「もし、生まれた子供が眞山社長そっくりだとしても、構わない。
俺の子供だと愛すから。
だって、結衣の子供だから」
その言葉に、涙が溢れて来る。
斗希の言葉が、嬉しくて。
「結衣には、俺の昔の話を聞かせたから、よけいに色々と考えさせたのかも。
けど、俺は父親とは違うから」
その言葉に何か言葉を返したいけど、
嗚咽が止まらなくて頷くのが精一杯。
「昨日の夜、離婚切り出された時。
結衣もそうやって俺から離れて行くのか、って。
本当に、辛かった」
ごめんなさい、と声にならない声で斗希の手を握る。
その手を、握り返してくれた。
「あの後、部屋に一人になってから、
録音していたその時の結衣の言葉を聞いてみた」
昨日の夜のあの話し合いも、録音していたの?
「言葉に惑わされずに聞いたら。
結衣、苦しくて泣いてるみたいに聞こえた。
だから、離婚を切り出したのは、何か理由があるのか、って」
「うん…」
「朝、結衣が出て行った後、悪いけど、結衣の部屋色々と漁らして貰った。
産婦人科の医療明細書と、使用済みの妊娠検査薬も見つけた」
だから、私が妊娠していた事を、知っていたんだ。
「後、離婚届は、処分したから」
「うん…」
「それと、これ」
そう言って、斗希は私に、銀行の通帳を手渡して来た。
その通帳は古ぼけていて、口座名は、私の名前。
旧姓の、小林結衣。
「今日、結衣の実家に行って来た。
こないだの無礼を結衣のお母さんに謝るのもそうだけど、
結衣が妊娠している事を伝えて来た。
そしたら、それ、渡された」
斗希の言葉を聞きながら、通帳のページを捲る。
それは、私の幼い頃から、少しずつ貯金されていて。
最近の方を見ると、毎月10万円ずつ増えて行っている。
最近のその10万円は、私が母親に返済として渡していたお金だろう。
合計で、500万円近くあった。
「里帰り出産はしないで、とか相変わらずだったけど」
そう、苦笑している。
その古ぼけた通帳を見ていると、
私はずっと母親に愛されていたのだろうか、と、そんな気持ちにさせられた。
「遠いのに…」
私の実家は、電車で往復四時間の距離。
「いいよ。けっこう本読めたし。
それに、色々と考えれたから。
俺はちゃんと結衣を幸せにしてあげられるのか」
斗希はそう言うと、
「一緒に幸せになろう」
そう伝えてくれた。
「あ、後、指輪買わないと。
前回、色々あって買いに行けなかったから。
今から行こっか」
そう言って、斗希は私の手を握ったまま、ベンチから立ち上がる。
私も同じように、立ち上がった。
「嫌?」
そう訊かれるけど、それはどの事に対してなのだろうか?
一緒に幸せになる事なのか、指輪を買いに行く事なのか。
繋がれたままの手なのか。
【終わり】