テラーノベル
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「遅くなりました!」 玄関外に車椅子を押している、小林先生に声をかける。
「ああ、丁度良かったです。座位保持装置を拭くのを手伝ってもらえませんか?」
小林先生は、今日も穏やかな笑顔を私に向けてくれる。
「はい!」
私は車椅子。小林先生は座位保持装置を、濡れタオルで丁寧に拭いていく。
座位保持装置。一般の車椅子とは違い、頭部や座面を下げることの出来る性能がある。
これに乗るのは肢体不自由な子や、医療的ケア児。
療育園に来るのは発達障害、知的障害の子ばかりではない。疾患や身体障害、医療的ケアを必要とする子供達は年々増えている。
「凛ちゃんのお母さん。お仕事、始められたそうですね?」
小林先生は手を動かしながら、そう声をかけてくれる。
「はい。以前勤めていた会社の方に、パートで復帰しないかと前より声をかけてもらっていたそうです。販売部の方らしくて、十時から十四時だそうです」
「良かったです。人生の全てを、子供に捧げるのは違いますからね」
「……はい」
その言葉に思い出すのは、年度末に行った懇談時の言葉だった。
『鏡を見て、やっと立ち止まることが出来ました』
ボソッと、そう呟いていた。
それから変わっていくお母さんの容姿に、私だけでなく他の先生達も二度見するぐらいだった。綺麗な人だとは思っていたけど……、と言葉を詰まらせてしまうぐらいに。
『あれが本来の姿だったんですよ』
にこやかに話す小林先生に、ただ頷いてしまった。
「ご夫婦で大学病院に行って医師より眠剤についての話を聞き、話し合いの末に投薬を始めたそうですね。元々、博識なご夫婦ですから。感情論は抜きにして、医学に基づいたデータからどちらを選択するか。立ち止まることで、冷静になれたのだと思います。佐伯先生のおかげですよ」
「そんな……。あの時、小林先生が言ってくれたからです……」
五ヶ月前のあの日、「もう一度、カンファレンスを開くことは出来ませんか?」。その言葉を出せたのは、小林先生のおかげだった。
私の希望により開かれた、二度目のカンファレンス。そこで、お母さんが付き添いを辞めるようにしたいと申し出た。
お母さんの目下に隈があった。療育園で預かりをする間に寝て欲しい。そんな思いで。
それから始まった支援。まずは直向きなお母さんから、凛ちゃんを離さないといけない。だから一番に尊重するべきとされる母子の考えではなく、こちらの考えを押し通した。
本来なら、絶対にしてはいけないことを。
母子分離は慎重に進めないといけず、凛ちゃんが療育園に不信感を持ったら、もう来てくれなくなる。
だから慌てず、慎重にことを運んだ。
反応を見てどれぐらい進めていくか。私にその判断は出来るほど経験があるはずもなく、斉藤先生が凛ちゃんのパニック状態を見て判断していた。
だから私がやったわけではなく、賞賛をしてもらうのはお門違いだ。
「凛ちゃんのお母さんみたいに、根が真面目な人は心配です。自分が頑張らないといけないと思い込み、周りに甘えることが出来ません。だから、時に誰かが止める必要があります。緊張の糸が切れてしまった時、人は間違った行動を起こしてしまいますから……」
「はい」
車椅子の拭き掃除を終え、ふと空を見上げると、鳥が飛んでいた。二羽連れ立って飛ぶ姿は、親子のようだった。
……あの中に、私は居るのだろうか?
気付けば唇を噛み、目を伏せていた。
「……私、二つ下の弟が居るんです。弟は、自閉スペクトラム症です」
「え?」
誰にも言えなかった。ずっと、心にしまい込んでいた家の話。
それを私は、初めて口にした。
「凛ちゃんみたいに、こだわりが強くて……。気持ちが追いつかないと、よく泣いてました。知的障害がなかったので、わがままだと思われて。……いつも、怒られていました。勉強は出来たから、成績に問題はなかったんです。でも、集団生活で躓いてしまって。段々と塞ぎ込むようになって……、中一で不登校になりました」
いじめとまでは言えなくても、何か嫌なことを言われていたらしい。
そこから、家の空気が変わった。
ギスギスして、私は家に帰るのが嫌になった。
「中三の時、テレビで発達障害の特集をしていて。母は、あまりにも弟と同じだと……、唖然としていました」
「ああ、あれですね。六年ほど前でしょうか。あのあたりから、ようやく世間の認知が進み始めましたからね」
その後、母は弟を精神科に連れていき、「自閉スペクトラム症」という診断がついた。
主治医は、弟だけじゃなく家族もずっと苦しかったはずだと言い、母は「気付いてあげられなかった」と泣いた。
「今なら、一歳半検診の時点で指摘があるぐらい特性が出ていたそうです。発語がない、指差しをしない、極端な偏食、父が休みで家にいると泣く……。今だったら、見逃されることはなかったはずですよね」
あの頃、私達は見過ごされていた。
父は家に居づらかったのか、やがて帰って来なくなった。
──もし私達が十年遅く生まれてきていたら。
今の時代なら、もっと早くに気づいてもらえたかもしれない。療育も受けられて、周囲の理解も得られていたかもしれない。
一人でも、自分を理解してくれる人が居てくれたら。
ただ「あなたはあなたでいい」と言ってもらえたら。
きっと、少しは生きやすかった。
せめて、自分の苦しさを自覚できていれば。「人付き合いが苦手なんだから仕方がない」と、自分を責めずにいられたかもしれない。
──でも、すべてが遅かった。
「苦労されましたね。弟さんも、お母さんも。……佐伯先生も」
「え?」
初めて向けられた自分自身への言葉に、胸が詰まっていく。
「弟さんのことで手いっぱいになれば、自然ともう片方の手は届かなくなります。佐伯先生は控えめな性格ですし……きっと、いろいろと我慢してきたんじゃないかと思いましてね」
「そんな……」
熱くなる喉元に、今度は言葉が詰まってしまう。
どうしてこの人は、私がいちばん欲しかった言葉をいつもくれるんだろう。
「診断が出てから、お母さんは、より弟さんの支援に向き合ったでしょう。……佐伯先生は悩みや気持ちを、お母さんに話せていましたか?」
鋭いその問いが、胸の奥を突いてくる。
──話せなかった。だから今も、私はこんなふうに苦しんでいる。
「すみません。時々、辛そうだと感じていたので……。余計なお世話でしたね。さあ、清掃に戻りましょうか?」
車椅子と座位保持装置はこのまま天日干しの為、その場にブレーキをかけて置いていく。
私の顔を見ないように配慮するように、小林先生は背を向けて歩き出した。
その背中に向かって、声が出ていた。
「……また、話を聞いてもらえませんか?」
そんな、身勝手な願いを。
「いつでも待ってますよ」
そう言って振り向いてくれた先生の笑顔は、いつものように穏やかだった。
私はその隣に並び、同じ歩幅で歩き出す。
春風が吹き、そっと頬を撫でていく。
顔を上げれば、やわらかな日差しが今日も空から降り注いでいた。
──ひだまりのような光が、私たちを照らしている。
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