コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
【はじめに】
こちらnmmnを取り扱っている作品です。
非常にデリケートな界隈となっております。
スクリーンショット・コピペ等、どのような手段であろうと、**第三者またはSNSへの拡散は禁止**とさせていただきます。
拡散行為を確認した場合、**即刻このアカウントごと削除**いたします。
ご理解頂けると幸いです。
⚠️nmmn⚠️
⚠️fwak⚠️
※性的描写はないですが、死ネタなためセンシティブをつけてます。
第1幕 終わり損ねた夜
夜はいつも、思考だけを濃くする。
照明を落とした部屋で、俺は天井を見ていた。
白のはずのそれは、今夜だけ灰色に濁っている。
生きている、という実感が薄い。
音も、温度も、匂いも、すべてが膜一枚隔てた向こう側にある。
自分だけが、世界から少しズレている。
胸の奥には、沈殿物みたいな感情が溜まっていて、動かせない。名前をつけるには雑多すぎて、吐き出すには重すぎた。
死にたいな。
それは衝動というより、独り言に近い。
雨が降りそうだな、と呟くのと同じ調子で頭に浮かぶ。
本気で死にたいかと聞かれたら、たぶん違う。
ただ、このまま生き続けることが耐えられないだけだ。
配信中の俺は、ちゃんと生きている。
声を張って、笑って、名前を呼ばれて。
明るくて、元気で、太陽みたいだと言われる。
太陽。
そんな言葉、誰が決めたんだ。
画面越しの期待に応えるために、光っているだけ。
照らしているつもりで、実際は削れているだけ。
配信を切ると、部屋は急に広くなる。
さっきまであった熱が、すっと抜けていく。
残るのは、静けさと、自分の鼓動だけ。
生きている証拠みたいに脈打つそれが、今はやけに鬱陶しい。
布団に体を丸める。
眠気は来ない。涙も出ない。
ただ、重力だけが正確だった。
このまま目を閉じて、次に開けなければいい。
そう考えると、ほんの一瞬だけ胸が軽くなる。
でも、次の瞬間には怖くなる。
死ぬのが怖いんじゃない。
生き続けることを選ばされる未来が、どうしようもなく怖い。
夜が深くなるほど、世界は静かで、
その静けさが、俺だけを取り残す。
気づけば、カーテンの隙間から薄い青が差し込んでいた。
夜と朝の境目。終わり損ねた夜が、惰性みたいに朝へ滑り込む時間。結局、ほとんど眠れなかった。
体を起こすと、全身がやけに重い。
昨日の思考が、まだ部屋の空気に残っている気がした。
換気をする気力もなく、そのままキッチンへ向かう。
水を飲んでも、喉の奥に引っかかったものは取れない。
スマホを手に取る。
事務的な通知、どうでもいいニュース。
その中に、見慣れた名前があった。
《今日、夜空いてる?》
一拍遅れて、もう一通。
《久々に飲まん?》
不破湊。
親友。
一番近くて、一番この話題を出したくない相手。
断る理由はいくらでもあった。
疲れてる、とか。
予定ある、とか。
今日はやめとく、とか。
でも、この男にそんな言い訳を並べるのが妙に面倒だった。
《いいよ》
《うち来る?》
指が勝手に動く。
返信を送ってから、取り消しができないことに気づく。
ピコッと、かわいらしい音。
《助かる〜》
《仕事終わったら行くわ》
たったそれだけなのに、
今日という一日が「ただ終わる夜」じゃなくなる気がした。
夜。
チャイムの音が、部屋に落ちる。
ドアを開けると、袋いっぱいの缶を提げて、いつも通りの軽さの不破湊が立っていた。
「おじゃましまーす」
「どうぞ」
それだけの会話で、部屋の温度が少し変わる。
誰かがいる、という事実が、静かだった空間をかき混ぜる。
テーブルに並ぶ缶。
特別じゃない酒。
乾杯の言葉も曖昧なまま、夜が再開する。
缶が空くたびに、思考の角が削れていく。
かわりに、奥に押し込んでいた感情が滲み出す。
「なぁ、ふわっち」
自分から名前を呼ぶと、胸の奥が軋んだ。
「ん?」
視線を合わせないまま、続きを探す。
「俺さ……」
言葉が、肺の奥で一瞬止まる。
「なんで生きてるんだと思う?」
その問いは、ずっと俺の中にあった。
ただ、言葉になる居場所を探していただけだ。
ふわっちは、すぐには笑わなかった。
茶化さなかった。
その沈黙が、なぜか救いだった。
「全部、疲れた」
ぽつりと零れた声は思っていたより静かで、
空気が、ゆっくり沈む。
「なんかもう、いいかなって」
ふわっちは、拒まなかった。
抱きしめることもしなかった。
ただ、そこにあった。
そして、少し考えるみたいに間を置いて、静かに言う。
「じゃあ、一緒にどっか死ににいかん?」
冗談みたいな形をしていて、
どうしようもなく本気だった。
「……なんで」
喉が、ひりつく。
「なんで、なんで、そんなこと言うん?」
「なんで、こんな俺のために」
ふわっちは、少しだけ困ったように息を吐く。
「理由、必要やった?」
いつもの笑顔。
ふにゃりと口角を上げて、彼は言う。
「俺、明那が好きだから」
その言葉は、音を立てずに落ちた。
なのに、床に叩きつけられたみたいに、部屋の空気が跳ねた。
意味が、掴めない。
言葉は聞こえた。
声も、抑揚も、全部ふわっちのものだった。
でも、それが何を指しているのか、頭が理解を拒む。
心臓が、変な打ち方をする。
速い。遅い。無茶苦茶だ。
視線を逸らしたかった。
でも、逸らせなかった。
ふわっちは、待つみたいな目で俺を見ていた。
「……なに、いってんだよ」
出てきた声は、情けないくらい掠れていた。
「好きって……」
続きを言おうとして詰まる。
胸の奥で、安心と恐怖と罪悪感が混ざって暴れる。
俺なんかを好きになる、そのこと自体が怖かった。
「まともじゃ、ないんよ」
声が震える。
「一緒に死にに行こうとかさ」
「そんな理由で言わんで……」
怒っているような言い方になってしまう。
本当は、怒りじゃない。
俺を好きだと言う人が、
俺の隣で、俺と同じ場所に沈もうとしているのが怖いだけだ。
ふわっちは、遮らなかった。
説得もしなかった。
「うん」
短い肯定。
「それでも」
それだけ。
救う顔をしない。正解を示さない。
ただ、選んだみたいな声だった。
その瞬間、逃げ場がゆっくり消えていくのが分かった。
沈黙が落ちる。
拒絶じゃない。
でも、受け入れ切れてもいない。
ここで何かを選ばなきゃ、もう戻れない。
分かっているのに、
俺の口は「はい」も「いや」も作れなかった。
好きだと言われたことよりも、否定されなかったことの方が、ずっと重い。
この人は、俺が壊れていることを知っていて、それでも、隣に立とうとしている。それがどうしようもなく怖くて、同時に甘かった。
俺とふわっちのあいだの空白だけが、
静かに、膨らんでいった。
何秒だったのか分からない。
その間に、未来が何度も再生された。
配信をして、笑って、夜に一人で天井を見る生活。
その繰り返しより、
この人と一緒に壊れる未来の方が、
まともに見えた。
乾杯もない。
約束もない。
たった一言。
「……行こっか」
戻れない道を、二人で選んだ夜だった。
第2幕 ついてくる夜
逃げた、という自覚だけははっきりしていた。
どこへ向かっているのかは分からない。
ただ、戻る気はなかった。
ふわっちは、運転席でハンドルを握っていた。
俺はただ、窓の外を見ている。
街灯が流れていくのを、黙って眺めている。
「なあ」
声をかけられて、肩がびくりと跳ねた。
「……なに」
「後悔してる?」
シンプルな問いだった。
なのに、胸の奥を正確に突かれた。
「してない」
即答だった。
考える前に、口が動いていた。
「ふーん」
それだけ言って、不破はそれ以上追及しなかった。
それが逆に、苦しい。
責めてくれたほうが楽だった。
逃げた。
捨てた。
投げ出した。
それなのに、この男は何も言わない。
「……俺さ」
自分から口を開く。
沈黙に耐えられなかった。
「今日も普通に配信できたんだと思う」
「うん」
「笑って、テンション上げて、
“明那今日も元気だね!”とか言われてさ」
手を強く握りしめた。爪が刺さって痛い。
「全部嘘なんだよ。中身、空っぽなのに」
「皆が好きなのはさ、
俺が元気なふりしてる“三枝明那”で」
喉の奥が詰まる。
「本当の俺は、
怠くて、気持ち悪くて、
生きてる意味分かんなくて」
言葉を吐くたび、自分がさらに嫌いになる。
「それなのにさ」
笑おうとして、失敗した。いつもの調子が出ないのが、最高にもどかしかった。
「期待されんの、しんどくて」
車内に重たい沈黙が落ちた。
不破は、ゆっくり息を吸ってから言った。
「じゃあさ、本当の明那、俺が引き受ければ?」
一瞬、意味が分からなかった。
「なにそれ」
「みんなに見せなくていいやつ」
真面目な顔で言うから、冗談にも聞こえない。
「死にたいとか、何もしたくないとか、消えたいとかそれ、俺にだけ見せればええやん」
胸がきゅう、と縮んだ。
「……重いでしょ」
「重くない」
即答だった。
「重いって思うんなら、今こうしてない」
その言い方が、異様に刺さる。
「俺、最低だよ」
ぽつりと零した。
「逃げて、ふわっち巻き込んで」
「うん」
「勝手に弱音吐いて」
「うん」
「それでも隣にいるの、意味分かんない」
ふわっちは少しだけ笑った。
「意味とか、後からでええんちゃう?」
その笑顔が、恐ろしく優しかった。
この人といると、自分の嫌な部分が、全部肯定されてしまいそうで。
それが一番、怖かった。
「……俺さ」
声が震える。
「自分のこと、ほんと嫌いなんだよ」
ふわっちは目を逸らさずに言った。
「知ってる」
その一言で、何かが折れた。
否定しない。
励まさない。
正そうともしない。
ただ、知ってると言う。
胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいった。
救いじゃない。
希望でもない。
ただ、最悪な自分の居場所が、ここにある。
そう思ってしまった。
第3幕 理由探し
それが依存だと気づくには、あまりにも自然すぎた。
朝起きて誰かの気配を探すことも。
先に目が覚めている不破の声を待つことも。
部屋に差し込む光より先に隣の存在を確認することも。
全部いつのまにか生活になっていて、三枝明那はそれを「変だ」と思う前に「楽だ」と感じ始めてしまっていた。
逃げてきたはずだった。
配信も、連絡も、期待も、評価も、心配も、全部置き去りにしてきたはずなのに、不破湊という存在だけが例外みたいに横にいて。
しかもそれが苦にならず、むしろ息をするための酸素みたいになっていた。
不破は何も聞かなかった。
どうして死にたくなったのかも、
いつからそうなったのかも、
俺がどれほど情けなくなっていたのかも聞かず、
ただ「今日どうする」だとか「腹減った」だとか、
理由も答えも要らない言葉だけを投げてきた。
それに返事をするたびに一日が進んでしまうから、俺はその流れに逆らう理由を持てなかった。
夜になると呼ばれる名前が増えた。
明那、というたった三音が、思考を始める前に体を反応させるようになっていて、返事をするだけで「生きてていい」って言われている錯覚を覚え、それが錯覚だと知っていながら否定する力がもう残っていなかった。
二人で歩く時間が増えた。
どこかに行くわけでもなく、ただ外に出て、意味のない景色を眺め、どうでもいい会話をして、笑えるときだけ笑うという関係が続いていた。
俺は「一人でいる時間」を思い出すのに努力が必要になっていた。
ある夕方、川沿いを歩きながらふわっちが
「明那がいなくなったら俺死ぬと思う」
と冗談みたいな声で言ったとき、その言葉を軽く受け流せなかった自分に俺自身が一番驚いた。
否定しなきゃいけないと分かっているのに喉が動かず、
笑って誤魔化すこともできず、重いと言葉にした。
それ以上踏み込まれたら壊れる何かが確かに胸の奥にあったからだ。
ふわっちがすぐに冗談だと言って引いたのは、
優しさでも配慮でもなく、同じ場所に同じ闇を見つけてしまった人間の撤退だった。
その頃から、夢を見た記憶がなくなった。
未来を考えることもなく、過去を思い出すこともなく、今日と明日の区別すら曖昧になって。
ただ隣に不破がいるかどうかだけが、世界の基準になっていった。
朝目が覚めて、声を出す前から不安になるのが当たり前になった。
いる?」と確認して「いるよ」という返事を聞いてからようやく呼吸が整うこの状態を、異常だと判断する冷静さはもう残っていなかった。
不破は時々、終わりを示すようなことを言った。
ここまできてまだ生きてるのすごくないか、そういう言葉は全部笑顔で投げられていたのに、三枝はその裏に期限があることをちゃんと理解してしまっていた。
それでも止められなかったのは、一人で終わるより二人で終わる方が痛みが少ないと、どこかで信じてしまったからだった。
三枝明那はこの頃、確かに穏やかだった。
確かに笑っていた。
確かに人生を歩んでいた。
でもそれは、自分一人の人生じゃなく、不破湊という存在と絡み合って、どちらかが崩れた瞬間にまとめて落ちる形をした生存で。
完成してしまった依存は、
もう「やめよう」と思える段階をとっくに過ぎていた。
そしてこの関係は、まだ壊れていないだけで、壊れる準備だけは静かに整っていた。
第4幕 空が受け取った手
その日は、本当に何もなかった。
空は高く、雲は形を保つ努力すらしていなくて、ただ浮かんで流れているだけ。
危険を知らせる色も音も匂いもなく、世界は驚くほど静かに機嫌のいい顔をしていた。
ふわっちと並んで立っていた。
高い場所だったけれど、怖さがなかったのは、
下を見なければ、ここが終わりになり得る場所だなんて考えもしなかったからなんだろうな。
自然に手を繋いでいた。
力は入れていないのに、指が離れる気配もなくて、確かめるというより、もうそこにある前提みたいに互いの体温が行き来していた。
穏やかだった。
信じられないくらい何も考えていなかった。
依存も、逃避も、未来も、終わりも、全部置き去りにして、ただ「今」が成立している状態を、珍しく疑わずに受け取ってしまっていた。
「すげー」
ふわっちが言った。
いつもの調子で、いつもの声で、遠くを見る癖も変わらないまま。
その横顔を見て、思った。
ああ、この人はどこでも同じだ。
だから、俺はここまで来てしまった。
「なあ、明那」
呼ばれて、顔を向ける。
名前を呼ばれることに、もう理由はいらなかった。
「来年もさ、また、ここ来ような」
その言い方が、あまりにも当然すぎた。
来年があるという前提で、今ここに立っている人の声だった。それが何故だか嬉しく思えてしまって。
「……そうやな」
じゃあ約束な!そう言ってふわっちは小指を差し出した。
それに俺のを絡めて、声を合わせて歌った。
「「ゆーびきりげんまん」」
声を揃えて歌いきったとき、自然とえみがこぼれていた。
その瞬間を、世界は待っていたみたいだった。
不破の足が、石を噛んだ。
滑るというより、踏み外すという感じでもなく、ただ足裏のバランスが現実に追いつかなかっただけで、空気が一拍遅れて、体が傾く。
「――っ」
掴んだ、と思った。
確かに何かに触れた感触があった。
でもそれは、後から無理やり付け加えられた記憶だった。
指と指の間を、風が通る。
「ふわっち!」
名前が、まっすぐ下に落ちていく。
叫んだつもりでも、音は距離に飲まれて、帰ってこなかった。
目が合ったのは、一瞬だった。
本当に、一拍にも満たない時間。
そこにあったのは恐怖じゃなかった。
混乱でも、後悔でも、助けを求める色でもなくて、いつもの、少し緩んだ笑顔だった。
最後まで、自分が選ばれていると信じて疑わなかった人の顔。
それが、空にほどけるみたいに消えた。
音がなくなった。
時間の感覚が壊れた。
世界が動いているのか、自分が止まっているのか、もう分からなかった。
俺のせいだ、という思考が来るより先に、体が理解してしまった。
一緒に来た。
一緒に立った。
一緒に、生きる理由にした。
だったら。
ぐちゃぐちゃのまま、地面を蹴った。
確かめる暇もなく、理解する余裕もなく。
落ちる感覚は、思っていたより静かで、浮いているみたいだった。
衝撃が来て、そのあとに痛みが来て、呼吸の仕方が分からなくなって、音が潰れて、視界が割れて、何かが折れた感触だけが最後に残った。
でも、そんなの全部どうでもよかった。
それより、さっきまでそこにあった手の温度が、まだ指に残っている気がして、それがただ、苦しかった。
「待って」
声にならなかった。
口は動いたはずなのに、世界が応えなかった。
「置いてかないで」
腕を伸ばしても、動かない。
痺れているのか、壊れているのか、それすら分からない。
触れたかった。
指先だけでいい。
端っこでいい。
隣に、いさせてほしかった。
空が白く滲んで、視界が遠ざかっていく。
意識が削れていく中で、最後に浮かんだものは言葉ですらなくて、守りたかったとか、まだ答えていないとか、好きだと伝えていないとか、全部が形を失ったまま胸に残って、いかないでという願いだけが、音にならずに消えた。
第5幕 空白
目を開けた瞬間、何も分からなかった。
白い天井。
近すぎる距離。
まぶしさより先に、体の重さが来る。
全身がまともじゃなかった。
痛いというより、どこが自分のものなのか判別できない感覚で、腕も脚も、ただ置かれている物体みたいに遠い。
喉が乾いていた。
声を出そうとして、うまく音にならない。
口を開けて、閉じて、それだけで息が乱れる。
——は?
ここ、どこだ。
考えようとした瞬間、頭の中がすとんと落ちる。
問いが、続かない。
不安も、恐怖も、「本来あるはずの理由」が一緒に抜け落ちている。
カーテン。
点滴。
機械音。
病室だ、という理解だけがあとから追いついた。
しばらくして、白衣の人が来た。
年齢も、声も、表情も、記号としてしか認識できないまま淡々と説明が始まる。
事故があったこと。
大きな怪我だったこと。
命が助かったのは奇跡に近いこと。
「……覚えてますか?」
首を振った。
本当に、何も。
名前を聞かれて、答えられなかった。
咄嗟に出てきたのは沈黙だけで、焦りさえ鈍かった。
「三枝 明那さんです」
その名前を聞いても、胸は動かなかった。
自分のはずなのに、しっくり来ない。
知らない人の名刺を渡されたみたいな感じだった。
意味は分かる。
言葉も理解できる。
でも、それが自分だと言われても、映像が一切浮かばない。そのまま、時間だけが流れた。
目が覚めて、眠って、また目が覚めて。
誰かが来て、何かを置いて帰っていく。
気づけば、ベッドの脇は花や果物やカードでいっぱいになっていた。
お見舞いの品だと教えられて、へえ、とだけ思う。
——こんなに、知り合い多かったんだ。
嬉しいとか、ありがたいとか、その前に、ただ不思議だった。俺って、そんな人間だったのか。
しばらくして、ひとりの男性が来た。
「……明那」
その呼び方が、少しだけ自然に耳に残った。
「僕、叶。分かる?」
首を横に振る。
それを見て、彼は少しだけ息を吐いた。
「そっか。じゃあ、初めましてだね」
柔らかくて、落ち着く声の人だった。
叶さんは、座って、ゆっくり話してくれた。
にじさんじという事務所のこと。
自分がライバーだったこと。
明るくて、元気で、歌が上手くて、人気があったこと。
Fall Guysやマリオカートが得意だったこと。
人に好かれていて、よく笑っていて、よく騒いでいたこと。
「……へぇ」
それが、正直な感想だった。
違和感はあった。
でも、否定する理由もなかった。
知らない過去は、信じるしかない。
「僕とは、割と仲良かったよ」
そう言われて、少し安心した。
それだけで、半分くらい世界に戻れた気がした。
それから、次々に人が来た。
「明那」
「アッキーナ」
「あきぽん」
「明那さん」
「明那先輩」
「三枝師匠」
「明那くん」
「三枝くん」
「あちな」
「三枝さん」
「あきにゃ」
みんな、当たり前みたいな顔で来て、当たり前みたいに名前を呼んだ。
最初は、ぎこちなかった。
話し方も、距離の測り方も分からない。
でも、持ち前のコミュ力だけは、どうやら体に残っていたらしい。
相槌を打って、笑って、反応を返しているうちに、人との会話が少しずつ楽になっていった。
「前と変わんねーな」
そう言われることが増えた。
変わっているはずなのに。
中身が、決定的に抜け落ちているのに。
リハビリは、地道だった。
痛いところだらけなのに、理由が分からないから、変に淡々としていた。
歩く。
掴む。
力を入れる。
できなくても、悔しさは薄い。
最初から知らないことは、失った感覚を持たない。
不思議なほど、笑顔が増えた。
周りの人たちが、それを喜んでくれた。
「元気そうでよかった」
その言葉に、違和感はなかった。
だって、この時点の三枝明那には、失ったものに対する悲しみが存在していなかったから。
退院が決まった日も、特別な感情はなかった。
ただ、「次の場所に行く」というだけ。
何かを失った人間ではなく、新しく始める人間として、そこに立っていた。
空白は、ちゃんと埋まっていたんだ。
第6幕 どっか埋まらない
退院して、家に戻った。
鍵を回して、ドアを開ける。
見慣れないはずの部屋なのに、体は迷わなかった。
靴を脱ぐ場所。
照明のスイッチ。
冷蔵庫の位置。
覚えていないのに、知っている。
それが、少しだけ不気味だった。
生活は驚くほどすんなり始まった。
起きて、顔を洗って、飯を食って、連絡を返す。
友達とも会った。笑った。調子も悪くない。
みんな、「戻ってきたね」みたいな顔をする。
ほんの一部だけ、時間が巻き戻ったみたいに。
会う人会う人が「おかえり」と言ってくれて、それがなんだかくすぐったい。
俺は自然に笑っていた。
自然に冗談を言って、自然に誰かをからかっていた。
それが「元の自分」なのかどうかは分からない。
でも、今の自分としては、ちゃんと楽しかった。
配信も、少しずつ再開した。
久しぶりの画面の向こうで、リスナーたちのコメントが流れていく。
「明那おかえり!」
「元気そうでよかった!」
「待ってたぞ!」
胸の奥が、あったかくなる。
理由なんてなくても、人に必要とされる感覚は、ちゃんと嬉しい。
予定も増えていった。
コラボの話、ライブの話、先のスケジュール。
未来が、普通に存在していた。
ふとした瞬間に、
「俺、最近ずっと調子いいな」
そう思うことが増えた。
友達と飯に行く。
他愛ない話をする。
笑って、帰って、風呂に入って、寝る。
そんな日常が、純粋に楽しかった。
第7幕 自壊
最初は、本当に何でもない出来事だった。
天気がよかったから。
午後に予定がなくて、なんとなく部屋を片付けようと思ったから。
それだけ。
洗濯を終えて、干そうとして、その流れでクローゼットの奥が気になった。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた箱を引きずり出して、埃を払う。
服を一枚ずつ出して、畳んで、戻していく。
不思議だった。
全部、自分の持ち物なはずなのに、誰か別の人の生活を整理しているみたいで。
どれもちゃんと知っているはずなのに、どれも少し遠い。
——あ。
箱の底、指先に当たった冷たい感触。
小さくて、軽くて、
きらりと光を返す。
ブレスレットだった。
細いチェーンで、装飾は控えめ。
なのに、なぜか視線が吸い寄せられる。
「……俺、こんなん持ってたんだ」
独り言みたいに呟いて、手のひらに乗せる。
理由は分からない。
ただ、無性に気になった。
いつ買ったんだろう。
誰かにもらった?
自分で選んだ?
考えても、何も浮かばない。
まぁ、いいか。
忘れてるんだから、仕方ない。
そう思って、机の上に置く。
そのまま作業を続けようとして、次の服を手に取る。
さっき途中まで整理していたパーカー。
……なんか、気になる。
一瞬だけ迷って、
またクローゼットに戻してしまった。
理由はない。
ただ、今じゃなかった。
それから数日が経った。
配信の予定を立てて、メッセージに返事をして、
友達と笑って、普通に過ごしていた。
普通に、ちゃんと、生きていた。
夜、ふと思い出す。
——そういえば。
あの時のパーカー。
なんで戻したんだろう。
自分でも分からなくて、気になった。
クローゼットから引っ張り出して、なんとなく胸の前で抱える。
その瞬間だった。
匂いが、肺に入ってくる。
知らない匂い。
自分の洗剤でも、柔軟剤でも、香水でもない。
それなのに、身体が先に反応した。
息が、止まる。
視界が、ぐらりと歪む。
理由なんてなかった。
ただ、引き寄せられるみたいに、顔を埋めた。
___あ
思い出す。
思い出してしまう。
温度。
声。
呼び方。
「明那」
ふにゃっとしてて、少し高めの声。
その声で毎日、名前を呼ばれていた。
一気に映像が流れ込む。
夜のコンビニ。
手を繋ぐ感触。
景色。
笑い声。
「来年もさ、また、ここ来ような」
次々に押し寄せる情報。
感情。
温度。
「明那」
呼ばれるたびに、心がほどけていたこと。
一緒に逃げた夜。
一緒に死のうって話した未来。
——なのに。
俺だけが、今、ここにいる。
膝が砕けるみたいに崩れて、胸を押さつけて額を床につける。呼吸が追いつかない。
「……ぁ……っ」
空気を吸っているはずなのに、酸素が足りない。
胸が焼ける。
頭の奥が、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
約束したのに。
一緒に行くはずだったのに。
自分だけが笑って、
自分だけが前を向いて、
自分だけが生きている。
胃が、波打つ。
床に這うようにして、吐いた。
それでも、何も軽くならない。
「……っ、俺が……」
俺が、連れ出した。
俺が、選んだ。
俺が、生きる理由にして。
そして、俺を大切に守ってくれた人を、俺は守れなかった。
ブレスレットが、机から床に落ちる。
小さな音。
彼は死んだ。
俺は生きている。
それは、偶然じゃない。
苦しくて、痛くて、呼吸の合間に、はっきり思った。
こんな現実、いらない。
忘れていた自分も、
思い出してしまった自分も、
どっちも、生きていい人間じゃない。
残った匂いが、まだそこにいる錯覚を連れてくる。
それが、致命傷だった。
「……ふわ、っち」
返事は、ない。
もう、どこにも。
だって俺が、俺が殺したから。
終幕
それからの明那は、誰の目にも「元に戻った三枝明那」だった。
朝は決まった時間に起きて、配信の予定を確認して、軽く声を出す。
喉の調子は良好。
テンションも問題ない。
チャット欄の流れに反射でツッコミを入れて、笑って、歌って。
「今日も元気だね」
「やっぱ明那はこうじゃないと」
「復帰してから、前より楽しそうじゃん」
そう言われるたびに、胸の奥で何かが静かに完成していく。
ああ、大丈夫だ。
俺、ちゃんと“生きてる”役、できてる。
ライバーたちとも普通に話した。
くだらないことを言って、笑って、次の企画の話をして、予定を埋めていく。
夜になると、部屋は静かになる。
ライトを落として、ソファに座って、
昼間に届いたメッセージを一つずつ確認する。
心配の言葉。
期待の言葉。
「待ってたよ」という言葉。
その全部に、等しく胸が痛んだ。
最期に向けて、俺は三通の手紙を書いた。
リスナーへ
ここまで応援してくれてありがとう。
たくさん待たせてごめん。
おれ、ちゃんと笑って、楽しませられてた?
僕は、君たちの言葉に何度も救われました。
生きていい理由を、知らないうちにたくさんもらってました。
それでも、最後までちゃんと応えられなくて、ごめんなさい。
弱いところも、全部含めての三枝明那だったんだと思ってくれたら、嬉しいです。
本当に、ありがとう。
文字は整っていて、前向きで、やさしい。
誰が読んでも「感謝の手紙」を書いた。
⸻
ライバーのみんなへ
一緒に遊んでくれてありがとう。
笑ってくれてありがとう。
何も知らない顔で話しかけてくれて、
いつも通りでいてくれたことが、僕には救いでした。
迷惑をかけてごめん。
それでも、君たちと同じ場所にいられた時間は、本当に大切でした。
これからも、たくさん笑っててください。
嘘は書いていない。
「ありがとう」も「ごめん」も、全部本心だった。
⸻
そして、最後の一通だけは、封をしなかった。
紙は古くて、角が少し折れている。
何度も書き直した跡があって、インクの濃さがばらばらだった。
ふわっちへ
呼吸が浅くなって、
何度もペンを置いた。
声に出せない言葉。
誰にも見せない言葉。
何を書いたか、誰にも分からない。
それだけは、明那の手の中にあるままだった。
今日の配信も、いつも通り終わった。
「今日もありがとー!またな!」
画面の前で手を振って、配信を切る。
暗くなったモニターに、少しだけ自分の顔が映る。
ちゃんと笑っている。
なのに。
部屋に残っているのは、整えすぎた静けさだけ。
机の上には、三通の手紙と、
引き出しの奥には、例のブレスレットと、
クローゼットには、もう匂いの薄くなったあの服。
彼のいない世界で、自分だけが生き続けているという事実がなによりも重かった。
「……もう、いいよな」
誰にも向けない声。
これ以上、受け取る資格はない。
これ以上、笑っていい理由もない。
守りたかった人はいない。
約束を交わした相手は、もういない。
それでも、
最後まで“明るい三枝明那”でいられたことだけは、
少しだけ誇りに思っていた。
ふわっちに宛てた手紙を、胸に抱く。
渡せないと分かっていても、
それだけは、最後まで手放さなかった。
誰にも知られず、
誰にも止められず、
三枝明那は、静かに「終わり」を選びに行った。
それは逃げでも、衝動でもなく、
ずっと前から決まっていた“帰り道”だった。
読んで頂きありがとうございました!
プロフにてリクエストは受け付けないと表記されていますが、「手紙を読んだ側の章」のリクエストが多かった場合のみ、応えさせていただきます。