いつか家族に連れられて観に行った青春群像恋愛映画では、告白とはもっとロマンチックで美麗なものであったはずなのに、実際、ひたすらやりきれないものなのだと理解した。もどかしさに喚き散らしたくなっただけだった。震えの収まらない体を、しきりに瞬きを繰り返す瞼を、可哀想だなあと他人事のように思っていた。いや、本当に知人ですらなかったのだが。
一つも取り違うことなく覚えている。健気に絞り出された「ありがとうございます」の音階、ひとのよさそうな童顔だって、輪郭さえも。靴箱の呼び出し状を読んだ時は、紳士的な態度で接する気でいたのに。
──僕なんかにはもったいないよ。
持て余すほど気障な台詞が、羞恥心に突き刺さって抜けない。釣り銭を貰ってもなお余る。痛すぎる。いっそのこと自分を撃ち倒したい。される側に回って初めて気づいたのだが、面と向かって氷の剣を構えられているようで、つい動揺してしまった。
次に会ったらどうしようか。関わることなど、もうないのかもしれない。僕の中に何が秘められ、光っていたのだろう。
人は、賭博のような感覚で好意を伝えてしまう。
かれらの、楽になりたいという尊い苦しさに、いつまでも、どこまでも、僕は共感できずにいる。
中学生になった途端に隣町のヤンキーかぶれたちから虐められるようになった僕は、自然の移り変わりと創作物だけを楽しみに過ごすことになった。ひたすら古典を読み漁り、安物のインスタントカメラで風景を撮り続ける。優しくて穏やかな世界への逃避を続け、心の至る所に浮かぶ憂鬱を陳腐な芸術もどきで蒸発させて生き延びていた。
区立図書館の隅のろくに箒のかけられていない床で胡座をかき、伝記を積み上げて壁にした。毎日、朝から夕まで、小さく狭い王国で僕は拙い詩を綴った。ノートブックはそこに隠した。もし誰かに開かれたとしても、決して理解されないよう、比喩に比喩を重ね全てを覆い潰した。存在を信じきれない心に身を委ね、満たされた。
確かに屑みたいな代物だった。だが全て価値が在った。駄文を連ねるという行為自体が肝心なのだった。僕は生を選ぶ意義を感じた。つまり、創造とは命にほかならないのだ。
六割ほど埋めたノートブックに挟まれたファンレターを見つけたのは、中学三年生の二学期、ちょうど葉が紅くなり始めたことに気がついたのと同じ日だった。秋空のように曇りない色の、レビューが一つ認められていた。
――わかるけど、わかりにくい。秩序がない。字が汚い!><
【ファンレター】などと、無意識に過去を美化してしまっていたが、賛辞の言葉はかけらもなく、真摯な僕は質素なアンチコメントに傷つけられた。わからないよう努めたのだから伝わりづらいのは当然として。問題は、『わかるけど』の部分だった。さらりとわかられてしまった。蹂躙された気分だった。褒められたものではないと理解しつつ綴る、僕の混沌とした不健康な精神を否定されたように感じた。作品の趣旨と何の関係もないことを批判されて悔しかった。申し訳なさそうな顔文字も、機械が愛想を振り撒いているようで嫌だった。 経験してきた何よりも悲しくて、涙が出た。次に怒りが湧いてきた。だが、やり場がないと知った感情は即座に頼りなく萎み、つまらないことで憤りを覚えた自分を恥じることに注力する羽目になるのだった。
閉館時刻のチャイムが鳴り、僕は紙の処理に暫し迷った。くだらない情緒に振り回されている間は古紙置場に捨てようか考えていたが、やはり貴重な御感想を無視する気にもなれず、水平にした左手に載せて歩くことにした。額の位置まで掲げたのは、多少なりとも敬意と謝意を持っていることの表れということにしておこう。
扉を出た途端、僅かな隙間から誰かが滑り込んできた。危うく衝突しかけ、僕は体制を崩して紙を落とした。辱めを受けた気分になりながら、屈んで拾う。
すみません。
跪いた僕に被せられる、メゾ・ソプラノ。女性だった。おそらく大学生くらいの。眼鏡を掛けていた。肩までの髪は内側に丸まっていた。何かを抱えていた。幸福論。随分と憔悴した様子で、返却ボックスに本を放り込み、振り返る。邪魔だろうと思い横に避けると、彼女はなぜか僕の正面まで突き進み、立ち止まった。
「私のだ」
「えっ?」
彼女は一点を凝視した。視線の先は、僕が再び左手に載せた青い便箋だ。口を鯉のように動かし続ける。瞳が潤んでいく。この人の涙腺は、ポンプの水を汲む要領で緩むのだろうか? 滑稽だった。いや、実際には、気にかける暇もなかった。泣きたいのは僕の方だ。単に知らない年上の女の人が動揺している姿は、何か奇妙で恐いものがあった。
「あなたなんだ、詩の人って」
五分くらいか、十分だろうか。呆然と呟いた彼女は、やがて風のように勢いよく去っていった。
翌週、女子大生は約束していたかのように僕を待ち伏せ、幼稚な城を訪れた。
「なんでわかりづらくするの?」
「……はい?」
気が抜けて、感情を顕にしてしまった。
コハクさんが両手を横に振る。
「あ、違うの。怒らせたいわけじゃなくて。純粋に疑問だからね。不躾でごめんなさい」
謝罪にも性格が表れるものだが、彼女の場合、僕が本当に嫌なことを感じ取り、注意してくれていることが窺える謝り方だった。驕った捉え方かもしれない。
汚れていて仄暗い僕の城で、コハクさんは泰然と過ごしていた。僕が紙きれを殴りつけている間、例の幸福論に付箋を貼り続け、僕が唸りながら紙きれを弄ぶ間、原色のブロッククッションをなぞり、僕が紙きれを裂く間、リズムを取るように前後左右へ体を揺らした。ファンレターのときのような慈悲のなさも、初対面のときの掴みどころのない危うさも感じられず、ひたすら爽やかな空気を纏っていた。僕は最後まで、二つの件について訊ねることは叶わなかった。
嫌なら私が喋るからかまわないでね、と呼吸を置き、コハクさんは続ける。
「もし私が創作をするなら、きれいな部分だけ掬って、尤もらしく並べて、あとの面倒なものは仕舞い込むと思う。でも、欲が出て溢れさせてしまうってことも、絶対ある。私は歌をうたうことで生きていて、……あ、オリジナルはまだで、人様のをお借りしているんだけど。披露するとき、曲に込められた物語じゃなくて、つい自分の感想を込めちゃうんだよ。完全にエゴだし、敬意がなってない行為だけど、生きるためにと思うと、正しくいられないの。私は本人じゃないんだから、どんなにがんばったところで偽物に変わりはないじゃない?」
「そうですね」
淡白な返事をしたが、心中、密かに繰り返し頷いていた。言葉も同じだ。人間が何かを語る限り、言葉は単なる殻でしかない。解釈は自由だ。体の中に巡る透明な血を、どうにかして流し出さないことには、僕たちは生きられない。また僕は未熟だから、耐え忍ぶことができない。コハクさんはわかっているから、僕の詩も読めたのだろう。
酷く憤っていた日もあった。きのうより罅の増えた液晶画面を点けたり消したりしながら、コハクさんはぽつんと語りだした。
「私、怒ることが嫌いなんだ。怒れないし、怒りたくないの。全てを甘んじて受けたい。何もかも許容して、適当な優しさで無責任さを隠して生きたい。感情を感情とわかる形で誰かに放つの、人類は知恵があるくせに賢くないでしょ。醜い。動物的で、超愚者!」
「そうですね」
「私にはわからない。……誰の自慰の的にもなりたくないのに」
はらはらさらさら。枝垂柳のような涙を流していた。
僕は慌てたが、中学生男子がハンカチなど持ってきているわけもなかった。
だから、咄嗟に震える指で柔らかい頬を拭うと、
コハクさんは、琥珀のような淡褐色の眼を丸く潤ませ吹き出してくれた。
「ちょっと、いい?」
図書館の裏に佇んでいる自然公園に連れて来られたのは、霰の降りしきる年の瀬だった。閉館時間後にコハクさんが隣に居るというのは新鮮で、多少の緊張で寒さが紛れたんだ。いつものお礼に、とホットラテの缶を奢ってくれた。熱さに舌が麻痺し、ざらついた甘さが残った。
「うたうからさ。聴いてよ」
滑らかなメゾ・ソプラノが暮れの虚しい世環町に溶け、ひときわ煌めく金星に跳ね返り、囁やかな彩りをもって一帯に響いた。
音が、一粒ひとつぶ、輝いていた。
「歌詞はね、できなくて。ごめんね」
「いえ」
綺麗です。
音楽性はなく、他人の作品の良し悪しを論じられるほど賢くもないので、僕は黙って手を叩くことにした。
コハクさんが、ありがとう、とにっこり笑い、再び詠った。
種類の異なる音波が快かった。
年が明けると、コハクさんと会わなくなった。現実に引き戻されても、 素面で地球はまわるものだ。
中学の卒業式が終わり、桜が開く頃、僕は孤城でノート一冊を埋め尽くした。創作に区切りがついたことで、僕の炎は落ち着いた。燃え尽きたとまではいかないが、どうも喪失感が拭えずにいた。
全てが呆気なく、たった二ヶ月弱の出来事だ。
幻影だったのではないかと疑う度に、真っ青な便箋を取り出し、ああ現実だったのかと信じ直す。
高二の夏前、知らない女の子から好意を受け取り、さらに僕は沈んだ。
誰も僕を知らないでほしかった。誰かに理解されるような普遍性など僕には無いと思い込みたかった。
僕は何も変わっていない。
ただ、コハクさんの不在のせいだ。無の有のせいで、虚しさなんか味わうことになってしまった。
だから、秋が嫌だ。
涼しくもない風が過ぎていく。気取っている。
僕一人に買い出しを押し付けたクラスの実行委員たちを恨みながら、慣れない街中を歩き回る。ビニール袋がちぎれそうだ。装飾品の重量を支える、指の皮膚まで突き破られてしまうかもしれない。
時刻は八時前で、辺りはすっかり暗く、信号機やレストランの明かりが眩しかった。敵うわけない圧倒的な楽しさで、僕の弱さまで照らし出すつもりなんだろう。
酷く混雑した車道の向こう側で、何かがまたたいた気がした。いろに、覚えがあった。
眼鏡を掛けていなかった。髪が伸びていた。
なめらかな光源のこえが耳を撫でた。
僕の、ある夢のはなしだ。
コメント
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形にできた自分を労る為だけに不出来な物を世に放ってしまいました